マルゼンスキーの有名な二つのレースについて書いたが、実はこの2レースではなく、私が好きなレースは、マルゼンスキー生涯最後のレースとなる札幌で行われた短距離ステークスである。
トウショウボーイも出走を予定していたレースである。
深管骨瘤が出て回避と言われてはいるが、実際には、マルゼンスキーに恐れをなして、トウショウボーイがこのレースを回避したと言われているものである。
昭和52年7月24日のこのレースこそが、マルゼンスキーの凄さの証であると思っている。
ダートの1200mを1'10"1の日本レコードで駆け抜けたこのレースには色々な意味があった。
マルゼンスキー 短距離ステークス (マルゼンスキー引退レース)
ダートの1200mで、この日本レコード。
2着のヒシスピードにはまたもや大差(10馬身差)の圧勝だったのである。
競馬ファンなら分かると思うが、1200mのレースは3馬身も離したら圧勝と言えるほど距離の無いレース。さらにそれがダートなれば、言うまでも無いであろう・・・。
芝でのスピードは、誰もが認めるところ。
スプリンターではなかったのか・・・と言う疑問には産駆が答えを出してくれた。
不良馬場でもプレストウコウをブッちぎってみせた。
では、ダートは?
ただの早熟馬だったのでは?
と言う疑問を一気に解決してくれるのが、この短距離ステークスであると思う。
そうして、引退前最後のレースが日本レコード。
それも芝では無く、ダートでである。
負けなかったから強い。
そう言ってマルゼンスキーを日本史上最強馬と言う人もいるだろう・・・。
それはその通り。間違いなく、私もそう思う。
それでも、それに対する批判を出す人はいる。
でも、芝もダートも距離も馬場状態も展開も、何一つ関係無かったから強いのであって、だから無敗なのである。
史上最強馬・・・時計で語る人もいるかも知れない。時計だけで言えば、今のG1級の馬と比べれば、決して速い時計では無い。しかし、当時は馬場の整備はおろか、調教コースなどの施設も何も、今とはまるで環境が違ったため、このような話がまかり通るのである。だから、あえて時計論者に筆者は言う。当時、ウッドチップや坂路があったらどうだったのか?馬場の整備が今と同様だったらどうなのか?やはり時代に合わせて、マルゼンスキーは勝っていたに違いない・・・と。
つまり、例えどの時代に、どの距離でどの馬場で、どんなレース展開でも必ず勝っていると言えるであろう馬はマルゼンスキーなのだと言っておこう。
シンボリルドルフを、シンザンを、ディープインパクトを、サイレンススズカを史上最強馬と称えるのは良い。距離を短くすれば、タイキシャトルだ、サクラバクシンオーだと、それも良いだろう・・・
それでも、あえてもう一度言っておきたい。
芝もダートも1000mも、3600mも、雨でも晴れでも、どの土俵に立ってもきっと戦える、そして恐らく勝てるであろう馬は、マルゼンスキーを置いて他にいない、と私は思う。
さようなら、マルゼンスキー
たたえよう、おまえの強さを
語り継ごう、おまえの速さを
これは、昭和53(1978)年1月15日、引退式当日の横断幕に書かれていた文字である。今では伝説となったマルゼンスキー、確かにこの強さは語り継がれている。
(JRAの50周年記念サイトでは、横断幕に書かれていた言葉として「さようなら、マルゼンスキー。語り継ごう、おまえの強さを」となっていましたが、私の記憶では、上記が正しいと思ったので、上記のように記載をさせていただきました。)
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トウショウボーイも出走を予定していたレースである。
深管骨瘤が出て回避と言われてはいるが、実際には、マルゼンスキーに恐れをなして、トウショウボーイがこのレースを回避したと言われているものである。
昭和52年7月24日のこのレースこそが、マルゼンスキーの凄さの証であると思っている。
ダートの1200mを1'10"1の日本レコードで駆け抜けたこのレースには色々な意味があった。
マルゼンスキー 短距離ステークス (マルゼンスキー引退レース)
ダートの1200mで、この日本レコード。
2着のヒシスピードにはまたもや大差(10馬身差)の圧勝だったのである。
競馬ファンなら分かると思うが、1200mのレースは3馬身も離したら圧勝と言えるほど距離の無いレース。さらにそれがダートなれば、言うまでも無いであろう・・・。
芝でのスピードは、誰もが認めるところ。
スプリンターではなかったのか・・・と言う疑問には産駆が答えを出してくれた。
不良馬場でもプレストウコウをブッちぎってみせた。
では、ダートは?
