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万葉集恋歌

「万葉集」の中の恋の歌に特化して紹介。大友皇子や高市皇子、十市皇女。「万葉集」の歌人大伴家持や笠女郎などの考察も。

藤原鎌足の娘の氷上娘と五百重娘は同母姉妹なのか?

2020-01-21 12:10:18 | 「万葉集」の人々
これも私が以前から気になっていたことなのですが。
二人とも天武天皇の夫人になっている、藤原鎌足の娘の氷上娘と五百重娘は同母姉妹なのか?ということです。
私としては、何となく、この二人は同母姉妹だったのではないのか?という気がするのですが。
あえて私がそう感じる根拠を挙げるとすれば、もしも先に入内させた姉の方が子供を生まなかった場合に念のために妹の方も入内させる場合、同母姉妹の方が都合が良い所があるのではないのかというか。
しかし、この点については具体的に検証できそうな文献や記録などもなく。
ところが竹嶋麻衣氏の彼女達は同母姉妹だとする以下の論文を見つけ。
「雪をめぐる相聞 天武天皇と藤原夫人の贈答歌の位置付け」
http://rp-kumakendai.pu kumamoto.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1652/1/105_takeshima_77_101.pdf」


ただ、竹嶋麻衣氏がそのように判断した具体的な根拠までは示されてはおらず。
しかし、そう彼女が判断するからにはそれなりの根拠があってのことだとも思いますし。
それからもしも氷上娘と五百重娘が同母姉妹だったとしたら、幼くして母の氷上娘を失った但馬皇女は叔母である五百重娘の許に引き取られて育てられたことも考えられますね。
そして不比等の三人の息子武智麻呂、房前、宇合の母は石川娼子です。
つまり、穂積皇子と不比等の三人の息子達は母方が同じ蘇我氏ということになります。
そして「藤氏家伝」の武智麻呂伝によると既に武智麻呂は幼い頃から穂積皇子にその優れた才能を認められたといいます。
ただ、後に高い地位に就いた人物を持ち上げる意図により、こうした既に子供の頃から周囲に只者ではないと言われていた逸話が書かれるのもよくあることなので。
だからこの話もそのまま事実としていいかは疑問が残ります。
ただ、このように母方が同じ蘇我氏であることから穂積皇子と不比等の三人の息子達には親しい関係が生じやすい背景があったことは事実でしょう。

高市皇子の十市皇女の挽歌についての私の最終結論

2020-01-17 21:29:23 | 「万葉集」の人々
その歌の意味の解釈が困難だともされている、高市皇子の十市皇女への三首の挽歌についての、私の最終結論ですが。
そしてこの高市皇子の挽歌についての、多くの万葉学者達などの一般的な解釈としては以下のようですが。
この挽歌は高市皇子の十市皇女への個人的な恋愛感情及び哀悼を表わしたものであり、彼らの夫婦関係か恋人関係を示しているもの。
しかし、私もこれまで数回に渡り、実際の高市皇子と十市皇女の関係及び本当の高市
皇子の挽歌の目的と意味について考察を試みました。
そしてこれらについての自分の考察を深めていけばいく程、こうした従来の見方に根本的に横たわると思われる矛盾や疑問点が増していくばかりというか。
ここで私の中の高市皇子の挽歌についての最終結論をまとめたいと思います。


一 高市皇子の挽歌に見られる、みもろの神の神杉、三輪山の山辺真麻木綿短木綿という特徴的な表現はいずれも十市皇女の神聖さを表わしているのではないのか?というようにも考えられ。
だからこのように最初から結婚や恋愛の対象にはなり得ない立場の女性であったのではないのかとも想像される、十市皇女への高市皇子の許されない恋心を詠んだものと
解釈するのには根本的な矛盾や無理があるのではないのか?
ましてや彼らの夫婦説には更に無理があるとも感じられること。
それに高市皇子が十市皇女をも妃にしていたとするのなら高市皇子は三人もの皇女を妃に持ったことになり、さすがにそれは無理だろうとも思われること。



それにもしも、天武七年の四月の倉梯川付近での儀式の斎王に選ばれていた十市皇女、あるいは壬申の乱の時に大海人側と敵対していた近江朝の皇后であった女性十市皇女への禁断の恋に高市皇子が落ちていたとしたら。
もしそうだとすればいくら十市皇女の死後とはいえ、挽歌という形で高市皇子がその恋心を表わせるものなのか?という疑問。
それに高市皇子も皇族という高い身分にあるだけに自ずとその行動にも、いろいろな制約を受けやすかったとも想像されるし。  
また、そのように神を祭る斎王や巫女のような神聖な立場の女性であったと思われる、十市皇女と恋愛関係になったりすること自体がまさに禁忌とされていることに相当することもあり。


そしてもしそうしたことを彼ができるとすれば二人が周囲からも公認されていた夫婦関係にあったか。あるいはやはり、彼らは夫婦でも恋人でもなく、この高市皇子の挽歌も個人的な彼の十市皇女への気持ちを歌ったものではなかったことが考えられる。
私が見た所、やはり高市皇子の挽歌は最初から十市皇女への個人的な感情を表わした
ものではなかった可能性が高い。
それに天武天皇も必ずしも高市皇子と十市皇女の結婚に反対していたとも限らないこと。彼らが結婚することで、近江朝の生き残りの人々との融和、その取り込みには効果的であると考えていたことも考えられること。
だから実際には夫の大友皇子との死別後に高市皇子と再婚した気配もないのも、これはもう十市皇女自身の意志によるものだと考えられること。


二 そもそも、それまで普通に暮らしており、高市皇子とも恋愛や結婚が可能な立場である皇女の十市皇女が突然、天武七年の四月に倉梯川付近で天神地祇を祭るような役割の女性として、選ばれたりするものなのか?
万葉学者の塚本澄子氏も「」の中で指摘しているように、これは以前から十市皇女がそうした特別な立場の皇女であったからだと考えた方が順当ではないのか?
また、だからこそのこうした人選だとして。
ましてや既に未婚の処女ではない十市皇女が伊勢斎王に選ばれることも、最初から不可能だと思われる。
そしておそらく、壬申の乱以降のそうした神に仕える女性としての特別な役割を暗示するものとして、天武四年に十市皇女と伊勢神宮に参宮した吹芡刀自の「常処女」の歌と高市皇子の挽歌がある。



