真理の喧嘩日記

子宮頸がん闘病記録

それまでのこと 4

2002年09月24日 00時00分00秒 | Weblog
出かける前から、鉤次郎(黒猫)の様子がおかしいことは気づいていた。
病院から帰ったらすぐに獣医に行くつもりだった。
「行ってきます。」わたしの呼びかけに
いつものように瞬きで答えてくれたのに・・・。

帰宅すると鉤次郎の様子は明らかに悪化していた。
じっとうずくまったまま動こうとしない。
呼びかけにも反応しない!
獣医に走る。
検査を受けて輸液。
「肝臓の数値以外、異常はない・・・。
何か毒物を摂取しないとこういう状態にはならない筈なんですが。
人間の風邪薬の中に猫にとっては猛毒となるものがあるんですが
薬を出しっぱなしにしたようなことはありませんか?」
しかし、心当たりは全く無い。
もし、そんなものが家の中にあったら仔猫の足袋が
真っ先に犠牲になっている筈だもの。
「何かあったら電話を下さい。
いつでも出られるように待機していますから。」
獣医は鎮痛な面持ちでそう言った。
充分な保温を指示されただけで帰宅する。

横浜の学生寮に暮らす息子に電話をかける。
鉤次郎はもともと息子の猫だった。
鉤次郎が危篤であることを伝える。
「明日、朝一でそっちに帰るよ。」

電話を切って1時間。
息子の帰りを待たず鉤次郎は逝ってしまった。
わたしの腕の中で静かに逝ってしまった。

あんまりにも突然だったので呆然としていた。
朝、獣医に連れていっていれば、あるいは助かったのかも知れない。
そう思うとやりきれない。
「真理さんの悪いところを鉤が持って逝ってくれたんだよ。
鉤はお利口さんだったから。」
みんなはそう言ってくれるけれど・・・余計に悲しみが増す。

翌朝、斉くん、帰宅した息子と3人で三島にあるペットの火葬場まで向かった。
準備の出来る間、箱の中の鉤次郎を黙って撫で続ける息子を見てると
涙が出そうになった。
自分のことでいっぱいいっぱいだった・・・。
心の中で謝り続ける。
ごめんね、カギ・・・。
原因が分からないまま、猫を死なせてしまった自責の念と
病院での出来事が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って
辛かった。


それまでのこと 3

2002年09月20日 00時00分00秒 | Weblog
産婦人科なんて何年ぶりだろう。
最後に子宮癌の検診を受けたのはいつのことだったか。
10年も前だ・・・。
今更だが反省。

待合室はピンクのパステルカラーで
若い妊婦と子宮癌検診を受けに来た中年の女性たちで混んでいた。
同年代の女性たちに救われる。
1時間ほど待ってわたしの名前が呼ばれる。
まず問診。
簡単に今の状況を話す。
「では内診台の方へ。」
促されるまま内診台のある別室に入る。
カーテンで仕切られた内診台は3台。
子宮がんの集団検診の時には流れ作業なのだろうか。
医師は一人しかいないのだから・・・。
微かに不安が過ぎる。

いつも思うことだが、内診台に乗るのは気持ちのいいものではない。
抵抗を感じないのは出産のときくらいだろうか。
カーテンの向こう側に人の気配がして
「はい、楽にしてくださいね。器具が入ります。」と
声をかけられる。
そう言われた途端、身体が緊張でこわばる。
金属の器具が身体に触れる。
「うっ!」
ここで声を上げるのはわたしのはずだった。
が、わたしより先に医師がうめき声を上げる。

「こんな大きいのは・・・見たことがない!!」
え?なに?なにが?
状況が全く飲み込めないでわたしはうろたえる。
それにしても無神経な医師だ。
しかしその時は、医師に対する怒りよりも自分の中にある
「大きい」と言われた「何か」
医師を驚愕させた「何か」に
わたしの意識は集中していたのだった。
「細胞検査をします。」

その後、再度医師の前に呼ばれる。
「細胞を検査センターに出します。
至急で出しましたので
今週中には結果が出ると思います。
結果が出たら連絡しますから。」

強調された「至急」という言葉に
特別な意味があることを感じる。

心が少し震えた。怯えているのだろうか?

