西尾市岩瀬文庫のウェブサイトから岩槻城図を閲覧する。安永4年頃の成立とある。西暦で1775年。
全体図を見る。左下が北とあるので半回転する。
左側半分を見る。右側半分を見る。
全体図の左上を拡大して通り名を見る。裏小路通と渋江町通。
左下を拡大して通り名を見る。天神小路通と新小路。
その右を拡大して通り名を見る。渋江小路と廣小路と諏訪小路通。
その上を拡大して通り名を見る。浄安寺小路。
岩槻城図の左半分に通り名を表示する。
2022年10月01日ブログで私は裏小路標示板を見た。

裏小路公園の前で周辺案内図を見た。
現在地付近を拡大する。岩槻城図に表示があった通り名を黄枠で囲む。
マピオン地図でその辺りを見る。
岩槻城図に黄で示した道をマピオン地図に赤で示すとこのようになると思う。
2019年3月私は岩槻城址公園で岩槻城模式図を見た。
マピオン地図に赤で示した道を岩槻城模式図に黄で示すとこのようになると思う。
2022年10月01日ブログで私は黄丸の三差路で天神小路方面(絵図の下方向)を見た。

渋江小路方面(絵図の右方向)を見た。
その方向へ歩き渋江小路に突き当たった。

裏小路を右に進んで渋江小路に突き当たるとその左先に時の鐘がある。
2010年6月、時の鐘を訪れた際、案内板を見た。
さいたま市サイト第32回企画展「さいたま八景」から岩槻古城八景 城口晩鐘を見る。
筑波大学附属図書館サイトから(来館せずに利用できるWebサービス)(3.電子化資料・貴重書コレクション)(コレクション別一覧-古地図)(日光社参図・勤番図)を開く。そこから天保十四夘年四月十三日岩槻城江御成同廿日還御共頭御目見場所繪圖を閲覧する。
渋江小路と裏小路が交差するところを見る。
国立公文書館サイトの国立公文書館デジタルアーカイブで(日光道中絵図)を検索し、日光道中絵図巻2足立郡元郷村から岩槻宿までを閲覧する。そこから時ノ鐘と渋江口を見る。
時ノ鐘と渋江口については新編武蔵風土記稿に埼玉郡岩槻領の岩槻城並城下町のくだりでこのように記述されている。
渋江口門・・・大手門ノ西北ニシテ 岩槻往還ヨリ大手ノ方ヘ通スル口ナリ 門内ハ士屋敷ナリ コレ内外境ノ口ニシテ 外来ノ人容易ニ出入スルコトヲ許サス
撞鐘・・・渋江口ノ内ニアリ 鐘ニハ享保五年城主永井伊賀守鋳造ノ由ヲ彫レリ 渋江町ノ里正某カ承リニテ 二六ノ時ヲ報スルコトヲ司レリ
新編武蔵風土記稿は「渋江口門」とあるが、日光社参図・勤番図の絵図では「渋江口木戸」とある。日光道中絵図は木戸の向こうに「渋江口」がある。私は「渋江口門」「渋江口木戸」「渋江口」はすべて同じ場所を指していると思う。
西尾市岩瀬文庫の岩槻城図でそこを見ると木戸(門)は描かれているが文字の案内はない。木戸(門)の左に「渋江町通」、右に「渋江小路」と書かれている。その二つの道は木戸(門)が境目になっていると思う。
ところが岩槻城模式図の渋江口は時の鐘の左にある。
裏小路公園前の周辺案内図も模式図と同じところだと思う。現在の渋江信号交差点だと思う。
裏小路と渋江小路が交差する三差路から日光御成道までのこの区間も渋江小路となっている。
岩槻古城八景 城口晩鐘の木戸(門)の横に建っているこの建物(赤矢印)は西尾市岩瀬文庫の岩槻城図に描かれている「番所」だと思う。番所とはウィキペディア番所によれば、“ 警備や見張りのために設置された番人が詰めるために設けられた施設 ” である。
岩槻城図に赤矢印で示したところは井戸かも知れない。番所の近くに井戸があるのは普通だと思う。
そうだとすれば岩槻古城八景 城口晩鐘のここ(青矢印)は井戸小屋かも知れない。
番所の前の道は岩槻城図を見るとそこだけ道幅が広くなっている。マピオン地図に当時の道幅を想像して描いてみた。
グーグルマップ航空写真で渋江口木戸があった辺りを見る。
航空写真に時の鐘を「鐘」で示し、裏小路と渋江小路の三差路を赤線で示す。
岩槻古城八景 城口晩鐘に裏小路と渋江小路の三差路を赤線で示す。
2022年10月01日ブログで見た時の鐘。
全体図を見る。左下が北とあるので半回転する。
左側半分を見る。右側半分を見る。
全体図の左上を拡大して通り名を見る。裏小路通と渋江町通。
左下を拡大して通り名を見る。天神小路通と新小路。
その右を拡大して通り名を見る。渋江小路と廣小路と諏訪小路通。
その上を拡大して通り名を見る。浄安寺小路。
岩槻城図の左半分に通り名を表示する。
2022年10月01日ブログで私は裏小路標示板を見た。