また、塚本澄子氏の「万葉挽歌の成立 笠間書院」の「付篇 歌人論 吹芡 刀自の歌-十市皇女の人間像」の中で指摘されている所の、その想像される、天武朝での十市皇女の特別な役割というのも注目される。
「十市皇女の死について、日本書紀天武七年四月条に夏四月の丁亥の朔に、斎宮に幸さむとして卜ふ。癸巳、卜に 食へり。仍りて平旦時を取りて、警蹕既に動き、百寮列を成し、乗輿蓋を命して、未だ出行すに及らざるに、十市皇女、卒然に病発り、宮中に薨ります。此に由 りて、鹵簿既に停りて、幸行すこと得ず。遂に神祇を祭りたまはず。己亥に、新宮の西庁の柱に霹靂す。庚子に、十市皇女を赤穂に葬る。天皇、臨して、恩を降して発哀したまふ。と記されている。
天皇は同年春に「天神地祇を詞らむとして」、倉梯川の河上に斎宮を建てた。その斎宮へまさに出御しようとした時、十市皇女が宮中で急死し た。よって天皇の出御は中止となり、「遂に神祇を祭りたまはず」という結果になった。」・「『僻案抄』 の十市皇女斎宮予定説もこの記事から推測したものである が、それは飛躍し過ぎとしても、北山茂夫氏がこの時父帝の命により、「十市皇女は、倉梯川の河上の斎宮に赴くことになっていた。」と解釈しているのは妥当と思う。」・「紀の文脈では、倉梯の斎宮への出御と十市皇女の死とは関連あるものと読み取るのが自然だと思われるからである。神祇を祭る際、天皇みずから出向くことは珍しい。天武五年夏の旱魃の時は「使を四方に遺し、幣帛を捧げて、諸の神祇に祈らし」めている。右の天武七年の記事では天皇みずから祭ることになっていた趣であるが、そうだとすれば、よほど重要な神事なのであろう。」・「十市皇女が天皇を補佐して神祇を祭る役目を負っていた、それ故に出御直前の十 市の急死は不吉という以上に神事そのものの執行を不可能にしたのではなかろうか。十市皇女がこの時天皇に同行することになっていたとすれば、天武朝における十市皇女は、神事の重要な役目を負わされていたことになる。」・「天武天皇は、伊勢神宮をはじめ、神祇を祭ることに非常に力をそそいだ天皇であり、斎宮制度もこの時代に確立したと言われる。
そうであれば、祭祀を司る高級巫女が必要であったはずで、その任に当たるべく十市皇女が選ばれたものであろう。
当歌の「伊勢参赴」も、正史に記録されていることから勅命によるものに違いない。その目的は不明であるが、岩波大系本日本書紀頭注に、壬申の乱の際の神宮の協力に対する報賽の意味をもつものであろう。とあるのが事実に近いと思う。
誰であれ天皇の許可なくして伊勢神宮に参拝することはできない。十市皇女の参宮は、天皇の名代としてのものに違いないが、この役目も皇女であれば誰でもいいというわけではなかった。」



十市皇女は未婚の処女ではなかったものの、その立場や環境的には異性を近づけず、清浄な生活を保つことが期待できる皇女であったからこそ、塚本澄子氏言う所の高級巫女になる資格があると判断され、彼女にはそうした役割が与えられたのだと考えられる。
つまり、これも当時の天武天皇皇女達の中では、この十市皇女だけが他の皇女のように結婚したり、また将来的な結婚の予定もない、夫の大友皇子と死別した未亡人であったからだろう。
他にも十市皇女が伊勢の祭祀に関わる十市県主家に養育されていることとも、関係があると思われる。
それに既に昔から十市皇女には夫の大友皇子の存在があり、高市皇子には婚約者の御名部皇女の存在があったはず。
このように恋愛関係にはなりにくいように思われる、お互いの立場。
更に壬申の乱では高市皇子と十市皇女の夫の大友皇子は敵対関係になっており、また大海人軍の総司令官であった高市皇子は十市皇女の夫である大友皇子の敗死をもたらした張本人としてもいい存在。
そんな関係性にある彼らが恋愛関係や夫婦関係になれるものなのだろうか?という疑問。
そして従来の高市皇子の挽歌の解釈では、これらの疑問点については十分な説明がつけられていない。
彼らがそうした関係に至るまでの過程の考察は大幅に省き、とにかく、この挽歌の印象から彼らは夫婦か恋人だったのだろうと見る、結論ありきという印象が強い。



三 本当に高市皇子の三首の挽歌は十市皇女への個人的な感情を詠んだものだったのか?
高市皇子の挽歌の題詞には個人的悲しみを表わす「悲傷」などの言葉も使われておらず、「万葉集」の編纂者もこの挽歌は高市皇子が個人的に詠んだものではなく、実際には公的な挽歌として分類していたのではないのか?
またこの挽歌に全体的に漂う印象から判断しても、実際には天武天皇長男であり、十市皇女最年長の弟でもある、高市皇子が男性親族を代表する立場として、あくまでも天武天皇長女である、十市皇女という一人の皇族の死を悼む目的として詠まれたのではないのか?個人的には高市皇子の挽歌についてはこのように解釈した方が高市皇子と十市皇女は夫婦か恋人などの特別な関係性にあったはずだという先入観抜きで、この挽歌について考えた場合。
その内容からは意外と高市皇子の十市皇女への個人的な感情は伝わってこず、客観的でまた技巧が目立つ内容であることも、大変に納得がいく。



他にも私が気になる点としては。
正式な夫婦でもない関係ながらも、恋愛関係にあっために個人的にその死を悼む挽歌が読まれた他の類似のケースとして、穂積皇子の但馬皇女への挽歌結びつけられがちである傾向。
しかし、この点については私も過去の記事でも指摘しているように。
この穂積皇子が但馬皇女を哀悼した挽歌とされるものについては仮託説も存在し、確実に穂積皇子自身の作品だとは判断できないこと。
そもそも、死者を哀悼する目的の挽歌であるはずなのに。
それなのにその穂積皇子の挽歌が但馬皇女の死から半年も経ってから詠まれているのでは本来の挽歌としての役割を果たしていないのではないのか?という、大きな疑問が残ること。
それに「万葉集」に見られる他の挽歌もみなその死者の死の直後に詠まれたと思われる挽歌ばかりであり、ここまで経過してから詠まれた挽歌の例は他に見られないように思われるし。



