前回、結婚の価値が下落しているという話をした。入院話は次回から戻るとして、子供を授かることの価値も下落しているという話をして見たい。
女優というか私にとっては松田聖子の娘、神田沙也加が離婚を発表した。離婚の理由は本当のところなんだかよくわからない。なんせ不倫疑惑が出てきたりしているので真相は複雑なのかもしれない。
ただ彼女のコメントとしては、その理由を夫婦間の子供観の違いにあったとのこと。一応男性が子供を欲しがっていたが、彼女自身はそうではなかったということである。二人の間で話し合いをしたが、折り合いがつかなかったという。
ここでこの理由が事実かどうかはどうでもいい。焦点を離婚の理由として、子供が欲しくないという女性側の考えに当てたい。いや、もう少し加えると、子供が欲しくないという気持ちが離婚の理由として受け入れられているということへの違和感である。
個人的なことだが、私自身非常にリベラルな志向性を持っている。人によっては「リバタリアンか?」とまで言われるようなところもある。だから、子供が欲しくないという彼女の欲望を否定するつもりもない。彼女の欲望というのは子供が欲しくないという意識と表裏一体の自身の仕事や人生がどのような方向に向かいたいかという欲望である。
さて、そもそもというか、かつてと言っていいのか、子供は授かりものとして、人々が願うものであった。この価値意識は私たちの生活に埋め込まれていて、意識さえしない自明な価値であった。結婚し子供を授かるのは喜び以外の何物でもなかった。人生の喜びとはこういう時に存在した。
だから、ここでの離婚理由が子供が欲しくなというのは、かつて生活に埋め込まれていた願い、喜びとは異なる領域で新しい欲望が重要であるという意識が醸成された結果である。これを個人主義というのは安易だが、社会学でいう私化なのだろう。
社会学者ギデンズによれば、現代社会の特徴の1つに脱埋込化があるという。結婚し、子供を授かることは私たちの人生に埋め込まれていて、揺るぎない価値であった。あまりに当然のことなので、意識さえする必要がなかった。
脱埋込化されると、結婚、子供を授かることが対象化され、意識される。そうすると、それまで揺るぎない価値であったものを対象として、他の価値あるものと比較することになる。再帰性ともいう。結果、総体としてある特定の価値は下落する。ゆえに、子供を授かることもまたその価値を下落させ、その他の価値と比較される。
今度は私たちが神田沙也加の離婚の理由を当然のこととして受け取る。彼女のリベラルな価値意識(彼女自身がそう意識していなかもしれないが)は、結果的に子供を授かることの価値を減じていることになる。そう意識していていないにしても。
総じて、子供を産む行為が選択するものとして定着してしまえば、当然子供を産まないという選択肢が浮上する。それだけが人生ではないとして。
少子化が社会問題とされている。今論じてきたことだけが理由ではないが、そういう部分があるに違いない。選択するというのであれば、何かインセンティブがあれば、ということになる。しかしながら、子供が授かるというのに損得計算してというのは、何かが違うような気がする。