葉梨法務大臣が辞任した。実質的な更迭とのこと。一応ニュースを貼っておこう。
彼は東大法学部卒、警察官僚を経て、法務大臣というエリート中のエリートである。
そのエリートが法務大臣の仕事を「死刑のハンコを押して、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」と発言。さすがにヒドイと思った人が多く、この日本社会でも許容できないとしたわけである。
死刑の是非論はともかく(本当は「ともかく」などとするわけにはいかないことであることは断っておきたい)死刑になる人間が、どのような人間であるのかという想像力が全くもって働いていないことに愕然とする。
人間は生まれてきたら「タブララサtabula rasa(白紙)」である。pure and sinple。皆同じである。そして成長し、色々な経験をして行く中で、色がついて行く。不幸なことに、その色が良くなかった人がいる。
どうしてこんなに違ってしまうのだろう。法務大臣とは法に関わる日本の最高の地位である。だから、この色になってしまった(死刑になるような犯罪を犯してしまった)そのプロセスや彼女/彼の人生を考えなければならない。そういう責任を追う仕事である。
さすがに日本人全般は、このプロセスや内容に思いをはせることができるし、それをできない人物をこのような高い地位に置いておく事に許せないと感じたり、非社会性を感じた、そういうことではないかと思う。
ちょうど島田雅彦著『パンとサーカス』(講談社)を読んでいたところだ。日本が米国支配下にあり、独立国ではないと認識する者たちによるテロが行われるフィクションである。皆薄々気づいていることであろうし、声だかに叫ぶものもいる歴史認識である。
この小説でも登場する日本の中枢やエリートの無能ぶりが描かれている。だから葉梨のように内実プロセスを理解し行動する能力がないのである。なんと短絡していることか。
このような認識が小説とはいえ、社会の前面に押し出されてきた。旧統一教会の自民党支配?の内実があらわになったりし始めている。安倍家と関係が掘り起こされたりとか。日本という社会システムの矛盾が表現されてきているように思う。
葉梨の件もまた、日本社会の、とりわけ政治の、あるいは政治を基にした経済の、あるいは日本人の生活に及ぶあらゆる領域の矛盾が白日の下になって行く。これらの動きが日本の変化を促すものになるだろうと、諦めの気持ちも大きいが、期待をかけて行く。
ちゃんと関与して行くよ。