2019年08月09日ブログ(大宮区大原・天沼町を歩く)はこのような道筋を綴った。
緑矢印のところに光荘さんがあった。
赤矢印方向に見た。

光荘さんの表札には「浦和市下木崎天沼」とあって番地が続いていた。
現在ここの住所は「さいたま市大宮区大原7丁目」となっている。
昭和52年発行の地図を見ると天沼下と表示されているところがある。
現在地図(ヤフー)のこのあたり(赤丸)に天沼下と表示されていると思う。
昭和55年発行埼玉県都市地図の浦和市町名索引を見たところ「天沼下」という町名はなかった。天沼下は下木崎の小字だと思う。
平成3年発行埼玉県都市地図で大宮市の天沼町付近を見る。
浦和市の大原付近を見る。
平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』の浦和市住居表示実施状況一覧を見ると、大原1~7丁目は昭和57年8月1日に成立した。
今昔マップ on the webで昭和59年の地図を見る。
昭和51年の地図を見る。昭和59年の大原五丁目付近は天沼下と表示されている。
下木崎は右下に表示がある。平成25年発行青木義脩著『さいたま市 地名の由来』には消えた地名の一つに浦和区下木崎がある。
昭和42年の地図を見る。
昭和24年の地図を見る。下天沼の地名が現在地図のこのあたり(赤丸)に表示されている。現在の大宮区天沼町だと思う。
大宮市の変遷図で明治22年以前を見る。
浦和市の変遷図で明治22年以前を見る。
平成3年地図の大原五、六、七は浦和市変遷図の五、六、七だと思う。
そして大宮市の変遷図の五、六、七だと思う。
ウィキペディア新編武蔵風土記稿を見ると下木崎村は足立郡木崎領に属し、上天沼村・下天沼村は足立郡大宮領に属していた。
昭和7年の大宮町全図で天沼付近を見る。
地図の上が北になるよう回転させる。
現在の大宮区大原6丁目、大原7丁目あたりを流れる川と見沼代用水を青で示す。
明治13年の迅速測図を見る。
見沼代用水を青で示し、等高線と思われるところを赤で示す。
平成5年浦和市発行『図説浦和のあゆみ』所載の縄文時代の海進推定図を見ると6000年前の見沼は海だった。
そのころ等高線のところは入り江だったと思う。
昭和7年大宮町全図の2本の川はこのあたり(青)を流れているのだと思う。
マピオン地図にその川を示すとこのあたり(青)だと思う。大原6丁目、大原7丁目がある。
天沼と木崎の境界線は大宮台地と見沼低地を起源としているのではないかと思う。
政令指定都市となって旧浦和市大原を流れる見沼代用水を大宮区と浦和区の境界線とし、さいたま市大原は大宮区と浦和区に分かれることになった。
大宮区と浦和区の境界線を赤太線で示す。
大原4丁目、大原5丁目、大原6丁目、大原7丁目はこのような位置にある。旧浦和市だった。
大宮区と浦和区の境界線を流れる見沼代用水を青太線で示す。大原6丁目、大原7丁目は大宮区になった。
緑矢印のところに光荘さんがあった。
赤矢印方向に見た。

光荘さんの表札には「浦和市下木崎天沼」とあって番地が続いていた。
現在ここの住所は「さいたま市大宮区大原7丁目」となっている。
昭和52年発行の地図を見ると天沼下と表示されているところがある。
現在地図(ヤフー)のこのあたり(赤丸)に天沼下と表示されていると思う。
昭和55年発行埼玉県都市地図の浦和市町名索引を見たところ「天沼下」という町名はなかった。天沼下は下木崎の小字だと思う。
平成3年発行埼玉県都市地図で大宮市の天沼町付近を見る。
浦和市の大原付近を見る。
平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』の浦和市住居表示実施状況一覧を見ると、大原1~7丁目は昭和57年8月1日に成立した。
今昔マップ on the webで昭和59年の地図を見る。
昭和51年の地図を見る。昭和59年の大原五丁目付近は天沼下と表示されている。
下木崎は右下に表示がある。平成25年発行青木義脩著『さいたま市 地名の由来』には消えた地名の一つに浦和区下木崎がある。
昭和42年の地図を見る。
昭和24年の地図を見る。下天沼の地名が現在地図のこのあたり(赤丸)に表示されている。現在の大宮区天沼町だと思う。
大宮市の変遷図で明治22年以前を見る。
浦和市の変遷図で明治22年以前を見る。
平成3年地図の大原五、六、七は浦和市変遷図の五、六、七だと思う。
そして大宮市の変遷図の五、六、七だと思う。
ウィキペディア新編武蔵風土記稿を見ると下木崎村は足立郡木崎領に属し、上天沼村・下天沼村は足立郡大宮領に属していた。
昭和7年の大宮町全図で天沼付近を見る。
地図の上が北になるよう回転させる。
現在の大宮区大原6丁目、大原7丁目あたりを流れる川と見沼代用水を青で示す。
明治13年の迅速測図を見る。
見沼代用水を青で示し、等高線と思われるところを赤で示す。
平成5年浦和市発行『図説浦和のあゆみ』所載の縄文時代の海進推定図を見ると6000年前の見沼は海だった。
そのころ等高線のところは入り江だったと思う。
昭和7年大宮町全図の2本の川はこのあたり(青)を流れているのだと思う。
マピオン地図にその川を示すとこのあたり(青)だと思う。大原6丁目、大原7丁目がある。
天沼と木崎の境界線は大宮台地と見沼低地を起源としているのではないかと思う。
政令指定都市となって旧浦和市大原を流れる見沼代用水を大宮区と浦和区の境界線とし、さいたま市大原は大宮区と浦和区に分かれることになった。
大宮区と浦和区の境界線を赤太線で示す。
大原4丁目、大原5丁目、大原6丁目、大原7丁目はこのような位置にある。旧浦和市だった。
大宮区と浦和区の境界線を流れる見沼代用水を青太線で示す。大原6丁目、大原7丁目は大宮区になった。
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