goo blog サービス終了のお知らせ 

Drマサ非公認ブログ

ハラスメント社会の一面(後半)

 ハラスメントとは何か。

 まず一般的な定義を見てみよう。

 「ハラスメントは、広義には「人権侵害」を意味し、性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは広く人格に関する言動などによって、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います」https://jinjibu.jp/keyword/detl/1035/

 西洋近代の人権意識が前面に出ているので、何か見失うものがあるかもしれない。人権の強調には問題が生じる時もあるかもしれない。しかしながら、人権は近代において、人間とは如何なる存在であるのかというそれまで見出されなかった意識から発見された考えであるので、僕自身としては尊重される考えだと思っている。

 そこで、この定義をおおよそ信じよう。この定義から、ハラスメントではない状態が理解できる。「性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは広く人格に関する言動などによって」相手に不快感や不利益を与えず、その尊厳を認める状態である。

 ここでは人間の尊厳という近代的概念になるが、もう少し素朴に言うと、人間が人間であることそれ自体を認めることである。だから、そこにはどうしても人間とはなんであるのかとの問いが控えている。

 人間(にんげん)は人間(じんかん)である。関係性であるから、関係の中で近代的概念でいえば尊厳が、素朴な言い方でいえば、その人が人である事において価値があると認められる事である。

 ところが、僕たちは人を認めない。尊厳を認めないことがある。コンビニの店員に対して無礼な態度を取ることは、店員を人として認めず、尊厳を認めないのだ。何か人としてではなく、店員という属性のみで見てしまったり、人によっては店員を自らの下に存在するとか、消費者の方が偉いのだとか、「性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性」を延長した属性の中で、人間の上下を決定づけてしまう錯誤の中で行動しているのだ。そして、「それが現実である」とでも位置付けて、そのような考えに固執する。

 人間というのはその程度の存在ではない。なぜか人間には神秘性が伴う。その神秘性を近代的な視覚で表現すれば、尊厳である。ただその場合、僕は何か欠けるような気はしている。繰り返すが、ここでそれについては触れない。

 このような現存在に気づけば、僕たちは人に対して、礼を有し相対する。そうすれば、礼で接する時、接せられる時、僕たちは他者を大切に遇する。それが出来ないことを無礼という。

 だから、前回の僕の妻の友人は無礼な扱いを受けたのである。ゆえにハラスメントである。当然、妻の友人は「不快感や不利益を与え」られたのである。「不快感や不利益」とは無礼ということである。先ほど例にあげたコンビニだって、礼をもって接すればいいだけだ。

 そして、このような無礼を僕たちの社会はデフォルトにしていたり、規則であるとして当然のことにしている。そのため、ハラスメントをハラスメントとして理解できないことが多い。

 でも、一番のハラスメントは政府がしているようだけど。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「社会」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事