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とりあえず本の紹介

私が読んだ本で興味のあるものを紹介する.

アンナ・カヴァン『氷』改訳6

2006-10-26 00:59:13 | Weblog
                          第4章

 総督がサインした許可書が翌日届いた.総督は,自身で文章の先頭に一文を追加していて,私はあらゆる援助を申し出ます,と書かれていた.これはカフェのマスターを感心させた.私はそのメッセージを回覧するように彼に渡した.

 私は町についてのノートをつけ始めた.私の振舞はもっともらしく,また十分なものでなければならなかった.私は時々,魅惑的な歌を歌うキツネザルについて書いてもいいと漠然と思った.記憶が薄れる前に記述するには,今がいい機会だった.毎日,私は周囲のことについて少しずつ書いていった.他の主題についてはもっと多くのページを割いた.他にすることはなかった.仕事がなければ,私は退屈していただろう.私は夢中で仕事をし,数時間没頭し続けた.時間は驚くほど速く過ぎていった.ある意味で,私は,祖国にいるときよりも快適な生活を送っていた.気候は極端に寒かった.しかし,部屋の中は暖かかった.くべるべき丸太は十分供給されていた.ここでは燃料不足の問題はなかった.近くに大きな森があった.まもなくやって来る氷についての思いが,いつも私を悩ませていた.現在はまだ港は開いていた.時々船が出入していた.そのため,カフェで美味な食べ物にありつくことができた.カフェで出る食事は量的には十分であったが,いささか品数が少なかった.私は居間から出て,少し引っ込んだ小部屋で食事をとるようにした.そこは,雑音も煙もなかったし,十分プライバシーの時間を保つことができた.

 破滅の中を調査をして歩いていることになっていたので,私は疑われずにハイハウスを観察し続けることができた.時々総督が,ボディガードを伴って出てくるのを見ることはあったけれども,私は決して少女の姿を見つけることはできなかった.彼はいつも足早に大きな車のところへ真っ直ぐに行って,乗り込み,驚くほどのスピードで出て行った.私は,政治上の敵対者による暗殺を恐れているのだと思った.

 2,3日たつと,私はいらだってきた.私はどこへも行かなくなり,行ってもすぐに戻って来た.彼女は決してハイハウスを出ることはないだろうと思ったので,私はそこへ入り込まなければならなかった.しかし,招待状はやってこなかった.総督に近づくためのもっともらしい口実を考えていたとき,彼がランチを一緒にとるために護衛兵の一人を迎えによこした.昼ごろ,私がカフェに行く途中に男がやってきたのだった.私はその無神経さが嫌いだった.私を呼び出す彼の傲慢なやり方が嫌いだった.招待というよりは命令だった.抵抗の意を表すために,私は,もうすでに食事が準備されていて,私を待っているので,招待を受けられないと言った.私に返事をする代わりに,護衛兵は大声を上げた.二人の黒い膝上までの長い上着を着た男がどこからともなく現れた.そのうちの一人がカフェのマスターのところへ説明に行った.もう一人は私の傍に立っていた.私は二人の護衛兵と一緒にいるしかなかった.もちろんそうすることがいやではなかった.それはわたしの望んでいたことだった.しかし,私は彼の高圧的な態度は好きではなかった.

 総督は私を大きなダイニングホールに真っ直ぐに案内した.そこには,20人ほどの人が座れるテーブルが置かれてあった.彼は最上位の位置に,座を占めていた.堂々としていた.私は彼の脇に座った.三番目の席が私の反対側に置かれてあった.私がそこを一瞥したのを見て,彼は言った.
 「あなたと同じ国から来た若い友人がここに滞在している.あなたは彼女に会いたいかもしれないと思ったものでね」
 彼は私を覗き込むように見つめた.
 私は嬉しいとだけ返事した.心の中では興奮していた.それが本当ならあまりにも幸運すぎた.これ以上の幸運はなかった.もはや彼女に会うために見せ掛けの仕事をしなくて済む.