更に現実の皇族の死の際に公的な目的で詠まれたと思われ、その題詞もシンプルな他の多くの挽歌の間に挟まれて、この穂積皇子の但馬皇女への挽歌だけが「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」という、やけに物語的な題詞が付けられており、明らかに異色であること。
それにこうして雪の降る寒い日に穂積皇子が但馬皇女を哀悼して詠んだとものとして、その歌の内容も題詞も一致したものにして、臨場感を与えようとしている、歌物語的意図も強く感じられること。
こうした点からこの穂積皇子の挽歌も、実際の但馬皇女の死について読まれたものというよりも、歌物語の一要素としての、虚構の挽歌ではないのか?という印象を強く受けること。
(とはいえ、実際に但馬皇女が埋葬されたのも吉隠の猪養の岡であったと思われ、そこら辺は最低限、この仮託と思われる挽歌も、そうした多少の史実との一致をさせているのだろうが。)


そして但馬皇女が死去した時には穂積皇子は知大政官事という高位にあり、既に四十代くらいの年齢にも達していたはず。
そうした人物が自分の妃でもない、太政大臣高市皇子の妃であった但馬皇女の挽歌を詠めるものなのか?への晩夏を
従って、こうした穂積皇子の但馬皇女への挽歌と高市皇子の十市皇女への挽歌と同様のものとして分類することは不適当なのではないかとも考えられること。
しかし、高市皇子と十市皇女、穂積皇子と但馬皇女も異母兄弟姉妹という関係も共通しているため、これもこの二組ともいずれも異母姉弟、異母姉弟?異母兄妹?の間での悲恋という、同様のものとして考えたがる人々が多いのだと思われるが。



四 高市皇子の挽歌は十市皇女ヘの個人的な恋愛感情や哀悼の気持ちを詠んだものだという先入観・固定観念、あるいはそのように解釈したい傾向が強過ぎるのではないのか?
高市皇子の挽歌は夫が妻の死を悼む、亡妻挽歌に相当するはずだというのを前提にした解釈が目立つ。
しかし、高市皇子と十市皇女が夫婦か恋人という関係性にあったという、確実な証拠もなく。またこの高市皇子の挽歌には妹などの通常の亡妻挽歌に見られる相手の女性への呼びかけや他にも恋歌に見られる特有の表現も見られないこと。
また、他に気になる特徴としては、全体的にみもろの神の上杉、三輪山などの神や神事などに関する表現が目立ち、愛しい妻を失った悲しみを表わしているというよりも、むしろ厳粛で神聖な印象を受けること。
やはり、他の亡妻挽歌の内容とは異色である印象が強い。
他にも久松潜一氏の「講談社学術文庫 万葉秀歌一」での、神の御事を歌って重々しい詠風であり、皇女の薨去を悼むのに相応しいというような批評が妥当であるように私にも感じられる。



また、他にも以下のように彼らが夫婦か恋人の関係にあり、この挽歌もそうした関係を表わしているものとする解釈には疑問を示す万葉学者達の解釈も存在している。
それから「セミナー 万葉の歌人と作品〈第3巻〉柿本人麻呂(2)・高市黒人・長奥麻呂・諸皇子たち他 和泉書院」の中で、辻憲男氏は「高市皇子の挽歌」の論文の中で、以下のように指摘している。
「壬申以後の二人の結婚を考える向きも多い。しかし乱勃発の時、高市皇子は大津皇子らと共に密かに大津宮から脱出して、父の許に急行した。その時に皇女はいわば人質的存在になり、父や弟達の思いも及ばぬ別な過酷な戦いを生き延びて、壬申の乱後に飛鳥に戻ってきた。簡単に結婚という運びになったかどうか。
むしろ挽歌三首に底流しているのは、運命的に幸薄かった姉を悼む無念の気持ちからではないのか?そこに異性間の愛情がなかったとは言い切れないが、これらは少なくとも一般の亡妻挽歌の類とは一線を画しているように思われる。」
それから間宮厚司氏も「万葉集」一五六番歌の訓解という自身の論文の中で、「セミナー 万葉の歌人と作品〈第3巻〉柿本人麻呂(2)・高市黒人・長奥麻呂・諸皇子たち他」収録の辻憲男氏の「高市皇子の挽歌」の見解について紹介しており、この高市皇子の三首の挽歌の中では難訓歌とされている二首目についての自分の考察する読み方に基づき、この高市皇子の十市皇女への二首目の挽歌はどちらかというと彼らが姉弟でありながら壬申の乱で離れ離れにならざるを得なかった、その嘆きを高市皇子が詠んだ歌としている。



ただ、私としても、高市皇子の挽歌についての解釈は彼らに近い解釈ではあるが。
しかし、彼らが異母姉弟として個人的に親しい関係にあったからこうして高市皇子により、詠まれた挽歌であるとする解釈にも、いまひとつ、釈然としないものを感じている。
それに明らかに葬式の儀礼の場で詠まれたことが明記されていないものであるとはいえ、高市皇子の挽歌は現実にはどうした状況の下で詠まれたものであるのかは不明であり。
まただからこそ、一見、個人的に詠まれたものであるかのようにも見える、この挽歌も、実際には公的な性質のものであった可能性も考えられる。
天武朝に入り、その数年後からは自然災害が多発しており、また、儀式の当日のこの儀式に参加するはずであった、十市皇女の死ということで自然に十市皇女は神意に反した斎王、あるいは巫女と多くの人々に判断されたであろうことも想像に難くない。
また、それに加えて、この上ない、不吉な印象を与えたであろうことも。


このように高市皇子が個人的な悲しみなどを表わしていられるような、余裕のある状況ではなかったのではないのか?とも考えられること。
そしてこうしたことから自然と天武天皇長男であり、十市皇女の最年長の弟でもある高市皇子が他の人々を代表する立場として、十市皇女を鎮魂する目的の挽歌を詠むことを要請されたのではないのか?
そして皮肉なことに天武朝で十市皇女に負わされた、天武天皇のために神に祈るという役割こそが結果的に彼女の自殺をもたらすことになったとも考えられる。
夫の大友皇子を敗死させ、また息子の葛野王の将来の可能性も閉ざしたことで、自分が恨んでいる父天武天皇の治世の平安を神に祈るという、その葛藤に十市皇女は耐えれなかったのではないのか。

