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中澤まゆみブログ「コミュニティヘルスのあるまちづくり」

医療と介護、高齢社会をテーマに書くノンフィクションライターのブログ。

「バンクーバーの朝日」と日系人野球

2015-01-13 16:39:04 | 日記
HPの過去の記事をご覧になりたい方は→こちらへ。


日系人野球の100年

カナダ系日系人と野球をテーマにした、封切中の映画「バンクーバーの朝日」>→こちら。実はまだ時間がなくて見に行っていないのですが、
日系人をテーマに取材をしていたとき、アメリカの「日系人野球」について新聞に連載したことがあります。
ホームページにその記事「日系人野球の100年」がありますので、こちらでも掲載しておきます。
15年以上前の記事を読むのは、自分でも感無量です。



① それは1枚の写真から始まった

セピア色に変色した一枚の写真がある。写っているのは大リーガーのベーブ・ルースとルー・ゲーリック。
彼らを囲んでいるのはユニフォーム姿の4人のアジア人だ。
「なぜ、叔父さんが一緒にいるんだろう」
米国カリフォルニア州フレズノ市に住む日系三世ケリー・中川(44歳)は、子供のころから、自宅の壁の写真を見るたびに首を傾げていた。
訳を聞き逃した彼が、叔父の人生を調べようと思いたったのは5年前のこと。

調べるうちに、写真は1927(昭和2)年、フレズノの球場で催された親善試合のものと判明した。
その年、ニューヨーク・ヤンキースをワールドシリーズで優勝させた原動力、ルースとゲーリックがフレズノを訪問、地元の野球チームとプレイしたのである。
白人勢に混じった4人の日系選手の活躍はめざましく、彼らが参加したゲーリック・チームは、ルース・チームを13対3で破った。

このフレズノ近郊の農村地帯には、早い時期から多くの日系チームが生まれ、市町村対抗を盛んに行っていた。
“日系二世のルース”の異名を取った叔父は、強豪「フレズノ体育会」の4番。チームは日本に二度遠征し、大学や社会人野球チームに圧勝している。
「それまで僕は、日系人にこんな素晴らしい野球の歴史があるとは知らなかった。もっと調べて、子供たちに伝えなければと」
 自らも大の野球ファンである中川は、テレビ局ディレクターの職をなげうって、埋もれた日系人球史を掘り起こし始めた。
1920年代から30年代の最盛期には、西海岸を中心に100を越えるチームが、各地で「二世リーグ」を組織している。

1996年、彼はフレズノで叔父たちの球史を伝える小さな展示会を開いた。
展示会は大きな反響を呼び、会場を移すごとに大規模になり、昨年4月には、クーパーズタウンの野球の殿堂での展示会が実現した。
ハワイに最初の日系人野球チームが誕生してから100年め。中川のもうひとつの夢が実現する。
11月3日から23日まで、東京ドームの野球体育博物館で、彼が企画した展示会「荒けずりのダイヤモンド――野球と日系アメリカ人」展が開かれることになったのだ。(敬称略)

② 日系人野球の父と呼ばれた男

ケリー・中川の叔父が、ベーブ・ルースとともに撮った写真には、“日系人野球の父”と呼ばれる人物が写っている。
8歳のときに広島からハワイに移民、その後フレズノにやってきた銭村健一郎。
身長153センチ、体重50キロの小兵ながら、走・攻・守の三拍子そろった実力派、日系野球のリーダーとして、西海岸の野球ブームをつくりあげた男だ。

日系人が収容所に送られた太平洋戦争中、収容所内で「二世リーグ」を組織し、戦後は若い世代を育成した銭村は、‘60年代に自動車事故で急逝した。
彼と一緒に白球を追った元選手が、今も隣町のハンフォードにいる。
「あのとき行った連中は、ほとんどもうおらんなあ。でも、ツアーは面白かったよ」
今年85歳になる“シッグ”徳本重雄は、懐かしそうに写真を見ながらつぶやいた。
1937(昭和12)年、近郊の精鋭を集めた「アラメダ・コウノ」のメンバーとして、日本、朝鮮、満州に遠征したときの写真である。

1905年、早稲田大学の野球チームが初のアメリカ遠征をして以来、日本からは大学チームと実業団チーム、アメリカからは日系チームが、毎年のように海を越えて交流していた。
銭村の日本遠征は3回目。精鋭チームの監督となった彼は、「二世リーグ」で対戦したり、地元の白人チームで一緒にプレイしていた徳本を、海外遠征チームに誘ったのだ。
19人のメンバー中4人が白人選手だった。 「日本はよかったよ。家に帰ったような気持ちさ。だけど、白人は夜遊びばかりしてて、次の日に使いもんにならんから、ゼニが怒って途中で帰してしもうた」

東京で実業団、大学チームと対戦した一行は、当時日本の植民地だった朝鮮から、事変前夜の満州に入り、各地で日本人チームと対戦した。
チームは3ヶ月後、阪急入りした山田伝と野上清光を日本に、実業団入りした二人を大連に残して帰国した。徳本は61戦中7割を日系チームが勝利したと記憶している。