 つや消しされた水入れに入れられてドライマティーニが持ってこられた.その後すぐに誰かが入ってきて,何ごとかをささやき,彼にメモを渡した.2,3語読むや否や,彼の顔色が変わった.彼は紙を,ズタズタに引き裂いた.
 「若い人は気が進まないそうだ」
 私は落胆したが,適当なことを丁寧につぶやいて,悟られないようにした.彼は怒りで顔をしかめつらをしていた.彼の最もささやかな要求が断られたことに,彼は耐えられなかった.彼の怒りは周囲に及んだ.もはや私に口も聞かずに,彼女のために置かれていたものを下げさせた.グラスやナイフやフォーク類が取り下げられた.食事が持ってこられたが,彼は皿に盛られたものをほとんど口にしなかった.粉々になった紙切れをこぶしで握り締めて座っていた.彼が私を無視し続けていたので,私はいらだってきた.彼が私を向かいに来た傲慢なやり方を思い出し,これまでの彼の全ての無作法さに腹が立ってきた.私は立ち上がって出て行きたかった.しかし,それでは,ここでの彼との関係が駄目になってしまうことが分かっていた.気持ちを落ち着けるために,私は少女のことを思った.たぶん,彼女が来ないということは,私に責任がある.彼女が全く知らされていなかったにしても,彼女は私が誰かを予想したに違いない.彼女がひとりで上方にある防音室にいるところ想像した.彼女は数マイルも遠くにいる,夢の中の人のように感じられた.接近不能で,現実ではないかのようだった.

 総督は,許し難い表情を浮かべていたけれども,次第に冷静になってきた.私は自分から話しかけようとはしなかった.彼が私の存在に気づくのを待った.若い羊の肉が切り取られ,私たちがそれを食べていた時に,彼は,急に私の調査に触れた.
 「私は,あなたがわたしの周辺の破滅しか調査しないのに興味を持っている」
私はあわてた.私は見張られているとは知らなかった.幸運にも,答えを用意していた.
 「ご存知のように,ここには行政上の建物がありました.それで,関心が他のところよりもここに集まります」
 彼は何も言わなかった.彼はゲームで相手が疑問手を打ったときのような声をあげた.彼が私の返答に満足したのかどうか分からなかった.

 コーヒーがテーブルの上に置かれた.驚くことに,人々を皆部屋から退室させた.私は恐くなった.彼が私と二人きりで何を言おうとしているのか想像がつかなかった.彼の態度はこわばっていた.彼は人をぞっとさせるような様子をしていた,冷酷で,よそよそしかった.つい先ほどまで,彼が親しげだったのが嘘のようだった.
 「私に罠をかけるやつは後悔する.私は簡単には騙されない」
 彼の声は自制されていて,穏やかだった.以前なら,そこに親しみを感じていたが,今は,威嚇されているように感じた.私にはあなたが言いたいことが理解できないと,言った.思い当たるふしがなかった.彼は長い間威圧的に私を睨みつけていた.私はその間に冷静さを取り戻した.危険のオーラが彼から出ており,何か企んでいるに違いなかった.

 コップを脇に押しやり,彼は肘をテーブルにつき,顔を私のまじかに持ってきた.一言も喋らないで私を凝視した.彼の眼は輝いていて,私を支配しようとしていた.威圧に圧倒されないのは困難だった.彼の態度は,はったりに違いなかった.しかし,私は抵抗するのに努力を要した.彼が少しばかり怒りが静まったので,私はホッとした.彼はぶっきらぼうに言った.
 「私を助けてくれればありがたんだが」
 「一体全体,私に何ができるんです」私は驚いた.
 「聞きなさい.ここは小さな,貧しい,資源のない後進国だ.エネルギーに関しては,大国の援助なしではやっていけない.不幸にして,大国が興味を持つには,国が小さすぎる.あなたの国の政府を,わが国と交易すると有益であると,説得して欲しい.地理的にもいい位置にある.あなたは政府に影響力を持っている方だとお見受けしている」
 私はかつてはそうであったかも知れなかった.しかし,今ではそうではなくなっていた.私はそのようなことが言われるとは思いもよらなかった.私の直感はそれとは反対のことを予想していた.
 「その種のことに,全く私は関係していないので」
 彼はいらいらして遮った.
 「あなたの国の政治家に私の国と協力関係を持つと,有利だと指摘してくれるだけでいい.簡単なことです.地図を見せていただければいい」
私が何か言う前に,彼はさらにいらだちながら,彼の意志を押しつけてきた.
 「やってくれるでしょう?」
 彼の権力と人を引きつける力に抗して,それを拒否することは不可能だった.しぶしぶ,私は同意した.
 「よろしい.契約成立だ.もちろん,あなたは報酬を受け取るでしょう」
決着がついたかのように,彼は立ち上がって,手を差し出して,つけ加えた.
 「下準備をするために,すぐにでも手紙を書いてください」
 彼は小さな銀のベルを取り上げて,力いっぱい鳴らした.人々が群れをなして部屋の中に突進してきた.彼は彼らの方へ近づいていくとき,親しげにうなづき,私を立ち去らせた.私は当惑し不安になった.しかし,この場所を去ることが出来て嬉しかった.私はこの新たな展開を好まなかった.私の幸運も変わりそうだった.