なぜ「万葉集」に見られる高市皇子の歌は十市皇女への挽歌だけなのか

2020-01-09 18:26:50 | 「万葉集」の人々
高市皇子の「万葉集」に収録されている歌は、十市皇女に捧げる三首の挽歌だけです。
そしてこのように彼の歌として「万葉集」の中に収録されているのが全て十市皇女への挽歌だけであることからこれは彼らが恋人同士か夫婦だったのだ、あるいは密かに高市皇子が十市皇女に想いを寄せていたからだ。
このようなことから挽歌は彼らの特別な関係やへの特別な感情を想像する向きが強いようですが。
しかし、これは「万葉集」の編纂者がこの高市皇子の三首の挽歌が彼の歌の中では最も巧みであり、更に重要であると判断したからだと考えられます。
そしてこの挽歌が高市皇子の歌の中では最も重要だというのも、必ずしも恋愛的な意味を含んだものだからという、恋愛方面に限定されるものでもないと思われますし。
既に私も今までの高市皇子と十市皇女関連の記事の中でも指摘してきたように。
天武七年四月の天武天皇が行幸してまで行なわれるはずだった、天神地祇を祭る儀式の当日に宮中で十市皇女が急死していることについては。


おそらく、わざわざ、自分自身が当日の天神地祇を祭る儀式の斎王に選ばれていながらもそれを自らの死で台無しにする程の、その彼女の強い恨みによる覚悟の自殺であり。
そしてこの高市皇子の三首の挽歌はそんな十市皇女を鎮魂するため目的のため、天武天皇長男であり、十市皇女の最年長の弟でもあり、更に壬申の乱では事実上、十市皇女の夫を死なしめた相手という因縁もあって、こうした立場である高市皇子が男性親族を代表して詠んだもの。
だから天武天皇長女の十市皇女の葬儀に際して詠まれた挽歌は一見、その高市皇子からの三首だけという印象を受けるものの、このように高市皇子からの三首だけの挽歌とはいえ実際にはとても重要な意味を持った挽歌だと言えます。



十市皇女の死を悼む挽歌は夫の大友皇子の敵方にあった高市皇子の三首しかないとする、梶川信行氏の指摘もありますが。
しかし、むしろ壬申の乱では十市皇女にとっては高市皇子が反対に夫の大友皇子の敵方であったからこそ、その戦いで夫を失った十市皇女への鎮魂の意味を込めて、彼女の夫の敵方の立場にあった高市皇子により、その挽歌が詠まれることになったのだとも考えられます。
このように高市皇子の歌では「万葉集」の編纂者に巧みだと認められたのが死者の鎮魂に関わる、儀礼性の強い挽歌のみというのは、むしろ、高市皇子は歌を詠むのがあまり得意ではない方だったのではないのでしょうか。
挽歌以外にも高市皇子の詠んだ歌は他にもいくつかあったものの、「万葉集」に掲載できる程の水準に達していると認められた歌がこの三首の挽歌だけであったということなのではないのでしょうか。
また、現実にも高市皇子の詠んだ歌として見つかったのがこの三首の挽歌しかなかったにしても、そうした可能性も考えられること自体が既に昔から高市皇子の歌としてはこれらの挽歌がいかに重要な歌として記録されたものであったことをも想像させます。


それから高市皇子と十市皇女が昔から愛し合っていたのだとする見方についての、私の根本的な疑問としては。
しかし、十市皇女には大友皇子が、そして高市皇子には御名部皇女という、それぞれ配偶者や将来の配偶者がいるではないですか。
おそらく、かなり以前から中大兄皇子と大海人皇子の間で既にそれぞれの子供達である御名部皇女と高市皇子との婚約が交わされていたのではないかとも想像されるので。だから彼らにとっての、この二人の存在を差し置いてまで、更にわざわざ、その様々なリスクや障害を乗り越えてまで、高市皇子と十市皇女が恋仲になる程の、彼ら同士の接点やそこまでの彼らの間の情熱的で具体的な恋愛感情らしきものも、どうしても私は認めることができないのですが。



総合的・論理的に考えれば考える程、高市皇子と十市皇女が恋人同士か夫婦であり、高市皇子の三首の挽歌も恋人か妻である十市皇女を失ったことへの高市皇子の悲しみを詠んだものであるとする解釈はあり得ないことであり、根本的にその内容に大きな矛盾を抱えたものであると言えます。
そもそも、十市皇女が高市皇子と恋人同士か夫婦である時点で、彼女がこうした神に仕えて必要な時にはその儀式の場で神を祭る役割を果たす皇女としては資格なし・不適当と判断されるであることが想像されますし。
おそらく、当時の天武皇女達の中では唯一、夫を失った未亡人であり、また将来的に結婚が決められた相手もいない皇女が十市皇女だからこそ、彼女も伊勢斎王の大伯皇女と似たような神に仕える役割を担う皇女になったのでしょう。
必然的な結果として。
それにそうした彼女の立場や役割については、いずれも彼女について詠まれた歌である「常処女」や「三輪の神杉」などの表現に象徴されているとも思われますし。


高市皇子が十市皇女へ捧げた挽歌は「亡妻挽歌」ではないと感じる根拠


その個人的悲しみを表す題詞がない高市皇子の挽歌・山吹が詠まれた理由


高市皇子と十市皇女の関係について再考

なぜ吹芡刀自は十市皇女の伊勢参宮の時に常処女の歌を詠んだのか?


十市皇女 大友皇子正妃から天武天皇皇女への再生を果たせなかった悲劇

高市皇子 十市皇女へのその悲痛な挽歌の謎

謎の天智天皇皇女水主皇女 わかることはその仏教への信仰心と万葉集の歌と没年くらい

2020-01-03 16:59:41 | 「万葉集」の人々
?-737 天皇皇女。母は栗隈首徳万 の娘黒媛娘。
天平六(734)年四月には大和国広瀬郡(奈良県北葛城郡)の水陸田・庄家・瓦山などを購入して弘福寺に施入しており、水主皇女の死後、その所有の経典は東大寺に収蔵され、目録が作成されて写経のため貸し出されるなど、その内親王の仏教信仰を伝えています。(『大日本古文書』)。
また、水主皇女が病気で参内できない日々が続いた時に、水主皇女のために元正太上天皇が坂上郎女の母である石川内命婦に詠ませた歌が一首「万葉集」に残されています。

