Drマサ非公認ブログ

外国人の住民投票参加と縄張り

 昨日のブログで、武蔵野市の外国人の住民投票権が否決されたことを取り上げた。どうも否決に賛成している人、安堵している人が多いようだ。

 どうして外国人がこのような住民自治の中に入ることを恐れるのだろうか。「住民投票条例案に賛成した議員たちの顔を忘れるな」との反応さえある。

 これは縄張り意識である。動物の縄張り意識は、現実の個的な、あるいは特定集団の領域を守ることである。「現実の」というは、実際の場所やパーソナルスペースになる。

 人間も同様、縄張り意識を持つ。動物との違いは、「現実の」とは異なる「抽象の」領域に対して有することである。「現実の」というのが生物学的であるならば、「抽象の」というのは社会的に作り上げられた地位や名誉、優位のような観念性を帯びる。ゆえに社会学的である。

 そこで外国人が、日本人住民の縄張りに入ってくることを忌避するのである。当然「現実の」という水準では、実際に外国人は入り込んでいる。だから、「抽象の」という水準での拒否なのである。現実に入っており重要な役割を果たしている。日本人の行く末は日本人自身で決定したい、日本人は日本にとってより重要と見なされたい、あるいは見なされなければないといった欲求である。そのため感情的な拒否反応になる。この感情は根深いと思う。ナショナリズムが観念的構築物であることとパラレルである。

 しかしながら、鎖国でもして日本人だけで暮らすなら、このような問題も起こらなくて済むだろう。ところが「現実の」には、外国人は日本人の生活に入り込んでいる。そこで「現実の」ではなく、頭の中で作られた観念で縄張り意識を構築してしまう。それでは、現実と観念が乖離する。

 例えばここで観念というのは、「外国人に住民投票を認めると、外国人の都合のいい社会にされてしまう」「こんな運動が広がれば、同時多発的に仕掛けられたら、日本は壊れる」「そのうち中国人に日本は支配される」などなど、いくらでも出そうだ。常に敵であるから、恐れがあることになる。

 このような縄張り意識の広がりは、創造性を押さえつけることになるだろう。縄張りを守ろうとする者たちは、現実に起こっている問題に対処できない。なぜなら、縄張りを守ろうとする情報に拘泥するからである。ある問題に対処するための資源を縄張り的な意識の中で醸成された価値観からしか得ることができないわけだから、本当に必要となる資源を得られないばかりか、そのような資源を無視する。

 社会が発展変化するには(よりよく生きるということ)、他者の考えに耳を傾ける必要があるというのは、わざわざ断ることではない。外国人の住民投票参加否決は、外国人を無視しますといっているようなものだが、どんな観念を守りたいのだろうか。

 僕はそれを「現実を見ていない」と言っているだけだ。まさに排外主義(悲)他者への恐れに囚われている。

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