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とりあえず俺って何様?

つらつらと好きなことを書きながら
とりあえず自分自身を見つめてみようって感じです

[地域通貨mon]一部入金あり

2007-01-26 | 世相徒然
さらに続報。

昨日、未入金だったお店の中で、4店に合計約400,000円の支払いがあったらしい。
とりあえず、1日遅れではあるけれど、入金の事実があったことは喜ばしいこと。

このほか、今日僕に情報提供してくれた段階で、入金の確認が取れていないという店は13店で約850,000円。

ということで、とりあえず一部の入金が確認できたということだけお知らせしておきます。

ちなみに、加盟店以外の元従業員の方々やフリーペーパーの制作会社には、まだ入金がない。

[地域通貨mon]やはり換金はされなかった

2007-01-25 | 世相徒然
今朝も地域通貨「mon」について投稿したが、その続報。

本日の19時00分以降に、事前に連絡をいただいていた取り扱い店を中心に、換金状況について問い合わせをしてみた。取り扱い店の中から営業時間をすぎたお店を選んで電話をしてみたが、回答を得られたのは全部で17店。

●1月15日に請求をしたにもかかわらず支払われなかったという店…………7店(合計金額約50万円)
●まだ銀行口座を確認していないという店………5店(合計金額約20万円)
●「まだ請求していない」「店内に留保していない」など………5店

という結果だった。
つまり、銀行口座などの残高確認できた7店のうち、入金があった店は1つもないことになる。
やはり、予想されていた通りの結果となった。

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以下は、料金未払いなどで僕に直接連絡をくれた人。

フリーペーパー「マイタウンmon」に関わった人の未払い……4件――約50万円
元従業員で労働基準監督署などに相談し、未だに給料が未払いになっている人……5人――約150万円


昨年末、僕がNPO法人に出向いて、料金が未払いになっている業者の請求書や督促状を確認したところ、上に取り上げた分をのぞいて約500万円。
その他、印刷代金など、1月末以降に支払わなければいけないのが数百万円。

これまで、地域通貨「mon」の実態を追求するというブログで公開されているように、この数か月の未払いだけでも1000万円以上にもなる。

地域通貨を発行するNPO法人の代表者は「手違いで入金が遅れたので、明日(26日)に必ず払う」「月末まで待ってほしい」ということを言っているようだ。ちなみに、銀行口座を確認していない店や、自ら電話をしていない店には、NPOから「支払いが遅れます」という電話連絡すらしていない。
上で紹介した人の何人かは、すぐにでも訴えたいという気持ちを固めている。僕の出入りしているデザイン事務所も、訴訟を検討している。

とりあえず、あと2~3日の間に、できるだけ多くのお店に問い合わせてみるつもり。
続報は、来週には伝えられると思います。

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今後数日の間、もし僕に連絡を取りたいという人がいたら、電話かメールで連絡を受け付けます。

【電話】03-3843-0191(渡部真)
【メール】makoto_craftbox@mail.goo.ne.jp

申し訳ないのですが、昼間は仕事の打ち合わせで留守にしていることが多いので、時間によって留守番電話になっているかもしれません。留守番電話にメッセージを残してもらえれば、折り返しお電話します。
また、ファックス番号も同じ番号ですので、ファックスで連絡をくれてもかまいません。

もし被害に遭われている方がいたら、できるだけ連携して行動できればと思っています。

地域通貨「mon」の行方は如何に?

2007-01-25 | 世相徒然
昨年、このブログで紹介した烏賀陽さんの「オリコン不当訴訟」の第一回口頭弁論の日程が決まった。
■ 2月13日(火) 13時10分~ 東京地裁709号法廷
僕も駆けつけるつもりだが、いずれにしてもこの訴訟の行方については、折にふれて報告していきたいと思っている。

ついでに、カンパ活動も始まったようなので、もしよければ協力してあげてください。
オリコン個人提訴事件を憂慮し、烏賀陽弘道氏を支援するカンパ活動
http://d.hatena.ne.jp/oricon-ugaya/20070120/1169269747


