言葉足らずは、心足らず・・・
この言葉は、娘が幼い頃に私が言い続けたフレーズです。今思い返せば、私の「躾(しつけ)」の中でも、かなり上位に来る、人として覚えていて欲しい事、わかっていて欲しい事、だったと思います
しかし、ティーンエイジャーという多感な時期にあって、学校では友人関係で揺れ、近づいてくる大学受験を不安に思う娘にとっては、頻繁に言われる私のこの言葉は時には残酷な忠告であったかもしれません
とは言え、まさに「人としての成長期」にある娘を前にした時、私はいつも娘の気持ちを最優先にするよりも、今だからこそ言わなければ
という気分でした。
昨日、買い物に立ち寄った先で、ベビーカーを押しているご夫婦と一緒になりました


あまり混んだお店ではありませんでしたが、通路ですれ違う時には毎回、ベビーカーと接触しそうになります。ベビーカーの中でスヤスヤと眠る赤ちゃんのことを思うと、決してぶつかることなく、スムーズにすれ違わなくてはな・・・と思いました。
ただ、ベビーカーを押すパパも、ママも、私や夫のみならず、他の客とぶつかることにはあまり頓着がなかったのか、あまりそのことを気にされてはいないようでした。
さすがに私も年を取りましたからね
若い頃のように、何でもかんでも「ムカッ
イラッ
」とはしなくなっています、はっはっは
でも、もしこの方達とすれ違う時、「すみません
」「失礼します
」というお声がけがあれば、少なくとも、その場の空気は柔らかくなったのではないかな・・・とも感じました。
ベビーカー云々という話ではなく、私達は暮らしの中で、否が応にも「狭い所で人とすれ違う」「故意ではないけれど、少しぶつかりそうになる」ということがあります。そんな時、ひと声「すみません
」「失礼します
」と表情を崩して言葉にして発するだけで、その場の空気は和んだものになります
同じような言葉はいろいろありますね

「お先に(失礼します)」「(どうぞ)お先に」「前を失礼します」などなど。
エレベーターから降りる時にも、こういうふうな「言葉があれば空気が和む」というシチュエーションでしょう
言葉足らずは、心足らず・・・
言葉というものは、なかなか一人歩きはしないものです。「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」というような挨拶でさえ、その言葉の中に「心、気持ち」が伴わなくては、なかなかスムーズに発することができないこともあるでしょう
もう二度と会わないであろう人達と空間を共にする買い物先、電車、バス、さまざまな場所・・・そんな自分の人生と深く関わることがない人が相手であっても、偶然にも同じ空間に居合わせることになったのです
その場では、同じ舞台に立った共演者
ほんの少しでも、相手を思う気持ちを持てば、自然と言葉も出ているのではないでしょうか?
特に、子育てをしている最中は、子ども達は親の行動、親の言動を見ています。そして、その姿を見て感じ、学び、そして真似をしながら成長していきます
本当ですよ・・・
この言葉は、娘が幼い頃に私が言い続けたフレーズです。今思い返せば、私の「躾(しつけ)」の中でも、かなり上位に来る、人として覚えていて欲しい事、わかっていて欲しい事、だったと思います

しかし、ティーンエイジャーという多感な時期にあって、学校では友人関係で揺れ、近づいてくる大学受験を不安に思う娘にとっては、頻繁に言われる私のこの言葉は時には残酷な忠告であったかもしれません

とは言え、まさに「人としての成長期」にある娘を前にした時、私はいつも娘の気持ちを最優先にするよりも、今だからこそ言わなければ

昨日、買い物に立ち寄った先で、ベビーカーを押しているご夫婦と一緒になりました



あまり混んだお店ではありませんでしたが、通路ですれ違う時には毎回、ベビーカーと接触しそうになります。ベビーカーの中でスヤスヤと眠る赤ちゃんのことを思うと、決してぶつかることなく、スムーズにすれ違わなくてはな・・・と思いました。
ただ、ベビーカーを押すパパも、ママも、私や夫のみならず、他の客とぶつかることにはあまり頓着がなかったのか、あまりそのことを気にされてはいないようでした。
さすがに私も年を取りましたからね




でも、もしこの方達とすれ違う時、「すみません


ベビーカー云々という話ではなく、私達は暮らしの中で、否が応にも「狭い所で人とすれ違う」「故意ではないけれど、少しぶつかりそうになる」ということがあります。そんな時、ひと声「すみません



同じような言葉はいろいろありますね


「お先に(失礼します)」「(どうぞ)お先に」「前を失礼します」などなど。
エレベーターから降りる時にも、こういうふうな「言葉があれば空気が和む」というシチュエーションでしょう

