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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

岩槻城と寿能城および三郎山を結ぶ道

2017年01月22日 | 日記
2017年01月20日ブログはこういう道筋を綴った。
東宮下氷川神社から県道2号までを拡大した地図で見る
明治18年頃の地図を見る。
私が歩いた道は概ねこの道(赤)と重なると思う。

私が歩いた道の東と北に氷川祠がある。
北の氷川祠は宮ヶ谷塔の氷川神社だと思う。
江戸時代は宮ヶ谷塔村で東の氷川祠は宮下村にあった。

ウィキペディア宮ヶ谷塔には宮ヶ谷塔の地名の由来として “ 鎮守であった氷川神社(宮)と、谷戸があったことから「宮ヶ谷戸」と呼ばれ、その表記が変化したもの ” と記述してある。
では、宮下村の地名の由来は村内の氷川神社(宮)にあるのかと思いきや、ウィキペディア東宮下には宮下村の地名の由来は “ 宮ヶ谷塔村の氷川神社の下に位置したことから ” とある。
新編武蔵風土記稿の宮下村には正にこのように記述されている。

赤丸の交差点は迅速測図のここで、2016年09月20日ブログで触れたが、交差点の傍らに正徳3年(1713)の道標が残っている。ちなみに先日見た東宮下氷川神社参道の庚申塔は正徳五年(1715)だった。
この道(赤)は徳川家康の関東転封以前から続く古い道ではないかと思う。
西に辿っていくと現在の寿能公園がある。
ウィキペディア寿能城によれば寿能城は “ 永禄3年(1560年)頃に岩槻太田氏の岩槻城の支城として見沼に面して築城された。” そして城址の一部が寿能公園として整備されたという。
この道は本城(岩槻)と支城を行き来する道だったのではないかと思う。

その道の途中から南に延びる道を辿る。南側を拡大する。
現在の道でその道に近いと思われる道を赤で示す
鎌倉公園の場所を明治18年頃の地図に示すとこのあたり(緑丸)になると思う。
2012年10月鎌倉公園を訪れた時、松野氏館跡案内板があった。松野氏は岩槻太田氏の家臣だったという。
また、鎌倉街道案内板もあった。

先ほどの道を明治20年の地図でさらに南へ辿ると中山道に突き当たる。
現在のこの道と概ね重なると思う。
三郎山ハイツの近くに三郎山が付く名前が散見される。
2012年12月私はそこの一角で「三郎山の由来」を見た。
戦国時代、この周辺に岩槻太田氏の家臣の館があったという。

明治18年頃の地図のこの道は岩槻城(本城)と寿能城(支城)、および浦和方面の岩槻城主の家臣の館を結ぶ古い道だったと思うのである。
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