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さて、前回の記事で紹介した地域通貨についての続報。

文京区で流通している地域通貨「mon」の外堀が、徐々に埋まりつつある。
今日(25日)は、その地域通貨の第一回目の換金日だ。
10月1日から利用が始まって最大で約4か月も換金をしないっていうシステムも驚いちゃうが、とにかく今日、取り扱い店に対して、地域通貨「mon」を発行しているNPO法人は支払いをしなくてはならない。
どれくらいの請求書が届いているか定かではないけれど、僕のデザイン事務所にも払う約束をしているらしいので、数十万~数百万円の支払いが必要のはず。

地域通貨の取り扱い店には支払っておいて、賃金を未払いしている労働者や出版フリーランサー、もしくは取り引き業者に支払いをしないなんて、そりゃ未払いの人たちにしてみれば許されない。

しかし僕の知る限り、NPO法人はそんな大金を動かせる状態じゃない。

某巨大掲示板では
  >「申し込みの手続きに不備があり、返金が遅れています」
  >「初回の返金なのでシステムに不慣れなところがあり、換金の際にご迷惑を
  > おかけしています」
  > などと、のらりくらりと換金をのばそうとするだろう

  > グダグダ言い訳して先延ばししそう
などと予想されている。


ということで、今日、約束したお金を支払えるか支払えないかで、今後の展開が大きく変わる。
僕が直接話を聞いた人の中にも「25日中に全額の入金がなければ、例え一部の入金があっても訴える」と言う人がいる。刑事事件として警察に訴えるのか、民事訴訟として裁判所に訴えるのか、人によって対応は違うようだが、「民事でお金は取れなくっても、警察に訴えてやる!」と言う人もいるので、支払えるのか支払えないのかでは、大きな差がある。

僕も、すでに数人の人から相談を受けていることもあるので、もし被害者が連携して警察に訴えるというのであれば、微力ながらお手伝いをしたいと考えている。

これから数日過ぎて、取り扱い店からの情報が来れば、続報としてお知らせしたい。

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もしこのブログを見た人の中に、「特定非営利活動法人 地域産業文化活性化フォーラム」の被害者か被害者予備軍の人がいたら、近いうちに、このブログで続報を書くと約束します。その時には、他の人やお店の対応についても紹介したいと思っています。
少額だからといって諦めないでください。

とくに、出版フリーランサーとして関わってしまった人は、フリーペーパー「マイタウンmon」だけでなく、「旅のコンシェルジュ」の被害も含めて、もし情報があればメール(makoto_craftbox@mail.goo.ne.jp)でも、ブログメッセージでもいいので、ぜひお知らせください。

文京区の地域通貨「mon」に要注意

2007-01-12 | 世相徒然
少々遅くなってしまいましたが、新年明けまして、おめでとうございます。
今年はもう少しまめに更新をしていきますので、よろしくお願いいたします。

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さて、すでに個別にお知らせしたりもしているのですが、今、文京区で流通している「mon」という地域通貨についてお知らせします。

まずは、↓こちら↓をご覧ください。
地域通貨「mon」の実態を追及する!
http://mon-wa-ng.cocolog-nifty.com/blog/

この地域通貨は、いま文京区で100万文(=100万円相当)~200万文(=200万円相当)出回っており、加盟店で買い物する際に利用すれば900円で1000円分の買い物が出来ることになってます。
しかし、この運営をしているNPO法人地域産業文化活性化フォーラムという団体が、実にいい加減で怪しい団体なわけです。

このブログは、mixiのリンクから見に来てくれる出版フリーランサーもいると思うのですが、昨年、mixiの出版関係のコミュニティで「旅コン騒動」という、ちょっとした騒ぎが起こっていたことを覚えている人も多いと思います。
このNPO法人を取り仕切っているのが、まさに「旅コン騒動」でmixiと2ちゃんねるを騒がせた人物2人です。

元々、あの「旅コン騒動」では、僕が出入りしていた版元が巻き込まれており、その最中に僕がちょうど版元に缶詰になっていたので、何となくは首謀者のことを知っていました。