 1,2日後に,彼の大きな車が私のところにやってきて,止まった.彼は顔を出したが,高価な毛皮のオーバーコートを着ていた.彼は,私にハイハウスへ来ないかと,一言言った.私が乗り込むと,車は猛スピードで,入口へ向かった.

 私たちは,彼と話をする目的で集まって来ている人々のいる部屋に入っていった.護衛兵が彼らを後方へ追いやって,私たちが向うの部屋に行くことができるようにしてくれた.私は彼がつぶやくのを聞いた.
 「5分間遠慮しくれないか」
 彼は護衛兵を向うへ行かせた.私に言った.
 「あなたは,我々の契約に関して然るべき人に手紙を書いたと思うんだが」
 私は何か言い逃れを言った.彼は全く口調を変えて,私を激しく非難した.
 「郵便局はあなたがまだ誰にも手紙を送っていないと言っている.私はあなたが約束は守る男だと思っていた.見損なったみたいだ」
 口論を避けたかったので,彼の侮辱を気にしないで,冷静に返答した.
 「私はまだ契約から私は何を得ることができるのか聞いていなかったので」
 彼は,ぶっきらぼうに,条件を言えと言った.私は率直に,単純に話そうと決心した.彼の敵意を少しでも和らげようと思いながら.
 「私の望みはささやかなものです.今となっては」
 私の望みは彼の敵意のない笑みだということを彼に知らせた.
 「あなたのところにいる友人は,私と旧知の間柄かもしれない.その点を確かめるために,私は彼女と会いたい」
 私は,私の強い願望を悟られないように言った,

 彼は無言だった.彼は沈黙していたので,私の申し込みに反対しているのように思えた.彼が私にランチを招待したときとは,明らかに態度の変化があった.もはや彼は,私に会おうとしないだろうと思った.

 突然,私は時間が気になって,時計を見た.面会の時間は5分過ぎていた.彼の命令に従って護衛兵が私を連れ出しに近づいて来るまで,待つつもりはなかった.立ち去ろうとした.彼は私と一緒にドアのところまでやって来て,ノブに手をかけながら,私が去るのを妨げようとしていた.
 「彼女は気分が優れない.人に会うのに神経質になっている.あなたに会うかどうか聞いてみようか?」
 私は彼が会わせないだろうと確信していた.再び時計を見た.1分しか残されていなかった.
 「行かなければならない.もうすでに十分あなたの時間を使わせました」
彼の急に笑ったので,私は驚いた.彼は私が何を考えていたか知っていたに違いない.突然,彼の態度が変わった.彼は親しげになり,私は一瞬彼といっそう近づきになれるかもしれないと,かすかに思ったほどだった.彼はドアを開いて,護衛兵たちに立ち去るよう示唆した.彼らは挨拶して,出て行き,回廊を進んで行った.彼らのブーツが磨かれた床でカチャかチャと音を立てた.彼はそれから私の方を向き,善意を示すかのように,言った.
 「もしよければ,今彼女のところに行こう.しかし,前もって彼女に知らせておかなければならない」

 彼は私を連れて,彼を待っている人々がいる部屋へ戻った.人々は彼の回りに押し寄せ,取り囲んで,彼に熱心に話しかけた.彼は近くの人と,笑顔で親しげに一言二言話しをした.大きな声で,待たせたことを,さらに少しばかり我慢してもらわなければならないことを,詫びた.追って,全員の話を聴くだろうと約束した.部屋中に聞こえる調子で,命令口調で言った.
 「音楽はないの」
 それから,きつい口調で従業員に言った.
 「ここにいる人々はお客だということは分かっているはずだ.待たせている間は,もてなすのが最低限の義務だ」
弦楽四重奏曲の調べが部屋中に響き始めた.私は彼に続いてそこを出た.

