Drマサ非公認ブログ

自粛もまた文化的能力

 少し前になるのだが、京大の藤井聡さんがコロナ自粛の批判をしている。

「いつも行ってる酒場には行けない」「行こうと思ってたライブも中止になったし、やろうと思ってたライブも中止になった」「新入生歓迎のコンパだってできないし、今年行こうと思ってたイタリア出張もいけなくなった」など、自粛での不満を例をあげている。

 このような自粛が苦しみになるとして、藤井さんはその気持ちは「よくわかる」と言うのだ。さらに自粛が苦にならない人は、社交を持たない人だからだと。ゆえに社交を持たない人は、自粛の苦しさがわからないのだとも。

「自粛というのは、そもそも、人間にとってかけがえの無い価値ある「社交」を破壊するという話なのです。その「社交」の価値を、生活者として何も理解しないバカが、そんな高尚な議論に参画して良いはずがないのです。」https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20200706/より

 社会学者のジンメルは諸個人の「心的な相互作用」が頻度や強度を増し,それに似た多くの相互作用と結合するところに社会を見出す。諸個人の相互交流は社交による。社交こそ社会を作り出す源なわけだ。

 このようなジンメルの社交論を表面上適応すれば、藤井さんの主張は正しいように見える。しかしながら、ジンメルが求める社交は、諸個人か語り、歓談し、交流することで現実の重荷から「救済」されるだけてはなく、現実の本質を「観る」ことも可能になる 。

 それにしても、藤井さんは「社交を持たない人」が社交の意義を理解できず、過剰な批判をするという。

 藤井さんであれば、確かに現実の本質を見る場所として社交はあるかもしれないが、大抵は現実の重荷から救済されたいがための、つまりは気晴らしにすぎないだろう。実際「酒場に行けない「釣りに行けない」とは小さな救済から生み出される反応である。

 産業社会が僕たちをどのように訓化してきたかというと、小さなhappyを手にするような欲望を植え付けることであった。happyはそもそも偶発的な出来事に生じる。産業社会はその偶発性をいつでも手にすることができるかのようなシステム構築に成功した。

 コロナはそのシステムの脆弱性を明るみににした。そこでジンメルを補足しよう。以前も書いたのだが、社交とは人に触る(さわる)ことだけではない、触れる(ふれる)ことでもある。自粛にストレスを感じているとしたら、家で過ごす力が失われてはいないかと逆説的な問いを与えられている。あるいは孤独と共にあることでももある。一応断っておく、孤立ではなく孤独である。

 自粛してもストレスをそれほど感じなく生きていけるとすれば、それは文化的能力である。家族と過ごしたり、なんならオンラインで繋がることが小さな救済にならないことをこそ問わなければならない。ストレスがない社会は想定できないが、ストレスの原因と救済(気晴らし)は1セットである。

 実際自粛でストレスが軽減したとの話はいくらでもある。

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