言葉足らずは、心足らず・・・
言葉というものは、なかなか一人歩きはしないものです。「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」というような挨拶でさえ、その言葉の中に「心、気持ち」が伴わなくては、なかなかスムーズに発することができないこともあるでしょう

もう二度と会わないであろう人達と空間を共にする買い物先、電車、バス、さまざまな場所・・・そんな自分の人生と深く関わることがない人が相手であっても、偶然にも同じ空間に居合わせることになったのです


ほんの少しでも、相手を思う気持ちを持てば、自然と言葉も出ているのではないでしょうか?
特に、子育てをしている最中は、子ども達は親の行動、親の言動を見ています。そして、その姿を見て感じ、学び、そして真似をしながら成長していきます

本当ですよ・・・
母娘クライシス、という言葉を耳にするようになりました。
昨年末、NHKの特報首都圏という番組で「母娘クライシス」の問題が取り上げられ、今まで以上にこの問題に関心を持つようになったお母様達も少なくはないでしょう。
昔から、暴力的行為さえなければ、母と息子の関係は比較的良好です
「うぜーんだよ
」と言われ、「くそばばー
」と蔑まれても、案外、悲しい思いをしながらも、息子の暴言は受け止められ、いつまでも息子はかわいいと思う
という母親は多いものです。
しかしその一方で、すでに幼稚園に通うような幼児が相手でも、娘との関係に悩む母親は多いのですね。そして、娘がティーンエイジャーになってくると、どんどんその関係は難しくなり、深刻になっていきます(じつは、父と息子の関係も難しいものですが)
母親は娘と同性であるがゆえに「私なら~~するのに
」とか「私は~~しない
」と自分に重ね合わせ、心の中で娘の言動、行動を批判します。
これが、愛情に満ちた「アドバイス」であれば良いのですが、大抵の場合、それは「非難」であったり「忠告」であったり、「文句や愚痴の類」である場合がほとんどでしょう
息子の行動が理解不能であっても、「私は女だから、男の子のことはわからないのだわ
」と、あっさりギブアップもするのでしょうが、娘の場合には、最後の最後まで重箱の隅をつつくようなバトルになってしまう・・・
こじれてしまった関係を修復することは、本当に難しいです。
たどっていくと、その関係は幼児期にまで遡り、すでにその時点でボタンの掛け違いをしていた、ということが多いです。そうなると、一朝一夕には、関係の改善はできません
しかし。
まずは考えてみてください。「母親」「大人」「人生の先輩」「年長者」ということを振りかざし、娘に多くを求めすぎていませんか?
自分が若い頃に間違ったことは、娘には間違わせたくない!という思いで忠告をし、自分が上手くこなしたことは、自分と同じ道、同じ方法を強いる・・・無意識のうちに、自分のしえなかった夢を必死に託していたり、自分の過去の行いの自画自賛になっていたり・・・そんなことはないでしょうか?
そして、知らず知らずのうちに、子どもの姿を見ることなく、子どもの声を聞くことなく、「母親」という錦の御旗をかざしていないでしょうか?
子どもに寄り添うこと
決して簡単なことではありませんね。しかし、自分が母親として言っていることは「善」であり「正」であったとしても、あなたは「母として善」でしょうか?
ほんの少しでも、子どもの言葉を聞こうとしていますか?
頭ごなしに、この子は未熟なんだからと、子どもが口を開くたび眉間に皺をよせ、耳のシャッターを下ろして、自分が「善」として話す体制になっていませんか?
子どもは、本当は母親であるあなたと、時間を共有し、同じものを見て、同じように美しい!と感じ、きれいだねえと共感しあいたいと思っているのですよ。
優しい心で我が子を見ていますか?
母親は、本当にいつも「善」なのでしょうか?
昨年末、NHKの特報首都圏という番組で「母娘クライシス」の問題が取り上げられ、今まで以上にこの問題に関心を持つようになったお母様達も少なくはないでしょう。
昔から、暴力的行為さえなければ、母と息子の関係は比較的良好です




しかしその一方で、すでに幼稚園に通うような幼児が相手でも、娘との関係に悩む母親は多いのですね。そして、娘がティーンエイジャーになってくると、どんどんその関係は難しくなり、深刻になっていきます(じつは、父と息子の関係も難しいものですが)
母親は娘と同性であるがゆえに「私なら~~するのに


これが、愛情に満ちた「アドバイス」であれば良いのですが、大抵の場合、それは「非難」であったり「忠告」であったり、「文句や愚痴の類」である場合がほとんどでしょう

息子の行動が理解不能であっても、「私は女だから、男の子のことはわからないのだわ

こじれてしまった関係を修復することは、本当に難しいです。
たどっていくと、その関係は幼児期にまで遡り、すでにその時点でボタンの掛け違いをしていた、ということが多いです。そうなると、一朝一夕には、関係の改善はできません

