今日、こちらは雲ひとつない絶好の秋晴れでした。
こんな日はベランダでロッキングチェアーに腰掛けてゆっくり読書でもすれば最高に気持ちがいいのでしょうが、残念ながら今日もお仕事でした。
というわけで、秋にちなんで今日も読書の話をすることにします。
先日もちょっと触れましたが、僕の好きな「A」というタイトルのドキュメンタリー映画があります。これを撮ったのは森達也というTVドキュメンタリー出身の監督です。
皆さんは一昔前にフジテレビの深夜枠でNONFIXという番組が放送されていたことを憶えていらっしゃるでしょうか。
森はこの番組のなかで、いわゆる“放送禁止歌”を1曲まるまるオンエアしてしまうという前代未聞の離れ業をやってのけた人物です。言い換えれば日本のドキュメンタリー史上はじめてタブーを打ち破ったのが彼だったと言ってもいいかもしれません。その時の経緯を一冊の本にまとめたものが光文社からズバリ「放送禁止歌」というタイトルで刊行されています。
本当は、僕がつべこべいう前に是非一度読んでいただきたいのですが、、、そのぐらいこの本の内容には強い衝撃を受けました。
この本を読んでまず驚いたことは、そもそも“放送禁止歌”なるものを規定した法律が日本には一切存在していないということでした。そして当然のことながらそれらを放送した場合の罰則規定などもどこにも存在していないのです。
森が何人もの放送関係者に取材を続けていくうち、放送禁止歌なるものが実は、一部の人間からの抗議をおそれた昔のマスコミ人が、自己保身の果てに作り上げた極めて曖昧な概念であったということが明らかになってきます。そしてこのような実体のない概念が時代の流れの中で次第に曲解され、恰も放送禁止歌なるタブーが存在するかのように我々が思い込まされてきたという歴史があるのです。
差別という概念そのものが、社会の中でいかに捻じ曲げられてきたか、そしてタブーを忌避することによってどれほど新たな差別が生み出されてきたかという事実。我々はこのような事実に極めて鈍感であるといわざるを得ません。
この本の中で、森は非常に興味深いエピソードを紹介しています。
かつてTBSの“8時だよ全員集合”に小人のプロレスラーがレギュラー出演していた時期がありました。その当時、小人プロレスは興行的に極めて厳しい状況にあり、彼らにとっては“8時だよ全員集合”という超人気番組にしかもレギュラーで出演できるなどまさに夢のような話でした。彼らは生き残るための新たな生活の糧を見出し、すこぶる張り切っていたのです。
しかし、彼らの出番は3週間しか続きませんでした。
TBSに抗議が殺到したからです。
そのほとんどは「あんな可哀想な人たちを笑いものにするなんて許せない!」という内容のものでした。
TBS側は直ちに彼らの出演を打ち切りました。彼らは新たな生活の糧を、まさに彼らを擁護する善意の人々によって奪われ、再びしがない小人プロレスへと戻らざるを得なかったのです。
このように、差別は全くの第三者の介在によって助長され、しかも問題を忌避しようとするその姿勢によって社会の裏側にひたすらに追いやられ、我々が自らの頭で考える機会を一方的に奪っているのです。
森は、件の番組の最後に岡林信康の「手紙」という曲を全コーラス、オンエアします。
差別の悲哀を歌ったこの曲がはじめて日本のメディアに流されたのです。
番組放送終了後、抗議の電話は一本も来ませんでした。
なぜでしょうか?なぜ誰も小人のプロレスラーの時のようににじゃんじゃん抗議しなかったのでしょう?
深夜枠だから?お笑い番組じゃないから?
その理由は、僕達一人一人が考えてゆかねばなりません。たとえ答えは見つからなくとも、問題の本質から目を背けないで自分の頭で考えつづけることこそ、今の僕達に課せられている使命なのではないでしょうか。
「手紙」 作詞・作曲 岡林信康
わたしの好きなみつるさんは
おじいさんからお店をもらい 二人一緒に暮らすんだと
うれしそうに話してたけど
わたしと一緒になるのだったら
お店をゆずらないと言われたの
お店をゆずらないと言われたの
私は彼の幸せのため
身を引こうと思っています
二人一緒になれないのなら 死のうとまで彼は言った
だから全てをあげたこと
くやんではいない 別れても
くやんではいない 別れても
もしも差別がなかったら
好きな人とお店が持てた
に生まれたそのことの
どこが悪い なにがちがう
暗い手紙になりました
だけど私は書きたかった
だけど私は書きたかった
こんな日はベランダでロッキングチェアーに腰掛けてゆっくり読書でもすれば最高に気持ちがいいのでしょうが、残念ながら今日もお仕事でした。
というわけで、秋にちなんで今日も読書の話をすることにします。
先日もちょっと触れましたが、僕の好きな「A」というタイトルのドキュメンタリー映画があります。これを撮ったのは森達也というTVドキュメンタリー出身の監督です。
皆さんは一昔前にフジテレビの深夜枠でNONFIXという番組が放送されていたことを憶えていらっしゃるでしょうか。
森はこの番組のなかで、いわゆる“放送禁止歌”を1曲まるまるオンエアしてしまうという前代未聞の離れ業をやってのけた人物です。言い換えれば日本のドキュメンタリー史上はじめてタブーを打ち破ったのが彼だったと言ってもいいかもしれません。その時の経緯を一冊の本にまとめたものが光文社からズバリ「放送禁止歌」というタイトルで刊行されています。