ただの早熟馬だったのでは?
と言う疑問を一気に解決してくれるのが、この短距離ステークスであると思う。
そうして、引退前最後のレースが日本レコード。
それも芝では無く、ダートでである。
負けなかったから強い。
そう言ってマルゼンスキーを日本史上最強馬と言う人もいるだろう・・・。
それはその通り。間違いなく、私もそう思う。
それでも、それに対する批判を出す人はいる。
でも、芝もダートも距離も馬場状態も展開も、何一つ関係無かったから強いのであって、だから無敗なのである。
史上最強馬・・・時計で語る人もいるかも知れない。時計だけで言えば、今のG1級の馬と比べれば、決して速い時計では無い。しかし、当時は馬場の整備はおろか、調教コースなどの施設も何も、今とはまるで環境が違ったため、このような話がまかり通るのである。だから、あえて時計論者に筆者は言う。当時、ウッドチップや坂路があったらどうだったのか?馬場の整備が今と同様だったらどうなのか?やはり時代に合わせて、マルゼンスキーは勝っていたに違いない・・・と。
つまり、例えどの時代に、どの距離でどの馬場で、どんなレース展開でも必ず勝っていると言えるであろう馬はマルゼンスキーなのだと言っておこう。
シンボリルドルフを、シンザンを、ディープインパクトを、サイレンススズカを史上最強馬と称えるのは良い。距離を短くすれば、タイキシャトルだ、サクラバクシンオーだと、それも良いだろう・・・
それでも、あえてもう一度言っておきたい。
芝もダートも1000mも、3600mも、雨でも晴れでも、どの土俵に立ってもきっと戦える、そして恐らく勝てるであろう馬は、マルゼンスキーを置いて他にいない、と私は思う。
さようなら、マルゼンスキー
たたえよう、おまえの強さを
語り継ごう、おまえの速さを
これは、昭和53(1978)年1月15日、引退式当日の横断幕に書かれていた文字である。今では伝説となったマルゼンスキー、確かにこの強さは語り継がれている。
(JRAの50周年記念サイトでは、横断幕に書かれていた言葉として「さようなら、マルゼンスキー。語り継ごう、おまえの強さを」となっていましたが、私の記憶では、上記が正しいと思ったので、上記のように記載をさせていただきました。)
年/月/日 | 競馬場 | 競走名 | 距離 | 騎手 | 重量 | 着順 | 人気/頭数 | タイム | 馬場 | 1着馬(2着馬) | タイム差 |
1976/10/09 | 中山 | 新馬 | 芝1200 | 中野渡 | 52 | 1 | 1/8 | 1:11.0 | 良 | (オリオンダーダ) | -2.0 |
10/30 | 中山 | いちょう特別 | 芝1200 | 中野渡 | 52 | 1 | 1/9 | 1:10.5 | 良 | (シヤダイエツセイ) | -1.5 |
11/21 | 東京 | 府中3歳S | 芝1600 | 中野渡 | 54 | 1 | 1/5 | 1:37.9 | 重 | (ヒシスピード) | ハナ |
12/12 | 中山 | 朝日杯3歳S | 芝1600 | 中野渡 | 54 | 1 | 1/6 | R1:34.4 | 良 | (ヒシスピード) | -2.2 |
1977/1/22 | 中京 | オープン | 芝1600 | 中野渡 | 57 | 1 | 1/5 | 1:36.4 | 良 | (ジヨークイツクリー) | -0.4 |
5/7 | 東京 | オープン | 芝1600 | 中野渡 | 57 | 1 | 1/8 | 1:36.3 | 良 | (ロングイチー) | -1.2 |
6/26 | 中山 | 日本短波賞 | 芝1800 | 中野渡 | 58 | 1 | 1/7 | 1:51.4 | 不 | (プレストウコウ) | -1.1 |