「万葉集」巻二十 四四三九 松が枝の 地に着くまで 降る雪を 見ずてや妹が 隠り居るらむ


松の枝が地に着かんばかりに降り積もる雪、こんなすばらしい雪を見ないで、あなたは閉じ篭っておられるのでしょうか。

水主皇女が病気で参内されなかった。そこである冬の日、太上天皇が女官達に命じて、皇女に贈るために雪の歌を作るように命令した。
しかし、待っていた女官達のは即座に歌を詠むことができなかったが、その中で只一人、石川内命婦だけがこの歌を作って献じたということだそうです。
ただ、この「万葉集」の説明については、伊藤博氏は以下のように指摘。
この石川命婦だけが即座に歌を読むことができたというのはこの石川命婦の名誉を高めるための誇張だろう。
大伴一員の名誉ある話を、大原今城が幾分か脚色を加えながら披露したもので、それは本日の宴の主人、大伴家持を意識する面も多分にあってのことだろう。
この伊藤氏の指摘については私も同感です。



それから私が以前の記事にも書いたように伊勢斎王になり、後に六人部王と結婚する、おそらく彼女が天武最晩年の皇女だと考えられるのに対し、こちらは天智天皇最晩年の皇女となるようです。
水主皇女が天智最晩年の670年くらいの生まれだと考えれば六十八歳くらいで死去したことになりますし。
それくらいの高齢ではあったような印象ですし。
このようにその父母、そして仏教への信仰心が篤かったらしいこと、そして「万葉集」の中で辛うじてまだその生存が伝えられている印象のこの皇女。
どうもその配偶者らしき人物の記録なども見られないことから考えて、独身のままであったのではないのかとも考えられますし。


しかし、この時代の皇女で独身であった皇女と言えば伊勢斎王になった川島皇子の妹の泉皇女、そしてこれも伊勢斎王になった大伯皇女くらいですし。
そしておそらく、泉皇女が独身のままであったのは帰京後には既に四十代にはなっていたため、結婚相手も見つからなかったのだろうと考えられますし。
正妃がまだいない男性皇族を探すことが困難だったのでしょうし。
その点、後に井上内親王を正妃とすることになる、既に中年になっていたとはいえ、まだ正妃はいなかった当時の白壁王とは異なるでしょうし。
そして大伯皇女が独身のままであったのは弟の大津皇子の事件なども影響したのではないのかとも考えられますし。


それにしてもこのように元正太上天皇からもその病が続き、宮廷への参内が見られないということで、石川内命婦に歌を詠ませるなど長寿である天智天皇皇女として重んじられていたような気配が見られるというのに。
それなのになぜ独身のままだったのか。
天智天皇最晩年の皇女であったということも、水主皇女が結婚するのには不利に働いたのか?このことが原因して、適当な結婚相手も見つけることができなかったのでしょうか。
でも、これもかなり天智天皇の晩年に生まれたと思われる姉妹の新田部皇女は天武天皇の妃になっているのに。


しかし、どうやらこの水主皇女は天智天皇の一番末の皇女であった可能性が高く。
幼過ぎ、しかし、ちょうど彼女が結婚適齢期になる686年には天武天皇も死去してしまっていますからね
そして既に他の天武皇子達もそれぞれ自分の姉妹である天智天皇皇女達と結婚しており、あぶれてしまい、こうして水主皇女はついに独身のままだったということなのか?
それにしては水主皇女と年齢が近そうな天武皇子皇子達もいますしね。
穂積皇子や弓削皇子、新田部皇子やいとこの舎人皇子とか。
様々な理由でついに彼女の結婚は成立しないままだったということなのでしょうか。
他に注目されることとしては、この水主皇女は大和国広瀬郡(奈良県北葛城郡)の水陸田・庄家・瓦山などを購入して弘福寺に施入したという記録があるようにこれらの土地を購入できる程の、皇女としての莫大な財産を所有していたようではありますが。



それからこの水主皇女についてはあまりにも不明なことばかりということで、大半の歴史小説や漫画などの中でも、この水主皇女の存在については無視されていますね。しかたがないのでしょうが。
それから高齢になってからも参内しなければいけないという宮廷のルールも、大変そうですね。この水主皇女の病というのも、高齢のせいだと考えられますし。
既にこの元正天皇が724年2月4日、聖武天皇に譲位し、太上天皇となった時には水主皇女は五十一歳くらいになっていたと思われますし。
更に元正太上天皇は二十四年間その死去まで在位でしたし。
そしてこの歌が詠まれた時には既に水主皇女は七十代くらいにはなっていそうですし。彼女より十歳くらい年下ということになるかと思われる元正太上天皇もこの頃には既に六十代くらいにはなっていたのではないのかとも思われますし。

壬申の乱で人生が一変した十市皇女、後半生は神に仕える日々

2019-12-30 20:19:07 | 「万葉集」の人々
私がこれまでの記事の中で、どうしても母親で有名歌人の額田王の娘として付随的に扱われがちであった十市皇女の人生、特に無視されがちな大友皇子の正妃時代についての復元を試みました。
また、その死の理由や実際の高市皇子との関係や高市皇子の挽歌の真の意味や目的についての考察も試みてきました。
改めてここで十市皇女の人生を考えてみると父の大海人皇子の野心により翻弄され、壬申の乱により、いかに彼女の人生が大きく狂わされてしまったのかも、私は強く感じることになりました。
なぜか大友皇子との結婚は十市皇女にとってはほとんど意味のないものであったり、よほど大友皇子よりも高市皇子の方を好いていたかのようなようなイメージばかりが先行しがちですが。


しかし、どう考えてもあのまま、普通に大友皇子の正妃として彼と結婚生活を送っていた方が十市皇女は幸せであったと思いますし。
それに明らかに彼女にとっては大友皇子との結婚生活が不幸なものであったと思わせるような具体的な記録などもない訳だし。
また、以前の記事でも私が想像したようにおそらく十市皇女は大友皇子正妃として、大津宮での多くの客をもてなしたり、また、夫の大友皇子と共に宴の席などで漢詩が披露される際には共に鑑賞したりもしていたでしょうし。
それに彼女自身の歌までは残されてはいないとはいえ、十市皇女はあの額田王の娘であり、彼女も母親同様に文芸的なことに関心を抱いていても、不思議ではないとも考えられますし。だからこちらも学問・文芸的なことを好んでいた大友皇子と十市皇女は実際にはこうした共通の関心事もあり、仲が良かった可能性も十分に考えられるのではないかとも私は思いますし。
近江大津宮の文化的な雰囲気の中心にこの大友皇子の正妃である十市皇女もまちがいなく、存在していたのではないのでしょうか。
夫の大友皇子や母親の正妃であったこの人生前半の時期、この時期こそが十市皇女にとっては最も平穏で幸せな時だったのではないのでしょうか


