以前、PCR検査をすることは個人を対象とした場合、症状のありようによって選択して良い旨を指摘した。つまり、必ずしもPCR検査をする必要はないと。
と同時に、社会を対象とした場合、できる限り多くの検査をしたほうがいいと。なぜなら、新型コロナウィルスの広がりの実態を把握するためであると。
結局、どちらを選ぶかは政治的判断であるとした。それで、日本は検査をしないわけだから、そういう政治的判断をしていることになる。ということは、ウィルスの広がりを把握する必要はないと決めたことになる。
AFPBBニュースによると、国連総長が「韓国を手本」と賞賛しているという。韓国は新しいウィルスに対応したとされている。それと比較して、日本はどうだろう。日本の行政官僚制は今まで通りで対応できると値踏みしたのだ。
日本は結局今まで通りで、変わることができなかった。もうこの時点で、「変わることができなかった」と結論づけていいような気がしている。世界はウィルスを前にして変わった。経済成長や資本主義的欲望に構築されていた価値意識に反省を加える機会になっているとも思う。
それは各国女性宰相が「経済より命」という命を守ることを最優先して、政策を立てたことをあげることができる。もちろん、女性だけではないことも付け加えられる。
ところが、「金がなければ生きてゆけない」と、コロナ下でも金と命を天秤にかけて、うまくやって行こうとして、失敗している。ゆえに、政策も迅速ではなく、中途半端に見えるのだろう。真の政治家がいれば、M・ウェーバーが指摘したように、「重大決定する気概」「国や地域の命運を握る自覚」を持って、官僚という政治屋とは違う英断ができるはずだ。いつでもだが、日本は官僚が行う政治になっている。
金さえあれば何でも手に入ると考えてきた。例えば、食料は輸入すればいい。金さえ出せば、世界の裏側から食料は手に入る。何と横暴な思考か。
我々に必要なものは何なのか?医療、農業、流通、小売が人々の生きるための手段として共生を生み出すことである。自営業は大切ではないのか。ここに経済がある。経世済民が。何が本当に必要なのか。今この時期に贅沢品が必要というのはおかしな話だ。ここで我々は本当に必要なものが何かを確認する機会になっているはずだ。
しかしながら、日本は変われない。これまで通りの日本に戻りたいのである。実態を把握するのではなく、変わらない日本を続けるために政策が決定されているように思われる。と同時に、庶民も変わりたくないかのような行動をし続ける。
政府が企業に向かうのがこれまでの日本のデフォルトである。企業が儲かるような政策を立てることが正しいとされる。それが自由民主党的ということだ。企業ではなく、一人一人の国民に向かうことができないのだ。
そして、いまもそれを続けて行こうとしている。それは官僚的発想である。日本の政治家もまた行政官僚制、つまり官僚による政治支配を越えることができない。安倍総理は官僚を人事権で統制しているように見えても、政策の主体が官僚であることは変わらない。
他国が21世紀になっているのに、日本だけ20世紀のままなんじゃあないだろうか?
追記)経世済民。世を経(おさ)め、民を済(すく)うこと。政治における最高道徳は国民の経済生活を保証することである。つまり生活から心配をなくすことである。
少し私見を。大企業を守っても、一人一人の国民の生活の安定に直結するどころか、格差を生み出し、その格差を維持しようと向かうことになる。時には成功の指標として、格差を拡大してしまう。経世済民ではないことは明らかだ。