 彼は私の前に立って,多くの護衛兵の前を通り過ぎ,風が吹いている回廊を大またで歩いて行った,一続きの階段をいくつか昇ったり降りたりした.私は彼についていくのに精一杯だった.彼は私よりはるかに条件が恵まれていた.彼は,その事実を示すのを楽しんでいるかのようだった.私を振り返りながら,笑いかけたり,彼の優越した身体を見せびらかした.私は彼のこの突然のユーモアを全く信じていなかった.私は,彼の広い肩幅や上品で細いウェストをした運動家のような頑強な身体を賞賛した.道のりは決して終わらないと思われるほど長かった.私は息切れがした.とうとう,私は彼を待たせるほど後れてしまった.彼は,短い階段の上で私を待っていた.そこは深い影の中にあった.ドアの形をかろうじて識別できた.部屋へ通じているのは,その階段だけだった.

 彼は,少女に事情を説明したいので,私に数分待っているように言った.悪意のある笑い顔で
 「ここで少しばかり体を冷やしてください」と言った.
 ドアのノブに手をかけながら,続けて言った.
 「ご存知のように,彼女次第ですから.彼女が会いたくないと言ったら,どうしょうもない」
 彼はノックもなしにドアを開けて,部屋の中に姿を消した.

 そこは薄暗かった.私は気が滅入り,いらだった.彼は私を罠にかけようとしているのだった.彼によって用意された彼女との出会いは見せかけのものだろう.可能性は皆無に等しかった.彼女が私を拒否するのか,彼が会わせるのを邪魔するのかは分からなかった.いずれにしろ,私は彼のいるところで彼女と話をしたくなかった.彼女は彼の支配の下にあるのだから.

 私は聞き耳を立てた.しかし防音装置の壁からはなにも聞こえて来なかった.しばらく待って,私は階段を降りて行った.暗闇の通路で迷っていると.使用人に出会ったので,出口への道を教えてもらった.私の幸運続きもこれで尽きたかと思われた.
(第4章終り)

アンナ・カヴァン『氷』改訳5

2006-10-24 14:58:20 | Weblog
                       第3章

 スーツケースを持って,私は町へと歩いて行った.沈黙が当りを支配していた.動くものは何もなかった.荒廃は船上から見た以上にひどかった.無傷の建物は一つもなかった.かつて家のあったところに瓦礫が積み重ねられていた.壁が崩れ,階段が途中でなくなっていた.門が開いたままだったが,深い裂け目があった.ほとんど修復の跡は見られず,全体は破壊されたままだった.幹線道路だけは瓦礫が取り除かれていた.それ以外は完全に破壊されたままだった.動物の足跡のように見えるが,実際は人間によって作られたに違いない,かすかな足跡が瓦礫の間に曲がりくねってつけられていた.誰かが私の方にやってこないかと探したが無駄だった.何もかもが荒れ果てていた.列車の汽笛が私を駅へと導いてくれた.そこには小さな間に合わせの建物が建てられていて,破壊からの救助物資があった.私は,一連のフィルムが捨てられている風景を連想した.たぶん,列車は今立ち去ったばかりだけれども,ここでさえも,生きている兆しはなかった.この場所が現実に機能しているとは思えなかった.しかし,現実にそれは機能しているのだった.私の回りのものすべてが,いや私自身さえもが,現実ではないかのようだった.ここでは,はっきりした輪郭を持った物はなにもなかった.すべてが霧やナイロンで作られているかのように輪郭があいまいだった.そして,その背後には何もなかった.

 私はプラトホームへ向かって歩き続けた.人々が,線路の上の瓦礫をダイナマイトで爆破していた.町の外へ向かう一本の道があった.それは前方の広場を横切ってもみの木の森の中へと続いていた.辛うじて生きた世界と繋がっているこの道も,人々の信頼を取り戻すことはなかった.道は森へ入るとすぐに途切れているようだった.森の背後には山がそびえていた.私は叫んでみた.
 「だれかいませんか?」
 どこからともなく人が現れてきて,脅すような身振りをして,言った.
 「よそ者は.出て行け!」
 私は船から下船したところであり,ホテルに部屋を見つけたいのだと説明した.彼は,敵意をむき出しにして,疑い深く,無礼な態度で,無言のまま,私を睨みつけた.私は幹線道路へ行く道を尋ねた.彼は二言,三言なにか言ったが,衣擦れのようなしわがれた声だったため,ほとんど聞き取れなかった.私が火星からでもやって来たかのように,彼はずっと私を睨みつけていた.

