Drマサ非公認ブログ

客観報道などない

 今回のジャニーズの問題でも感じるのだが、ジャニーズ側、あるいはジャニーズ側に立っているわけではないけれど、日本的なパターナリズムで強い者になびくようになる報道姿勢というか無意識的方向性というか、そういうことを感じてしまう。

 何でだろうと考えてみれば、それは当然日本文化の問題であるが、そこにジャーナリズムへの無理解があるように思えてしまう。

 いわゆる客観報道に対する姿勢にジャーナリズムに対する日本的な歪みがあるのではないか。例えば客観報道を位置付けると、以下のようだ。

 客観報道は多くの場合、1,報道事実を曲げずに描写すること(事実性原則)、2,報道する者の意見を含まないこと(没論評原則)、3,意見が分かれる事柄は一方の意見に偏らず報道すること(不偏不党原則)と定義づけられる。 (wikiより)

 これが現代ジャーナリズムの基本原則となっている。なんだかもっともらしいように思えてしまうのだが、客観って誰が決めるのだろう。実は客観報道を定義づけるのは困難である。現在のメディア論では、そのような認識になっている。

 哲学的には客観を位置付けるとすれば、困難な議論が待っている(そこは飛ばす)。万人に納得のいく客観は簡単ではないので、当然万人が納得する客観報道も位置付け難い。という根本があるにも関わらず、先のWikiからひっぱてきた客観報道に拘泥し、不偏不党であること、ジャーナリストが意見をいうのを忌避する(没論評原則)を自明としてしまう。

 東京新聞の望月記者が、記者会見で意見ばかり言ってるなどと批判されるのも、この原則への拘泥があるように思える。しかし、欧米のジャーナリズムの原則では、いくつもの原則があるけれども、この問題に関わって、次のような位置づけがなされている。

 ジャーナリズムは第一に市民に忠実であるべきである。

 だからジャーナリストは自らの信念に基づいて、市民の側に立つのである。そして市民の側に立つものとしての意見を述べることは必然である。ちなみに、その検証もジャーナリズムの基本の1つである。ジャーナリズムはその意味で当然リベラルな立場に立つ。

 なんでリベラルかって?そりゃ市民側にあるからだ。権力側にはないでしょう。

 客観報道とはなんぞや?

コメント一覧

Drマサ(meix1012
なるほど、おっしゃる通りですね。僕が思い出していたのは、メディア論の古典マリドック『政治宣伝』です。結局記者会見でもマスメディアでも基本宣伝なんだなと思わずにはいられません。だから自律した運動として宣伝活動のようになって、参加する記者たちもその一環というか一要素なんでしょう。その象徴が指名OKの記者たち。このような有りようが民主主義や人権軽視(今回蹂躙ですが)に繋がるので、カウンターとして、今現在理念としてのジャーナリズムなんでしょう。下部構造としての宣伝。宣伝はそもそも宗教用語でした。
syokunin-2008
10月2日のジャニーズの記者会見ですが、実に不思議でしたね。安倍政権時代の菅義偉官房長官の記者会見とソックリ瓜二つ。しかし、もっと似ていたのが1年前の参議院選挙翌日(「消えた弾丸」安倍殺しの3日後)に東京新宿の高級ホテルで開いた統一協会会長の田中富広の記者会見。面白いことに毎日新聞の見出しは記者会見では無く、田中富広会長の「会見」となっていた。
アスペルガー火山学者早川由紀夫が言うように、記者クラブが主催するのが記者会見。統一協会やジャニーズの金で場所を設定してルールを決めて開いたので、実は記者はお客さん。主人側の言う通りに礼儀正しく動いていたとの馬鹿馬鹿しいオチ。客が礼儀を守らないと嫌がられる。
記者会見ではなくて、1年前の統一協会会長の「会見」(一方的な宣伝広報)ほぼ大本営発表の類似品だったらしいと思うと辻褄が合います
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