斉くんに電話をする。
自分でも意外なほど声はしっかりしている。
「多分、癌だと思う。」

友達にメールする。
「やっぱり癌かも。」

学くんが駐車場で待っていてくれた。
仕事を休んで運転手を買って出てくれたのだ。
「ごめん、駄目だと思う。」

3人が答える「まだ、はっきりした訳じゃないじゃん!」

しかしその時、わたしは自分が癌であることを知っていたのだと思う。
わたしは癌だ。
でも、そうは言えなかった。

それまでのこと 2

2002年09月01日 00時00分00秒 | Weblog
初夏、何となく帯下が増えた気がする。
無色透明、水溶性でさらさらしている。
さほど気に止めずに過ごした。
仕事の集中する夏を前にして
体力をつけておかなければいけないのだが
心配していた食欲も戻っていた。
仕事も順調だった。

それにしても疲れる・・・。
これも更年期障害の前兆だろうか。
この頃、身体の変調は全て更年期障害のせいにしていた。
無理せず少しずつ仕事をこなそうと自分をかばう。
周囲はみんな「真理さんは相変わらずタフだね~。」と言ってくれる。
自分でもそう思い込もうとしていた。

7月、生理は正常。
が、帯下の量が増える。
日常のエチケットナプキンでは収まりきれない。
時々、血液が混じっているかな?と思うようなこともあった。
しかし、微量なので気になるほどのものではないだろう。
もちろん、この考えは間違っている。
例え微量であっても不正出血があったら、
直ちに病院に行って検査を受けるべきだったのだ。
しかし、わたしはこのサインも見逃した。
いや、見過ごした。
夏本番、仕事が忙しかった。
それが最大の言い訳だった。

8月、帯下が粘り気を帯びてくる。
相変わらず無色、無臭だ。
この一点で不安を打ち消そうとしていた。
しかし、どう考えても何かが進行している、悪化しているに違いない。
「夏が終わったら、病院に行ってみよう。」
拙い知識の中で子宮筋腫かも知れない、あるいは・・・という思いがよぎる。
あるいは・・・?

9月、連休が続く。仕事は夏並みに忙しい。
そこへ北海道の友人M枝の突然の訃報が飛び込んでくる。
行かなければいけない。
何故か強くそう思った。
友人T子の後押しもあって、北海道に飛ぶ。
無事葬儀に出席。
M枝の子供達とも久しぶりに顔を合わせ
ふれあいのひと時を持つことが出来た。
無理を押して出かけて良かった。

M枝の死因は乳癌。
ほとんど末期まで放置していた結果だった。
9月最後の連休が終わったら・・・病院へ行こう。
決心した。

帰宅後、まめぢと斉くんと海へ行く。
今年最後の海水浴。楽しかった。



連休明け、生理が始る。どうしよう?
しかし、もう時間をおいてはいけない、そんな気がした。
市内の産婦人科を電話帳で探す。
地元で一番規模が大きいのは「市民病院」なのだが、
そこに行く気はしなかった。
十二指腸潰瘍で入院したことがあるから良く知っている。
外来の待合室が内科も外科も全部一緒だというのがいただけない。
狭い地域社会だ。
誰に会うか分かったものではないのだ。
この歳になったからこそなお更、産婦人科の敷居は高い。
で、町の個人経営の産婦人科医院を選ぶ。
どれも似たり寄ったりのような気もしたが
中でも有名な医院・・・縁のないわたしでも知っている知名度のあるところ
を選択した。
「生理が始ってしまったんですけど、診察していただけますか?」
電話で問い合わせてみる。
構わないとのこと。
予約を入れる。