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三日坊主

眠たいあたしのひとりごと。

2年経ちました。

2013-03-11 | 独り言
3月11日です。
2年、経ちましたね。


地震があったあの時間、どんな気持ちになるだろう…と考えていましたが、
年度末月の〆日明けの月曜日だった今日は、
午後はとにかく慌ただしくて、気づいたらすっかり日が暮れていました。
今「おつかれさーん」と普通に今日の仕事を終え会社を出、
普通に電車に乗って帰途についています。
意図した訳ではないですが、あの日着てたコートと同じコートだわ今日。
日常が日常であることの有り難さを確認すると共に
まだ震災の最中、復旧の復興の只中にある地を想う。


2年の間に変わったコトと変わらないコトを噛み締める日です。


感謝


黙祷



14年

2012-12-16 | 独り言
14年 アタシがTOMO(オトウト)と一緒に住んだ時間。

18で進学の為、実家を出ました。若くて青くて前しか見てなくて、
それが育った家族との生活の終わりだったなんて考えもしなかった。

4歳年下のオトウトは当時14歳。
思春期ド真ん中、まだヒョロヒョロで少年だったなあ。
多感でね、家族との距離感や学校生活で悩んでいたのは知っていたけど、
アタシは後ろを振り返ることもなかった。
なんせほら、前しか見えてなかったから。


今日はTOMOの30歳の誕生日。
あれから16年が経つってことだ。
もうすっかりオトナになっちゃって。腹なんか出てきちゃってさ。


TOMOと暮らしたのは彼の少年期までの14年、たった14年。


そりゃ、盆暮れ正月の帰省や、
TOMOが東京に進学後はこちらでも会う機会は何度もあったけれど、
でもアタシが知ってる14年より、
もうすっかり長く彼は彼の人生を送っているんだなあ。。。



さて、何をうだうだ呟いているかといいますと・・・

・・・そのTOMOから、結婚式の招待状が届いたのよ。

結婚式の招待状だよ?!


結婚すんのはもちろん知ってる。
最初から大賛成だ。MINAちゃん好きだから、あたし。
数年もずっと前から、早くしないかなーと思ってたさ。
日取りも会場も検討中の頃からそりゃ知ってるさ。


でもさー『招待状』が届いて呆然とした。
なんだかあっけにとられたの。

「と、TOMOから結婚式の招待状が!!」・・・(゜o゜)ポカーン

しばらく開封もできんかった。
いや、ネガティブな感情は一切ないのよ。底抜けにウレシイ。

なんというか・・・万感胸に迫るというか・・・ぐっときたわけです。ぐっと。
不思議な感覚。


なんだろね、キョウダイってのは別の人生を生きる
もう一人の自分みたいな気がするんだ。
性別も人格も異なるけれど、同じ遺伝子を受け継いだもう一人。


彼が望んだ方と添えることを心から嬉しく思います。
伴侶と強い絆を編み、幸せな人生をおくって欲しい。


30年前の今日を、私は覚えてる。
なんだかこう、むやみと誇らしかったわ。


30歳のお誕生日おめでとう。
30年のアナタの人生におめでとう。
悔いなき佳き人生を、佳き伴侶と。




んーーー、あたしブラコンぽい?どうだろ。
でもキョウダイカゾクが特別なのなんて、自然なことだかんね。いいんだもんね。

730

2012-07-30 | 独り言
なみまるの日。


外は焼けたアスファルトの匂い。陽炎。
ヤケドしそうなくらい、暑い熱い一日。


世界はオリンピックに熱狂。
日本は毎晩熱帯夜、良いニュースも悪いニュースも相変わらず。
我が家は夕顔が咲きました。朝顔はまだみたい。

あたしは13時間とちょっと寝ましたよ。絶好調。



ここに、アナタがいないというフシギ。

葬送

2012-06-19 | 独り言
ばあちゃんを、送りました。
みんなで送った一週間の記録としてここに書いておきます。


6月13日夜、実家の祖母が永眠しました。84歳でした。


9・10日の土日、病状悪化の報せに夫と弟と病院にお見舞いに行った時は
比較的安定していて話もできて、私達また来るねって言ったら
ばあちゃんは酸素マスクの下から「ありがと、またこぅや」(またおいで)と笑ってくれて。

12日の夜、残業してたら危篤との知らせ。
会社からそのまま新幹線に飛び乗り病院へ、
その夜一晩と13日夕方遅くまで病室でずっと過ごしました。

じいちゃん、父母と叔父叔母、従妹達と夜通しずっとばーちゃんを囲んで。

時折意識の戻るばーちゃんにみんなで話しかけて笑いかけて、歌を歌って昔話をして。
病室の床にバスタオルを敷いて交代で仮眠をとりながら、ばーちゃんの手を握って足をさすった。
さすりすぎて掛けてたタオルケットはだんだん毛羽立っちゃってた。

