ばあちゃんを、送りました。
みんなで送った一週間の記録としてここに書いておきます。
6月13日夜、実家の祖母が永眠しました。84歳でした。
9・10日の土日、病状悪化の報せに夫と弟と病院にお見舞いに行った時は
比較的安定していて話もできて、私達また来るねって言ったら
ばあちゃんは酸素マスクの下から「ありがと、またこぅや」(またおいで)と笑ってくれて。
12日の夜、残業してたら危篤との知らせ。
会社からそのまま新幹線に飛び乗り病院へ、
その夜一晩と13日夕方遅くまで病室でずっと過ごしました。
じいちゃん、父母と叔父叔母、従妹達と夜通しずっとばーちゃんを囲んで。
時折意識の戻るばーちゃんにみんなで話しかけて笑いかけて、歌を歌って昔話をして。
病室の床にバスタオルを敷いて交代で仮眠をとりながら、ばーちゃんの手を握って足をさすった。
さすりすぎて掛けてたタオルケットはだんだん毛羽立っちゃってた。
仮眠中の親達に代わって従妹と3人(ばーちゃんの孫娘全員)で
ばーちゃん撫でながら久しぶりに沢山はなしながら、夜明けを迎えました。
現実感のない、不思議な透明な時間でした。
13日朝、新幹線始発で弟が到着し「TOMO来たよ」って話しかけたら
ばーちゃんは目を開けて、TOMOの顔みて嬉しそうに笑った。
そしてなんとこの朝、従兄JUNにいちゃんの奥さんが産気づいたとの報せ有。
JUNくんはNAOMIちゃんについていて来れないけど、ばーちゃんにとっては初ひ孫。
病室のみんなで安産を祈る。
日中、3日間ろくに寝ていない祖父父母叔父叔母イトコがいったん帰宅し
まだ体力の残っている弟と私とばーちゃん、3人だけで病室で半日を過ごす。
ばーちゃんは歌が好きだったから、ばーちゃんの知ってそうな歌をひたすら弟と歌う。
校歌とか県歌とか童謡とか。 意識は殆どないのに歌ってると何故か数値が良くなるフシギ。
美味しいものも大好きだったから、弟が結婚する予定のホテルの披露宴メニューを朗読する。
夕方、ふたたび両親や叔父叔母、従妹達が病室に戻る。
床にレジャーシート敷いてベットまで食卓にしてばーちゃん囲んでみんなでお弁当を食べる。
病室なのにお花見みたいな有様になってて、
看護師さんが「賑やかですね、おばあちゃん良かったね」って笑う。
しかし、医師より血圧と脈拍がだんだん下がっているので今夜のうちでしょう、とお話が。
もう回復することはない、とわかっていても信じられない。
ご飯後、私は仕事の始末もありどうしても一旦帰京する必要があったので
家族に後を任せて夜19時頃病室を出ました。
ここまできたら、どうなってももう悔いはないと覚悟してたなぁ。
22時頃、自宅最寄駅についた瞬間、父から携帯に着信が。
とっさに取れなかったんだけど、折り返すまでもなく内容はわかったよ。
肺の病気だったからもっと苦しくても不思議じゃなかったんだけど、
穏やかに眠るように夫(じいちゃん)と孫息子(弟)に手を握られて、息子(父)が見守って、
娘(叔母)と嫁さん(母)に足をさすられながら、みんなに囲まれて旅立ったそうです。
看取った弟から、見事な最期でした、と聞きました。
発症してから約2年、急性増悪から約10日、あと半日と告げられてから一日半。
よく病気と戦いつつ共存しつつ、がんばってくれました。
兄弟旅行にも家族旅行にもたくさん行きました。
5月には私も旅行に行ったもの、お風呂に二回も一緒に入ったの。
(先月の旅行)
死ぬ気はぜんぜん無さそうだったけど、それでも満足な人生だったと思っててくれてたらいい。
そしてばあちゃんが息を引き取る二時間前に、JUNくんとこに男の子が誕生。
ばあちゃん初曾孫です。 命の神秘と連なりを実感。
木曜日、ウチに帰宅したばあちゃんに会いにたくさんの人が来てくれました。
金曜日、お通夜とニッカン(納棺)と通夜振る舞い、
土曜日、焼き場とお骨上げと告別式と灰寄せと納骨、
無我夢中のうちに、無事すべて終わりました。
お通夜は自宅だったし、地元流の葬儀一連はとにかく慌しいもので、
やることは山盛り、来客も山盛りで(朝6時からヒトが来る!)
家族はまたしてもろくに睡眠時間もとれない忙しさでしたが、
その分めそめそしてる暇がナイってのも意味があることなのだろう。
佐久流を初めて経験した都会出身の私の夫や弟の婚約者まで精一杯協力してくれ、
良い葬式って言っていいのかわからないけど、
めったにないほど良い葬儀を出せたのではないかと思います。
書道の師範だったばあちゃんは村の子供に書道を教えていました。
教え子達が半紙に書いた作品を持ってきてくれました。
葬儀屋の担当者くんは、同じ村の昔ばあちゃんに書道を教わったという若者でした。
それもあって、私と従妹でばあちゃんの筆と墨を引っ張り出してきて
家族や親族、希望者で空き時間にばあちゃんへのメッセージを書いてみた。
最初は不謹慎ながら遊び半分だったんだけど、だんだんみんな真剣になって、
下手ながら一生懸命、時に泣きながら笑いながら書いたよ。
枕元に飾った後、ニッカンの際にみんな自分の手で棺に入れました。
長くて濃密で強烈な一週間でした。
これほど親族家族の繋がりを感じたことも初めてでした。
明るくて素直で裏のない、いくつになってもお嬢さんのような
かわいいおばあちゃんでした。
そんでデリカシーがなくってでしゃばりで欲ばりで(笑)
反抗期の頃には私も弟もずいぶん反発したものです。
おしゃべりなのと出しゃばりと粉モノ好きは私が似ています。
見た目と体質は父がよく似ています。
目が大きくてよく動く表情は従妹が似ています。
可愛い声は叔母が似ています。歌が好きなのは弟が継いだかな。
字が上手いのは・・・今んとこ誰も継いでないけど、いつかその血が発現することもあるでしょう。
もう会えないけど、みんなの中にばあちゃんはいるんだわ。
私のおばあちゃんとして33年、62年の結婚生活、84年の生涯、
力強くしなやかで華やかな見事な人生を尊敬します。
おつかれさまでした。たくさんたくさんありがとう。
いずれまたどこかで会いましょう。