Drマサ非公認ブログ

公園の風景⑵:共同性論

 前回の続きだが、まず子供たちが親の監視下で遊んでいるのではないかと疑問を呈しておいた。5〜6歳の子供の世界であろうと、子供だけのある程度自律した世界が失われているのではないかと。

 子供たちは子供だけの世界にあれば、自主的に自分たちが遊びを行うというだけでなく、遊びのルールや、あるいはルールの変更を自ら行う。遊びこそ自主性や創造性を培う場所なのである。そういう力が人間にあるということだ。

 別にこのような主張を僕が感じたから言いたいだけではない。例えば、社会学者のG・H・ミードは子供のゲーム(遊び)の意義を次のように述べる。

 子供達は遊びの中で、他人を信頼し、社会的集団内での差別を撤廃し対等の関係を作り出すための社会的責任を学ぶ。子供は自らこの遊びの世界に関係しているとの姿勢を示すことが、自らの社会的存在としての位置づけを知って行く契機になる。

 このような自律した遊びの世界が子供にはどうしても必要なのである。だからこそ、そこに親の侵入度が大きくなることは、人間が自主的に社会的存在になることを妨げる可能性がある。

 とすれば、自主的な遊びの世界が失われた中で成長すれば、人間の有り様は変わらざるを得ないだろう。

 観察していて、もうひとつ気になる点があった。それは子供達の同質性である。

 おそらくは5〜6歳の子供たちに少しばかりの年齢の偏差が組み込まれているという程度の同質性なのである。実際僕が観察している時、明らかに年齢が異なる子供同士が遊んでいる様子はなかった。

 また、昔は良かった風の話をしてしまうが、僕が子供の頃は一緒に遊んでいる者にはある程度の年齢の幅があった。5〜6歳というのは一番年少で、小学校高学年程度の者が年長としてグループを作っていたと思う。

 年齢の幅は重要である。年齢によって、役割が自ずと決まるし、年長の者の言うことを聞き、年長の者は年少の者をケアする立場に必然的になる。また小学校高学年になると、このグループからある程度離脱して行かざるをえないので、それまで下の者が上の役割をこなさなければならない。

 これはひとつのサイクルとなって、世代をつないでいく。ここには同質性ではなく、年齢という点で差異性が組み込まれている。当然ここに社会性を身につける契機が組み込まれている。皆そんなことを気にすることもなく。

 多分、僕が違和感を感じたのはこのような理由からだったんだと思う。安全に過剰に関与すれば、何か大切なものが失われるに違いない。

(この項終わり)

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