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咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

中山道分間延絵図でみる宿場町大宮

2020年05月10日 | 日記
2020年05月04日ブログで私は中山道分間延絵図に描かれた大宮宿の二つの橋をみた。
右(南)の橋は安藤橋、左の橋は涙橋だと思うと書いた。
本日のブログはそこから北(京都方面)に進んだところの中山道大宮宿を見てみたい。
右の二つの橋は安藤橋と涙橋だと思う。
真ん中上の文字は、
 高千貳百八拾二石余
 武州足立郡
 大宮宿
 上尾宿江二里
だと思う。

その文字群左下は宗金寺と書かれている。
大正3年出版『大宮案内』には明治26年宗金寺跡を敷地として大宮尋常高等学校を新築したことが案内されている。
また2010年撮影の倉屋敷稲荷神社由緒には “ このあたりは、明治の初めに廃寺となりました玉龍山宗金寺の境内になっておりましたので・・・” と案内されている。
現在地図赤丸の辺りになると思う。

本陣は中山道の西側沿いに二つあるように見える。
2017年07月30日ブログ(大宮宿本陣があった場所)で私は平成17年さいたま市立博物館発行『ウォーク・イン・中山道大宮宿』所載の本陣・脇本陣の位置図を見た。
その位置図には本陣が2ヵ所(山崎家と内倉家)あった。

昭和63年大宮市立博物館発行『わたしたちの博物館 第15号』には大宮宿の本陣についてこのように解説されている。
山崎家と紀州鷹場本陣の二つあったという。
昭和52年発行秋山喜久夫著『中山道大宮宿』所載の中山道大宮宿麁絵図面によれば紀州鷹場本陣は高島屋の南隣にあった。

絵図の左(北)に東光寺がある。東光寺の入口(参道)が中山道側にあったことがわかる。
2017年3月、東光寺さんの山門見た。2013年7月の写真
東光寺さんの東の門(中山道反対側)を見た。


中山道の東光寺入口の南から東に延びる岩槻道を緑で示す。氷川神社参道と交差するところの緑丸は水路に架かる橋だと思う。
大宮市立博物館編集発行『地図・絵図でみる大宮の移り変わり』に所載の武州一宮社中絵図 天保七年(1836)を見る。
この絵図に先ほどの緑で示した道と緑丸を示すとこのようになると思う。
現在のここ(緑丸)だと思う。
南から北を見た2017年11月の写真。

さきたま文庫21『氷川神社大宮』には、「二の鳥居」の解説で “ 明治時代までは、鳥居の前に太鼓橋が架かっていたと伝える ” と記述されている。
緑丸で示した橋は太鼓橋だと思う。

宗金寺の右下に高札と書かれたところがある。
『わたしたちの博物館 第15号』には高札場の跡としてこのように解説されている。そして写真が挿入されている。現在の風景とは違い、どこなのかわからない。
『中山道大宮宿』所載の中山道大宮宿麁絵図面には、高札場は高さ一丈二尺、長さ三間、幅一間とあり、場所は脇本陣加藤六左エ門の南隣になっている。
脇本陣加藤六左エ門の場所は『ウォーク・イン・中山道大宮宿』所載の位置図のここ(赤囲み)だと思う。
その場所は現在地図のこの辺りになると思う。
高札場跡の写真には消火栓標識が写っている。
星印の南側で消火栓標識のある場所をストリートビューで探すとここにあった。
高札場はこの辺りにあったかも知れない。
先ほどの地図に赤丸で示す。

中山道分間延絵図に右から安藤橋、涙橋、高札、本陣1、本陣2、岩槻道の6地点を赤で示す。
現在の地図を90度回転し、それぞれ対応すると思われるところを赤で示すことにする。
本陣2は山崎家であるが、本陣1は内倉家か紀州鷹場本陣かで場所が異なる。
本陣1を内倉家として現在の地図に6地点を赤で示すとこのようになると思う。
次に本陣1を紀州鷹場本陣として現在の地図に6地点を赤で示すとこのようになると思う。
中山道分間延絵図に描かれた本陣は山崎家と内倉家だと思われる。

中山道から岩槻道へ入るところの2012年3月の写真。
2009年発行『目で見る大宮の100年』所載の山崎本陣があった場所(岩井折店)の昭和50年(1975)頃の写真。
2010年11月の写真。


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4 コメント

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大宮宿高札場の位置について (Y.S)
2023-09-27 01:17:54
今晩は
「咲いた万歩」拝見しております。
現地踏査と各種資料を用いての考察、なかなかに鋭く参考になる事柄が多いです。
さて、高札場の位置ですが、写真に載せられていた所は、大宮区仲町2丁目の旧中山道沿いです。左の二階屋はK家、右の木がこんもりした建物はH医院です。
曾て「片倉新道」とよばれた東西の道と中山道が交差点から南に2軒目と3軒目で、今はありませんが場所は貴兄が推定した所です。流石です。
今は面影もありませんが、道路のはす向かいに残る曾てのH鰻屋の建物だけが戦前の名残です。
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仲町の木造家屋 (咲いた万歩)
2023-09-27 09:18:38
おはようございます。
ご教示ありがとうございます。
H鰻屋さん跡の木造家屋は戦前の建物なんですね。営業が続いていれば有名な老舗店になっていたことでしょう。
返信する
中山道沿いの古い建物 (Y.S)
2023-09-30 13:45:35
こんにちは。
はい、戦前の建物です。旧中山道沿いに地割りと共に残っている数少ない場所です。
昭和30年代初頭までは営業していたと思います。
それから、旧中山道沿いで残っている戦前の建物は、私見の範囲では以下の通りです(旧岩槻新道の建物は割愛します)。
①仲町2丁目/下町の境界の横丁(地元では「ひかげ横丁」と言ってました)北側のお宅(以前、電話債券屋をやっていました) 昔の地割りに建物(表側は改修されています)・土蔵
②仲町2丁目/片倉新道を東に入り、右手のN医院(現在も診療をしています)の二階建て
③大門町1丁目/スズラン通りを入り右手のU家の平屋
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戦前の建物 (咲いた万歩)
2023-09-30 19:06:27
こんばんは。
ご教示ありがとうございます。
群馬銀行北側の道だと思いますが「ひかげ横丁」という名前があるのを始めて知りました。
片倉新道のN医院さんは見るからにそれらしい建築物だと思います。
スズラン通りのU家の平屋はあまり目立たないと思います。
一般に昭和の建築と推定されるものはよくありますが、戦前の建物はめずらしいのではないでしょうか。
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