豊川海軍工廠平和公園と豊川海軍工廠展
忘れてはならないあの悲惨な戦争
と、言っても戦後生まれなので歴史は、こういった展示などで知るしかないのです
隣町の豊川市に、海軍工廠平和公園とこの時期例年展示されている桜ヶ丘ミュージアム
に展示されてるイベントに先日、訪れてきました
豊川海軍工廠展
ご存知の通り、日本が国策で戦争を始めてしまったのが例の真珠湾攻撃、もともとは満州
や東南アジアへの資源確保のための侵攻が始まりだがあまりにもその頃の日本は身勝手すぎる
軍需品の生産のため豊川市に東洋一といわれる軍需工場を作ってしまった
当然、連合軍にとって叩く施設になるのは当たり前で、その頃の噂で、
「アメリカ軍はこの工廠を知らないのではないのか?」
なんて、”のほほ~ん”とした考えがかなりあったとか・・・
工廠内では、四方に迎撃用の機銃が鎮座されたいたようで、いざとなれば工廠内にいる兵隊さんが
守ってくれるだろう、なんていう思いもあったとか・・・
数千メートル上空のB29に迎撃の機銃なんて届くわけがありません
ただの置物です
米軍はこの軍需工場を綿密に調査して空爆攻撃を相当前から計画していたと言うことは当然のことです
一番の衝撃はこれ
たった15~16才で学徒動員されその任務に着いたこの子の制服
見るからに”子供サイズ”
5号?いや3号かも知れない
説明文を読むと涙が溢れ出てきた・・・・
蒲郡の実家に帰るために当直勤務を代わってもらったのが仇となりこの空襲に遭遇してしまう
存命ならば80~90代のおばあさんであろうかと思うが、なぜこんな年齢で召集され
半強制的に軍事工場で働かされていた
恋愛もしたかっただろう、
友達同士の楽しいことあっただろう
この子に何の罪があったのだろう、理不尽にも尊い命を奪われた
全て封印され ”お国のため”といわば洗脳された狂気の沙汰の時代でした・・・
杖(つえ)をついた90代ぐらいのおばあさんが息子さんらしき人と見学に訪れていた
聞くと、この工廠で働いていた”生き証人”らしい
本当に頭が下がる
続いて豊川海軍工廠記念館
ここは一昨年開館したばかりの新しい施設
上記の桜ヶ丘ミュージアムから(車で10分ぐらい)少し移動となります
工廠の戦争遺品が展示されており、また定期的に語り継ぎされておるボランティアの方の展示物説明ガイドがなされております
もちろん、そのガイドさんの説明を聞きたいので即申し込み
そのボランティアされている方についていって(当日訪れていた他の方と6~7人で)ガイドを受けながらあらためてこの工廠の
悲惨な実態を知りました
このボランティアの方は70代位の方ですが、ご自分の母親が工廠に勤めていたのだが奇跡的にも8月7日は当日、 ”非番”で奇跡的に
その難を逃れたという方との事
ガイドさんについて行って
旧第1火薬庫
置いてあるものがさすがに危険物
防爆のために周囲を土手で囲んでありかつ万が一の爆破事故が起きても(簡易な屋根で)屋根を吹き飛ばして
被害を最小限に抑えるためだそうです
旧アナログ電話の配電端子盤
旧第3信管置場
旧式のフライスと旋盤が置かれておりました
粗末な防空壕
屋根など簡易で、ここに500ポンド(約240Kg)もある爆弾が落ちればほとんど意味がなかったそうです
(実際この粗末な”防空壕もどき”で爆死された方が多数です)
周辺の建物も企業が来るそうで解体されるとのこと
どうしても毎年終戦近くになるとこの豊川海軍工廠の展示になんとなく引かれて出てかけていってしまう
と、言うのも、なんかその昔、自分はここで働いていたような極めて僅かな記憶があるような・・・
前世がどんな人か知らないが稀に夢で工廠の風景や周辺での(あ、なんかここ行ったことある、見たことある)
デジャブな記憶が微かに(稀に夢にも)出てくるのです
(ちなみに私は、無宗教であり、またそう言ったオカルト的なマニアでは無いですから・・・)^^;
平和ボケしているこの時代、1年に1回ぐらいは戦争の悲惨さを知るのも戦渦に散った方の尊い命の供養に
なるのではないでしょうか・・・
*豊川海軍工廠平和公園 は常設(火曜休)です
