僕が維新というか橋下氏がおかしいと初めて考えたのは、例の大阪知事就任時の職員の朝礼の話題が出た時だ。今れいわの大石あきこさんが当時府職員で、ひとり異議申し立ての言葉を発していたのは記憶に残っている。
それまでテレビに出演する橋下氏は見たことがあった。茶髪で今時なんだろうかな、程度にしか受け取っていなかった。テレビ的なんだろう程度の認識である。当時から在阪メディアでも注目を浴びていたというのも、後で知ったことだ。
何がおかしいと初めに考えたのかというと、大阪府職員に勤務前の朝礼に参加できないことで文句を言っていたことだ。どんな言葉でかは正確には記憶していないが、時間前の朝礼を「民間なら当たり前」と言ったことである。「たかが15分」などとして「民間では当たり前」の理由ともしていたが、これは明らかに時間外労働であるから、「当たり前」なら違法が「当たり前」になってしまう。
彼は弁護士であるるから、当然労働時間の順守は当然であろうと僕は考えた。ところが違法状態を容認するどころか、自ら壊そうというのだから、僕はこの人物に疑問を持ったのである。
しかしながら「民間なら当たり前」「たかが15分」という感覚を多くの人は共有してしまうのではないかとも考えていた。実際大石さんは市民からバッシングを受けていたという。「民間ならサービス残業当たり前」という人々の日常的実感こそ問題視しなければならないというのに。
あれから14年ほど経つが、今「サービス残業当たり前」という考えは薄れた。当時「サービス残業当たり前」としていること自体に問題があったことを確認しておきたいし、違法脱法でも上からの命令を当然とするパターナリズム(父権主義)を反省しなければならない。
弁護士であるにも関わらず、法律を軽視する姿勢になんだか違和感をもち、「ふさわしい」行為ではないと考えるようになった機会であった。
さらに大石さんら公務員を利権でおいしい思いをする人間たちと位置づける姿勢、それと相対して利権でおいしい思いをする奴らを攻撃する正義の人というイメージ構築に向かい、当時の府民らが府知事を正義の人と見るというねじれた社会状況を苦々しく感じていたものだ。
いわゆる短絡化した公務員バッシングである。それにより人々は喝采を送ったのだから、人々もまた短絡化してしまったことの証左である。
今となっていは、このような「非社会性」が社会に広がるひとつの出来事だったと思う。