「自分を愛する。」渋谷精舎館長講話2008年12月27日

2009年04月25日 04時41分38秒 | 宗教

2008年12月27日
渋谷精舎館長講話


『自分を愛する』

前回は、リニューアル開示したイエス・キリスト特別霊指導『心の傷を癒す研修』をテーマにお話させて頂きました。その続きとして、今日は、「自分を愛する」というテーマでお話しをさせていただきます。

先般、『勇気の法』が発刊されました。
勇気の法というのは、ただ一直線に勝利に向かって進んでいけばいいというような単純なものではないことがわかります。
「勇気の法」では、失敗をしないといことは、決してほめられることではないと書かれております。
逆に、失敗を一度もしないことは人生最大の失敗だとまで書かれております。

つまり、失敗をおそれるのではなく、チャレンジしないことを恐れよというのが勇気の法であるわけです。

それはなぜか、一つは、成功し続けると脇が甘くなって、破滅的な失敗に陥ると言うことです。

歴史を見ると、これを自でいった方がいます。項羽と劉邦の項羽です。転生して織田信長になったかたですね。
百戦百勝の項羽が、最後の一戦で劉邦に負けて、滅亡していったわけです。
それはやはり、勝ちすぎたことによる慢心です。強かったわけですから、人材はいくらでも集まってきたわけですが、それを使えなかった。人の意見に全く耳をかさず、人心を掌握できなかったわけです。
最初、韓信は項羽側にいたのですから、この韓信だけでも使うことができていれば滅亡することはなかったはずです。

もう一つの観点としては、絶対に失敗してはいけない、ということを信条としたときに、人間は強迫神経症のごとく、恐怖心や不安にとらわれて、逆に弱くなってしまうわけです。
これは、チャレンジや勝負から逃げるようになったり、一度失敗しただけで人生の終わりと考えるような弱い人間を作ってしまいます。不思議なもので、成功や勝利というのは、一つの美徳ではありますが、これを徹底させて、失敗や挫折を完全に避けようとしたときに、実は、それが逆に大きな失敗につながっていくのです。極端なものは、人を幸福にするものではないということです。

これは仏教的に言えば、「中道」の考え方にもつながるわけです。つまり、自分を愛せない人は、どこかで完全勝利こそ人生の理想だと思っているわけです。

これは八正道で言えば「正見」ができていないということになります。
つまり、オールオアナッシングで物事を見ているということです。

ちょっとでも汚れがあると許せない、どんなに成功していても、一回の失敗が許せない、こういう見方を極端にしていけば、強迫神経症になってしまいますが、自分を愛せない人というのは、多かれ少なかれ、こういう見方をしているはずです。
こういう人は、おそらく他人に対しても同じように見ているはずです。ですからなかなか他人も愛せない。

では、なぜそんなに完全を求めるのかということですが、それは、結局、心の傷が大きくなりすぎているということです。
少しでも失敗すると心の傷が痛むのです。ですから、完全勝利を目指します。
自分を愛せない人というのは、結局、完全主義者なんですね。

しかし、完全主義者というのは、絶対に敗れます。
人生で一度も失敗しない人というのはいませんし、欠点のない人もおりませんから。

心の傷とは、結局、劣等感です。他人と比較して劣っている自分というのを強くつかみすぎてしまったということです。

プライドが高すぎる人、成功体験が少ない人、過去ほめられた経験、愛された経験が少ない人、こういった人は劣等感を持ちやすい人と言えます。

要するに自分を愛せない人というのは、愛されていない、評価されていないという思いが強い人です。

では、ここから脱出するためには、どうすればいいのか。
これを、根本的に解決するためには、他人との比較で自分を評価するのをやめるということ。本当の自分というものを発見するということが必要になります。
自分を本当に愛するためには、結局、自分の中に愛すべき自分を発見することです。そのためには、まず、完全主義的な見方をやめることです。この視点を持っている限り、みすぼらしい自分しか見えてこないからです。

渋谷精舎の祈願の中に、『神経を伸ばすための祈り』というのがあります。これは、完全主義をやめるための祈りです。実は、自分を愛せない人、心の傷が癒えない人がされるといい祈願です。少し抜粋して読んでみます。

