令和7年2月19日私は岩槻駅から七里駅まで歩いた。途中、見沼区卸町をこのような道筋で歩いた。
ウィキペディア卸町(さいたま市)には交通のところでこのような案内がある。2025年02月22日ブログで私は埼玉県南卸売団地(協)組合会館さんの近くで道路向かい側にグローバル交通岩槻駅行バスのりばを見た。七里駅行ではなかった。2016年6月私は国際興業バスの「七里駅入口」バス停と同じ場所でグローバル交通「県南卸売団地行」バス停を見た。

ウィキペディア卸町(さいたま市)には地理のところでこのような案内があり、歴史のところでこのような案内がある。卸町が発足したのは昭和58年(1983)7月とある。
発足後平成3年(1991)の地図を見る。卸町の範囲をオレンジ色で囲むとこのようになると思う。2025年02月21日ブログで私は赤丸で示したところから深作川の上流を見た。

川の左(西)が卸町1丁目で右(東)が卸町2丁目である。
卸町が誕生する前の昭和55年(1980)の地図を見る。地図の端なので一部分しか見えない。東大宮バイパスは国道16号でまだ開通していない。昭和55年の地図に赤で示した道は平成3年地図に赤で示した道だと思う。
昭和52年の地図を見る。建設中の東大宮バイパス(国道16号)と思われるところを黄で示す。
昭和55年地図に赤で示した道を昭和52年の地図に示すとこの道だと思う。
平成3年地図では赤で示した道の南側には卸町がある。
昭和52年地図で赤で示した道の南側を見ると深作沼跡と表示されている。ウィキペディア卸町(さいたま市)の地理には “ 深作沼の南端であった場所に卸売団地が造成され、卸町が発足した ” と記述されている。
2025年02月22日ブログで私は埼玉県南卸売団地(協)組合会館さんの前で道路向かい側の案内看板をアップした。

明治18年頃の地図を見る。深作沼が描かれている。「深作沼跡」とはなっていない。
マピオン地図にA.B.Cで示した地点を目安線で結ぶ。Aは深作氷川神社、Bは宮ヶ谷塔氷川神社、Cは児童センター入口交差点とした。2011年12月の宮ヶ谷塔氷川神社。

2011年7月の児童センター入口信号交差点。
明治18年頃の地図にも同様に目安線を引く。深作沼の大まかな外周を青で描く。それを真似てマピオン地図に深作沼の大まかな外周を描くとこのようになった。
明治13年の迅速測図を見る。
地理院地図から(地図を選択)(土地の成り立ち・土地利用)(明治期の低湿地)を見ると現在の地図に迅速測図の深作沼が重なると思う。このデーターには誤差を含んでいることがあるから注意が必要とあったが、先ほどの目安線から作成したものと概ね合っていると思う。
ウィキペディア深作沼には “ 鶴巻沼(つるまきぬま)とも呼ばれた ” との記述がある。
新編武蔵風土記稿(江戸時代の地誌)の足立郡南部領宮ヶ谷塔村には山川のくだりで鶴巻沼について案内されている。“ 村ノ艮ノ方二アリ ” と記述されているが艮は東北の方角だと思う。
新編武蔵風土記稿深作村にも山川のくだりで鶴巻沼が案内されている。宮ヶ谷塔村、深作村いずれにも “ 東西三十間南北六十間許 ” と記述されている。
ウィキペディア卸町(さいたま市)には交通のところでこのような案内がある。2025年02月22日ブログで私は埼玉県南卸売団地(協)組合会館さんの近くで道路向かい側にグローバル交通岩槻駅行バスのりばを見た。七里駅行ではなかった。2016年6月私は国際興業バスの「七里駅入口」バス停と同じ場所でグローバル交通「県南卸売団地行」バス停を見た。

ウィキペディア卸町(さいたま市)には地理のところでこのような案内があり、歴史のところでこのような案内がある。卸町が発足したのは昭和58年(1983)7月とある。
発足後平成3年(1991)の地図を見る。卸町の範囲をオレンジ色で囲むとこのようになると思う。2025年02月21日ブログで私は赤丸で示したところから深作川の上流を見た。

川の左(西)が卸町1丁目で右(東)が卸町2丁目である。
卸町が誕生する前の昭和55年(1980)の地図を見る。地図の端なので一部分しか見えない。東大宮バイパスは国道16号でまだ開通していない。昭和55年の地図に赤で示した道は平成3年地図に赤で示した道だと思う。
昭和52年の地図を見る。建設中の東大宮バイパス(国道16号)と思われるところを黄で示す。
昭和55年地図に赤で示した道を昭和52年の地図に示すとこの道だと思う。
平成3年地図では赤で示した道の南側には卸町がある。
昭和52年地図で赤で示した道の南側を見ると深作沼跡と表示されている。ウィキペディア卸町(さいたま市)の地理には “ 深作沼の南端であった場所に卸売団地が造成され、卸町が発足した ” と記述されている。
2025年02月22日ブログで私は埼玉県南卸売団地(協)組合会館さんの前で道路向かい側の案内看板をアップした。

明治18年頃の地図を見る。深作沼が描かれている。「深作沼跡」とはなっていない。
マピオン地図にA.B.Cで示した地点を目安線で結ぶ。Aは深作氷川神社、Bは宮ヶ谷塔氷川神社、Cは児童センター入口交差点とした。2011年12月の宮ヶ谷塔氷川神社。

2011年7月の児童センター入口信号交差点。
明治18年頃の地図にも同様に目安線を引く。深作沼の大まかな外周を青で描く。それを真似てマピオン地図に深作沼の大まかな外周を描くとこのようになった。
明治13年の迅速測図を見る。
地理院地図から(地図を選択)(土地の成り立ち・土地利用)(明治期の低湿地)を見ると現在の地図に迅速測図の深作沼が重なると思う。このデーターには誤差を含んでいることがあるから注意が必要とあったが、先ほどの目安線から作成したものと概ね合っていると思う。
ウィキペディア深作沼には “ 鶴巻沼(つるまきぬま)とも呼ばれた ” との記述がある。
新編武蔵風土記稿(江戸時代の地誌)の足立郡南部領宮ヶ谷塔村には山川のくだりで鶴巻沼について案内されている。“ 村ノ艮ノ方二アリ ” と記述されているが艮は東北の方角だと思う。
新編武蔵風土記稿深作村にも山川のくだりで鶴巻沼が案内されている。宮ヶ谷塔村、深作村いずれにも “ 東西三十間南北六十間許 ” と記述されている。
農家だった実家は相続やら都市計画やらで跡形もなくなり、幼い頃の遊び場だった深作沼も記憶から薄れておりますが、本日のご高察はかなり子供の頃の思い出と場所が一致しています。地元民でも曖昧になりかねないだけに、地域歴史の面から貴重な資料になるかと思います。
昭和40年代当時、自分たち子供だけだったかもしれませんが、深作沼という呼び方をあまりした記憶がありません。深作地区という呼び名は七里駅側の市街地(田舎集落でしたが)で、田んぼや沼地は宮ケ谷塔の〇〇(泥沼など)と呼んでいました。同じような沼地でも旧綾瀬川の蛇行跡と開墾された深作沼の違いを知ったのは、中学の地理研究部でありました。
慣れたお仕事で充実した日々をお過ごしのようで何よりです。
深作沼が遊び場だったというのでは懐かしい思い出があることでしょう。
地元の方は深作沼と呼んでいなかったようですが、意外でしてた。
綾瀬川の蛇行跡と開墾された深作沼の違いを研究されたことは良い経験だったと思います。