裏小路公園の前で周辺案内図を見た。
現在地付近を拡大する。岩槻城図に表示があった通り名を黄枠で囲む。
マピオン地図でその辺りを見る。
岩槻城図に黄で示した道をマピオン地図に赤で示すとこのようになると思う。
2019年3月私は岩槻城址公園で岩槻城模式図を見た。
マピオン地図に赤で示した道を岩槻城模式図に黄で示すとこのようになると思う。
2022年10月01日ブログで私は黄丸の三差路で天神小路方面(絵図の下方向)を見た。

渋江小路方面(絵図の右方向)を見た。
その方向へ歩き渋江小路に突き当たった。

裏小路を右に進んで渋江小路に突き当たるとその左先に時の鐘がある。
2010年6月、時の鐘を訪れた際、案内板を見た。
さいたま市サイト第32回企画展「さいたま八景」から岩槻古城八景 城口晩鐘を見る。
筑波大学附属図書館サイトから(来館せずに利用できるWebサービス)(3.電子化資料・貴重書コレクション)(コレクション別一覧-古地図)(日光社参図・勤番図)を開く。そこから天保十四夘年四月十三日岩槻城江御成同廿日還御共頭御目見場所繪圖を閲覧する。
渋江小路と裏小路が交差するところを見る。
国立公文書館サイトの国立公文書館デジタルアーカイブで(日光道中絵図)を検索し、日光道中絵図巻2足立郡元郷村から岩槻宿までを閲覧する。そこから時ノ鐘と渋江口を見る。
時ノ鐘と渋江口については新編武蔵風土記稿に埼玉郡岩槻領の岩槻城並城下町のくだりでこのように記述されている。
渋江口門・・・大手門ノ西北ニシテ 岩槻往還ヨリ大手ノ方ヘ通スル口ナリ 門内ハ士屋敷ナリ コレ内外境ノ口ニシテ 外来ノ人容易ニ出入スルコトヲ許サス
撞鐘・・・渋江口ノ内ニアリ 鐘ニハ享保五年城主永井伊賀守鋳造ノ由ヲ彫レリ 渋江町ノ里正某カ承リニテ 二六ノ時ヲ報スルコトヲ司レリ
新編武蔵風土記稿は「渋江口門」とあるが、日光社参図・勤番図の絵図では「渋江口木戸」とある。日光道中絵図は木戸の向こうに「渋江口」がある。私は「渋江口門」「渋江口木戸」「渋江口」はすべて同じ場所を指していると思う。
西尾市岩瀬文庫の岩槻城図でそこを見ると木戸(門)は描かれているが文字の案内はない。木戸(門)の左に「渋江町通」、右に「渋江小路」と書かれている。その二つの道は木戸(門)が境目になっていると思う。
ところが岩槻城模式図の渋江口は時の鐘の左にある。
裏小路公園前の周辺案内図も模式図と同じところだと思う。現在の渋江信号交差点だと思う。
裏小路と渋江小路が交差する三差路から日光御成道までのこの区間も渋江小路となっている。
岩槻古城八景 城口晩鐘の木戸(門)の横に建っているこの建物(赤矢印)は西尾市岩瀬文庫の岩槻城図に描かれている「番所」だと思う。番所とはウィキペディア番所によれば、“ 警備や見張りのために設置された番人が詰めるために設けられた施設 ” である。
岩槻城図に赤矢印で示したところは井戸かも知れない。番所の近くに井戸があるのは普通だと思う。
そうだとすれば岩槻古城八景 城口晩鐘のここ(青矢印)は井戸小屋かも知れない。
番所の前の道は岩槻城図を見るとそこだけ道幅が広くなっている。マピオン地図に当時の道幅を想像して描いてみた。
グーグルマップ航空写真で渋江口木戸があった辺りを見る。
航空写真に時の鐘を「鐘」で示し、裏小路と渋江小路の三差路を赤線で示す。
岩槻古城八景 城口晩鐘に裏小路と渋江小路の三差路を赤線で示す。
2022年10月01日ブログで見た時の鐘。

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