「完全な人間などいない 人は欠点を持つ生き物だ……
一度も失敗しない人間が偉いのではなく 転んでも転んでも よく起き上がる人が偉いのだ
挫けずに 笑顔で立ち上がる人が偉いのだ……

心をおおらかに持ち 八割主義でゆきなさい
ありのままに生きよう
欠点も自分の個性だと 愛して生きよう…

もう自分をいじめるのは やめなさい 主は あなたとともにある……」

欠点を消そうとするのではなく、そのまま受け入れて長所を伸ばしなさい、八割主義でいきなさいというのが勇気の法とつながっていきます。

完全主義の人は、自分の長所を見る習慣がなくなっていますから、前回の熊本南支部のご法話にもあったように、自分に与えられているもののリストを書いてみること、あるいは自分をほめるべき点、(賞賛ノート)をつけてみることです。
自分の短所を長所よりも重要視するといことが習慣づいてしまっているはずですから、とことんまで長所を発見して実感してみてください。

また、自分の個性を愛するという視点も必要です。短所は長所の裏返しですので、短所と長所を見る中に、自分の個性というのが見えてくるはずです。

『勇気の法』には生命の大樹ということが書かれております。生命の大樹の葉っぱが我々であるわけですが、仏は自分という個性を通して、何かを表現しようとしているわけです。
そして、表現するだけではなくて、我々が個性を輝かせる課程で得られる教訓、他の葉っぱでは得られない教訓というものを、養分として、生命の大樹全体で共有しているわけです。

このように生命の大樹という視点で考えたときに、それが枯れていたり、しぼんでいたら美しくありません。生命の大樹のために、のびのびといきいきと個性を輝かすこと、これが本当の意味で自分を愛することになります。

そして大切なのは、仏と同じ性質を自分も持っているということを実感することです。

ですから、信仰や反省、与える愛ということが大切になってくるわけです。

前回も申し上げた通り、反省というのは、自分をいじめることではなくて、自分の輝きを見つけることです。
『反省の手引きに』はこのように書かれております。

「反省とは、あくまでも本来あるべき神の子としての光が輝いている自分に照らして、矛盾している悪しき自分を一つ一つ否定し去り、捨て去り、二度とそうした思いを持ったり、行いをしたりしないように心がけること。」

ですから、反省の前提に信仰があるというのはこういうことなのです。
まず、仏の子としての自分を信じること、そして、それに反する自分を捨て去ること。これが反省です。

そして、愛なき者は神を知らず。という言葉がありますが、愛の実践する中に、神を見ることができる。自分の中に、神の性質があると知ることができるのです。
特に、自分を愛せない人は、奪う愛の固まりになっていますから、与える方向に思いを変えることがとても重要です。

結局、自分を愛する方法というのは、自分の中に仏神を発見する方法ですから、感謝や瞑想、祈りなど、仏神の世界とつながっている自分を発見すること、光を実感することはすべて自分を愛することにつながります。

今回、『心の傷を癒す研修』も、そこを重視して、反省、瞑想という手法を多く取り入れて、天上界との交流をテーマとしました。
イエス様というのは、愛の光そのものですから、愛されているということを実際に感じ取ることができるのではないかと思います。

自分を愛するということは、仏とつながっているという本物の自信を得るということでもあります。
そしてそれが心の傷を癒すということであり、それは、結局、勇気ある行動につながっていきます。

勇気というのは、先ほどの、『神経を伸ばすための祈り』にもあったように、
転んでも転んでも よく起き上がることなのです。
失敗をしても、視点を変えて、心の抵抗力、免疫力をつけて再度チャレンジすること。それが勇気ある人間の姿です。

また、2月からは、ヘルメス様の神示による、『成功への夢』研修も始まります。
これは、前編、後編に分かれておりますが、研修の最後には、「仏に夢を書いて奉納せよ」という仏言がある研修です。これもまた、珍しい研修で、仏に奉納するという研修の方法まで指定されている研修です。
仏直々におっしゃられてますので、祈願に近い形の研修と考えてよいと思います。それだけの霊力のある研修だと思います。どうぞ開示をお楽しみにお待ち下さい。
本日はありがとうございました。以上


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