しかし、天武元年に発生した壬申の乱により、十市皇女の人生は一変しまいます。
彼女の異母弟で大海人軍の総司令官である高市皇子の率いる軍との戦いに敗れた大友皇子は自害。
未亡人となってしまった十市皇女は幼い息子の葛野王と共に父の大海人の保護下に入ることになりました。
そしてこれも今まで私が十市皇女に関する記事の中でも考察しているように。
おそらく、十市皇女は天武四年の月に阿閉皇女と共に伊勢神宮に参宮した頃には伊勢の斎王である異母妹の大伯皇女と似たような、いわば準斎王として必要な時には神を祭る儀式に参加する役割を担うようになっていたのでしょう。
「常処女」の歌の中で、永遠の清らかな処女というように呼びかけられているのも、こうした神に仕える女性に対して使われた、象徴的な表現であったと考えられます。
だから実際には既に十市皇女が処女ではなく、子供さえもいてもこのように歌われたのかもしれません。
「万葉挽歌の成立 塚本澄子 笠間書院」の付篇 歌人論 第三節 吹芡刀自の歌–十市皇女の人間像 塚本」の中での、この十市皇女と共に天武四年に伊勢神宮に赴いた女官のこの吹芡刀自の歌についての、塚本氏の解釈をかなり参考にした上での私なりのこうした解釈ですが。



そして彼女がこうした役割を担うようになったのは、やはり、どうしても近江朝の皇后という、実質的なその十市皇女の地位や権力自体は大友皇子の敗北とその死により、消滅していたとは思われるものの。
それでも依然としてその近江朝の皇后としての彼女の権威は残り、そうしたことからも、どうしても天武朝の中では浮き上がった存在になってしまった十市皇女の居場所と役割を何とか確保ということだったのではないのでしょうか。
また、天武天皇は神を祭ることを重視していたこともあり、そういう意味でもこの十市皇女にこうした役割を割り振るのはちょうどいいとも考えたのでしょう。
更に当時の十市皇女がそのような役割を担うようになっていたこと自体が実際には、高市皇子と彼女が恋人でも夫婦でもなかったことをも間接的に物語るものでもあるとも考えられますし。
私もこれまでの記事でも述べてきたように。
また、私としては今までの高市皇子と十市皇女についての言説の中で、これも不思議に感じられて、しかたがない点であったのですが。


おそらく、天武七年の四月に十市皇女が謎の急死を遂げた時に彼女は天武天皇も行幸しての、倉梯川の斎宮付近で行われる予定だった儀式の斎王に選ばれていたのだろうとは多くの人々が認めているはずなのに。
それなのになぜそんな立場にある彼女が高市皇子と恋人になったり、あるいは結婚までしていたと考えられやすいのか?
それまでは普通に男性と恋仲にまでなったりして、一般的な女性としての生活を送っていたにも関わらず、突然、そんな十市皇女が儀式の斎王になど選ばれたりするのでしょうか?



やはり、この天武七年の儀式以前からずっと彼女は恋人も夫も持たず、神に仕える女性として清浄な身体を保ち続けており、また神を祭る役割を務めていたと考えた方が私は整合性があるし、順当だとも感じるのですが。
もし高市皇子と恋人か夫婦の関係だったとしたら当然、妊娠の心配も出てきてしまいますし。
それにこう考えれば吹芡刀自の常処女の歌や高市皇子の挽歌の中でも、彼女が神聖な三輪の神杉に例えられたり、またこれも高市皇子の挽歌の中で何かと十市皇女と神事との関わりが暗示されているかのような印象を受けることについても、より納得がいくというか。
それからこれも以前にも私が書いたようにこれらの考察は、この塚本氏の論文にヒントを得たものです。


彼女の見解には私も全体的に賛成という訳ではないものの、常処女の歌の真の解釈や想像される、壬申の乱後の十市皇女の立場については何かと示唆に富む内容だと改めて私は感じています。
代表的で具体的なその塚本氏の見解と私のそれとの相違点としては、私は十市皇女が大友皇子と結婚する前から神に仕える役割を担っていた皇女だったとするのには反対であり、十市皇女がそうした役割を担っていたとすれば私にはそれは壬申の乱以降からではないのかと思われること。
特にやはり、時期としては天武四年二月の十市皇女の伊勢神宮参宮の時期が注目されます。
それに私は高市皇子が十市皇女に捧げた挽歌には彼の個人的な恋愛感情は詠まれておらず、まさにそのまま、当時の彼女の神に仕える神聖な女性としての存在や役割について詠んだものであり、一人の皇族として彼女を鎮魂する目的のものだと考えているので。
個人的には塚本氏の見解は想像される、その天武天皇皇女としての十市皇女の実際の立場や役割についての考察として、私としては違和感を覚えるのは全体的に呪術的な解釈の傾向が強過ぎるように思われる点ですが。
額田王も巫女であり、その娘の十市皇女も、巫女に相応しい能力を備えていた皇女だったのだろうとか。



それは確かに塚本氏の見方のように壬申の乱後、十市皇女が誰とも恋愛をしたり、結婚をしたりすることもなく、神に仕える立場・役割を担った皇女として清浄に暮らしていたと考えた方が高市皇子との恋に悩み、ついには伊勢神宮の斎王になるのが嫌で自殺したなどとして考えるよりも、私としてもよほど納得がいくのですが。
それにこの点については塚本氏も指摘しているように。
この天武七年四月に倉梯川の斎宮で十市皇女が潔斎を終えた後、斎王として伊勢神宮に赴く予定であったとするのは私も飛躍し過ぎであり、賛同しがたいと感じます。
伊勢斎王になるのには未婚の処女であることが大原則であり、その条件を満たしていない十市皇女が突然、後から伊勢斎王になるというのは不可能だとも私は感じますし。
それに私は以前から斎宮や斎王についても個人的に関心があり、それなりに関連書籍なども読んではいますが。
そして斎宮や斎王について調べれば調べる程、既に処女ではなく、結婚経験もあり、一児の母でもある十市皇女が伊勢斎王に選ばれるなどというのはあり得ない人選であるとも強く感じますし。
また、伊勢神宮に同時に二人の斎王などというのも、一度も聞いたことがありませんし。