その後昨年の9月、僕が出入りしているデザイン事務所が文京区にあるという縁で、NPO法人「地域産業文化活性化フォーラム」から、デザイン事務所に仕事の依頼が来ました。「フリーペーパーを作るので、とりあえずそのプレ創刊号を作って欲しい」という仕事です。
その時は、別の担当者が間に入っていたし、いつも先方からうちの事務所まで来てくれていたので、何も知らずに仕事を納めたのですが、納品時に初めて事務所へ訪れたところ、入り口に「旅のコンシェルジェ設立準備室」と書かれているのを見て、すぐに思い出しました。
で、すぐに仕事を引き揚げるべきだと判断し、僕の出入りしているデザイン事務所は、入金してくれさえすれば、もうそれで手を引くつもりだったわけです。

ところが、そのNPO法人の仕事を通じて知り合った出版フリーランサーたちが、僕が出版ネッツの会員であることを伝えていたために、「ギャランティを支払ってもらっていないんだけど、相談に乗ってくれないか」という話が来たわけです。
で、そのこととデザイン事務所の売掛金も含めて回収・集金のために動き出したら、2ちゃんねるに書かれていること以上に、いろいろとこの地域通貨の杜撰な計画と、NPO法人を主催している人物2人の確信犯的な詐欺紛いの運営が見えてきたわけです。

ちなみに、参考までに↓2ちゃんねるの過去ログ↓です。
サギコミュ『旅コン(by コロン)』告発スレ
サギコミュ『旅コン(by コロン)』告発スレ Part2 (←地域通貨monのことも書かれています)

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いま、ジャーナリスト仲間などと協力し合って、できるだけ多くのメディアで取り上げてもらえないかと動いています。また、上で紹介しているブログでも、徐々にこの地域通貨に纏わる事件の真相が明らかになっていくと思います。

今回の事件、僕は絶対に許すことが出来ないと思っています。
1つは、僕の周囲の人間と僕自身を騙そうとしたこと。
2つ目は、文京区の住民や個人商店を騙すようなことをしておきながら、「詐欺の意識がなければ、詐欺にならない」と開き直って、詐欺まがいのことを繰り返している人物たちだということ。
そして3つ目は、出版フリーランサーが、今度の騒動だけでなく「旅コン騒動」を含め、これからも食い物にされる可能性があること。

少額の事件を繰り返していた人物たちなので、これまでは大きな事件に発展しなかったようですが、今回ばかりは、僕の出来る限り追いつめたいと考えています。

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このブログをご覧になった方、友人や知り合いに文京区と縁のある人がいたら、ぜひこの地域通貨について教えてあげてください。
それと、ブログをやっている方は、もし良ければ上で紹介したブログを紹介してください。
それから、mixi経由できた方は、ぜひ日記などで、マイミクさんたち、とくに出版フリーランサーや文京区関係の人に知らせてもらえないでしょうか?

何卒よろしくお願いします。

自由よりも得がたいもの(長文だが意味のない文章2)

2005-10-26 | 世相徒然
※本当に長文の割にはあまり意味ない文章なので、お付き合いいただく方には、読み終わっても文句を言うことのないようにご注意ください。m(_ _)m


10月25日のブログで、「感動の共有」というコミュニケーションを深く取り合える相手がいることなんて、奇跡的なことかもしれない、と書いた。
いつでも「感動の共有」ができると思ったら大間違いである。むしろ他人との関係など、「感動のすれ違い」が当たり前なのだ。

ちなみに親にとって、当然ながら自分の子どもは「大切な人」である。
しかし、長くなるので割愛するが、親が子へ「感動の共有」を求めるときは、「感動のすれ違い」はあまり問題にならない。親子関係における「大切な人」というのは、他人である「大切な人」とは違う関係なのだ。