本当は、僕がつべこべいう前に是非一度読んでいただきたいのですが、、、そのぐらいこの本の内容には強い衝撃を受けました。
この本を読んでまず驚いたことは、そもそも“放送禁止歌”なるものを規定した法律が日本には一切存在していないということでした。そして当然のことながらそれらを放送した場合の罰則規定などもどこにも存在していないのです。
森が何人もの放送関係者に取材を続けていくうち、放送禁止歌なるものが実は、一部の人間からの抗議をおそれた昔のマスコミ人が、自己保身の果てに作り上げた極めて曖昧な概念であったということが明らかになってきます。そしてこのような実体のない概念が時代の流れの中で次第に曲解され、恰も放送禁止歌なるタブーが存在するかのように我々が思い込まされてきたという歴史があるのです。
差別という概念そのものが、社会の中でいかに捻じ曲げられてきたか、そしてタブーを忌避することによってどれほど新たな差別が生み出されてきたかという事実。我々はこのような事実に極めて鈍感であるといわざるを得ません。
この本の中で、森は非常に興味深いエピソードを紹介しています。
かつてTBSの“8時だよ全員集合”に小人のプロレスラーがレギュラー出演していた時期がありました。その当時、小人プロレスは興行的に極めて厳しい状況にあり、彼らにとっては“8時だよ全員集合”という超人気番組にしかもレギュラーで出演できるなどまさに夢のような話でした。彼らは生き残るための新たな生活の糧を見出し、すこぶる張り切っていたのです。
しかし、彼らの出番は3週間しか続きませんでした。
TBSに抗議が殺到したからです。
そのほとんどは「あんな可哀想な人たちを笑いものにするなんて許せない!」という内容のものでした。
TBS側は直ちに彼らの出演を打ち切りました。彼らは新たな生活の糧を、まさに彼らを擁護する善意の人々によって奪われ、再びしがない小人プロレスへと戻らざるを得なかったのです。
このように、差別は全くの第三者の介在によって助長され、しかも問題を忌避しようとするその姿勢によって社会の裏側にひたすらに追いやられ、我々が自らの頭で考える機会を一方的に奪っているのです。
森は、件の番組の最後に岡林信康の「手紙」という曲を全コーラス、オンエアします。
差別の悲哀を歌ったこの曲がはじめて日本のメディアに流されたのです。
番組放送終了後、抗議の電話は一本も来ませんでした。
なぜでしょうか?なぜ誰も小人のプロレスラーの時のようににじゃんじゃん抗議しなかったのでしょう?
深夜枠だから?お笑い番組じゃないから?
その理由は、僕達一人一人が考えてゆかねばなりません。たとえ答えは見つからなくとも、問題の本質から目を背けないで自分の頭で考えつづけることこそ、今の僕達に課せられている使命なのではないでしょうか。
「手紙」 作詞・作曲 岡林信康
わたしの好きなみつるさんは
おじいさんからお店をもらい 二人一緒に暮らすんだと
うれしそうに話してたけど
わたしと一緒になるのだったら
お店をゆずらないと言われたの
お店をゆずらないと言われたの
私は彼の幸せのため
身を引こうと思っています
二人一緒になれないのなら 死のうとまで彼は言った
だから全てをあげたこと
くやんではいない 別れても
くやんではいない 別れても
もしも差別がなかったら
好きな人とお店が持てた
に生まれたそのことの
どこが悪い なにがちがう
暗い手紙になりました
だけど私は書きたかった
だけど私は書きたかった
ちょっと驚きです。
そして、この歌詞、切ないですね・・・
今日丁度、差別について
友達が話していました。
ジプシー差別についてです。
差別ってどこから生まれてくるもの
なんでしょうね・・・。
コメントありがとう。
差別意識というのは人間が自らと他者を区別しようとする日常的な精神活動のなかから生まれてくるごく自然な感覚なのだと僕は思っています。
極論すれば、“あなた”と“私”の間には必ず何らかの差別意識が介在しているということです。
それは、ポジティヴにもネガティヴにも働き得るもので、
まずその事実に気づくことが大切だと思います。
まあ、この場だけではとても語り尽くせませんが、、、
>>そして、この歌詞、切ないですね・・・
切ないですよねー。でもこの歌詞の内容がそんなに公序良俗に反するものなのでしょうかねー、、、不思議です。
根拠のないと思われる世論も、あたかもまっとうな意見のごとく形成される1つの過程。私、最近「反社会学講座」という本、とても面白く読ませてもらいました。お勧め・・・できないかな?。
8時だよ、、、のエピソードを見ても分かるんですが、結局コワイのは人の“善意”なのかなーという気がするんです。
これは本の中で森自身も語っていることですが、例えば、TBSに抗議した人たちはおそらく、小人プロレスラーが出番を奪われた時にはむしろ「よいことをしたなー」と思ったのではないでしょうか。
そういう意味ではきっと、ブッシュだって、ミロシェビッチだって、ひょっとしたらヒトラーだって、どこまでも純粋な“善意”にただ突き動かされていただけなのかもしれませんね。
ところで、その「反社会学講座」ってどういう本ですか?
タイトルだけでもおもしろそうですね。教えてください。
社会学という学問が暴走している現状を批判することが反社会学の目的だとか。
以上、ご報告まで。