 私はバッグを携えて歩き続け,人々が行き交う広場にやってきた.男たちは黒いひざまで届く長い上着を着ていたが,それは既に見たことがあった.それを着ている人たちはほとんどナイフか銃を携えていた.女性も黒服を着用していて,陰鬱な印象を与えていた.皆無表情で黙りこくっていた.最初見た幾つかの建物には,人が住んでいるようだった.窓にはガラスが入っていた.露天市場があり,小さな店もあった.壊れた建物の瓦礫をかき集めたその上に,木作りの小屋や差し掛け小屋が立てられていた.広場の隅にカフェがオープンしていた.映画館もあったが,閉まっていて,古いプログラムのポスターが貼られていて,破れていた.ここは明らかに町の中心街だった.他の場所は,まったく死滅しており,過去の町だった.

 私はカフェのマスターを招いて一緒に飲み物を飲んだ.仲良くなって,ホテルを教えてもらいたかったのだった.人々は皆,見知らぬ人に対して,心が狭く,猜疑心が強く,敵意むき出しだった.私たちは地元特産のブランデーを飲んだ.それはプラムから作られており,強くて燃えるようだったが,寒い気候には良い飲み物だった.彼は大きくてがっしりしており,百姓よりは良い身なりをしていた.最初は,彼は一言も喋ろうとしなかったが,二杯目を飲み乾すと,幾分かリラックスして,私になぜここへ来たのかと聞いた.
 「誰もここへやってこない.ここには外国人に魅力のあるものは何もない.あるのは破滅だけ」
 私は言った.
 「この町の破滅は有名だ.それが,私が来た理由です.私は学会でそれを研究している」
 私は前もってそう言おうと決めていた.
 「外国の人が興味を持っているだと?」
 「確かに,この町は歴史上重要な町だ」
 私が期待したように,彼はへつらって言った.
 「それは確かにそうだ.われわれは輝かしい戦争の記録を持っている」
 「そして,輝かしい発見の記録もある.つい最近,あなたの国の丈の長い船が大西洋を渡って,最初に新大陸へ到達したことを示す地図が発見された.知っていましたか?」
 「あなたは,瓦礫の中にその証拠を見つけ出すことができるかもしれない」
 私は信じてはいなかったが,うなずいて,言った.
 「もちろん.そのためには,ご存知のように,私は許可を取らなければならない.すべてが適法になされなければならないから.だが,不幸にして,私は誰のところへ行って頼めばよいのか分からない」
 間髪を入れずに,彼は言った.
 「あなたは総督に話さなければならない.彼はすべてを支配している」
 予期せぬ大幸運が続いた.
 「どのようにすれば,彼に接触できますか?」
 私は,彼が鉄のような手で少女のほっそりした手首をしっかりと掴んで,もろい突き出た手首の骨を押しつぶさんばかりだったのを思い出した.
 「簡単さ.ハイハウスで秘書の一人を通してアポイントメントを取ればよい」
私はこの幸運を喜んだ.私は男に会うための機会を得るための計画を考えながら,機会が来るのを待っていた.すると,最初の機会が向うからやってきた.

 残りの用件は難なくうまく行った.私は一連の幸運に恵まれていたのだった.マスターは自分の部屋を貸してくれなかったけれど,近くに住んでいる彼の姉が空いている部屋を貸してくれるかもしれないということだった.
 「彼女は未亡人で余分なお金を必要としている.分かるだろう」
 彼は彼女に電話するために出て行った.少しばかりすると戻ってきて,部屋は準備が整っているとのことだった.彼は私に二度の食事を用意するといってくれた.朝食は部屋まで持ってきてくれることになった.
 「あなたが働いている間,雑音に悩まされることはない.全く静かですよ.家は道路から離れており,海に面している.誰もそっちの方には行かないから」
彼の協力が必要だったので,私は会話を続けようとして,人々はなぜ峡湾の近くに行かないのかと尋ねてみた.
 「海の底に住んでいるドラゴンを恐れているから」
 私は,冗談を言っているのかと思って,彼を見つめた.しかし彼の顔はまったく真顔だったし,彼の声も真剣だった.私は,電話を持っている人で,ドラゴンの存在を信じている人に,今まで出会ったことはなかった.そのことが私を面白がらせ,また私の非現実的な感覚を刺激した.

 部屋は暗かったし,心地よくも,便利でもなかった.暖房も不足していた.しかしながら,ベッドはあったし,テーブルや椅子などの基本的に必要なものはあった.その他の設備は使えなかったけれども,必要品が使えることができて幸運だった.彼女は年取っていたし,彼ほど知的ではなかった.だから,彼は長い間電話していて,彼を泊めるように説得しなければならなかったのだった.彼女は自分ひとりで住んでいる家に,外国人を入れるのは気が進まないのだった.彼女は不信感と嫌悪感を隠そうとしなかった.トラブルが起こるのが嫌だったので,彼女が要求した通りに高額なお金を支払った.それも一週間分を前払いで支払った.