しかし。
まずは考えてみてください。「母親」「大人」「人生の先輩」「年長者」ということを振りかざし、娘に多くを求めすぎていませんか?
自分が若い頃に間違ったことは、娘には間違わせたくない!という思いで忠告をし、自分が上手くこなしたことは、自分と同じ道、同じ方法を強いる・・・無意識のうちに、自分のしえなかった夢を必死に託していたり、自分の過去の行いの自画自賛になっていたり・・・そんなことはないでしょうか?
そして、知らず知らずのうちに、子どもの姿を見ることなく、子どもの声を聞くことなく、「母親」という錦の御旗をかざしていないでしょうか?
子どもに寄り添うこと

決して簡単なことではありませんね。しかし、自分が母親として言っていることは「善」であり「正」であったとしても、あなたは「母として善」でしょうか?
ほんの少しでも、子どもの言葉を聞こうとしていますか?
頭ごなしに、この子は未熟なんだからと、子どもが口を開くたび眉間に皺をよせ、耳のシャッターを下ろして、自分が「善」として話す体制になっていませんか?
子どもは、本当は母親であるあなたと、時間を共有し、同じものを見て、同じように美しい!と感じ、きれいだねえと共感しあいたいと思っているのですよ。
優しい心で我が子を見ていますか?
母親は、本当にいつも「善」なのでしょうか?
親とは、知らず知らずのうちに「自分と同じもの」をわが子に求めているものです。
ですから、自分では文句を言っているつもりではなくても、「うちの息子(娘)は、私に似てないのよねえ・・・」と言っている時の顔は、大抵が不満げで、少なくとも「ほめている時のセリフ」ではないでしょう。
自分の中での「良いポイント」は、是非似て欲しいと願い、「悪いポイント」は何とか修正して伝えたい!これがわが子への親の思い、愛情だと思います。
確かに、大人になれば自分の悪い点はよく見えているものです。それまでの人生の中で、その悪い面が災いして失敗を繰り返していたとすれば、まさに自分自身で苦笑の思い・・・とても恥ずかしいと思いつつ、その面があったが故の失敗談を時には開示し、是非とも真似をしないように!と教えます。
しかし、そういう素直な面がある一方で、親はみな、意識しないうちに「自分に似ていない部分を見とがめ、どうもこの子の『この部分(似ていない部分)』は理解不能だ・・・」と感じているもの、なんですねえ。
いったい、それはなぜでしょうか?
それは・・・知らず知らずのうちにきっと、わが子のことを常に「理解していたい!わかっていたい!」からなんでしょうね。
自分と同じ思考サイクル、自分と同じ価値基準、自分と同じような反応をする子であれば、親は努力をしなくても、わが子を理解できます。少なくとも、「うちの子は理解不能だ。うちの子は宇宙人のようなものだ」と思わずにすむわけですよね。
でも。
はたして、わが子が自分のコピーのようでないといけないでしょうか?
私には、親としての苦い経験があります。
私の父親は非常に厳しく、私は幼い頃からよくぶたれもしました。今思えば、教育的見地から叱られたというよりも、むしろ、父の機嫌に左右されて叱られていたように思います。
ですから、私と母は常に父の顔色を見て、自分のことよりも最優先で父のことを考え、父にとって居心地の良い家庭の雰囲気を作ろうとしていました。
私は、一人っ子ということもあり、常に父にとっての良い娘、自慢の娘であるために、最大限の努力をしてきました。そういう意味では、私にとっての家庭、家族とは、「もっとも神経の使う、一番リラックスのできない空間」だったのです。
幸いなことに当時は、それが私にとっての「普通の生活」でしたから、それほど自分が不幸な?生活、気詰まりな生活、自由のない生活をしている意識はありませんでした・・・
しかし。
私が母になって、息子や娘に対して考えたことは・・・家庭というものが、彼らにとって、もっともリラックスできる場所であってほしい、ということでした。
それが子どもであっても 家から一歩外に出れば、「たくさんの敵」がいるものです。敵という表現が適切でなければ、「味方ではない人」と言えば良いでしょうか。
だからこそ、家庭の中くらいは、ほっとできる場所、リラックスできる場所、気を遣うことなく、自分が自由に振舞える場所であるべきだ・・・そう考えました。
ところが・・・です。
私が思った通り、「家庭をあたたかい雰囲気」にするために母親として家庭づくりをしていくと・・・当然のことですが、子ども達は親に対して最低限の気配りをする程度で、とてもリラックスして、自由奔放に、楽しそうに暮らしていました。
すると・・・困ったことに、私の心の中に「イラッとする部分、何だかむしゃくしゃする部分」が生まれてくるんです。私がそれを望み、それを欲していたのに、子ども達が自由で、楽しそうに暮らしていると、何と言うのでしょうか・・・親としての気持ちではなく、「かつて子どもだった自分」の心が頭をもたげてきて、そして無意識のうちに思うんですねえ・・・
「何なの?いったいこの子達は、何者なの?どうしてこんなに楽しそうなの?どうして、自分の思ったことを、パッと言葉にしてしまうの?何で平気で、親を相手に緊張感もなく話すの?・・・」