7/24 | 札幌 | 短距離S | ダ1200 | 中野渡 | 54 | 1 | 1/5 | R1:10.1 | 良 | (ヒシスピード) | -1.6 |
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4歳(旧表記)になってからのマルゼンスキーに敵は全くいなかった。
と言うより、マルゼンスキーが出走すると言うだけで、他の馬が回避してしまうのだから、敵どころか一緒に走る仲間もいなかった感じである。
実際、4歳初戦となった中京芝1,600mオープン特別戦でも持ったままの楽勝。
マルゼンスキーの脚の骨に罅が入ってしまい、しばし休養。
そして復帰初戦の東京の芝1,600mのオープン特別では、マルゼンスキーのあまりの次元の違う強さを恐れた陣営が次々と回避を表明し、レースが不成立となりかけた。本郷師が「タイムオーバーには絶対しないから出走してくれ」と頼み込みレースは無事成立。事無きを得た。レースはと言うと、マルゼンスキーが目一杯抑えられながら7馬身差の大楽勝。彼の敵は自分自身の脚元とその桁違いの強さだった。
そんな中でも、有名なレースは日本短波賞である。
このレース、遊びながら勝ったといわれているレースで、他馬を明らかに子供扱いしたレースなのである。
直線他の馬と並ぶと直線だけのヨーイドン!!をしかけたのである。それで7馬身差の圧勝。
それも、その時の2着は後の菊花賞馬(それもレコード勝ちした菊花賞馬)となったプレストウコウ。
ちなみにプレストウコウは、この時すでにNHK杯に勝っており、菊花賞前にはセントライト記念、京都新聞杯と勝ちその上で菊花賞レコード勝ちの3連勝をした馬。
これって有りえないレース・・・としか言えません。
こんな馬、長く競馬をやってきましたけどマルゼンスキーの他に見たことありません。
とりあえず。そのレースをちょっとご覧下さい。
1977年 マルゼンスキー - 日本短波賞
実はこの日は不良馬場。
中野渡騎手はその日のレース前、3角のハロン棒で止まって馬場状態の確認をしたらしいのですが、頭のいいマルゼンスキーはそこまで走ればいい、つまりそこがゴールだと勘違いして止まったと言うのが本当の話らしい。それは映像でも分かります。中野渡騎手、4角で必死で追ってます(笑)。
一度エンジンを止めた馬が、あわてて7馬身ちぎってしまう・・・
やっぱり、有りえない馬ですな。
※筆者が思うには、勝ちすぎてまたレースが成立しないようなことがあると困るので、4角で止まって待ったのではないかと思っている…。
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と言うより、マルゼンスキーが出走すると言うだけで、他の馬が回避してしまうのだから、敵どころか一緒に走る仲間もいなかった感じである。
実際、4歳初戦となった中京芝1,600mオープン特別戦でも持ったままの楽勝。
マルゼンスキーの脚の骨に罅が入ってしまい、しばし休養。
そして復帰初戦の東京の芝1,600mのオープン特別では、マルゼンスキーのあまりの次元の違う強さを恐れた陣営が次々と回避を表明し、レースが不成立となりかけた。本郷師が「タイムオーバーには絶対しないから出走してくれ」と頼み込みレースは無事成立。事無きを得た。レースはと言うと、マルゼンスキーが目一杯抑えられながら7馬身差の大楽勝。彼の敵は自分自身の脚元とその桁違いの強さだった。
そんな中でも、有名なレースは日本短波賞である。
このレース、遊びながら勝ったといわれているレースで、他馬を明らかに子供扱いしたレースなのである。
直線他の馬と並ぶと直線だけのヨーイドン!!をしかけたのである。それで7馬身差の圧勝。
それも、その時の2着は後の菊花賞馬(それもレコード勝ちした菊花賞馬)となったプレストウコウ。
ちなみにプレストウコウは、この時すでにNHK杯に勝っており、菊花賞前にはセントライト記念、京都新聞杯と勝ちその上で菊花賞レコード勝ちの3連勝をした馬。
