「江戸川区史」と「椿物語」より書き抜いたものをメモとしてアップします。
「この地を開発した田島図書は、もと大阪の陣の豊臣家の残党で
役後関東へ郎党数名を引きつれて移り、本区東小松川村の大杉の
田島家に寄寓した。もと堀田氏を称していたのだが田島を称して
一之江新田の開発にあたったといわれている。初代田島図書は
当時草原の可耕地として残っていたこの地の開拓に成功し
この地の中心的存在として、代々名主をつとめ、その住居は
「名主屋敷」として江戸中期の遺構をそのまま残し、現在
都の史跡に指定されている。
田島図書は寛永20年(1643)に歿しているので、この地の
開拓は大阪城の落城が元和元年(1615)であるので、おそらく
元和3、4年からはじめられたもので、宇田川氏、篠原氏(安西氏)
にややおくれた時期であったと思われる。
図書は寛永5年に自らが開基となって、自家の地族の地に
「城立寺」を建立した。
正保年間の『武蔵田園簿』の市野江新田の石高は257石余
であるが、文政元年には284石5斗余であり、田島家を
中心として小規模な切添新田の開発が行われた地域で
あることがわかる。
ただ、区内では、この一之江新田だけが、慶安、元禄の検地後
も村名を称しないで新田名で幕末まで通してきたという特異な
面をもっている。」
※江戸川区史一巻177ページより引用
江戸時代 武蔵国 東葛西領下ノ割 一之江新田村 字椿
明治二年 小菅県 第十一大区、五小 同
四年 東京府 南葛飾郡 一之江新田村 字椿
大正二年 同 同 (瑞穂、一之江両村合併)瑞江村 一之江新田字椿
昭和七年 東京市 江戸川区(昭和七、十、一)椿町
十三年 同 同 春江町一、二丁目、西瑞江一、二丁目
十八年 東京都江戸川区 同
現 同 同 春江町一、二、三丁目、西瑞江一、二丁目
瑞江一、二、三丁目
※「椿物語」椿開拓者顕彰の会より引用
・・・昭和七年のカッコ内の数値の示すところがわからなかったのですが
そのまま書き写しました。
※1/25追記:昭和七年のカッコ内(昭和七、十、一)についてですが・・
1932年(昭和7年)10月1日、近隣の5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して新たに20区を置き東京35区となった。(ウィキペディア「東京市」より引用)
とあり、年月日みたいですね。
江戸川区教育委員会編の『地名のはなし』に
「江戸川二丁目の浄興寺にある順定和尚の墓石(文政十年、1927)に
『椿村』という文字がある」とありましたので、浄光寺にも行ってみようと
思っています。
きょうは、先日ブログで書いた
東京府南葛飾郡全図(明治38年 東京府南葛飾郡役所)の
行徳道とある道を歩いてきました。実は二度目です。
古地図にある行徳道を歩き、現在の様子をさくっとアップする予定でしたが、
古地図をみていて一之江の地名の由来で一之江境川にあったといわれる
入り江はどこなんだろうなど、気になることいろいろ出てきて、
一之江新田(椿)までたどりつきません。(^-^;
・・ということで、一之江境川越しに対面する西一之江、東一之江にも
範囲を広げて調べをすすめることにします。
※第一軍管地方二万分一迅速図原図復刻版 明治13年
もしかして・・と思う箇所(地図の下のほう)があり、ドキドキしました!
地名の由来の入り江は、いつまであったのでしょう。
想像するのはたのしいですね。
・・なんか調べる手立てないかなぁ。。
※明治から現在までのうつりかわりがわかる地図
http://goo.gl/maps/CRZaS(今昔マップ2にて作成)
Wikipediaの「東京市」の項に「1932年(昭和7年)10月1日、近隣の5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して新たに20区を置き東京35区となった。」とありますから、合併の日付じゃないですかね。