戦後、徳本はハンフォードの少年野球の監督を20年にわたってつとめた。
今、町には「シッグ・トクモト・フィールド」と命名された球場がある。1995年に落成した少年野球新球場に、彼の名前がつけられたのだ。(敬称略)

③ 収容所の中の白球

「この写真、去年初めて見たんよ。撮られたのも知らんかった。たぶん、第100大隊か442部隊とやったときやろ」
「おうよ、ユニフォームが違うもんな。わしはもう軍隊、入っとったと違うか?」
戦時中、アーカンソー州の日系人収容所で撮られた1枚の写真をめぐって、塚本好夫(79歳)、忠(77歳)兄弟の話がはずむ。
バッターボックスに立っているのは、弟の忠だ。

日本軍が真珠湾を攻撃した翌年の1942年、西海岸に住む12万人の日系人は「敵性国人」として、10ヵ所の収容所に強制移転された。
カリフォルニアの州都サクラメント近郊の農村フローリンで、イチゴやブドウを栽培する両親を手伝いながら、地元の日系野球チームで活躍していた塚本兄弟が送られたのは、
まずフレズノの仮収容所、それから、アーカンソーのジェローム収容所だった。
「野球はフレズノでもジェロームでも、よくやったな。わしらのチームはいつでも優勝さ」 

どの収容所でも、日系人はグラウンドをつくって野球を続けた。
もとは森林だったジェローム収容所では、木の根を掘り起こして整地したが、グラウンドはデコボコ、ラフにはヘビがうようよいたという。
8000人が収容されていたジェローム収容所には、4つの“Aクラス”チームがあった。
彼らは週2度ずつ試合をし、ときには350キロ南にあるキャンプ・シェルビーで実戦訓練中の、ハワイ第100大隊と442日系人部隊のチームと対戦した。

終戦の年、塚本兄弟はアメリカ兵士となって、ミネソタの陸軍情報局で訓練を受けた。そこには兄弟の晴れがましい思い出がある。
白人のセミ・プロチームと試合をしたとき、相手チームに助っ人として参加したヤンキースのスター投手、スパッド・チャンドラーと対戦し、弟の忠はこの大リーガーを相手に、三塁打を放ったのである。
試合に勝ったのは日系軍人チームだった。

進駐軍として日本に滞在した経験を持つ兄弟は、この11月、東京ドームで開催される「野球と日系アメリカ人」展のオープニングに、そろって参加することになった。
忠にとっては、50年ぶりの日本再訪だ。二人はその日を指折り数えて待っている。(敬称略)

④ 日本野球を変えた日本人

「昔、二世の選手をよく取ったのは、今、大リーグの選手を取るのと同じやね。僕は戦後初めてでしょ。成功すればあとの人たちが来られるから、文句言わないで頑張ったのよ」
今は引退して、日本とハワイを行き来する与那嶺要(77歳)は、当時を思い出しながらこう語る。日本人に最もよく知られた日系人野球選手といえば、この“ウォーリー”与那嶺。
1951(昭和26)年、巨人に迎えられ、来日早々華々しくデビュー、以来38年間で8枚のユニフォームを着続けた。
戦前、戦後を通じて、日本のプロ野球に参加した日系人選手は30人を越える。
昭和11年、プロ野球の発足とともに続々と誕生した球団では、人材不足を補うために 二世選手を“外人助っ人”として積極的に迎えたのだ。

法政大学から実業団を経て阪神に入団した“ボゾ”若林忠志、亀田忠(イーグルス)、上田藤夫(阪急)、“カイザー”田中義雄(阪神)、“ヘソ伝”こと山田伝(阪急)など、年配の野球ファンには懐かしい名前が並ぶ。
しかし、若林、田中、山田以外の二世選手は、太平洋戦争の勃発とともに帰国した。

日本のプロ野球を変えた男と呼ばれるのが与那嶺だ。
フットボールの名門、サンフランシスコ・フォーティーナイナーズにスカウトされてハワイから米国本土に渡り、不運にも肩を痛めて野球に転向。
来日後は、アメリカ仕込みの“闘う野球”でスタンドを沸かせ、日本人選手を唖然とさせた。

特に日本選手を怖れさせたのが、今では当たり前となっているスライディングだ。
「当時の日本の野球はおとなしかったからね。僕がぶつかったら、みんな“汚い”いうて怒るわけ。相手チームのファンは石を放るし、“ハワイへ帰れ”ゆうし…・」
与那嶺の活躍がきっかけとなって、日本の野球界の目は、一斉に海外に向けられた。
特に日系選手獲得に熱心だったのは巨人で、昭和30年には与那嶺を筆頭に、西田亨、広田順、柏枝文治、松岡満、“エンディ”宮本敏夫と、6人の二世選手をかかえていた。

昭和37年ころから、大リーガーの来日が本格的に始まり、二世選手はその“助っ人”の座を、彼らに明け渡した。
しかし、こうした日系選手との交流が、日本のプロ野球の発展に大きく貢献したのである。(敬称略) 1999年 時事通信配信記事





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