2020年02月26日ブログで芝川に架かる八丁橋歩道橋を渡った。
渡って右を見た。

芝川の堤防に建つ八丁堤案内板を見た。
八丁堤は “ 長さが八町(約870メートル)ほどあるのでその名がつけられた ” とある。
「長さ単位丁」でネット検索すると、1町(丁)は約109.09メートルとある。
2020年04月01日ブログで私は大宮氷川神社一の鳥居前で「是より宮まで十八丁」の丁石を見た。そして参道交番脇の十丁石の写真を見た。
マピオン地図キョリ測でその距離をみると1068mと出た。
1丁を109mで計算すると1090mである。ぴったりではないが、かけ離れているともいえない。
ウィキペディア見沼に掲載の見沼(地図中水色)を見る。下の方に八丁堤が表示されている。
さいたま市見沼たんぼのホームページを開く。さらに見沼たんぼの歴史を開く。
(溜井の時代 江戸時代初期~中期)のところに八丁堤の解説と略図がある。
2018年03月20日ブログで私はヤフー地図に八丁堤を赤で示すとこのようになると思うと書いた。
その距離をマピオン地図キョリ測で計測すると1096mだった。
案内板には約870mとあった。この距離で200m以上の誤差は大き過ぎる。
赤で示した範囲が長すぎるのではないか。
明治13年測量の地図でその辺りを見る。
見沼代用水西縁から東縁までの赤山街道を赤で示す。
左の方(西縁より)はくねった道でそこから右(東)はほぼ直線の道である。
八丁堤は人口の堤であり、特段の事情がなければくねくねの堤は造らない。
直線の部分が人口の部分(八丁堤)ではないだろうか。
直線部分をマピオン地図キョリ測で計測すると833mである。案内板の約870mに近い。
ウィキペディア見沼代用水には “ 東縁代用水路は、見沼のあった東側の台地(鳩ヶ谷支台)の縁を沿うように東側へ進み、八丁堤まで達した ” また “ 西縁代用水路は、東縁同様に見沼のあった西側の台地(浦和大宮支台)の縁を沿うように南下し、八丁堤まで達した ” と記述されている。
要するに、東西の見沼代用水は台地と沼の境界線を流れているということだと思う。
2020年02月21日ブログはこのような道筋を歩いた。
赤丸のところで赤山方面を見た。上り坂である。
緑丸のところで赤山方面を見た。反対方面を見た。
青丸の交差点で赤山方面を見た。
見沼代用水西縁方面(台地)を見た。

昭和22年の空中写真を見る。
この辺りの台地と沼の境界線を黄で描くとこのようになるのではないかと思う。
緑で囲んだところの赤山街道は台地がすでに八丁堤より高く、水を堰き止めていると思う。
八丁堤案内板には “ 旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に ” とあった。
この附島を私は附島橋と思ってこのような範囲を考えたのだか、間違っていたと思う。
明治13年の地図には附嶋村の表示がある。
2020年02月21日ブログで附島氷川女体神社さんの前で附島自治会案内図を見た。この辺りが附嶋村だったと思う。
2017年12月、見沼たんぼ周辺案内を見た。
見沼たんぼの歴史は海の入り江の時代から始まる。
この時代の附島は海に浮かぶ島のように見えたかも知れない。
新編武蔵風土記稿には附島村と大間木村の小名に附島の地名がある。
明治13年の地図には字八町の表示がある。八丁堤があることからこの辺りの地名になったのではないだろうか。
新編武蔵風土記稿には大間木新田の小名に八町堤がある。
「八丁河岸」「八丁橋」の八丁は地名として使われていると思う。
渡って右を見た。

芝川の堤防に建つ八丁堤案内板を見た。
八丁堤は “ 長さが八町(約870メートル)ほどあるのでその名がつけられた ” とある。
「長さ単位丁」でネット検索すると、1町(丁)は約109.09メートルとある。
2020年04月01日ブログで私は大宮氷川神社一の鳥居前で「是より宮まで十八丁」の丁石を見た。そして参道交番脇の十丁石の写真を見た。
マピオン地図キョリ測でその距離をみると1068mと出た。
1丁を109mで計算すると1090mである。ぴったりではないが、かけ離れているともいえない。
ウィキペディア見沼に掲載の見沼(地図中水色)を見る。下の方に八丁堤が表示されている。
さいたま市見沼たんぼのホームページを開く。さらに見沼たんぼの歴史を開く。
(溜井の時代 江戸時代初期~中期)のところに八丁堤の解説と略図がある。
2018年03月20日ブログで私はヤフー地図に八丁堤を赤で示すとこのようになると思うと書いた。
その距離をマピオン地図キョリ測で計測すると1096mだった。
案内板には約870mとあった。この距離で200m以上の誤差は大き過ぎる。
赤で示した範囲が長すぎるのではないか。
明治13年測量の地図でその辺りを見る。
見沼代用水西縁から東縁までの赤山街道を赤で示す。
左の方(西縁より)はくねった道でそこから右(東)はほぼ直線の道である。
八丁堤は人口の堤であり、特段の事情がなければくねくねの堤は造らない。
直線の部分が人口の部分(八丁堤)ではないだろうか。
直線部分をマピオン地図キョリ測で計測すると833mである。案内板の約870mに近い。
ウィキペディア見沼代用水には “ 東縁代用水路は、見沼のあった東側の台地(鳩ヶ谷支台)の縁を沿うように東側へ進み、八丁堤まで達した ” また “ 西縁代用水路は、東縁同様に見沼のあった西側の台地(浦和大宮支台)の縁を沿うように南下し、八丁堤まで達した ” と記述されている。
要するに、東西の見沼代用水は台地と沼の境界線を流れているということだと思う。
2020年02月21日ブログはこのような道筋を歩いた。
赤丸のところで赤山方面を見た。上り坂である。
緑丸のところで赤山方面を見た。反対方面を見た。
青丸の交差点で赤山方面を見た。
見沼代用水西縁方面(台地)を見た。

昭和22年の空中写真を見る。
この辺りの台地と沼の境界線を黄で描くとこのようになるのではないかと思う。
緑で囲んだところの赤山街道は台地がすでに八丁堤より高く、水を堰き止めていると思う。
八丁堤案内板には “ 旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に ” とあった。
この附島を私は附島橋と思ってこのような範囲を考えたのだか、間違っていたと思う。
明治13年の地図には附嶋村の表示がある。
2020年02月21日ブログで附島氷川女体神社さんの前で附島自治会案内図を見た。この辺りが附嶋村だったと思う。
2017年12月、見沼たんぼ周辺案内を見た。
見沼たんぼの歴史は海の入り江の時代から始まる。
この時代の附島は海に浮かぶ島のように見えたかも知れない。
新編武蔵風土記稿には附島村と大間木村の小名に附島の地名がある。
明治13年の地図には字八町の表示がある。八丁堤があることからこの辺りの地名になったのではないだろうか。
新編武蔵風土記稿には大間木新田の小名に八町堤がある。
「八丁河岸」「八丁橋」の八丁は地名として使われていると思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます