※本当に長文の割にはあまり意味ない文章なので、お付き合いいただく方には、読み終わっても文句を言うことのないようにご注意ください。m(_ _)m
10月25日のブログで、「感動の共有」というコミュニケーションを深く取り合える相手がいることなんて、奇跡的なことかもしれない、と書いた。
いつでも「感動の共有」ができると思ったら大間違いである。むしろ他人との関係など、「感動のすれ違い」が当たり前なのだ。
ちなみに親にとって、当然ながら自分の子どもは「大切な人」である。
しかし、長くなるので割愛するが、親が子へ「感動の共有」を求めるときは、「感動のすれ違い」はあまり問題にならない。親子関係における「大切な人」というのは、他人である「大切な人」とは違う関係なのだ。
問題は他人なのに「大切な人」との間に起こる「感動のすれ違い」だ。
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他人との「感動のすれ違い」は防ぎようがない。こればかりは解決のしようがない。すれ違いが起こるからこそ他人なわけだ。
しかしこれは、ある種の諦めである。前回書いた「他者への信頼」が裏切られたときの予防とも言えるかもしれない。背景に「できれば感動を共有したいけど、共有できないなら仕方ない」という感覚がある。
ところが、人間とは不便な物で、どうしても諦めきれないことがある。
「大切な人」に対して、自分と感動を共有できないことを「どうして分かってくれないんだろう」と思ってしまう。その気持ちが強くて、自分の中だけでは解消できないときがある。あるいは、こちらが自分の中で解決しても、相手が共有することにこだわってしまうときもある。
ここに、ある種の「束縛」(相手の自由を奪うほどの強い要求)が生まれる。
「自分の気持ちを分かって欲しい」という束縛、「分かり合えなくても『大切な人』と思って欲しい」という束縛……。それらはいずれ、「自分を束縛しないで欲しい」という束縛、「それでもやっぱり束縛して欲しい」という束縛などへと繋がる。
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owlさんからコメントをいただいたが、「孤独である」ということは「自由である」ということだ。孤独であれば他者との関係がなくなるのだから、当然あらゆる「束縛」から解放される。
例えば僕がそうであったように、離婚した人の多くは「解放感」を実感するのではないだろうか。
孤独であり自由であれば、そこに煩わしい「感動のすれ違い」なんて起こらない。
僕は、自由気ままに生きている。
小学校から高校まで“自由な校風”で有名な私立校に通い、大学時代は札幌で気ままな生活。バブル直撃世代で、今考えれば狂ってるとしか思えないような浮き足だった時代が青春期。広告関係の制作会社に入って、仕事はきつかったが、そこで知り合った業界関係者と一緒に楽しく遊ぶこともできた。会社を辞めた後は、フリーランスとして好きな仕事を続けてきた。親族との付き合いもほとんどない。今では気ままな一人暮らしだが、子どもたちとは好きなときに会うことも許されている。
いろいろと面倒なことはあるが、他人から見れば好き勝手に生きていると思われるだろう。
だから、僕は他人を「束縛」することもあまりしないし、「束縛」されることも好きではない。
今の僕はそういう立ち位置にいる。
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女の子の友情を描いた
映画「下妻物語」で、深田恭子演じる主人公・桃子は、他人とのコミュニケーションを決して深めようとしない女の子だ。あらゆる「束縛」を嫌い、自由に生きようとしている。
「人間は一人なの。一人で生まれて、一人で考えて、一人で死んでいくの。『人は一人じゃ生きられない』なんて……、だったら私は人じゃなくていい。ミジンコでいい。寄り添わなくてはいけない人間よりも、よっぽど自立しているもの」(桃子の台詞より)
そんな桃子も、土屋アンナ演じるイチゴという少女に出合うことによって、「大切な人」の存在を知ることになる。
「人間は大きな幸せを前にすると、急に臆病になる。幸せを勝ち取ることは、不幸に耐えることよりも勇気がいるの」(桃子の台詞より)
それが幸せなことかどうかは別にして、「大切な人」とコミュニケーションを深めるということは、結局はある程度「自由」を失い「束縛」のリスクを伴うことだ。だから「勇気」が必要となる。
前述したとおり、僕は自由気ままに生きている。
ところが、最近、映画を見ていて、「自由」を捨ててでも、「大切な人」との関係を深めようとする登場人物に共感してしまう。そんな「勇気」にとても感心してしまう。
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結局僕は、本当の意味で自由に生きることが出来ない人間なのだ。
自由を楽しんでいるふりをして、いつでも深く「感動の共有」を持つことができる「大切な人」の存在を求めている。
もちろんどんな相手にも「感動のすれ違い」は起こり、「束縛」も生まれる。、しかし、そこから生じる空しさや不自由さより、「感動の共有」で感じることのできる喜びの方が勝るような「大切な人」――そんな人との奇跡的な出合いを求めている。
これまで、わずかな時間ではあったが、そんな「大切な人」を見つけた時間がたしかにあった。しばらく忘れていた(忘れようとしていた)その感情を思い出しつつある。「大切な人」との「感動の共有」で得る喜びの方が、「自由」よりも得がたいものと感じ始めている。
ここまで来てようやっと、前回のブログで書いた「ただ漠然とした不安感を持ちながらダラダラと立ち止まっている」というのが、そうした欲求を感じながら実現できないフラストレーションの表れだということに気が付いた。
そろそろ、本気でもう一度「大切な人」を見つける時期に来ているのかも知れない……。
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こんなに長文を書いて、ただただ自分の感情の整理にしかなっていない。少なからず人に読まれることを前提としているのに、情けない限り。
お付き合いいただいた方には申し訳ない気がするが、まぁもともと戯れ言日記なので、たまにはこういうのもいいだろう。
→「長文だが意味のない文章3」につづく(予定/といっても、未だにどうやって収束していいかわからずに、ただ書き殴っているだけなので、どうなることやら……)
→「孤独からの脱出(長文だが意味のない文章1)」を読む