真理の喧嘩日記

子宮頸がん闘病記録

それまでのこと 5

2002年10月07日 00時00分00秒 | Weblog
結果が出るまで自宅待機の予定であったが
3日後病院から電話があり
追加の検査をしたいので来院せよとのこと。
早速出かける。
初日にしたのは「細胞検査」。
今回するのは「組織検査」だそうだ。
細胞検査は膣内の粘膜を擦り取るだけだから、
痛くも痒くもなかったが
組織検査は組織の一部を切り取るので痛いそうだ。

「ちくっとしますよ。」
かなり痛かった。

「組織検査の結果はいつになりますか?」
予定の変更が続くのは精神衛生上よろしくない。
「うーん、1週間後かな?」
初診の時には随分焦っていたくせに
今回は妙に落ち着き払っている医師の態度が解せない。
「来週の月曜日には細胞検査の結果が出るんですよね?」
「そうね。でも、ビランの症状もあるから明日も治療に来てよ。」
金曜日、「ちょっとまた検査するから。」
何の検査なのか説明もないままだ。
後に細胞検査の追検査だと分かる。
医師に対する不信感が募る。

月曜日、細胞検査の結果が出る日。
学くんがまた会社を休んで付き添ってくれる。
「診察室まで一緒に行ってもいいよ。」と申し出てくれるが辞退する。
いよいよ検査の結果が分かるのか・・・。
何とも言えない気持ち。
診察室に呼ばれる。
「組織検査とこの間の追検査の結果が出てないから、
今日は何とも言えないんだよね。
いつ分かるのか?
そりゃ検査センターの都合だからさ、
僕にも分かんないんだよね~。」
はぁっ?!

「わたしは自分が癌である可能性も含めて検査の結果を待っています。
だいたいでいいので結果の出そうな日にちを
教えていただく訳にはいかないんでしょうか?」
「え・・あ・・そうなの。
じゃあ、家族の人に付き添ってもらわなきゃならないようなら
またこちらから連絡するから。」

なんじゃ?その言い草は?
ぐっと言葉を呑みこむ。

その話をするとみんな憮然とする。
周囲も苛立っている。
でも、一番いらいらしてるのはわたし自身だ!

「検査の結果が出ました。家族の方と来て下さい。」
病院から電話があったのは10月4日金曜日だった。
「家族」の同伴を求めるということは、そういう結果だということ・・・。
はっきり言ってるようなものだ。
心の中で「やっぱり。来るべき時が来た。」と声がした。
学くんと斉くんが付き添うと言ってくれる。

2号ちゃんも毎日、電話やメッセで心配してくれている。
今回のことを打ち明けた数人の友達も
「祈ってるから!」と励まし続けてくれている。
仕事の都合が付くということで学くんに着いて来てもらうことにする。
本当は一人で行こうかとも思ったのだが、返って心配させてしまうだろう。

10月7日月曜日午後12時15分。
U産婦人科クリニック診察室。
「子宮頸癌です。」
医師はゆっくりと宣告した。
「はい。そうですか。分かりました。」
静かにわたしは答えた。

告知の瞬間、そしてその後・・・
わたしは自分で考えていたとおり取り乱しはしなかった。
冷静である筈はないが、うろたえもしなかった。
覚悟が出来ていたのと、これからどうするべきかに気をとられ
おたおたしている余裕等なかった。

信頼関係の無い医師にこれ以上治療を依頼するつもりはなかったので
宛名のない紹介状を書いてもらって新しい病院を探すべく
すぐに行動を起こさなければならなかった。
紹介状は案外すんなり書いてもらえた。

午後、隣町の評判のいい産婦人科の診察を受けようと予約。
斉くんの知人の親族がその病院で子宮頸癌の手術を受けたのだと言う。
山向こうの大学病院の医師も出張で立ち会ってくれるらしい。
午後の予約を取ることが出来たので
すぐに出発する。

が、診断書を見るやいなや医師は
「こんな町医者の手に負えるものじゃない!
もっと大きな病院に行かなきゃ駄目だ!」と怒鳴った。
悔しかった。そんな物言いをされる覚えはない!

事実を把握できてない訳じゃない。
馬鹿にすんじゃねぇぞ!くそじじぃ!
最初の奴といい、お前といい、医者が少ない田舎だからって、
腕も知識も無いくせに偉そうな面してのさばってんじゃねぇ!!

いつもなら、言ってたな・・・絶対。
だけど、今は無駄なエネルギーを使ってる場合じゃないという
自制心は残っていたようだ。