 私が外出するためには,部屋と家の2つのキーが必要だったので,それらを要求した.私は自由に出入りしたかった.彼女は2つのキーを持ってきたが,私には部屋のキーのみを渡して,もう一つのキーを手のひらに隠していた.私はもう一つのキーも手渡すように要求した.彼女は拒否した.私は主張した.彼女は頑固だった.彼女はキッチンに引っ込んでしまった.私は追いかけて行って,力づくで取り上げた.私はその種の行動をすることに気にしていなかったが,そこには私の基本的な態度が現れていた.彼女はそれ以来再び私に反対することはなかった.

 私は外出して,歩き回り,町を探索した.比較的平常に戻っている地域でも,小道は,朽ち果てて形が崩れてしまっている瓦礫の間を通っていて,人影はなく静かだった.海に突き出ている要塞は破壊されており,大きな階段のある巨大な壁があったが,それも崩れていた.偏在する破滅,朽ちた要塞,戦争の残虐な証拠がいたるところにあった.私は最近作られた建物がないかと探した.何もなかった.人々はこの地を去り,人口が減少していた.残っている人々は,軍の支配権の届かない瓦礫の中で生活していた.彼らは住んでいる場所が住居不能になったら,別の場所に移動した.コミュニティは徐々に死滅していき,毎年,その数は減少していった.そうなる必然的な要因があった.私は最初の頃,人の住んでいる建物を見分けるのが難しかった.そのうちに,人の住んでいる徴候を見つける方法を学んだ.修復されたドアや板で補強された窓などがあれば,それは人の住んでいる徴候だった.

 私はハイハウスの総督にアポイントメントをとることができた.それは有名な町の最も高い場所に建てられた大きな要塞のような建物だった.その日,私は,そこへと通じる唯一の険しい道を登って行った.外観は,軍隊の要塞のような様子をしていた.非常に広く,分厚い壁,窓はなく,上の方には,銃を置くためと思われる狭い隙間が開いていた.砲列が門の側面の道路上に,整備されて置かれていた.特に時代遅れには見えたわけではないけれども,昔の軍事行動の記念品かなにかのようだった.私は秘書に電話していて,黒く長い上着を着た四人の武装した護衛兵に出迎えられた.彼らに守られ,長い廊下を下っていった.前に二人,後ろに二人だった.頭上高くには城壁の隙間を通して光が入ってきていて,様々な高さのところに,通路やギャラリーや階段や橋のような踊り場があるのが見えた.光は様々な方向を照らし出していた.天井は見えないほど高くて,建物の頂上まで突き抜けていた.彼方で何かが動いた.少女の姿だった.彼女が階段を上り始めたとき,私は彼女に向かって突進した.階段を一段一段上るごとに,彼女の銀色の髪は空中で揺れて,闇の中でほのかに光った.

 その短い急な階段だけが部屋への道だった.部屋は広くて,家具がまばらに配置され,床はダンスフロアのように磨かれていたが,何も敷かれてはいなかった.不自然に沈黙していた.奇妙な静寂の中で,彼女が動くとき,ネズミが何かを引っ掻くときのような音をたてた.外部からも他の部屋からも音は洩れてこなかった.私は困惑した.部屋は防音装置が施され,そこで何が起ころうとも,音は壁の向うに洩れるとはないのだった.なぜ,この奇妙な部屋が彼女に割当てられたのかの理由が分かった.

 彼女はベッドに入っていたが,眠ってはいないで,何かを待っていた.彼女の傍のランプがかすかなピンク色の光で辺りを照らしていた.大きなベッドは檀の上に備えつけられていた.ベッドと檀は同じような羊皮で覆われていて,鏡の方を向いていた.鏡はほとんど天井まで届いていた.ここでは,誰も彼女の声を聞かないし,彼女は誰の声も聞くことはなかった.彼女は全ての接触から遠ざけられていた.男は,ノックもしないで言葉もかけないで自由に入ってきた.男は冷たく明るいブルーの眼で,鏡を見つめている少女を捕らえた.彼女はうずくまり,黙って鏡を見つめていた.それはあたかも催眠術にかけられていたかのようだった.彼の眼は,人をすくませる力を持ち,彼女の意志を破壊することができた.何年間もの間にわたって不断に従うようにと,母親によって教育され続けていたために,彼女の意志は既に衰弱していた.子供時代から犠牲者のように,物を考えたり,行動するように強いられていた彼女は,彼の攻撃的な意志に,逆らう術を知らなかった.彼は彼女を完全に所有することができた.それが起こるのを,私は見た.

