さて、これまでの話を簡単に振り返りつつ、まとめよう。
日本は「死者を許す文明」であり、その土台となるのは宗教的な「祟り」への恐れと「鎮魂」である。そのためA級戦犯も、他の戦犯も関係なく、全てを英霊と位置付け、靖国神社に祀っている。
中国は「死を許さない文明」であり、死体に鞭打って恨みを晴らす文化である。そうすると、日本が行った中国への侵略は、恨みを晴らしたい問題である。A級戦犯は死体にむち打ち恨みを晴らしたい相手である。
とすれば、日本と中国では、A級戦犯に対する考えは「許す/許さない」と完全に真逆である。ましては被害を受けたのは中国であり、被害を与えた日本がA級戦犯を靖国神社に祀ることは、「許す」こととして解釈されてしまう。中国人は日中戦争における中国人の戦死者への「愛」を持ち、日本の戦争責任者には「憎」を持つ。これでは、もめるのもしょうがない。宗教的、文化的差異がもたらす必然である。
韓国は「死を許さない文明」である。韓国人は自らの心の内に積もる「恨」を抱えている。その「恨」を構成したのは、日本統治時代、植民地状態に置かれた事実である。どんな言い訳をしようとも、彼らの尊厳を傷つけたのである。
だから傷つけたのは日本であり、そのような統治をもたらしたのは政治指導者であり、A級戦犯である。彼らは被害者である。「恨」は積もるのである。それなのに日本政府はA級戦犯を合祀し、彼らから見れば「恨」を晴らしてしまったかのようである。日本は「許す」ように受容される。ところが「許さない」文化であるがゆえに、日本政府の態度は「恨」を積もらせて行く。これでは、もめるのもしょうがない。宗教的、文化的差異がもたらす必然である。
これは他者から見れば、日本は先の戦争を反省することもなく、戦争犯罪者であっても「許す」ように思われる。ちなみに「死者を許す文明」が特殊である。ここで生み出される乖離こそ、解答困難をもたらすだろう。
仮に日本が寛容に対処していると行動しても、どんなにいっても「死者を許す」行為であるから、根本に触れることができない。逆も同様である。寛容とは求められる態度だとしても、非寛容の前では、その非寛容を甘受しなければならなくなる。非寛容に対して非寛容を貫けば、単なる混乱、衝突である。だから寛容であるための条件を考えなければならないのだが、宗教的・文化的な根本原理に関わることである。そう簡単でない。
寛容をもたらす必須の条件はなんだろうか。いくつか思い当たることもあるのだが、人間が即座に答えを出せる訳でもないかもしれない。結局、長い時間がかかる問題である。時が熟すること、そんなことだろうか。ここに自国への反省や変化を待つのであろうか。「死者を許す文明」が正しいとしてしまう人が多いように思えてしまう。異文化理解は簡単ではない。教科書で習った程度では不可能だ。
最後に引用。
「丸善ジュンク堂書店の店舗において、いわゆる「ヘイト本」を積極的に販売することはいたしません。」
— ころから (@korocolor) December 8, 2021
大きな一歩です。
ジュンク堂書店さんよりお返事を頂きました https://t.co/8qWpQjPuDW @change_jpより
反省には時間がかかりそうだ。