問題は他人なのに「大切な人」との間に起こる「感動のすれ違い」だ。

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他人との「感動のすれ違い」は防ぎようがない。こればかりは解決のしようがない。すれ違いが起こるからこそ他人なわけだ。
しかしこれは、ある種の諦めである。前回書いた「他者への信頼」が裏切られたときの予防とも言えるかもしれない。背景に「できれば感動を共有したいけど、共有できないなら仕方ない」という感覚がある。

ところが、人間とは不便な物で、どうしても諦めきれないことがある。
「大切な人」に対して、自分と感動を共有できないことを「どうして分かってくれないんだろう」と思ってしまう。その気持ちが強くて、自分の中だけでは解消できないときがある。あるいは、こちらが自分の中で解決しても、相手が共有することにこだわってしまうときもある。

ここに、ある種の「束縛」(相手の自由を奪うほどの強い要求)が生まれる。
「自分の気持ちを分かって欲しい」という束縛、「分かり合えなくても『大切な人』と思って欲しい」という束縛……。それらはいずれ、「自分を束縛しないで欲しい」という束縛、「それでもやっぱり束縛して欲しい」という束縛などへと繋がる。

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owlさんからコメントをいただいたが、「孤独である」ということは「自由である」ということだ。孤独であれば他者との関係がなくなるのだから、当然あらゆる「束縛」から解放される。
例えば僕がそうであったように、離婚した人の多くは「解放感」を実感するのではないだろうか。
孤独であり自由であれば、そこに煩わしい「感動のすれ違い」なんて起こらない。

僕は、自由気ままに生きている。
小学校から高校まで“自由な校風”で有名な私立校に通い、大学時代は札幌で気ままな生活。バブル直撃世代で、今考えれば狂ってるとしか思えないような浮き足だった時代が青春期。広告関係の制作会社に入って、仕事はきつかったが、そこで知り合った業界関係者と一緒に楽しく遊ぶこともできた。会社を辞めた後は、フリーランスとして好きな仕事を続けてきた。親族との付き合いもほとんどない。今では気ままな一人暮らしだが、子どもたちとは好きなときに会うことも許されている。
いろいろと面倒なことはあるが、他人から見れば好き勝手に生きていると思われるだろう。

だから、僕は他人を「束縛」することもあまりしないし、「束縛」されることも好きではない。
今の僕はそういう立ち位置にいる。

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女の子の友情を描いた映画「下妻物語」で、深田恭子演じる主人公・桃子は、他人とのコミュニケーションを決して深めようとしない女の子だ。あらゆる「束縛」を嫌い、自由に生きようとしている。

「人間は一人なの。一人で生まれて、一人で考えて、一人で死んでいくの。『人は一人じゃ生きられない』なんて……、だったら私は人じゃなくていい。ミジンコでいい。寄り添わなくてはいけない人間よりも、よっぽど自立しているもの」(桃子の台詞より)

そんな桃子も、土屋アンナ演じるイチゴという少女に出合うことによって、「大切な人」の存在を知ることになる。

「人間は大きな幸せを前にすると、急に臆病になる。幸せを勝ち取ることは、不幸に耐えることよりも勇気がいるの」(桃子の台詞より)

それが幸せなことかどうかは別にして、「大切な人」とコミュニケーションを深めるということは、結局はある程度「自由」を失い「束縛」のリスクを伴うことだ。だから「勇気」が必要となる。

前述したとおり、僕は自由気ままに生きている。
ところが、最近、映画を見ていて、「自由」を捨ててでも、「大切な人」との関係を深めようとする登場人物に共感してしまう。そんな「勇気」にとても感心してしまう。

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結局僕は、本当の意味で自由に生きることが出来ない人間なのだ。

自由を楽しんでいるふりをして、いつでも深く「感動の共有」を持つことができる「大切な人」の存在を求めている。
もちろんどんな相手にも「感動のすれ違い」は起こり、「束縛」も生まれる。、しかし、そこから生じる空しさや不自由さより、「感動の共有」で感じることのできる喜びの方が勝るような「大切な人」――そんな人との奇跡的な出合いを求めている。