 彼はゆっくりとした足どりで彼女に近づいて行った.彼が彼女の方に屈みこむまで,彼女は動かなかった.彼女は,逃れようとするかのように,急に体をよじり,枕に顔を埋めた.彼は手を伸ばして,肩の上を撫ぜた.あごを掴んで,顔を上に向かせた.指は力を込めて下あごの骨を掴んでいた.彼女は,突然恐怖に襲われ,激しく抵抗した.体をねじって,激しく向きを変え,彼の力に逆らった.彼は全く何もしなかった.彼女に抗うままにさせていた.彼女のか弱くもがいている様をみて,彼は楽しんでいた.彼は彼女の抵抗が長くは続かないことを知っていた.半ば笑みを浮かべながら眺めていた.その間ずっと,わずかな力で,しかし,彼女が逃れられないだけの力で,彼女の顔をしっかり掴み,顔を上げさせていた.彼女は力尽きた.

 突然,彼女は屈服した.疲れ果てて,打たれて.彼女はあえぎ,顔は涙で濡れた.彼は掴んでいる手に少しばかり力を込めて,彼をまっすぐ見るように,彼女の顔の向きを変えさせた.ことを終わらせようと,彼は,傲慢で氷のように冷たいブルーの眼で,彼女の見開いた眼の中を,容赦なく,無理やり覗きこんだ.それは彼女の降伏の瞬間だった.この時,彼女の抵抗は崩れ去った.彼女は,冷たい,ブルーの魅惑的な瞳の中に落ち込み,溺れたかのようだった.

 彼はさらに体を傾けて,ベッドの上に膝をついた.手を肩にかけて,彼女を押し倒した.意志を失い,彼女は彼のなすがままだった.彼の体に合わせるように少しばかり体を動かしただけだった.彼女は見つめられていた.彼女は自分に何が起こったのかほとんど分からなかった.彼女の正常な意識状態は中断され,失われていた.彼女の屈服が何を意味するのか,彼女には理解できなかった.彼はただ自分の楽しみのためにのみ行為した.

 その後,彼女は動かなくなった.彼女は生きている徴候を示さなかった.葬儀場の死体置き場の上でのように,壊れたベッドの上で彼女は裸で横たわっていた.シーツと毛布が床に散らばり,壇の端に覆いかぶさっていた.彼女の頭はベッドの端から垂れ下がっていて,暴力の跡を示すように首は少しばかり捻じ曲げられていた.彼の手によって輝く髪はロープの中にねじ合わされていた.彼は座って,彼女は彼の獲物だと主張するかのように,手を彼女の体の上にて置いていた.彼は指で,腿や胸をまさぐりながら,彼女の裸の体の上をすべらせた.その間,彼女は苦痛と嫌悪感で震え続けていた.それから再び動かなくなった.

 彼は片方の手で彼女の頭を持ち上げ,彼女の顔を一瞬覗き込んだ.それから頭を離して枕の上に落とした.彼女はなすがままだった.彼は立ち上がって,ベッドから離れた.彼の足はたたまれた毛布に触れたが,それを蹴飛ばして,ドアのほうへ向かった.彼は,部屋に入ってきて以来,一言も言葉を発していなかった.音一つ立てずに去って行った.ドアを閉じる時,かすかにカチッという音を立てただけだった.彼女にとって,この沈黙こそ,最も恐ろしいことだった.ある意味で,それこそが彼女を支配する力だった.

 私はどこへ連れて行かれるのか不安になった.広場にやって来て,通行人が行き交っていた.私たちは,岩盤をくりぬいて作られた小部屋の地下牢への上げぶたを開いて通り抜けた.小部屋の壁には,異臭をはなつ滲出物の混じった水が流れていた.危険な階段がさらに下にある地下牢へと続いていた.私たちは幾つかの対になった大きなドアを通過した.私を先導する護衛兵が鍵を開け,後ろにいる護衛兵が背後でドアを閉める音が聞こえた.

