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探検家と芸術家またはチラ裏

とりあえずネタ探しとつれづれ備忘録かな

K君

2009-07-24 | 人物
高校の時のクラスメート。
あだ名はチャーリー。
ちょっとかっこ良く聞こえるが、由来はいつもポケットに小銭(チャリ銭)を入れていたから。
図書券でエロ本を買ったことがあるらしく、よくクラスでネタにされていた。
ルックスは悪くなく人懐っこい性格なのだが、あれだけイジリ倒されてると、付き合いたいという
女の子もいなかったのではないかと思う。ちょっと可哀想だった。

「法月綸太郎の冒険」中の「土曜日の本」という一編を読んでいて、彼のことを思い出した。
毎週土曜日に五十円玉二十枚を千円札に両替しに来る男の話に加えて、
「図書券でアイドルの水着写真集を買っていくサラリーマン」という描写があったからだ。

O教授

2009-06-28 | 人物
私が留学したビジネススクールの教授である。ベンチャー・キャピタリストでもある。

私は昔アメリカのロースクールに憧れたことがある。
中学か高校の頃、アメリカのドラマ「LAロー」というのが大好きで、法廷弁護士になりたい、
陪審法廷に立ちたいと思っていた。

その頃NHKでアメリカのロースクールを紹介する番組を見た。確かハーバードだった。
事前課題としてものすごい分量の文献を読むことが課され、授業は少人数で討論ベース。

とても印象に残っているのがある授業風景で、
準備不足の学生が教授の質問に答えられず、矢継ぎ早の質問の中棒立ちになっている姿だった。
仮にも超エリート学生である。
私は当然ビビッたが、それでもいつか挑戦してみたいと思っていた。

時は流れて、社会人となり、ハーバードでもなくロースクールではなく、ビジネススクールに
留学することとなったが、そこの教授で真っ先に浮かぶのが、このO教授である。

1年の必修コースが終わった夏休み、ある先輩からこの教授のコースのことを知る。
曰く
「最もタフだが、最高の授業だ。」と。
私は2年目が始まって早速この授業を受講した。

実は単位数を稼ぐため、夏休みにこのコースの序論を私は受講していた。
別の教授がメインでO教授はサポート的立場で参加していた。
とても良い授業だったが、特段タフという印象はなかった。

で、秋学期のこの2番目の授業だが、O教授とC教授の2枚看板の体制だった。
噂通り、最初の授業は立ち見が出るほどの超満員。
そこでO教授が早速かます。

曰く
この教室内では君達は企業経営者である。
授業に際しては経営者として株主、銀行家、ビジネスパートナーと接するような
つもりで臨め、と。

私語、遅刻(遅刻は他の授業では結構多い)はもとより、準備はしっかりしておけ、
「分かりません」では済まされないということである。
非常に説得力のある理屈であった。
教室もこのコース専用の大企業の重役会議室みたいな造りである。

授業のベースは個人プロジェクトで、テーマを決め、リサーチを行い、計画を立て、
その実現可能性を検証し、完成させる。
プロジェクトは毎回ステップ毎に提出・発表が求められ、授業もその進行に沿う形に設計されている。

2回目の授業から人数が激減した。いかにも少人数コースという態勢である。
留学生は殆どいない。
確かに課題からして本当にきつい。他の科目の準備を諦めないととても出来ない。
実際そのうちの2教科については本当に何もできなかった。

授業はとても温厚なC教授とO教授が交互に話す。毎回二人が話す。
ゲストを招くこともある。キンコーズやベン・アンド・ジェリーの創業者が来たこともある。
本当に刺激的な内容ばかりだった。

発表は留学生の私ばかりでなく、アメリカ人も終わった後はぐったりする。
二人の教授から矢のような質問と率直なコメントが入り、さらに他の学生にも質問を促す。
このQ&Aセッションに対する準備と対処が大変なのである。
前に書いた通り、答えられなければ「お前の会社に投資する人間も、金を貸す人間も、
手を組もうと言う人間もいない。」ということである。

いい加減な答えも、苦し紛れの言い逃れも、ごまかしも通用しない。
O教授の質問は納得のいく回答が得られるまで続けられる。
「それは答えになっていない」
「君の言っているのはYであってXでない、私が聞いているのはXだ。」
「それもYだ、Xは何だ?」

O教授は恐らくテーマを提出させた時点で、全学生のプロジェクトの領域についてリサーチを
行っているようだった。
自らのベンチャー・キャピタリストとしての経験・知識もある。
そこまでは知らないだろうと手を抜いたり、適当なことを言うと痛い目にあう。
各業界の動向、市場規模、コストの相場観、テクノロジーの動向等すべて踏まえた上で
突っ込んでくる。

私はアメリカ人の学生さえ、O教授の前に棒立ちとなる姿を目の当たりにした。
上に書いたNHKの番組以上の凄まじさである。
千本ノックというか、怒涛のラッシュでTKO寸前という感じである。

中にはどうしようもなくて抗議する学生もいたが、
"This is not personal."と君が嫌いだからじゃない、授業のために必要なことだと
フォローする場面もあった。

一方のC教授は基本的に発表者の努力と苦労を労うのが基本線である。
発表者が力を入れて準備したところ、一番言いたそうなところを見抜いて、
そのあたりを質問してうまく拾ってくれるという感じだった。

このO教授とC教授の「アメとムチ」のコンビネーションは名人芸だと思う。
見た目はC教授のほうが巨漢でスキンヘッドとはるかにおっかないのが余計おかしい。

本当に最もタフで最高に素晴らしい授業だった。
ここで得た自信と知識と出会いは何物にも代え難い。

T先生

2009-05-31 | 人物
高校2年時物理担当。

物理は嫌いではないのだが苦手で、唯一赤点を取りそうになった教科だ。
実際一度赤点で返ってきた答案の採点ミスを見つけて、事なきを得たことがある。
何だか必死過ぎて微笑ましい。