仮眠中の親達に代わって従妹と3人(ばーちゃんの孫娘全員)で
ばーちゃん撫でながら久しぶりに沢山はなしながら、夜明けを迎えました。
現実感のない、不思議な透明な時間でした。

13日朝、新幹線始発で弟が到着し「TOMO来たよ」って話しかけたら
ばーちゃんは目を開けて、TOMOの顔みて嬉しそうに笑った。

そしてなんとこの朝、従兄JUNにいちゃんの奥さんが産気づいたとの報せ有。
JUNくんはNAOMIちゃんについていて来れないけど、ばーちゃんにとっては初ひ孫。
病室のみんなで安産を祈る。

日中、3日間ろくに寝ていない祖父父母叔父叔母イトコがいったん帰宅し
まだ体力の残っている弟と私とばーちゃん、3人だけで病室で半日を過ごす。
ばーちゃんは歌が好きだったから、ばーちゃんの知ってそうな歌をひたすら弟と歌う。
校歌とか県歌とか童謡とか。 意識は殆どないのに歌ってると何故か数値が良くなるフシギ。
美味しいものも大好きだったから、弟が結婚する予定のホテルの披露宴メニューを朗読する。

夕方、ふたたび両親や叔父叔母、従妹達が病室に戻る。
床にレジャーシート敷いてベットまで食卓にしてばーちゃん囲んでみんなでお弁当を食べる。
病室なのにお花見みたいな有様になってて、
看護師さんが「賑やかですね、おばあちゃん良かったね」って笑う。

しかし、医師より血圧と脈拍がだんだん下がっているので今夜のうちでしょう、とお話が。
もう回復することはない、とわかっていても信じられない。

ご飯後、私は仕事の始末もありどうしても一旦帰京する必要があったので
家族に後を任せて夜19時頃病室を出ました。
ここまできたら、どうなってももう悔いはないと覚悟してたなぁ。

22時頃、自宅最寄駅についた瞬間、父から携帯に着信が。
とっさに取れなかったんだけど、折り返すまでもなく内容はわかったよ。

肺の病気だったからもっと苦しくても不思議じゃなかったんだけど、
穏やかに眠るように夫(じいちゃん)と孫息子(弟)に手を握られて、息子(父)が見守って、
娘(叔母)と嫁さん(母)に足をさすられながら、みんなに囲まれて旅立ったそうです。
看取った弟から、見事な最期でした、と聞きました。

発症してから約2年、急性増悪から約10日、あと半日と告げられてから一日半。
よく病気と戦いつつ共存しつつ、がんばってくれました。
兄弟旅行にも家族旅行にもたくさん行きました。
5月には私も旅行に行ったもの、お風呂に二回も一緒に入ったの。
(先月の旅行)
死ぬ気はぜんぜん無さそうだったけど、それでも満足な人生だったと思っててくれてたらいい。


そしてばあちゃんが息を引き取る二時間前に、JUNくんとこに男の子が誕生。
ばあちゃん初曾孫です。 命の神秘と連なりを実感。

木曜日、ウチに帰宅したばあちゃんに会いにたくさんの人が来てくれました。
金曜日、お通夜とニッカン(納棺)と通夜振る舞い、
土曜日、焼き場とお骨上げと告別式と灰寄せと納骨、

無我夢中のうちに、無事すべて終わりました。

お通夜は自宅だったし、地元流の葬儀一連はとにかく慌しいもので、
やることは山盛り、来客も山盛りで(朝6時からヒトが来る!)
家族はまたしてもろくに睡眠時間もとれない忙しさでしたが、
その分めそめそしてる暇がナイってのも意味があることなのだろう。

佐久流を初めて経験した都会出身の私の夫や弟の婚約者まで精一杯協力してくれ、
良い葬式って言っていいのかわからないけど、
めったにないほど良い葬儀を出せたのではないかと思います。

書道の師範だったばあちゃんは村の子供に書道を教えていました。
教え子達が半紙に書いた作品を持ってきてくれました。
葬儀屋の担当者くんは、同じ村の昔ばあちゃんに書道を教わったという若者でした。

それもあって、私と従妹でばあちゃんの筆と墨を引っ張り出してきて
家族や親族、希望者で空き時間にばあちゃんへのメッセージを書いてみた。



最初は不謹慎ながら遊び半分だったんだけど、だんだんみんな真剣になって、
下手ながら一生懸命、時に泣きながら笑いながら書いたよ。
枕元に飾った後、ニッカンの際にみんな自分の手で棺に入れました。