これって有りえないレース・・・としか言えません。
こんな馬、長く競馬をやってきましたけどマルゼンスキーの他に見たことありません。
とりあえず。そのレースをちょっとご覧下さい。
1977年 マルゼンスキー - 日本短波賞
実はこの日は不良馬場。
中野渡騎手はその日のレース前、3角のハロン棒で止まって馬場状態の確認をしたらしいのですが、頭のいいマルゼンスキーはそこまで走ればいい、つまりそこがゴールだと勘違いして止まったと言うのが本当の話らしい。それは映像でも分かります。中野渡騎手、4角で必死で追ってます(笑)。
一度エンジンを止めた馬が、あわてて7馬身ちぎってしまう・・・
やっぱり、有りえない馬ですな。
※筆者が思うには、勝ちすぎてまたレースが成立しないようなことがあると困るので、4角で止まって待ったのではないかと思っている…。
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朝日杯3歳ステークスは陣営の強い思いが乗ったレースであった。
前走でマルゼンスキーに悪いことをしたと持っている陣営、そうして、苦い思いをさせられそうになった相手ヒシスピードとの再戦。
とにかく、マルゼンスキー陣営にとっては負けられない一戦だったのである。
この一戦だけは、脚の故障を危惧しつつも、出来うる範囲で本気で仕上げたのである。
とはいえ、それでも9分程度の仕上げであったと言われているが・・・
これがその朝日杯3歳ステークス
Maruzensky-Asahihai
2着ヒシスピードにおよそ13馬身差の大差勝ち。
前走でマルゼンスキーを敗れるかもしれない・・・と夢を見たヒシスピードの鞍上、小島太騎手はマルゼンスキーを次のように言った。
「バケモノだ・・・」
ちなみに持ったままで1'34"4という驚異的な日本レコード。3歳(現2歳)馬としては、以降14年も破られることのないレコードを樹立したのである。ちなみに一部の専門家は、ここで
「本気で追っていたらあと2秒はタイムが縮まっていたであろう」
と言っている。
近代競馬において、それも主要な距離のレコードが14年も破られないと言うのは異常としか言いようがない。それも、負け惜しみと違い、レコードで勝ったにも関わらず、専門化に「本気で追っていたら・・・」と言わせる馬など他に見たことも聞いた事もない。
(でも本気で追っていたら、サイレンススズカのようになっていただろうなぁ・・・と筆者は思う。テキもヤネもその辺をしっかり分かっていて、今こうしてマルゼンスキーについて語れることは本当に良かった・・・。)
更に言うと、マルゼンスキーが凄いのは逃馬であり、自分でペースを作って自分でレコードを出しているところなのである。ペースも他の馬も展開も何もかも関係なく、ただ誰もついてくることができないだけ・・・それで勝ってしまう・・・というのが凄いのである。
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前走でマルゼンスキーに悪いことをしたと持っている陣営、そうして、苦い思いをさせられそうになった相手ヒシスピードとの再戦。
とにかく、マルゼンスキー陣営にとっては負けられない一戦だったのである。
この一戦だけは、脚の故障を危惧しつつも、出来うる範囲で本気で仕上げたのである。
とはいえ、それでも9分程度の仕上げであったと言われているが・・・
これがその朝日杯3歳ステークス
Maruzensky-Asahihai
2着ヒシスピードにおよそ13馬身差の大差勝ち。
前走でマルゼンスキーを敗れるかもしれない・・・と夢を見たヒシスピードの鞍上、小島太騎手はマルゼンスキーを次のように言った。
「バケモノだ・・・」