小グループで4つか5つ位の実験を行い、10位の設問に答えるレポートを纏め、
提出する際にプレゼンをするという、今思い返しても恐ろしい課題があった。

子供の頃から実験好きな私は、実験を仕切り、結論を出し、メンバーにはレポートを纏めてもらった。
時間が押していたので、私のグループは私が単独でプレゼンした。

あとで呼ばれ、お前は弁護士に向いてる、と言われた。元々法学部志望だったので嬉しかった。
物理教師から勧められると妙な説得力があったのだが、今思うに物理は諦めろということだったのかも。

大学は法学部に進んだものの、結局法曹の道には進まなかった。

O先生

2009-05-31 | 人物
高校1年時地理担当。かなりサヨクな先生だった。

地理担当と言っても地理は一切やらなかった。
おかげで大学入試は一次二次とも地理の選択の余地は無かった。
高校は公立の普通科なのだがアリなのだろうか。

授業は何をやったかと言えば、AALAである。
アジア・アフリカ・ラテンアメリカの近現代史である。
確かに未だにこの分野は強いと自負している。

朱に交われば赤くなるを地で行くように、私も高校時代は左翼傾向が強かった。
微妙なのは、反共・尊皇であることは変わらなかったこと。これは血だろう。

ある事件で私は校長室に単身抗議に押しかけ、騒ぎを起こしたことがある。
おかげで推薦入学のセンは消えた。バブルの頃である。

今だとどうだろう。やはり同じか。あれは思想の問題ではなかった。
校長のやり口が卑劣なだけだった。
翌日全校放送で校長自ら説明させた。

高校卒業以後、保守に復帰して現在に至るが、今でも誇りに思っている。
今の基準でも行動に矛盾が無い。

K先生

2009-05-31 | 人物
高校1年時の担任、古文担当。
当時大学生の息子がいるというおばちゃん先生だが、若い頃はさぞかし可愛かったろうと思わせる面立ちであった。

非常にサバサバとした気持ちの良い先生であるのだが、古典において在原業平や源氏物語などが典型だが、
性のテーマを直球でぶつけてくるのには戸惑った。ちなみに共学校である。

極めつけは、何故か授業で谷崎潤一郎の話題となり、K先生は作品を読んだことがある者と訊ね、
調子に乗って手を挙げた私が当てられた時のことだ。
私は迂闊にもというか、よりにもよって「痴人の愛」を挙げた。タイトルを挙げさえすれば良いと思ったからだ。
しかし先生、内容を説明せよと。
かくして私はクラスメートの前でナオミと譲治のSM的な倒錯した愛の関係について
説明させられる羽目となった。

今でも思い出す度に恥ずかしくなる。しかし何故谷崎だったのだろう。

I先生

2009-05-31 | 人物
小学5年時の担任。
それまでの担任は全て女性であった。そして男性教師を恐れていた。
でいよいよ5年生の時、この男性が担任となる。

見方は180度変わった。
男の先生はひいきしない、細かいことで怒らない、励ますのが上手い。
これがI先生の印象である。

この小学校の黄金時代は悲しいことに1年しか続かず、最終学年に最悪の教師に当たるという不幸を味わった。

私は性差別に反対する者だが、教師だけは例外である。

N先生

2009-05-31 | 人物
読書についての書き込みをしているうちにこの恩師のことを思い出した。
それで別項で教師にまつわる記憶を書いておくことにした。カテゴリも「人物」と追加してしまった。
特定できない範囲で触れていきたい。

さてN先生である。中学3年時の担任であり、恩師の筆頭である。
裕福な旧家の出で育ちは良いらしいのだが、見た目はヤクザであった。
東野幸治のような短いチリ毛で薄いサングラス、高級スポーツカーで通勤されていた。
ちなみに田舎の公立中学である。こう書いていくとマンガのようだ。
そんな訳で、私も含め気に入らない教師の車には色々いたずらをしたものだが
N先生の車には不良グループも誰一人として指一本触れなかったと思う。

実際怒ると半端ではなく、不良をボコボコにして自分の手も血だらけになっていたこともある。
今だと格好のマスコミのネタだろう。
今は知らないが当時は柄の良くない中学で、先生にビンタされるのは当たり前で、
されたことの無い生徒を少なくとも私は知らない。
何せ連帯責任ということでクラス全員廊下に並ばされ、全員ビンタする教師もいた位だから。

でN先生だが、上の極端な例を除けば後は怒鳴るか頭に拳骨である。
見極めが絶妙で、スルー判定が多かった。しかし、全てを見抜いているという目を本人にだけ
してくるので威圧感は並大抵ではなかった。

なぜこれが恩師かというと自主独立を促す存在であったからだ。
進路指導の頃が懐かしい。
当時私の志望校は有数の進学校で、その中学には何とデータが無かった。
記録を始めて以来、進学実績が無かったのである。
2年の頃からその高校を志望していたのだが、当時の担任には却下された。
だからという訳ではないが、その教師はワースト1である。
理由は数え切れないほどあるが、恐らく別項で触れることはないだろう。

N先生は「やってみろ」と言った。
一回目の面談はその一言で終わりだった。
それ以後も何せデータが無いので世間話だった。
父兄同伴の時も最短だったと思う。「本人の言う通りやってみましょう」位しかないし。

ここではうまく書けないが、N先生には教師ではなく、大人の生き様を見せてもらったと思う。
私はN先生と出会い、挑戦者となった。それは今でも変わらない。