そうなんですねえ・・・
わが子なのに、彼らの態度、彼らの様子は、まるで「私が子どもだった頃」の自分とは全く違う、「別世界の思考を持った、全く違う子ども達」でした。
私はとても戸惑いましたし・・・自由に会話する彼らに腹もが立ちましたし・・・
思えば、あの頃の私は、「私とあまりにも違う反応、あまりにも違う世界観を持ったわが子達」を「ちっとも私には似ていない子、わが子ながら理解しにくい子」と考えていたのだと思います。そして、そういう「自分と違う」ということに対して、『生理的な嫌悪感』を感じていた・・・そんなふうに思うのです。不思議な感覚ですよね・・・
でも、いかがでしょうか?きっとみなさんにも、わが子に対してなぜか「ねたむ思い」を持ったことはないでしょうか?
きっとそれは、親でありながら、かつて自分が「子ども」の立場であった時の心理に心が支配される瞬間があるからなのでしょうね。
自分とは違う・・・自分に似ていない・・・そう思うことが、わが子への「優しい思い」「優しい眼差し」に影を落としてしまう・・・
気持ちをコントロールすることは難しいものです。けれど、「なるほどねえ、今の私はそういう心理状態なのねえ・・・」と苦笑し、客観的に自分を眺める時間は、きっと、良い親子の関係につながっていくことでしょう。
ですから、自分では文句を言っているつもりではなくても、「うちの息子(娘)は、私に似てないのよねえ・・・」と言っている時の顔は、大抵が不満げで、少なくとも「ほめている時のセリフ」ではないでしょう。
自分の中での「良いポイント」は、是非似て欲しいと願い、「悪いポイント」は何とか修正して伝えたい!これがわが子への親の思い、愛情だと思います。
確かに、大人になれば自分の悪い点はよく見えているものです。それまでの人生の中で、その悪い面が災いして失敗を繰り返していたとすれば、まさに自分自身で苦笑の思い・・・とても恥ずかしいと思いつつ、その面があったが故の失敗談を時には開示し、是非とも真似をしないように!と教えます。
しかし、そういう素直な面がある一方で、親はみな、意識しないうちに「自分に似ていない部分を見とがめ、どうもこの子の『この部分(似ていない部分)』は理解不能だ・・・」と感じているもの、なんですねえ。
いったい、それはなぜでしょうか?
それは・・・知らず知らずのうちにきっと、わが子のことを常に「理解していたい!わかっていたい!」からなんでしょうね。
自分と同じ思考サイクル、自分と同じ価値基準、自分と同じような反応をする子であれば、親は努力をしなくても、わが子を理解できます。少なくとも、「うちの子は理解不能だ。うちの子は宇宙人のようなものだ」と思わずにすむわけですよね。
でも。
はたして、わが子が自分のコピーのようでないといけないでしょうか?
私には、親としての苦い経験があります。
私の父親は非常に厳しく、私は幼い頃からよくぶたれもしました。今思えば、教育的見地から叱られたというよりも、むしろ、父の機嫌に左右されて叱られていたように思います。
ですから、私と母は常に父の顔色を見て、自分のことよりも最優先で父のことを考え、父にとって居心地の良い家庭の雰囲気を作ろうとしていました。
私は、一人っ子ということもあり、常に父にとっての良い娘、自慢の娘であるために、最大限の努力をしてきました。そういう意味では、私にとっての家庭、家族とは、「もっとも神経の使う、一番リラックスのできない空間」だったのです。
幸いなことに当時は、それが私にとっての「普通の生活」でしたから、それほど自分が不幸な?生活、気詰まりな生活、自由のない生活をしている意識はありませんでした・・・
しかし。
私が母になって、息子や娘に対して考えたことは・・・家庭というものが、彼らにとって、もっともリラックスできる場所であってほしい、ということでした。
それが子どもであっても 家から一歩外に出れば、「たくさんの敵」がいるものです。敵という表現が適切でなければ、「味方ではない人」と言えば良いでしょうか。
だからこそ、家庭の中くらいは、ほっとできる場所、リラックスできる場所、気を遣うことなく、自分が自由に振舞える場所であるべきだ・・・そう考えました。
ところが・・・です。
私が思った通り、「家庭をあたたかい雰囲気」にするために母親として家庭づくりをしていくと・・・当然のことですが、子ども達は親に対して最低限の気配りをする程度で、とてもリラックスして、自由奔放に、楽しそうに暮らしていました。
すると・・・困ったことに、私の心の中に「イラッとする部分、何だかむしゃくしゃする部分」が生まれてくるんです。私がそれを望み、それを欲していたのに、子ども達が自由で、楽しそうに暮らしていると、何と言うのでしょうか・・・親としての気持ちではなく、「かつて子どもだった自分」の心が頭をもたげてきて、そして無意識のうちに思うんですねえ・・・
「何なの?いったいこの子達は、何者なの?どうしてこんなに楽しそうなの?どうして、自分の思ったことを、パッと言葉にしてしまうの?何で平気で、親を相手に緊張感もなく話すの?・・・」