ちなみに持ったままで1'34"4という驚異的な日本レコード。3歳(現2歳)馬としては、以降14年も破られることのないレコードを樹立したのである。ちなみに一部の専門家は、ここで
「本気で追っていたらあと2秒はタイムが縮まっていたであろう」
と言っている。
近代競馬において、それも主要な距離のレコードが14年も破られないと言うのは異常としか言いようがない。それも、負け惜しみと違い、レコードで勝ったにも関わらず、専門化に「本気で追っていたら・・・」と言わせる馬など他に見たことも聞いた事もない。
(でも本気で追っていたら、サイレンススズカのようになっていただろうなぁ・・・と筆者は思う。テキもヤネもその辺をしっかり分かっていて、今こうしてマルゼンスキーについて語れることは本当に良かった・・・。)
更に言うと、マルゼンスキーが凄いのは逃馬であり、自分でペースを作って自分でレコードを出しているところなのである。ペースも他の馬も展開も何もかも関係なく、ただ誰もついてくることができないだけ・・・それで勝ってしまう・・・というのが凄いのである。
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マルゼンスキー5 ~快進撃~
前肢が外向していたため、一度も本気で仕上げることの出来なかったマルゼンスキー。
よって、デビュー戦は6分程度の仕上がりであった。
とはいえ、全くオリオンダーダ以下2着馬を寄せ付けず、およそ2秒もの差をつける大差勝ち。ここには良血馬のタイプアイバーなどもいたが、異次元の走りで、有りえないほどの強さを見せるのである。
続くいちょう特別も完璧とは程遠い仕上がりで9馬身差圧勝。
しかし、3戦目の府中3歳ステークスは将来を考え、抑える競馬をした。それがためか、ヒシスピードをなんとか差しての3連勝であった。この時の着差はハナ差というマルゼンスキーにとっては、レース人生で唯一の厳しい戦いであった。
レース後、本郷重彦調教師は、
「相手を舐めすぎていた。馬に悪いことをした・・・」
と、仕上げ面や戦略について大変後悔していたという。
そうして、次にめぐってくるのが、スーパーカーの名を確固たるものとした朝日杯3歳ステークスである。
【競馬】1976 府中3歳ステークス マルゼンスキー
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前肢が外向していたため、一度も本気で仕上げることの出来なかったマルゼンスキー。
よって、デビュー戦は6分程度の仕上がりであった。
とはいえ、全くオリオンダーダ以下2着馬を寄せ付けず、およそ2秒もの差をつける大差勝ち。ここには良血馬のタイプアイバーなどもいたが、異次元の走りで、有りえないほどの強さを見せるのである。
続くいちょう特別も完璧とは程遠い仕上がりで9馬身差圧勝。
しかし、3戦目の府中3歳ステークスは将来を考え、抑える競馬をした。それがためか、ヒシスピードをなんとか差しての3連勝であった。この時の着差はハナ差というマルゼンスキーにとっては、レース人生で唯一の厳しい戦いであった。
レース後、本郷重彦調教師は、
「相手を舐めすぎていた。馬に悪いことをした・・・」
と、仕上げ面や戦略について大変後悔していたという。
そうして、次にめぐってくるのが、スーパーカーの名を確固たるものとした朝日杯3歳ステークスである。
【競馬】1976 府中3歳ステークス マルゼンスキー
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主戦騎手の中野渡騎手が、マルゼンスキーのことをこう表現した。
「外車の乗り心地」
世の中では、ランボルギーニやフェラーリ、ポルシェなどのスーパーカーが流行していた時代。この中野渡騎手の上記の言葉と共に、マルゼンスキーはその速さから、スーパーカーとの愛称で呼ばれるようになっていった。
とにかく速い!速すぎる!!