これまで、わずかな時間ではあったが、そんな「大切な人」を見つけた時間がたしかにあった。しばらく忘れていた(忘れようとしていた)その感情を思い出しつつある。「大切な人」との「感動の共有」で得る喜びの方が、「自由」よりも得がたいものと感じ始めている。

ここまで来てようやっと、前回のブログで書いた「ただ漠然とした不安感を持ちながらダラダラと立ち止まっている」というのが、そうした欲求を感じながら実現できないフラストレーションの表れだということに気が付いた。

そろそろ、本気でもう一度「大切な人」を見つける時期に来ているのかも知れない……。

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こんなに長文を書いて、ただただ自分の感情の整理にしかなっていない。少なからず人に読まれることを前提としているのに、情けない限り。
お付き合いいただいた方には申し訳ない気がするが、まぁもともと戯れ言日記なので、たまにはこういうのもいいだろう。



→「長文だが意味のない文章3」につづく(予定/といっても、未だにどうやって収束していいかわからずに、ただ書き殴っているだけなので、どうなることやら……)
「孤独からの脱出(長文だが意味のない文章1)」を読む

孤独からの脱出(長文だが意味のない文章)

2005-10-25 | 世相徒然

日本社会で孤独を感じている人が増加しているらしい。
日本人の多くがインターネットによる新たなコミュニケーションを模索しているのも、そうした現れだと指摘する人もいる。

僕がこうしてブログを書いていることも、そうした現象に影響されていることは否めない。

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村上龍が、自ら発行するメールマガジン『JMM [Japan Mail Media]』のなかでこんなことを書いている。


「(前略)わたしたちは、たとえば非常に美しい景色を見たときに、それに感動するだけではなく、これを誰かに見せたいとよく思います。そういう風に思う対象は、たいていの場合『大切な人』です。つまり、大切な人というのは、何か感動的な体験をしたときにそれを共有したいと思える人です。信じられないほどおいしい料理に遭遇したり、ワインを飲んだり、音楽を聞いたり、絵や映画を見たり、美しい風景や建物に出会ったときなどに、この感動をいつか共有したいという対象となる人が、その人にとっての『大切な人』なのだと思います。そして、それが実現したときに、その人たちが同じように感動するのに接すると、自分一人で感動したとき以上の喜びが湧き上がることもあります。それは広義のコミュニケーションであり、わたしたち人類はコミュニケーションそのものに喜びを感じる生きものなのでしょう(後略)」


人が生きる上で「大切な人」の存在の大きさを書いている。
「コミュニケーション」から発生する喜びは、人生の喜びなのだ。

日本には1億人以上の人が生きている。この中で、“大切な人の存在”や、“コミュニケーションがもたらす喜び”を実感している人はいったいどれくらいいるだろうか。

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「大切な人」たちに対して「感動の共有」をしたいと意識し、きっと共有できているだろうと思ってコミュニケーションを取る。これは、「他者への信頼」だ。

ところが、この「他者への信頼」は、必ずしも常に期待通り受け止められるとは限らない。
自分が感動できたものに相手が共感しないときもある。また、自分が感動の共有をしたいと思っても相手が共有したいと感じていないかも知れない。あるいは、感動そのものを共感できたとしても、相手が共有したい対象が自分でないこともあるだろう。

この時に人が感じるのは、恐ろしいほどの「孤独感」だ。
「感動の共有」によってもたらされる喜びが大きい相手こそ、その時に突き放される「孤独感」は大きい。
しかし、人それぞれの考え方がバラバラであるのは当たり前で、ある意味、「感動の共有」というコミュニケーションを深くとれる相手がいることなんて、奇跡的なことなのかも知れない。基本的に人は孤独なのだ。

まず「人は孤独」ということを意識した上で「コミュニケーション」の大切さを実感しながら生きていくのと、ただ漠然とコミュニケーションからもたらされる喜びを求めているのとでは、「孤独感」を感じたときの対応に大きな違いがあるだろう。「孤独感」から「絶望」を感じる人もいれば、「未来」を見つける人もいる。