そうなんですねえ・・・
わが子なのに、彼らの態度、彼らの様子は、まるで「私が子どもだった頃」の自分とは全く違う、「別世界の思考を持った、全く違う子ども達」でした。
私はとても戸惑いましたし・・・自由に会話する彼らに腹もが立ちましたし・・・
思えば、あの頃の私は、「私とあまりにも違う反応、あまりにも違う世界観を持ったわが子達」を「ちっとも私には似ていない子、わが子ながら理解しにくい子」と考えていたのだと思います。そして、そういう「自分と違う」ということに対して、『生理的な嫌悪感』を感じていた・・・そんなふうに思うのです。不思議な感覚ですよね・・・
でも、いかがでしょうか?きっとみなさんにも、わが子に対してなぜか「ねたむ思い」を持ったことはないでしょうか?
きっとそれは、親でありながら、かつて自分が「子ども」の立場であった時の心理に心が支配される瞬間があるからなのでしょうね。
自分とは違う・・・自分に似ていない・・・そう思うことが、わが子への「優しい思い」「優しい眼差し」に影を落としてしまう・・・
気持ちをコントロールすることは難しいものです。けれど、「なるほどねえ、今の私はそういう心理状態なのねえ・・・」と苦笑し、客観的に自分を眺める時間は、きっと、良い親子の関係につながっていくことでしょう。
「どうしても息子の気持ちが理解できません・・・」お母さん達は一様にそう言います。
では、娘の気持ちなら、少しは理解できるのでしょうか。
私のところにご相談においでになる中高生のお母様方は、息子との関係で悩んでいる、頭を痛めている、というお母様よりも、「娘との関係で悩んでいる、頭を痛めている」という方のほうが多いのです。
そして、お母様方のお話を整理してみると、一つのことが見えてきます。それは・・・
「私は女。もともと、性差のある息子の気持ちなどわかるわけがない。それも、思春期のど真ん中にいる息子の考えていることは、わかりようがない」
そういう気持ちが、根本的な考えの中にあるのですね。だから、息子のことでは悩んだり困ったりする、というよりも、「オロオロする、悲しむ、どうしたものかと途方にくれている」という類のものなんですね。
その一方で、「娘は~~なんて言うんですが、どうも私はそういう気持ちは理解できません!いったいうちの娘は、どんな思考をしているんでしょう?」とか、「私があの子の頃は~~でしたのに、うちの娘は~~なんです。どうしてなんでしょうねえ・・・」というもの。
さあ、お気づきになりましたか?
息子との関係では、私は「○」、息子は「△」違う形ですから、まあ、もともと、わかりようがない・・・というのが前提です。それに対して、娘との関係では、私は「○」、娘も「○」のはず。なのに、どうも娘は「○ではない」いったいどうなってるんでしょう?!という論理。いえいえ、理屈ではなく、そういう「感覚」ですね。
ですから、娘との関係において、お母様方は「悲しむ、途方に暮れる」というよりも「腹を立てる、呆れている、怒っている」という心理のほうが強い傾向にあります。
じつは、こういう母親の「息子と娘への感情の違い」が、時として、母と子の関係を悪くする原因になっていることに気づいていないお母様は少なくありません。
これとまったく同じ図式が、父親と息子、父親と娘の関係にもある!どうでしょう?思い当たりませんか?
親とは、いつも私が言うように、知らず知らずのうちに、物事の尺度は「自分」であり「自分の経験」です。自分にないものを求める、とか、自分と真逆を求める、という反面教師の場合もあります。この場合も、じつは、自分の経験上、上手くいかなかったこと、よくないことをベースにものを考えているわけですから、結局は、これも尺度は「自分」であることには違いありません。
あまり親のほうは普段は意識していなくても、結構、子ども相手に憤ったり、お説教をしたりするときには・・・
「どうしてあなたはそうなの?ママが中学生の頃は、絶対にそんなことはしなかったわ!」
「ママは、いつも~~なふうにしていたものよ。だから、おじいちゃんもおばあちゃんも心配しなかったの。それなのにあなたったら・・・」
とか、こういう言い回し?になっていることが多くありませんか?もちろん、「ママ」を「パパ」に置き換えても同じ、です。
要するに、「スタンダードは自分」であって、そこからわが子が外れた行動、外れた言動をすると、「なんで?私の子なのに!」とムカッとする!
けれど、異性の子どもの場合は、最初から「もともと、異性だから、私(僕)とは違うもの」というふうに半ば諦め?納得?開き直り?的な感覚があるために、相手への気持ちと自分との気持ちの間に、少しニュートラルな状態が生まれるわけです。
このニュートラルの状態、カッとしない状態が、お互いの間にちょっとした冷静さを生んだり、「違う相手」をわかろうとする優しい思いになったりするのです。
もしかしたら、今、これを読んでくださったお母様方の中には、「なるほどね・・・」と頷きながらも、これがわかったからと行って、今、私が悩んでいる親子関係の根本的な解決策にはならないわ!と落胆される方もおいでになるでしょう。確かにそうです・・・
