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Drマサ非公認ブログ

新聞奨学生を振り返る

 新宿に配置され、入寮。即座に仕事がはじまる。とりあえず数日間は研修のようなもので、配達に後ろからついて行き、覚えて行くわけだ。

 もちろん全て記憶することはできないので、当時は順路帳という配達経路と配達先が記してある帳面を持ちながらになる。そこにメモを加えるのではなく、その順路帳を書き写して、自分専用の順路帳を作り、そこにメモを加えてく。

 初めてであれば、なかなか覚えられないのだが、パターンがあるので、そのパターンを理解してしまえば、僕は割合簡単に覚えられた方だと思う。

 実際にはもともとある順路帳が共有されたが、初めて行く配達経路であっても、その順路帳を見ながらだけで配達できるようになる。今はデジタルメディアでも使っているのかと思いきや、たまたま見た現役の新聞配達が順路帳を持っているのを見たことがある。

 後々新宿ではない場所に移ったが、そこは8区しかなかった。当初配属された新宿は16区あった。16区あれば、1人1区担当になる。ただ当然休みがあるので、休みを穴埋めする人間を班長として、班長を含めて4人で、3つの区を担当する。

 ということで、専任もいるが、20人近くの新聞奨学生がいたわけだ。北海道から沖縄まで、まあ色々でいた。専任のスタッフは専売所の運営もあるから、まあ普通の社会人になるわけだが、配達専門の専任は一風変わった人である。仲良くなってからも、どういう経歴かという話は避けられた人もいたし。

 さて、僕が担当した区は新宿の職安通り沿いであった。半分が百人町、大久保駅と新大久保駅の間である。今は韓国街になっている、あの通りである。当時から、韓国系の人はいたし、超絶うまい韓国料理の店はあったが、まだ韓流スターなど意識する存在ではなかった頃だ。そして半分が歌舞伎町であるが、都立大久保病院から新宿のハローワーク(職安通り)の間といった区間である。

 まあちょっとした“危険地帯”である。当時の配達区域である百人町、大久保駅裏側は、通称国際通りとも呼ばれていた。そこは夜になると、コロンビアを中心とした売春婦「立ちんぼ」が数多くいる場所である。

 歌舞伎町側はもっとディープで、当時の表現を使わせてもらうが、「おかま」の「立ちんぼ」が出没する場所であった。

 さっき“危険地帯”と書いたが、何も危険な目に合わなかったし、正直安全だといっていいぐらいであった。

 最初に配達経路などを話してもらいながら仕事を覚えるわけだが、配達のことより、その街の風景の方が気になっていた。

 働いて半年もした頃だったか、専売所は人を見て、僕をここの担当にしたということであった。事情があり、僕は高校出たてというわけではなかったからでもある。

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