そうして人は、常に「孤独感」から逃れるために、あるいは出来るだけ「孤独感」を小さくするために、「コミュニケーション」に対するあらゆる努力をして生きているのだ(人はそれを「愛」という言葉で表現するときもある)。

孤独感から逃れるための努力の仕方は、やはり人それぞれだ。

「他者への信頼」が裏切られないようによりコミュニケーション濃くする、という考え方。どうせ「他者への信頼」が裏切られるならできるだけコミュニケーションを薄くする、という考え方。
一般的には前者が前向きで、後者が後ろ向きとなるだろうか。

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僕の場合、「大切な人」をできるだけ少なく絞り込むことで、その分その相手に対してコミュニケーションを濃くすることを心掛けてきた。

しかし、当然ながら、いつもそれがうまくいくわけではない。自分の努力や考え方とは異なり、相手とうまくコミュニケーションがとれなかったり、自分自身が後ろ向きになってしまう時がある。もう二度と「他者への信頼」を取り戻すことが出来なくなってしまうほど、コミュニケーションに失敗してしまうことがある。人として40年近く生きてきて、たくさんの人たちとコミュニケーションを取ってきたのに、未だに「孤独感」に対するアプローチがうまくいかなくなる時がある。

そうした後ろ向きな気持ちになっているときの特効薬は、「新たなコミュニケーションとの出合い」であり「未来」である。
日本だけでも1億人以上の人がいる。そのうちに僕が出合った人なんて、多く数えても数百人、数千人程度だろう。考えようによっては、「未来」など、そこら中に転がっているのだ。

あと必要なのは、「未来」に向けて足を踏み出す「勇気」だけである。「未来」に向けて漠然とした不安感があるのは当然だ。しかし、いつまでもそこに留まっていては前向きになることは出来ない。
「未来」は、それそのものが大きな「勇気」をもたらせてくれることがある。閉塞した状態になり恐ろしいほどの「孤独感」から脱出するには、漠然として不安など払拭して、「未来」に向かっていくことがいい結果をもたらすことが多いだろう。

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僕が今現在、“恐ろしいほどの孤独感”を感じているわけではない。ただし、いつその怖ろしさに襲われるだろうかという不安感は常に抱えている。だとしたら、いっそ安心できる「未来」へと足をすすめる方がいいのかも知れないが、そこまでのモチベーションもない。ただ漠然とした不安感を持ちながらダラダラと立ち止まっているだけである。

結局、僕がこうやってブログを続けているのも、ちょっとした「勇気」を求めていることなのかも知れない。


「長文だが意味のない文章2」につづく(予定)

もったいない……

2005-10-13 | 世相徒然

昨年のノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさん(ケニヤ共和国環境副大臣)が、「MOTTAINAI(もったいない)」という言葉を世界中に広めようと提唱している。

「ごみ減量(リデュース)」「資源の再使用(リユース)」「再生利用(リサイクル)」の3R運動をひと言で象徴する言葉として「MOTTAINAI」を世界の共通語にしようというものだ。
マータイさんに呼応する形で、毎日新聞などが中心となって「MOTTAINAI」キャンペーンを展開している。日本政府も「環境白書」2005年版などに「もったいない」精神を盛り込み、環境省が文字を書き込んだ風呂敷を配布するなどキャンペーンに乗り出している。

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最近の僕は、何よりも時間の使い方がもったいないと実感することが多い。
忙しい思いをする割にたいして仕事も進まずに一日が過ぎたり、私用で出かけてもとくに面白いこともなかったり。

かつてはお金をもったいないことに使っていたが、今では使うお金もないので、お金に関してはもったいないキャンペーンを実践させられている。

それと、この長屋は3Kの間取りなのだが、そのうち一部屋が完全にあまっている。これももったいない。
都心に事務所を持ちたい人がいたら、安くてもいいので誰か借りてくれないだろうか?


このセミダブルのベッドも、ほとんど猫さんたちだけで使っている。
これまた、とてももったいない。


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思ったように仕事が進まない。
いろんな意味で、そろそろやばいのだが……