けれど、こういうふうに冷静に自分の感情の見つめたり、分析したり、なるほどねえと納得したりすることは、みなさんが思っている以上に、じつは大事な時間なんですよ・・・「感情を静める、少し本題から目を他に転じる」こんな時間は、あなたのささくれた心を、ほんの少し癒してくれる時間になるものです。
付録
母親は、一生懸命に子どもを見つめ、愛しています。けれど、成長とともに、息子も娘も、時には宇宙人のように理解しがたい存在になる・・・でもね、その責任が一方的に子ども達にあるわけではないのです。
母親の心が柔らかくなれば、きっと違うものが見えてきますよ。
でも、どうしても気分の晴れない時は、いつでもどうぞ!子どもの年齢、受験云々に関係なく、まどか先生の相談室はいつでもオープンしています
話すと楽になる・・・そんなこともあるものです
「まどか先生の相談室」は、こちらから。
では、娘の気持ちなら、少しは理解できるのでしょうか。
私のところにご相談においでになる中高生のお母様方は、息子との関係で悩んでいる、頭を痛めている、というお母様よりも、「娘との関係で悩んでいる、頭を痛めている」という方のほうが多いのです。
そして、お母様方のお話を整理してみると、一つのことが見えてきます。それは・・・
「私は女。もともと、性差のある息子の気持ちなどわかるわけがない。それも、思春期のど真ん中にいる息子の考えていることは、わかりようがない」
そういう気持ちが、根本的な考えの中にあるのですね。だから、息子のことでは悩んだり困ったりする、というよりも、「オロオロする、悲しむ、どうしたものかと途方にくれている」という類のものなんですね。
その一方で、「娘は~~なんて言うんですが、どうも私はそういう気持ちは理解できません!いったいうちの娘は、どんな思考をしているんでしょう?」とか、「私があの子の頃は~~でしたのに、うちの娘は~~なんです。どうしてなんでしょうねえ・・・」というもの。
さあ、お気づきになりましたか?
息子との関係では、私は「○」、息子は「△」違う形ですから、まあ、もともと、わかりようがない・・・というのが前提です。それに対して、娘との関係では、私は「○」、娘も「○」のはず。なのに、どうも娘は「○ではない」いったいどうなってるんでしょう?!という論理。いえいえ、理屈ではなく、そういう「感覚」ですね。
ですから、娘との関係において、お母様方は「悲しむ、途方に暮れる」というよりも「腹を立てる、呆れている、怒っている」という心理のほうが強い傾向にあります。
じつは、こういう母親の「息子と娘への感情の違い」が、時として、母と子の関係を悪くする原因になっていることに気づいていないお母様は少なくありません。
これとまったく同じ図式が、父親と息子、父親と娘の関係にもある!どうでしょう?思い当たりませんか?
親とは、いつも私が言うように、知らず知らずのうちに、物事の尺度は「自分」であり「自分の経験」です。自分にないものを求める、とか、自分と真逆を求める、という反面教師の場合もあります。この場合も、じつは、自分の経験上、上手くいかなかったこと、よくないことをベースにものを考えているわけですから、結局は、これも尺度は「自分」であることには違いありません。
あまり親のほうは普段は意識していなくても、結構、子ども相手に憤ったり、お説教をしたりするときには・・・
「どうしてあなたはそうなの?ママが中学生の頃は、絶対にそんなことはしなかったわ!」
「ママは、いつも~~なふうにしていたものよ。だから、おじいちゃんもおばあちゃんも心配しなかったの。それなのにあなたったら・・・」
とか、こういう言い回し?になっていることが多くありませんか?もちろん、「ママ」を「パパ」に置き換えても同じ、です。
要するに、「スタンダードは自分」であって、そこからわが子が外れた行動、外れた言動をすると、「なんで?私の子なのに!」とムカッとする!
けれど、異性の子どもの場合は、最初から「もともと、異性だから、私(僕)とは違うもの」というふうに半ば諦め?納得?開き直り?的な感覚があるために、相手への気持ちと自分との気持ちの間に、少しニュートラルな状態が生まれるわけです。
このニュートラルの状態、カッとしない状態が、お互いの間にちょっとした冷静さを生んだり、「違う相手」をわかろうとする優しい思いになったりするのです。
もしかしたら、今、これを読んでくださったお母様方の中には、「なるほどね・・・」と頷きながらも、これがわかったからと行って、今、私が悩んでいる親子関係の根本的な解決策にはならないわ!と落胆される方もおいでになるでしょう。確かにそうです・・・
けれど、こういうふうに冷静に自分の感情の見つめたり、分析したり、なるほどねえと納得したりすることは、みなさんが思っている以上に、じつは大事な時間なんですよ・・・「感情を静める、少し本題から目を他に転じる」こんな時間は、あなたのささくれた心を、ほんの少し癒してくれる時間になるものです。