"スーパーカー"
これがマルゼンスキーなのである。
このマルゼンスキー、実はデビュー前買い手がつかず、橋本善吉氏自らが馬主となると言う後の活躍を知れば有りえない話もあるのである。
ちなみにマルゼンスキーに買い手が付かなかった理由は、前肢が外向していたためであった。
しかし、この外向していた前肢がさらにマルゼンスキーの凄さを物語らせることとなるのである。
なぜなら、ただの一度もマルゼンスキーは100%の仕上げをせずにレースに臨んでいたからである。それにも関わらず、凄まじい結果を残した奇跡のような名馬なのである。
そんなマルゼンスキーは昭和51年10月9日にデビュー、そこからはレース結果のとおりである。
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「外車の乗り心地」
世の中では、ランボルギーニやフェラーリ、ポルシェなどのスーパーカーが流行していた時代。この中野渡騎手の上記の言葉と共に、マルゼンスキーはその速さから、スーパーカーとの愛称で呼ばれるようになっていった。
とにかく速い!速すぎる!!
"スーパーカー"
これがマルゼンスキーなのである。
このマルゼンスキー、実はデビュー前買い手がつかず、橋本善吉氏自らが馬主となると言う後の活躍を知れば有りえない話もあるのである。
ちなみにマルゼンスキーに買い手が付かなかった理由は、前肢が外向していたためであった。
しかし、この外向していた前肢がさらにマルゼンスキーの凄さを物語らせることとなるのである。
なぜなら、ただの一度もマルゼンスキーは100%の仕上げをせずにレースに臨んでいたからである。それにも関わらず、凄まじい結果を残した奇跡のような名馬なのである。
そんなマルゼンスキーは昭和51年10月9日にデビュー、そこからはレース結果のとおりである。
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マルゼンスキーの逸話として有名なのが、主戦騎手だった中野渡騎手が「賞金なんか貰わなくていい。28頭立ての大外枠でもいい。邪魔なんかしない。頼むから出してくれ。そうすれば、どれが日本一かわかる」と語ったことである。
今の競馬ファンには分からないかもしれないが、マルゼンスキーは当時持ち込み馬として、外国産馬(今ではかなり走れるレースも増えているが・・・)と同様の扱いをされていたのである。持込馬とは、お腹に子供のいる母馬が海外から輸入され、その母馬から生まれた子供のことである。
実際、古くはマンノウォーから始まり、ダービー馬ヒカルメイジや天皇賞馬タイテエムなど、マルゼンスキーの産まれる以前の持込馬は内国産馬として走っていた。しかし活馬(生きている馬)の輸入が自由化となった昭和46年、内国産馬保護政策により、輸入自由化以降の持込馬については外国産馬と同様の出走制限を受けることとなってしまうのである。
この政策は昭和59年にはなくなり、それ以降は内国産馬として走ることができるようになった。例えば、ダービー馬のフサイチコンコルドやキングカメハメハ、天皇賞馬のサクラローレルなどがその代表格と言えるのでは無いだろうか。
そんなこんなで、持込馬はダービーなど、日本の主要なレースには出られないと言う悲惨な目にあってしまうのである。
そこで出てきたのが、冒頭に紹介した
「賞金なんか貰わなくていい。28頭立ての大外枠でもいい。邪魔なんかしない。頼むから出してくれ。そうすれば、どれが日本一かわかる」
だったのである。
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今の競馬ファンには分からないかもしれないが、マルゼンスキーは当時持ち込み馬として、外国産馬(今ではかなり走れるレースも増えているが・・・)と同様の扱いをされていたのである。持込馬とは、お腹に子供のいる母馬が海外から輸入され、その母馬から生まれた子供のことである。
実際、古くはマンノウォーから始まり、ダービー馬ヒカルメイジや天皇賞馬タイテエムなど、マルゼンスキーの産まれる以前の持込馬は内国産馬として走っていた。しかし活馬(生きている馬)の輸入が自由化となった昭和46年、内国産馬保護政策により、輸入自由化以降の持込馬については外国産馬と同様の出走制限を受けることとなってしまうのである。