長くて濃密で強烈な一週間でした。
これほど親族家族の繋がりを感じたことも初めてでした。

明るくて素直で裏のない、いくつになってもお嬢さんのような
かわいいおばあちゃんでした。
そんでデリカシーがなくってでしゃばりで欲ばりで(笑)
反抗期の頃には私も弟もずいぶん反発したものです。


おしゃべりなのと出しゃばりと粉モノ好きは私が似ています。
見た目と体質は父がよく似ています。
目が大きくてよく動く表情は従妹が似ています。
可愛い声は叔母が似ています。歌が好きなのは弟が継いだかな。
字が上手いのは・・・今んとこ誰も継いでないけど、いつかその血が発現することもあるでしょう。


もう会えないけど、みんなの中にばあちゃんはいるんだわ。


私のおばあちゃんとして33年、62年の結婚生活、84年の生涯、
力強くしなやかで華やかな見事な人生を尊敬します。



おつかれさまでした。たくさんたくさんありがとう。

いずれまたどこかで会いましょう。

祈り

2012-06-12 | 独り言
こんな時に、近くに居ることができなくてごめん。
でもずっと祈ってる。

そばに居ても
手を握ってたくさんお喋りするくらいしか私にできることはないけど、
それでも私が居ると賑やかで楽しい、と言ってくれるから嬉しいよ。
また会いに行く。行くから待ってて。

話したいことがたくさんあるよ。

また温泉に行こう。わたし介助するからさ、何度でも入れるよ。
ママは風呂ぎらいだし、お風呂好きの私たちで長湯しよう。
TOMOの結婚式に出よう、JUNくんのベビーも抱こう。


家族も親戚もクルワの衆も一族の人達もお友達もご近所さんも、奇跡を願ってる。
さっすがばあちゃん、根性が違うよね!って言うんだ。
あんときゃさすがに肝が冷えたわい、って一緒に笑うんだ。




東京は梅雨入して、紫陽花が元気です。
綺麗な青です。

NICO’s DAY

2012-04-14 | 独り言
NICOちゃんは笑っててと言った。 たぶんね。


だからさ、できるだけ笑ってようと思うのよ。
ごきげんで居たいのよ。

お目出度いヤツと思われてもいいの、阿呆かと思われてもいいのん。


NICOちゃん、あたし楽しそうでしょー

楽しいよ




LOVE&PEACE

一年

2012-03-11 | 独り言
もう一年、

まだ一年、

あの日から一年経ちますね。


あの、混乱した緊迫した空気を覚えています。
錯綜する情報、繋がらない電話、揺れる大地。


あの日から変わったことと変わらないことをかみしめて。


黙祷。

MerryChristmas

2011-12-25 | 独り言
あとちょっと、もちょっとだけでもここにいたら良かったに。

そしたらもっとたくさん美味しいものを用意できたし、
もっとたくさん綺麗な場所に一緒にも行けたし、
もっともっと思い出もつくれたのよ。

また会うことはできるけど、
あたし達は今ここで、あなた方ともう少し一緒にいたかった。



喜びと悲しみは表裏一体であるからにして、
出会ったならば必ず別れは来るもので、
その時がいつどのように訪れるかは誰にもわからないし、
まして意のままにできる訳もなく。
時と事象が流れ行くままに身を任せるしかなくて。


若くて無知で力に溢れ、未来はぜんぶ自分のもんだと思っていた頃、
運命なんてのは自分で切り開くもんでしょう、
従容として受け入れてなんかやらん!と息巻いてた。

どう足掻いても抗ってもどうにもならんこともある。
それを知って自分の人生にがっかりしたかと言えば、そうでもナイな。


別れの予感とそれをただ待つ間、
意識はだんだん拡がって、感覚はどんどん研ぎ澄まされて、
全て受け入れることが私にできる最善だと解った。


静かな夜に今はただ、ほんのり優しくあたたかな名残を惜しむ。

いつか、また会いましょうね。

葉っぱの日

2011-08-08 | 独り言
立秋


まだ、そんな気配もナイけどそろそろ秋が立つ模様。
夏も盛り、蝉も盛り、ってことは夏はもう終わりに向かうんだね。

今日もあっつあつほっかほかの一日でした

夕方の今、蝉時雨の合間にゴロゴロ遠雷が聞こえます。
昨日みたくまた激しい雷雨になるかしら。電車止まると困るんだけどー




八月八日は葉っぱの日。私達がそう決めました。
元気ですか、みんなと楽しくしていますか。
もうじきお盆です。いつでも帰っておいで。

今朝は朝顔がふたつ咲きましたよ。
透明な薄桃色と、滲みるような濃紫色でした。