母親は、一生懸命に子どもを見つめ、愛しています。けれど、成長とともに、息子も娘も、時には宇宙人のように理解しがたい存在になる・・・でもね、その責任が一方的に子ども達にあるわけではないのです。
母親の心が柔らかくなれば、きっと違うものが見えてきますよ。
でも、どうしても気分の晴れない時は、いつでもどうぞ!子どもの年齢、受験云々に関係なく、まどか先生の相談室はいつでもオープンしています

話すと楽になる・・・そんなこともあるものです

「まどか先生の相談室」は、こちらから。
国立大学の後期試験も終わり、いよいよ、4月に大学入学、専門学校入学を控えた青年達が大移動を始めていますね。この時期は、初々しい新1年生と思しき姿を眺めながら、親がどんな思いで愛する息子、娘を送り出したのか・・・と思い、胸がキュンとします。
そんな彼らの姿を見ていて、私は、1月のある日の出来事を思い出しています・・・
私は、近所の郵便局で、一人の高校生に出会いました。
彼は、束になった「大学の願書」を送る手続きをしていました。マスクをしたその高校生。神妙な顔つきで、けれど、明らかに世の中には楽しいことはないぞ、みたいな顔をして、郵便局員さんがたずねることに、言葉短い答え、うつむき加減に立っていました。きっと、彼の予想をはるかに超えて、その事務手続きは時間がかかったのだろうな・・・と、私は思いました。
私の用はすぐに済み、郵便局の出口に行った時には、まだ、彼は送付書の控えに見入っていました。大きなマスクのせいで、彼の表情ははっきりとは読み取れませんが、受験生である彼の胸が締め付けられるような思いは、十分に私にも伝わってきました。控えを眺めながら、彼は、近づいてくる受験期間を思い、さまざまなことを考えていたのでしょう。
私は彼に近づき・・・
「あなた、今週末はセンター試験も受けるの?」
と声をかけました。自分の世界に入っていた彼は、私の声で急に現実に引き戻され、明らかに、キッとした表情で私のほうを向き、半ば睨むような、半ば蔑むような顔をして、「えっ?」と言いました。彼の心の声がきこえてくるようでした。
「おばさん、オレ、あんたのことを知らないよ。気安くオレに声をかけんなよ。センター受けんの?あんたに何か、関係ある??」
私は、その彼の表情を見て、よけいに私の心を伝えたくなりました。
「ごめんね、知らないオバザンに突然声かけられて、びっくりしたでしょ?オバサンね、あなたの後ろにいたから、大学の願書、見えちゃったのよ。今は大学生だけど、オバサンにも二人の子どもがいてねえ。それで思わず声をかけてしまったのよ。あなた、今週末、センター試験も受験するの?」
すると、みるみるうちに彼の表情が軟らかくなるのが見えました。
「はい!センター試験、受けます。」
「そう。じゃあ、がんばってね。」
私はそう言って、彼のほうに向けて小さく両手でガッツポーズをしました。私は満面の笑顔でそう言ったのですが、急に感情が激してしまい、泣き顔のようになってしまいました。
そのとき、私は見ず知らずの彼に、本当に大きな大きな愛情を感じたのです。 「がんばれ!がんばれ!」
人の心には、色も重さもありません。でも、得体の知れないその心というものは、確かに人と人との間に見えない「気」となって生まれ、熱を伴って相手に伝わるものだと私は確信しています。
きっと彼は、家ではお母さんの心配や、優しい言葉には上手く反応せず、ぶっきらぼうにしか対応していないかもしれません。でも、彼には、間違いなく、私の「心」は伝わった・・・
相手が子どもでも、わが子でも、夫でも、妻でも、友人でも。そこに「組織的な意図」等、しがらみがない限り、必ず伝わるものですよ。知っていてください。
付録
母親は、一生懸命に子どもを見つめ、愛しています。けれど、成長とともに、息子も娘も、時には宇宙人のように理解しがたい存在になる・・・でもね、その責任が一方的に子ども達にあるわけではないのです。
