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探検家と芸術家またはチラ裏

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書籍処分のついでに(横溝正史編7) 『夜歩く』 (ネタバレ)

2011-04-03 | 読書
『夜歩く』横溝正史

取り上げるのが前後するが、坂口安吾の『不連続殺人事件』の前に本作を読んでいる。
そもそも本作は処分を前提とした再読であり、『不連続-』は初読である。
後で『不連続-』を読んでから気付いたが、こちらの『夜歩く』も奇人だらけの中での奇人による猟奇殺人事件の話だなあと。

本作の叙述トリックは初読時のインパクトが大きかったと記憶している。
未だにスゴイとは思うが、少し意味合いが違っていて。

つまり、トリックが明かされる時点まで、手掛かり、伏線の類がないわけで、騙されるしかないのである。
つまり真相に到達するのはほぼ不可能ということである。
その原因は、作品の全体が「私」こと屋代寅太による創作だということが予め明かされていないからである。

読者は本作が、屋代の一人称の視点で横溝が描いた作品と理解して読むわけなのだが、そこから間違っているわけである。
横溝が書いたものなら地の文の箇所で、誤認はあるとしても虚偽はないはずである。
だが、屋代が書いたものなら、その限りではない。実際、ウソだらけな訳である。
しかしながら、読者にはそれを疑わせるような手掛かりが与えられていないのである。
これは一回限りの手じゃないかなあと思う。

実際、本作を読んで思い浮かべるのは、東野圭吾『悪意』『むかし僕が死んだ家』、綾辻行人『黒猫館の殺人』『フリークス』
法月綸太郎『頼子のために』あたりの作品だが、いずれの作品もそれが登場人物による手記、日記の類であることを
明示した上で、ストーリーを展開させている。

さらに、それらの文中の表現と、実際の事象とのわずかな違い、ズレなどから読者が次第に違和感を感じ、
叙述トリックであることに気付く手掛かり、伏線となっている仕掛けになっているのである。

この方が高等かつスマートであるが、後続の作品であるのでそうした工夫が加えられるのも必然だともいえる。
同じことしたら、『夜歩く』(横溝の)マネじゃん、の一言で終わりだからである。

例外かなあと思うのは、折原一で、この人の場合は名前と叙述トリックがほぼイコールで結び付けられるという
奇特な作家なので仕方ないというか。
でも私のこの人の諸作に対する評価は芳しくなくて、
「それなら結局なんでもアリじゃん」で片付いてしまうのである。

ただ、本作に関して自分が幸運だと思うのは、初読時まだ推理小説というものを読み慣れていなかったことである。
これがなまじ読み慣れた状態で、この作品に向かい合うと目次がある意味ネタバレというか、
第三章で著者の意図が見えてしまうのである。

これについては、以前取り上げた江戸川乱歩の『悪魔の紋章』と同様である。
書籍処分のついでに(江戸川乱歩編4) 『悪魔の紋章』 (ネタバレ)

すなわち、この『夜歩く』では、一人称の「私」こと屋代寅太は、事件の渦中において探偵的な役回りを演じている。
そして第三章「金田一耕助登場」において金田一耕助が登場する。
人物名を入れ替えれば、『悪魔の紋章』の項で用いた表現がそのまま通用する。

(二人の探偵のコラボ、などということは推理小説の世界ではまずない。
ということは、どちらかの探偵が犯人なわけである。
金田一耕助が不滅のシリーズ名探偵であってみれば、自動的に屋代寅太が犯人となるわけである。)

まあそう言ってしまうと、上で挙げた『悪意』『黒猫館の殺人』『頼子のために』にも当てはまってしまうのだが。
加賀恭一郎、島田潔、法月綸太郎が不滅のシリーズ探偵であるかどうかは議論の余地もあろうが、
シリーズ探偵であることは間違いない。

当初この項を書き始めたときは、叙述トリックについてはほんの前置きのつもりだったのに、書き出してみると
その前置きがずいぶん長くなってしまった。
こうなったらいっそのこと、こちらをメインにして後は流してしまおうか。

ついでに瑣末な点を挙げていこう。

まず、事件の遠因である仙石直記と古神八千代との関係であるが、『悪魔が来りて笛を吹く』の新宮利彦と椿秋子ならば
鼻で嗤ったことだろう。「かも知れない」どころか彼らの場合、血のつながった兄妹である。
従って事件も起こらなかっただろう。
逆もまた真なりで、新宮兄妹に仙石直記なみの倫理観があれば、あそこまでの恨みは買わなかっただろう。

もう一つは、頻出ワードについて。
前に取り上げた『悪霊島』では「惻隠の情」が多用されて辟易としたものだが、
書籍処分のついでに(横溝正史編6) 『悪霊島(上・下)』 (ネタバレ)
本作においては
「魚の骨が咽喉にひっかかったよう」
である。

声の調子を指して「魚の骨が咽喉にひっかかったような」がやたら目に付いたし
「咽喉にひっかかった魚の骨のような」引っ掛かりであるとかこだわりの種といった表現も見られた。
さては、横溝先生、執筆の時期に実際に魚の骨を引っかけて大変な目にでも遭ったのだろうかと想像して可笑しかった。

さて、本題はこの作品が(もう)要らない理由、今回処分する理由のつもりだったが、あっさりといこう。

荒唐無稽というとミもフタもないが、二点。

一つ目は、計画が壮大な割には、その全てが古神八千代というワガママお嬢様のピストルの射撃の腕前に依存していること。
至近距離からとはいえ、とっさの射撃でしかもハンドバック越しで、見事に狙い通り相手の右太股を撃ち抜いたものである。
ハードボイルドの作品でタフな主人公が威嚇のために敵の耳たぶを撃ち飛ばすかのような芸当に思える。

右太股以外の箇所に命中していたら、計画は水の泡である。
右膝でも右腰でもダメ。左太股もアウト。しかも二発以上命中させてもイケナイ。
これは綱渡りどころか、そもそもこんな計画を立てる合理性に乏しい。

二つ目は、終盤に明かされるトリックの一つ
「6時ごろに蜂屋に食わせた食物を、10時ごろに食ったと思わせること」だが、
10時ごろに持って行った食事と同じものを6時ごろに合わせて、誰がいつどこで用意したのかがさっぱり判らないのである。

八千代が10時に持って行ったのは、調理場から見繕った「二、三品の食べ物と水」としかないが、
お嬢様八千代が用意したのか?
そのこと自体が目を引くだろう。
お手伝いに作らせたのか?
証言が得られたはずである。

そもそも古神家の夕食は午後9時ごろからという習慣である。
それが6時から一人分持って行けるようになっていたのは、いかにも不自然で目立つだろう。

屋代は、このトリックについて金田一耕助が単に「看破」したことを以って満足しているが、こちらは全く納得が行かないのである。
誰か説明できる人がいれば教えてもらいたい。

楽しんだけど、今となっては粗が見逃せなくて、もう手放してもいいかと。


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