それに突然、息子の葛野王と引き離されて、遠い伊勢にやられてしまっても、彼女も息子の葛野王のことが気がかりで、とても斎王としての務めには専念できないと思われますし。そしてもし彼女が高市皇子と恋人か夫婦関係であったにしても、同様でしょうし。
伊勢の斎王には決まって未婚の処女が選ばれるのは、彼女達が神に仕える上で他に心を奪われてし迷うな夫や子供などの存在はいない方がいいという判断も関係し貞操にも思われますし。
高市皇子と引き裂かれて、これから伊勢斎王になるのが嫌だったため、十市皇女が自殺したというのは、最初から彼女と高市皇子との悲恋を前提にし過ぎた想像のように私には思われます。
しかし、壬申の乱の戦いによる夫大友皇子との死別という悲劇的な出来事により、突然、こうして一般的な女性としての生活から孤高の神に仕える立場の女性としての日々を送るようになった十市皇女の心中ですが。
他の多くの皇女達には夫がいる、あるいは将来的にそうした相手を持つことになる。
それに比べ、そうした一般的な女性の幸せとは離れて、神に仕える日々を送ることになってしまった自分。
本来なら自分の傍らには夫である大友皇子がいたはずなのに。
こうした女性としての孤独や壬申の乱で敗死した大友皇子の遺児であることからその不遇が想像される、息子の葛野王の将来を思い、十市皇女は悲観せずにはいられなかったのではないのでしょうか。



これらの十市皇女の苦悩、そして夫を死に追いやることになった父天武天皇の治世の平安のため、天武朝に入ってから頻発していた自然災害が静まることを本心から神に祈ることができない彼女の葛藤。
これらのことが相まって、ついに十市皇女は自殺を選ぶことにもなったのではないのでしょうか。
父の天武や高市皇子などに自らの死を持ってして、自分の恨みを強く訴えることも目的だったのではないのかとも思われますが。
やはり、想像される、当時のこれらの十市皇女の苦悩は、自然と自分をこんな境遇にするきっかけを作った父の天武天皇や高市皇子に対する恨みにも繋がったのではないのかとも想像されますし。
そもそも、この塚本澄子氏の全体的な見方もそうなのですが。
なぜ大友皇子と十市皇女との間には特に愛情も存在しなかっただろうと見なされやすいのか?


やはり、一般的にはすっかり高市皇子と十市皇女の悲恋か夫婦関係を表わしているものだとする解釈が広まってしまった、あの高市皇子の挽歌の存在のせいなのでしょうか。
元々、十市皇女は高市皇子と愛し合っており。
一方、夫の大友皇子とはあくまでも政略結婚で結婚した相手に過ぎず、従って特にそんな夫に対しては十市皇女は愛情もなく。
だから壬申の乱の大海人軍の総司令官として、事実上、夫の大友皇子を死に追いやることになった相手とも言える高市皇子と恋仲になることにも特に十市皇女は葛藤も感じなかったのだろというように想像されやすいのでしょうか。
しかし、大友皇子と十市皇女は疎遠な関係だったという見方と同様に十市皇女が大友皇子よりも高市皇子の方をこそ愛していたという見方にも確証はないと思うのですが。


それにかなり早い内から高市皇子と天智天皇皇女の御名部皇女の間では婚約が成立していたのではないのでしょうか。
壬申の乱が終わる頃ぐらいまでは高市皇子が独身だったのも、高市皇子よりは三歳くらいは年下だったと考えられる、御名部皇女が結婚適齢期になるまで待っていためではないかと考えられますし。
例えば密かに高市皇子が十市皇女を思い続けたために、彼が壬申の乱後の二十歳くらいまで独身とかいう可能性は低いとも思われますし。
そして十市皇女も高市皇子よりは四・五歳くらいは年上なので、まだ高市皇子が子供であった頃に既に大友皇子と結婚していますし。
このように彼らが接近して特別に親しくなるような機会も、壬申の乱以前にはなさそうにも考えられるのですが。



それに特に大友皇子と十市皇女の間に愛情がなかったにしても、それでも夫であった彼を殺されたら、高市皇子に対しても何らかのわだかまりなどは十市皇女の心の中に生まれそうにも私は感じるのですかね。
それにいかにも大友皇子と十市皇女が疎遠であったかのように思われやすいのは、壬申の乱の際には天武の娘と思われる女性が夫の大友皇子側の情報を鮒の腹に密書を詰めて知らせていたなどとする、「宇治拾遺物語」の中で伝えられているせいもあるのかもしれませんが。
しかし、これも天武正統が主張されるようになっていったと思われる、平安時代頃から記述され始めたと考えられる伝承なので、当時の実際の十市皇女の気持ちや動向、そして実際の大友皇子との夫婦関係を表わしているものだとできるのかについては私は疑わしいと考えていますし。



それにこの天武の娘とされる女性もはっきりと「十市皇女」とまでは記されておらず、あやふやであり、当然、その内容の信憑性自体にも疑わしい印象を与えることともなっていますし。
このように十市皇女の名前さえもはっきりと記されていないようなこと一つを取ってみても、所詮、あくまでも後世の伝承だなという印象を覚えるというか。
それにむしろこうした伝承の中でも、その存在が天武を正統とする主張に利用されている形跡が強い十市皇女を私としては気の毒に感じてしまうというか。
夫の大友皇子側の情報を父の天武側に流すなどという行為は結果的に大友皇子を死に追いやるに等しい行為であること自体は十市皇女自身も、十分に理解していたことだと思われますし。



なお塚本氏はこのように「宇治拾遺物語」の中で十市皇女と思われる天武の娘が大友皇子側の情報を父親に知らせていたとするのは案外、当時は実際に囁かれていた噂だったのではないのか。
そしてこのように十市皇女が敵将の妃でありながら天武朝の祭祀の中枢に迎え入れられたのは常識的には考えられないことである。
これも大海人の娘でありながら巫女としての役割を担っており、また巫女でもある娘として昔から忠実に父に従っていたからである。