この政策は昭和59年にはなくなり、それ以降は内国産馬として走ることができるようになった。例えば、ダービー馬のフサイチコンコルドやキングカメハメハ、天皇賞馬のサクラローレルなどがその代表格と言えるのでは無いだろうか。
そんなこんなで、持込馬はダービーなど、日本の主要なレースには出られないと言う悲惨な目にあってしまうのである。
そこで出てきたのが、冒頭に紹介した
「賞金なんか貰わなくていい。28頭立ての大外枠でもいい。邪魔なんかしない。頼むから出してくれ。そうすれば、どれが日本一かわかる」
だったのである。
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「おしりの大きなメスはいい子を産む」
マルゼンスキーの生産者は、早来のマルゼン橋本牧場の橋本善吉で、馬主でもある。スピードスケート及び自転車競技の元オリンピック代表選手の橋本聖子はその娘である。
橋本善吉は『牛のハシモト』として海外でもその名が広く知られた牛の仲買商であった。この橋本が、故(ゆえ)あって、アメリカのキーンランドの競り市に行くこととなる。そこで見つけた馬がニジンスキーの子を身ごもっているシルであった。
バックパサー産駒の牝馬シルは不出走ながら、その母は米牝馬二冠を制し、繁殖牝馬としても愛米のビッグレースを勝ったコーカサスを出すなど大成功した名牝キル。もちろん、父親のニジンスキーは誰もが知っている世界最高の名馬である。
ただし、橋本自信は、このこのシルが実際にどのような良血馬かなどはセリが終わるまで一切知らなかったと言う。
橋本は、ただ今まで牛で培ってきたその目で、このシルの腰回りを気に入って競り落としたというのである。「おしりの大きなメスはいい子を産む」これは、牛の世界で言われている格言のようなものであるらしい。
とはいえ、このシルをセリ落としたのは、恐らく血統や知識云々ではなく、橋本氏自信の動物を見る先見眼そのものがもたらしたものなのであろう。
やがて、子を身ごもったシルが日本にやってきた。そうして生まれたのがマルゼンスキーなのである。
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マルゼンスキーの生産者は、早来のマルゼン橋本牧場の橋本善吉で、馬主でもある。スピードスケート及び自転車競技の元オリンピック代表選手の橋本聖子はその娘である。
橋本善吉は『牛のハシモト』として海外でもその名が広く知られた牛の仲買商であった。この橋本が、故(ゆえ)あって、アメリカのキーンランドの競り市に行くこととなる。そこで見つけた馬がニジンスキーの子を身ごもっているシルであった。
バックパサー産駒の牝馬シルは不出走ながら、その母は米牝馬二冠を制し、繁殖牝馬としても愛米のビッグレースを勝ったコーカサスを出すなど大成功した名牝キル。もちろん、父親のニジンスキーは誰もが知っている世界最高の名馬である。
ただし、橋本自信は、このこのシルが実際にどのような良血馬かなどはセリが終わるまで一切知らなかったと言う。
橋本は、ただ今まで牛で培ってきたその目で、このシルの腰回りを気に入って競り落としたというのである。「おしりの大きなメスはいい子を産む」これは、牛の世界で言われている格言のようなものであるらしい。
とはいえ、このシルをセリ落としたのは、恐らく血統や知識云々ではなく、橋本氏自信の動物を見る先見眼そのものがもたらしたものなのであろう。
やがて、子を身ごもったシルが日本にやってきた。そうして生まれたのがマルゼンスキーなのである。
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8戦8勝無敗
2着につけた着差は合計61馬身。
現役時代の愛称はスーパーカー。
引退後は、ダービー馬や菊花賞馬など、G1馬を多数輩出。
そんな化け物がマルゼンスキー。
これからそのマルゼンスキーについて語っていきたい。
次へ
2着につけた着差は合計61馬身。
現役時代の愛称はスーパーカー。
引退後は、ダービー馬や菊花賞馬など、G1馬を多数輩出。
そんな化け物がマルゼンスキー。
これからそのマルゼンスキーについて語っていきたい。
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