母親の心が柔らかくなれば、きっと違うものが見えてきますよ。
でも、どうしても気分の晴れない時は、いつでもどうぞ!子どもの年齢、受験云々に関係なく、まどか先生の相談室はいつでもオープンしています
話すと楽になる・・・そんなこともあるものです
「まどか先生の相談室」は、こちらから。
そんな彼らの姿を見ていて、私は、1月のある日の出来事を思い出しています・・・
私は、近所の郵便局で、一人の高校生に出会いました。
彼は、束になった「大学の願書」を送る手続きをしていました。マスクをしたその高校生。神妙な顔つきで、けれど、明らかに世の中には楽しいことはないぞ、みたいな顔をして、郵便局員さんがたずねることに、言葉短い答え、うつむき加減に立っていました。きっと、彼の予想をはるかに超えて、その事務手続きは時間がかかったのだろうな・・・と、私は思いました。
私の用はすぐに済み、郵便局の出口に行った時には、まだ、彼は送付書の控えに見入っていました。大きなマスクのせいで、彼の表情ははっきりとは読み取れませんが、受験生である彼の胸が締め付けられるような思いは、十分に私にも伝わってきました。控えを眺めながら、彼は、近づいてくる受験期間を思い、さまざまなことを考えていたのでしょう。
私は彼に近づき・・・
「あなた、今週末はセンター試験も受けるの?」
と声をかけました。自分の世界に入っていた彼は、私の声で急に現実に引き戻され、明らかに、キッとした表情で私のほうを向き、半ば睨むような、半ば蔑むような顔をして、「えっ?」と言いました。彼の心の声がきこえてくるようでした。
「おばさん、オレ、あんたのことを知らないよ。気安くオレに声をかけんなよ。センター受けんの?あんたに何か、関係ある??」
私は、その彼の表情を見て、よけいに私の心を伝えたくなりました。
「ごめんね、知らないオバザンに突然声かけられて、びっくりしたでしょ?オバサンね、あなたの後ろにいたから、大学の願書、見えちゃったのよ。今は大学生だけど、オバサンにも二人の子どもがいてねえ。それで思わず声をかけてしまったのよ。あなた、今週末、センター試験も受験するの?」
すると、みるみるうちに彼の表情が軟らかくなるのが見えました。
「はい!センター試験、受けます。」
「そう。じゃあ、がんばってね。」
私はそう言って、彼のほうに向けて小さく両手でガッツポーズをしました。私は満面の笑顔でそう言ったのですが、急に感情が激してしまい、泣き顔のようになってしまいました。
そのとき、私は見ず知らずの彼に、本当に大きな大きな愛情を感じたのです。 「がんばれ!がんばれ!」
人の心には、色も重さもありません。でも、得体の知れないその心というものは、確かに人と人との間に見えない「気」となって生まれ、熱を伴って相手に伝わるものだと私は確信しています。
きっと彼は、家ではお母さんの心配や、優しい言葉には上手く反応せず、ぶっきらぼうにしか対応していないかもしれません。でも、彼には、間違いなく、私の「心」は伝わった・・・
相手が子どもでも、わが子でも、夫でも、妻でも、友人でも。そこに「組織的な意図」等、しがらみがない限り、必ず伝わるものですよ。知っていてください。


母親は、一生懸命に子どもを見つめ、愛しています。けれど、成長とともに、息子も娘も、時には宇宙人のように理解しがたい存在になる・・・でもね、その責任が一方的に子ども達にあるわけではないのです。
母親の心が柔らかくなれば、きっと違うものが見えてきますよ。
でも、どうしても気分の晴れない時は、いつでもどうぞ!子どもの年齢、受験云々に関係なく、まどか先生の相談室はいつでもオープンしています

話すと楽になる・・・そんなこともあるものです

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