しかし、私も壬申の乱以後は天武天皇皇女として十市皇女が天武朝で祭祀に関わるようになったとする見方には賛成ですが。
そして壬申の乱の敵将であった彼女がそんな役割を果たすようになるなどは通常ならあり得ないことだともされていますが。
これについては私も以前にも書いたように。
夫の大友皇子との死別後の十市皇女が天武朝で生きていくためにはそうするしか、自事実上、他に選択肢がなかったのではないのでしょうか。
確かに記録から表面的に見れば伊勢神宮に行けと言われれば行くなどして、父の天武にいかにも十市皇女が従順であったかのように思われやすいからか。
これも天武の皇子である高市皇子から挽歌を捧げられているのも、これも十市皇女が父の天武に従順であり、そして良好な関係であったからこそ、またこれも天武の息子である高市皇子とも恋人になり、このような挽歌まで捧げられているのだろうなどとも想像されやすいからでしょうか。



しかし、このように一見、父の天武に従順そうにも見える、十市皇女の様子とはいえ、心から父に従っていたとは限らない訳で。
本当に心の底から彼女が父に従順だったのならそれならなぜ、あえて大勢の人々に強い衝撃を与えるために、天皇も行幸しての重要な儀式の当日にこれはもう斎王に選ばれていた彼女自身の死で、この儀式自体を穢すのが目的だったとしか思えない自殺を決行したりするのか?
それに十市皇女が伊勢の祭祀と関わる十市県主家に養育されているという点も、私としてはどうにも気になってしかたがない点なのですが。
このような人々に養育されていたということは、昔から十市皇女はどういうものなのかということについては十市皇女は十分に理解していたはずですし。
神を祭る儀式における心構えや様々な決まりや禁忌についても、熟知していたと思われます。



そしてそれらの知識や当時の自分の神に仕える立場をこうして十市皇女は逆の形で実に効果的に利用したように私には思えてならないのですが。
斎王自身の死は最大の穢れであり、また儀式の斎王が死ぬなんて、つまりその斎王は神意に反する斎王、このように多くの人々には受け止められたことでしょう。
この十市皇女の自殺により受けた、宮廷の人々の不安や恐怖は大変なものだったのではないのでしょうか。
現実にも天武朝に入ってからは自然災害が多発しており、これも多くの人々に不安を与えていたことでしょうし。
そして十市皇女がここまでのことをやるからには、高市皇子と引き裂かれるのが嫌でなどの甘い理由ではなく、遥かに深刻で強い彼女の恨みのようなものを私は感じずに入られませんし。
とても恋の悩みくらいで、ここまでのことはできないのではないのか?と私は思ってしまうというか。



それに従来の見方よりはよほど壬申の乱後の十市皇女の生活やその姿については納得がいくような解釈を示している塚本澄子氏とはいえども、なぜ最終的に十市皇女が自殺に至ったのか?という点については、そこに至るまでの十市皇女の心情については十分な説明ができていないとも強く感じますし。
十市皇女は心情的には昔からずっと父の天武天皇寄りであり、またその忠実な皇女としてずっと巫女的役割も担っており、後の夫の大友皇子との結婚や夫の大友皇子の存在も、十市皇女にとってはほとんど何の意味も持たなかったとするならば。
それならばなぜその自殺は彼女の発狂の末のものと見るにせよ、ついには一番重要な儀式の時に十市皇女は自らの死により、この儀式自体を穢したと言ってもいいような行動にまで至るのか?
しかも、息子まで残して。そしてなぜそこまで彼女が苦しむ必要があるのか?
それに母親の額田王同様、この十市皇女も昔から巫女としての役割を持った女性だったという塚本氏の想像には私は賛成しかねますし。


それに仮に塚本氏の見ているように大海人皇子の娘でありながらも、十市皇女は巫女としての役割を果たしていた女性でもあるとしても。
それにしても一度、大友皇子という夫を持ち、またその間に子供も生まれれば普通の女性、そして妻や母としての感情も芽生えてくるとも思われますし。
だからそうした生活をするようになったら十市皇女は完全に世俗的な生き方とは離れた、それまでの超然とした巫女としての存在のままではいられないのではないのか?と私は思うのですが。



それに塚本氏からすれば大友皇子との死別による所も大きいとはいえ、天武朝になってから天武天皇皇女として十市皇女が祭祀に関わるようになるのも、巫女としての役割を果たすということではそれまでの大海人皇子の娘であった時とその十市皇女の生き方や役割は変わらないともしていますが。
いや、完全に同じではないでしょう。
一時は妻となり、母となり、一般的な女性としての生活を送っていたと思ったら、戦いによる夫の敗死により、再び神に仕える日々を送らなければならなくなってしまうんですよ。
しかし、このように塚本氏の見方によると十市皇女は本質的には最後まで超然とした巫女として生き続け、大友皇子の妻となり、また葛野王の母となったことも彼女の本質やその生き方にはほとんど影響も与えなかったかのように見ているようですが。
それから十市皇女自身の歌が万葉集に一首も残されていないのも、風雅の世界に身をおくことのなかった十市皇女の運命を語っているような気がする。
このようにも塚本氏は見ていますが。


私は十市皇女自身の歌が一首も「万葉集」には見えないからとはいえ、そこまで断定しなくともいいのではないのかとも感じるのですが。
大津宮時代は史料的空白期のような所がありますし。
天智天皇即位から三年後に壬申の乱が発生していますし。
それに「懐風藻」の中でも、大津宮では多くの漢詩文が作られたが壬申の乱では灰塵に帰してしまったというようにも書かれていますし。



こうした事情から大津宮での正妃としての十市皇女の生活がわからないのも、しかたがない所がありますし。それになぜか十市皇女が大友皇子の正妃であったことさえも、「日本書紀」では触れられてはいませんし。
けれども十市皇女の母の額田王は有名な歌人であり、文芸的なことへの関心が高かったでしょうし。また、その夫の大友皇子も学問や文芸的なことへの関心が高かった人物だったようです。
こうした周囲の環境から十市皇女自身も歌までは詠んでいなくとも、文芸的なことへの興味はかなり持っていた可能性も十分に考えられますし。
文芸的なことに関心は高くとも、母が有名歌人なので自分が歌を詠むことはためらわれたのかもしれませんし。
とはいえ、こうした環境や大友皇子の正妃であり、額田王の娘という立場から当時の
大津宮の文芸の中心に大友皇子や額田王と共にこの十市皇女もいたのではないのでしょうか。