考察戦隊マジブロガー

毎月10,20,30日に発表されるお題について、マジブロガー達が本気で考察!!
道楽気分で僕と握手!(ぇ

第1215話:「古いアルバムの中に隠れて マジッスカーがいっぱい!」

2005-12-15 02:51:52 | ビリジアン
ども。卒論で年賀状どころじゃないビリジアンです。
ぜひともオフ会参加したいです。
いやもうほんと、まだ卒論の字数気にする段階じゃないんですけどここまで書いた80文字すら組み込みたいくらいです。
いや、大丈夫ですよ?大丈夫ですってば。
ってことで未来の自分のためにも、
早めにお題をマジブロガン(税込み5800円 電池別売り)で撃破だっ!


さて。
オトナとコドモの境界線。
このことを考えるとき、いつも私の頭の中に浮かぶ言葉があります。
それは、「征地球論」というマンガの中の1文です。

ビリジアンのバイブル:「藤子F不二雄SF短編集」に収録されている話で、
遠い星で地球を征服するかしないか議論中の宇宙人たちが、
議論に決着を着けるために地球人の生態を観察する、といった内容です。(傑作です)

そのマンガの中に、地球人の少年(反抗期)が母親と口論になり、
家を飛び出して悪友達と「だいたい大人なんてよ・・・」と愚痴を言う場面があります。
一方でその少年の父親は、別の場所で同僚と麻雀中。「最近の若いモンは・・・」と愚痴を言い合ってます。
それらの報告を見た宇宙人たちがこのように不思議がる場面があります。

「おとなと子どもは異人種なのか?」

「そうではない。ただ・・・おとなは自分がかつてこどもだったことを忘れ、子どもはやがておとなになるということを忘れているんだ。」 


この作品を初めて読んだときから、ずーっとこの言葉が頭から離れませんでした。
確かにそうなんだよね~、と。
宇宙人達はこの他にも「喫煙」や「ギャンブル」「フィクションという娯楽」など、知的生物としては不可解な行動に対して困惑しているのですが、
その中でも最後の方にこの「大人と子どもの対立」を挙げています。
でも「最近の若いモンは」って文。実は古代エジプトの碑文にまで書かれているそうです。72へぇ。
大昔から大人と子どもの間には距離があったんですね。


ちょいと脱線しましたが、そういうことです。
良くできているもので、22歳になると、電車の中で騒いでる小学生やらブックオフで座り読みしている中学生やら平気でタメ語使ってくる高校生やらに
「最近の若いモンは」と思うようになってくるんですよ。
でもおそらく自分だって、自分より年上の「大人」たちに、自分の気付かない所について「最近の若いモンは」と思われているに違いない。
それと同時に、自分より年上の「大人」について、「これだからオジサンオバサンの考え方は古くさくて嫌なんだ」とも感じているのも事実。
さらにそのオジサンオバサンだって、おじいさんおばあさん世代には少なからず反発するところがあり、おじいさんおばあさん世代だってオジサンオバサン世代を全部ひっくるめて受け入れているとはいえない。

完璧な大人が黒で、完璧な子どもが白であるならば、その境界線は「灰色」なのではないかと。
なんかイデア論入ってきましたね。
オトナコドモ境界線は、国境や合格点のような明確なものではないんです。

大人であるために必要な要素って何でしょう。
色々必要です。
自己責任をとれること、時間を守ること、規則を守ること、理性があることetc....

それらの要素を一つずつ満たしていくことで、白から灰色、灰色から黒へと成長していく。
それはつまりは「自分の中で大人の割合(=黒さ)が増えていく」という事と同じです。
でも、白いうちはやがて自分が黒くなることへの想像力が乏しく、
黒くなってからではかつての白さを思い出せない。
だから「征地球論」のような対立を生むのかも知れません。

大人の境界線は「灰色」である。
キマリによって大人の解釈は様々です。バスや映画の料金、免許を取得できる年齢、アダルトビデオを借りられる年齢。
それはまぁ、求められている灰色の「濃さ」の違いなのではないかと。
一律に同じ濃度になっているとはもちろん言い切れませんが。

そう考えると、20歳が19歳に言えることは「僕の方が君よりも1年長く生きているから大人の割合が多いハズだね」ってことになりますね。わぁ嫌な先輩。
ちょっとでも子どもらしさを残した大人でいたいと言ってるうちは、まだまだ子どもなのでしょうか。


ってか、この時期にAmazon.comで「藤子F不二雄SF短編集PERFECT版」を大人買いしてしまったことが痛い・・・。
家に帰っても読みふけって眠れない・・・。
研究室で眠ると顎関節が痛い・・・。
ここまで書いた2347文字を卒論に組み込んだらクビだろうなぁ・・・。


[ホワイト:オトナとコドモの境界線]