Drマサ非公認ブログ

殺人で保釈って?

 農水省の元事務次官が長男を殺した事件で懲役刑を受けた。息子からのDVから逃れるための自己防衛との報道であった。

 そのため、父親の犯行に同情が寄せられていた。息子の暴走ぶりから、父親の苦悩を想像して、中には無罪を、あるいは執行猶予でも良いのではないかとの意見も散見した。

 結局6年の懲役で実刑であった。さらに刑の執行前に保釈申請し、結局保釈された。色々理由はつけられているのだろうが、殺人での保釈はあまりに珍しい。私は「さすが上級国民!」と皮肉を言いたい気分になっていた。

 上級国民という言葉は、つい先日の池袋の自動車暴走事故を引き起こしたにもかかわらず、逮捕もされない元通産省の高齢者によく使用されていた。上から目線の発言が拍車をかけていたのは記憶に新しい。

 それ以前には、確か東京オリンピックのエンブレムのパクリ騒動の時、パクリ疑惑のデザイナーの周辺がエリートでもあったことから、上級国民と揶揄されていたこともあった。こちらの方はネット民の嫉妬のような気もしたが、今回の殺人では上級国民との批判は聞かないように思う。

 この父親には同情が集まっている。エリートで息子にも心配りをしていたかのような、「いい人」的な報道もあり、殺人を苦悩の末の、なおかつ緊急事態としての自己防衛と見なしてしまったからだろう。

 その反対に、息子はまともに働きもしないで酷いDVさえ行っていたダメ人間であったとのイメージがつけられている。この息子は44歳。そりゃ一般論として、自立して当然である。親もエリートで環境も恵まれているわけだから、悪人としてイメージされるのだろう。

 ここには、あまりに単純な一般化された善悪二元論がある。父親は善意に満ちており息子にも真摯に対峙していた。逆に息子は父親の善意に背をそむけ暴力三昧である。

 本当だろうか?息子がいわゆるダメ人間になり、DVまで行っていた理由にこの父親との関係性の歪みがあったからということはないだろうか?あるいは両親、あるいは親戚や地域社会といった共同体との関係性の問題があったということは想像できないだろうか?

 子供が思春期に親に暴力を振るうのは両者の関係に歪みがあり、子供がその歪みとの葛藤の中で悩み苦しんだ結果であることは指摘される。子供は自らの想いを表現できずに噴出するのが暴力である。

 ここで想像してみる。農水省元事務次官とその息子の関係性に歪みがあったと仮定してみよう。子供にはなにがしか悩みがある。なんせ親が優秀なために、それ自体が悩みの源泉にさえなる。その優秀さは子供の悩みに対してなにがしかしなければならないと認識する。

 優秀さは日本社会に適合的な優秀さである。東大を出て、官僚として最高の出世までしている。彼(父親)は優しい人間であるかもしれない。ただ優秀さがうぬぼれを作っているかもしれないし、彼はそのことに気づかないでいるかもしれない。なぜなら、高い社会的評価が彼を取り巻いているからだ。

 彼は息子の悩みに対してパターナリズム(温情主義)的な対応をする。パターナリズムは日本社会の文化的基底である。日本社会に適合し、最も父権的な地位を獲得していた彼は、息子の気持ちや状況とは無関係に、偉い父親の温情として、なにがしかの対策を与えることになる。日本社会ではこのような権力上位の者が下位の者に温情を施すことを「やさしさ」と捉えられることもある。

 ちなみにパターナリズムの反対がマターナリズムであり、何をするのかを自分で決めることである。あまり使われない概念かもしれないが、その際、他者は見守るような形で寄り添ったり、包摂することになる。

 権力者である父親は表面上息子を気遣っているが、そのじつ、息子の自由意志を育むことを妨害し、自らの価値規範の中に幽閉してしまう。それこそが、息子の悩みの深奥にあったとすれば、彼の暴力はその表現であったかもしれない。

 息子は“薄い”形で愛着障害を起こしていたということはないだろうか。身近な人から愛情を感じず育った人間は、自らが愛されるに値する人間であるとは思えず、自己を受け入れることができない。特に両親からの過干渉もまた愛着障害を起こすことが知られている。

 そこに息子の苦悩や葛藤が存在していたとしたら、父親が施す温情は周囲から見れば立派な行いに見えるにしても、息子の自立を阻害する最大の要因になったろう。

 このような苦悩や葛藤、あるいは愛着障害は両親以外の他者との親密な関係を育むことができれば、乗り越えの可能性を有する。しかしながら、父親は社会的に権威を有しているため、自らの権威が減ずるようなことを外部に晒すようなことはない。俗に言えば、自らの恥になるとか、世間体が悪いということが規範となる。

 そうすると、息子はその規範の枠組みに従ってしまう。親の期待を自身の規範にするが、その従順さこそが自身を分裂させ、苦しみを増幅させる。これでは逃れようがないのだから、苦しい。だから暴力がその苦しさの表現となる。息子の真の苦悩を理解し、よりそう存在こそが解放の導きになるというのに、父親の権威的なパーソナリティとパターナリズムの行動がそのような存在から遠ざけてしまう。

 もちろん、この話は想像だし、仮説にすぎない。なぜなら、詳細を知ることができないからだ。いいところメディアの情報しかないのだし。

 この仮説が正しいとすれば、息子を無意識下で苦しめた張本人は父親である。父親こそが追い込んだのかもしれないのだ。その父親に暴力をふるったかもしれないが、殺したことは罪以外の何物でもない。

 おそらく父親はパターナリズム的な価値意識をいまだ抱えているだろう。彼は偉いのだから、彼は悪くないと思っているのかもしれない。父親は自分の息子を数十箇所も刺して殺したことの意味を知るべきである。同情の余地などあるのだろうか?

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