日本は「祟り」「鎮め」の宗教。中国は「愛」と「憎」の文化。これもまた中国人の死の思想や宗教からでしょう。では朝鮮半島、特に身近な韓国について考察しましょう。これはよく言われます。「恨の文化」です。これもまた「死者を許さない文明」です。
僕は「恨」と言うと思い出すことがある。僕はプロレスが好きなのだが、昔長州力が放った言葉が忘れられない。当時長州は新日本プロレスの責任者のひとりである。そこにことごとく面倒を作る団体があった。高田延彦率いるUWFインターナショナルである。こちらには若い責任者(安生と宮戸)がいたのだが、彼らに長州が放った言葉は「あいつがくたばったら、墓にクソぶっかけてやる!」であった。
長州は在日2世である。オリンピックには韓国代表で出場した。その後日本に帰化している。僕は当時この言葉を聞いて、信じられない言葉であると思ったものだ。死者の墓に「クソぶっかけてやる」は「死者を許す文明」からの言葉ではない。当時そんな位置付けもせず、違和感を持っただけであるが、当然死者の「祟り」を恐れれば、こんな言葉は出てこない。ひょっとして「恨」であり、「死者を許さない」文化から発せられた言葉なのではないだろうか。
山折さんは李御寧(イオリョン)『恨の文化論—韓国人の心の底にあるもの』(学生社1978)を参照して、この問題にアプローチする。先に一言だけ注釈を入れておく。最近の嫌韓本を見ると、この「恨」という概念が利用されているのだが、この民族感情の底に触れることなく、表層で、あるいはステレオタイプ的に還元論を行うものが多いと思う。
日韓両国の文化的違いを理解するには、日本の「祟り」「鎮め」を理解しておかなければ、単なる自民族中心主義、自文化中心主義になるのであり、偏見を助長するだけである。これらの主義を回避すること自体がなかなか難しいとはいえ、ステレオタイプであるとすれば、当然認識に隔たりが生じてしまうことは必然である。だから、マスメディアやインターネットが発達しているからこそ、我々の認識や知識が擬似環境的、ステレオタイプにならざるを得ないのであるから、間違っていることを前提にする必要さえある。
ちなみに僕が知る韓国人から「恨」を感じることは当然ない。あるとすれば、民族感情が湧き上がるような文化的衝突の際生じる社会心理が立ち上がる時であろう。そういう時に、その社会心理の土台にどうにか「恨」を見出すことができるだろうが、これは歴史や文化の深い教養の元論じられるべきことだ。
だから「恨」は普段は出ない幽霊みたいなもので、日本の「鎮め」、中国の「憎」も幽霊みたいな存在なのだと思う。