忘れてはならないあの悲惨な戦争
と、言っても戦後生まれなので歴史は、こういった展示などで知るしかないのです
隣町の豊川市に、海軍工廠平和公園とこの時期例年展示されている桜ヶ丘ミュージアム
に展示されてるイベントに先日、訪れてきました
豊川海軍工廠展
ご存知の通り、日本が国策で戦争を始めてしまったのが例の真珠湾攻撃、もともとは満州
や東南アジアへの資源確保のための侵攻が始まりだがあまりにもその頃の日本は身勝手すぎる
軍需品の生産のため豊川市に東洋一といわれる軍需工場を作ってしまった
当然、連合軍にとって叩く施設になるのは当たり前で、その頃の噂で、
「アメリカ軍はこの工廠を知らないのではないのか?」
なんて、”のほほ~ん”とした考えがかなりあったとか・・・
工廠内では、四方に迎撃用の機銃が鎮座されたいたようで、いざとなれば工廠内にいる兵隊さんが
守ってくれるだろう、なんていう思いもあったとか・・・
数千メートル上空のB29に迎撃の機銃なんて届くわけがありません
ただの置物です
米軍はこの軍需工場を綿密に調査して空爆攻撃を相当前から計画していたと言うことは当然のことです
一番の衝撃はこれ
たった15~16才で学徒動員されその任務に着いたこの子の制服
見るからに”子供サイズ”
5号?いや3号かも知れない
説明文を読むと涙が溢れ出てきた・・・・
蒲郡の実家に帰るために当直勤務を代わってもらったのが仇となりこの空襲に遭遇してしまう
存命ならば80~90代のおばあさんであろうかと思うが、なぜこんな年齢で召集され
半強制的に軍事工場で働かされていた
恋愛もしたかっただろう、
友達同士の楽しいことあっただろう
この子に何の罪があったのだろう、理不尽にも尊い命を奪われた
全て封印され ”お国のため”といわば洗脳された狂気の沙汰の時代でした・・・
杖(つえ)をついた90代ぐらいのおばあさんが息子さんらしき人と見学に訪れていた
聞くと、この工廠で働いていた”生き証人”らしい
本当に頭が下がる
続いて豊川海軍工廠記念館
ここは一昨年開館したばかりの新しい施設
上記の桜ヶ丘ミュージアムから(車で10分ぐらい)少し移動となります
工廠の戦争遺品が展示されており、また定期的に語り継ぎされておるボランティアの方の展示物説明ガイドがなされております
もちろん、そのガイドさんの説明を聞きたいので即申し込み
そのボランティアされている方についていって(当日訪れていた他の方と6~7人で)ガイドを受けながらあらためてこの工廠の
悲惨な実態を知りました
このボランティアの方は70代位の方ですが、ご自分の母親が工廠に勤めていたのだが奇跡的にも8月7日は当日、 ”非番”で奇跡的に
その難を逃れたという方との事
ガイドさんについて行って
旧第1火薬庫
置いてあるものがさすがに危険物
防爆のために周囲を土手で囲んでありかつ万が一の爆破事故が起きても(簡易な屋根で)屋根を吹き飛ばして
被害を最小限に抑えるためだそうです
旧アナログ電話の配電端子盤
旧第3信管置場
旧式のフライスと旋盤が置かれておりました
粗末な防空壕
屋根など簡易で、ここに500ポンド(約240Kg)もある爆弾が落ちればほとんど意味がなかったそうです
(実際この粗末な”防空壕もどき”で爆死された方が多数です)
周辺の建物も企業が来るそうで解体されるとのこと
どうしても毎年終戦近くになるとこの豊川海軍工廠の展示になんとなく引かれて出てかけていってしまう
と、言うのも、なんかその昔、自分はここで働いていたような極めて僅かな記憶があるような・・・
前世がどんな人か知らないが稀に夢で工廠の風景や周辺での(あ、なんかここ行ったことある、見たことある)
デジャブな記憶が微かに(稀に夢にも)出てくるのです
(ちなみに私は、無宗教であり、またそう言ったオカルト的なマニアでは無いですから・・・)^^;
平和ボケしているこの時代、1年に1回ぐらいは戦争の悲惨さを知るのも戦渦に散った方の尊い命の供養に
なるのではないでしょうか・・・
*豊川海軍工廠平和公園 は常設(火曜休)です