浦和駅東口のパルコの北側、浦和区東仲町の一部を赤で囲む。
大正11年の地図を上が北になるように回転させて比較する。赤で示したところは概ね重なると思う。
次に昭和9年の地図を上が北になるように回転させて比較する。現在地図に赤で囲んだ道は昭和9年のこの道(赤)と重なると思う。
そして囲みの中の道も重なると思う。
大正11年の地図は浦和耕地整理組合原形図で、昭和9年の地図は浦和耕地整理組合確定図であることから、現在の地図に赤で示した道のうち、大正11年地図に赤で示した道以外の道は耕地整理によってつくられた道だと思われる。
現在の地図に青丸で示した三差路は昭和9年のここ(青丸)で大正11年のここ(青丸)だと思う。耕地整理が行われる前からあった交差点だと思う。
2016年05月01日ブログで、私は浦和宿絵図に黄で示した道を現在の地図に赤で描くと大体このようになるのではないかと書いた。
そうすると、現在の地図に赤で示した道は浦和宿絵図に黄で示した道と概ね重なると思う。
大正11年の青丸から延びる道は浦和宿絵図に水色で示した道と似ている。
浦和宿絵図が作成されたのは文化8年(1811)であるから、大正11年(1922)まで111年経過している。時代の変遷にともなって道もかたちを変えてきたのだと思う。
大正11年地図に青で示した道の上の道(黄枠)を現在地図に描くとこのような感じになると思う。
そして浦和宿絵図に水色で示した道を現在地図にセピア色で描くとこのような感じになると思う。
文化8年から平成29年まで206年経っている。
先月、赤矢印方向を見た。
2016年02月14日ブログで私はこのような道筋を綴った。
浦和宿絵図に描かれていると思われる細い道を通り抜けて振り返った。
大正11年の地図を上が北になるように回転させて比較する。赤で示したところは概ね重なると思う。
次に昭和9年の地図を上が北になるように回転させて比較する。現在地図に赤で囲んだ道は昭和9年のこの道(赤)と重なると思う。
そして囲みの中の道も重なると思う。
大正11年の地図は浦和耕地整理組合原形図で、昭和9年の地図は浦和耕地整理組合確定図であることから、現在の地図に赤で示した道のうち、大正11年地図に赤で示した道以外の道は耕地整理によってつくられた道だと思われる。
現在の地図に青丸で示した三差路は昭和9年のここ(青丸)で大正11年のここ(青丸)だと思う。耕地整理が行われる前からあった交差点だと思う。
2016年05月01日ブログで、私は浦和宿絵図に黄で示した道を現在の地図に赤で描くと大体このようになるのではないかと書いた。
そうすると、現在の地図に赤で示した道は浦和宿絵図に黄で示した道と概ね重なると思う。
大正11年の青丸から延びる道は浦和宿絵図に水色で示した道と似ている。
浦和宿絵図が作成されたのは文化8年(1811)であるから、大正11年(1922)まで111年経過している。時代の変遷にともなって道もかたちを変えてきたのだと思う。
大正11年地図に青で示した道の上の道(黄枠)を現在地図に描くとこのような感じになると思う。
そして浦和宿絵図に水色で示した道を現在地図にセピア色で描くとこのような感じになると思う。
文化8年から平成29年まで206年経っている。
先月、赤矢印方向を見た。
2016年02月14日ブログで私はこのような道筋を綴った。
浦和宿絵図に描かれていると思われる細い道を通り抜けて振り返った。
興味深い記事のアップありがとうございました。古くからある道をお教えいただきありがとうございます。現在の住居地である東仲町は、ご存知の通り狭いながらも起伏に富んだ地形を有しております。先日、住んでいるマンションの理事会に出席したところ、マンションが建っている敷地には町内の古老によればもともと池があったという情報を仕入れました。大正時代の地図を拝見すると池こそ見えないものの、流れがあるようにも見える箇所がありとても興味を惹かれました。農業試験場があったということは水の需要があったようにも推測されます。仲本小学校に北側には新浦和橋近辺の三角稲荷を源流とする流れが流れ込んでいたとの情報もありますし。
昔の道に合わせて、昔の流れを想像してみるが最近の当方の楽しみになっております。
仲本小学校の近くに水路があったことは昔の地図でわかるのですが、三角稲荷に源流があったということは知りませんでした。ご教示ありがとうございます。
市街地の水路は暗渠に入っているところが多くて、流路がよくわからないのが問題ですね。
いつか自分の目と足で確認に行きます。
久し振りに歩いてみると、風景が変わっていたりして楽しいと思います。