 総督は垢抜けた部屋で私を迎えてくれた.そこは広く,高価な家具が調度されていた.床は木でできており,ほの暗い古いシャンデリアで光っていた.窓は町と反対の方向を向いていて,公園の向こう側に,遠くのフィヨルドへ通じる坂道が見えた.彼は黒色の膝上まである長い上着を着ていたが,上着は完璧に体にあっていて,最高級の材質でできていた.彼はまたブーツをはいていたが,それは鏡のように輝いていた.彼は色とりどりのリボンをつけていたが,その階級を私は知らなかった.このとき,私の彼への印象は悪くはなかった.以前ほど,私の嫌いな傲慢な態度は,顕著ではなかった.彼は生まれついての支配者であり,一般的な基準に基づいて人を裁くのではなく,彼自身の法律で人を裁いていたのは,明らかだったけれども.
 「私にできることがありますか?」
 彼は私に丁寧に形通りの挨拶をした.
 彼はブルーの眼で私の顔を真っ直ぐに見ていた.私は前もって準備していた話を話した.彼は直ちに調査するのに必要な許可を与えてくれて,必要な書類にサインしてくれた.私はその書類を明日にももらえるはずだった.彼は自分から,私の調査に役立つ書類を加えるように指示してくれた.私にとってそれは有りがた迷惑だった.彼は言った.
 「あなたはここの人々を知らない.彼らはいつも法律を無視するし,生まれつき外国人が嫌いなんです.彼らのやり方は暴力的で,古臭い.私はもっと近代的なやり方をとるようやってみたが難しかった.しかし,過去にこだわるのは無益だ.塩柱になったロットの妻のようにね.しかし,あなたは彼らを過去から離れさせることはできない」
 私は彼に感謝した.同時に,私は護衛兵について考えた.それは彼の知的な風貌に似つかわしくなかった.

 彼は私が訪問するのに変な時間を選んだと言った.私は理由を尋ねた.
 「氷がまもなくやってくる.港は凍りつき,われわれは閉じ込められるだろう」
 彼はブルーの眼で私を一瞥した.そこには語られぬ何かがあった.彼は明るい眼を瞬きしてごまかした.青い炎が放射されたかのようだった.彼は続けた.
 「あなたは予定より長く滞在することを余儀なくされるかもしれない」
 また鋭い容貌になった,言外の意味が含まれているかのようだった.
 「私は一週間かそこらしか滞在するつもりはありません.新しいなにかが発見できるとは期待していません.状況が分かればもっといいのですが」
 反発したい気持ちがあったにもかかわらず,私は突然,彼ともっと接触したいという奇妙な感覚に捉われた.あたかも私たちの間になにか個人的な繋がりが存在するかのように感じられた.その感情は思いもよらないもので,説明不能な感情だった.混乱して,付け加えた.
 「どうか私を誤解しないでください」
 私は自分が何を言っているのか分からなかった.彼は満足の表情を見せて,微笑んだ.そしてすぐに,より親しげになって言った.
 「そう.私たちは同じ言葉を話しています.いいことです.あなたがやって来てくださって,私は嬉しいですよ.われわれは,この国に滞在している知的な国民ともっと接触する必要があります.これがその始まりです」
 私たちが話している事柄はまだいくらかあいまいなままだった.私はお暇するために立ち上がって,彼に再び感謝した.彼は手を振って言った.
 「また来てください.いつか夕食をご一緒しましょう.他に私に出来ることがあったら,言ってください」

 私は喜色満面だった.幸運はまだ続いていたのだった.私にはすでに目的が達成されたも同然と思われた.私が少女に会うチャンスを得ることは確かだった.食事の招待が具体化しなかったとしても,私は彼の最終的な申し出に頼ることができた.
(第3章終り)

アンナ・カヴァン『氷』改訳4

2006-10-23 11:11:35 | Weblog

                             第2章(承前)

 港ははるか遠くだった.そこに辿り着くためには長く困難な旅行を覚悟しなければならなかった.旅行ははかどらず,夜中中かかって,出航の一時間前にやっと辿り着いた.乗客は既に乗船していた.デッキは見送りの人々でごった返していた.私は先ず船長と話をつけなければならなかった.船長は異常なほど話し好きだった.彼は,お上が過剰乗船を認めたことについて不平を言い続けていて,私はだんだんと我慢できなくなってきた.彼が言うには,それは彼自身にとっても,会社にとっても,乗客にとっても,保険会社にとっても,公正ではないということだった.しかし,そうすることが彼の仕事だった.私は乗船の許可を取るや否や,私は船の中をくまなく探した.しかし少女の痕跡を見つけることはできなかった.

 私は絶望的になって船を降りて,外に出た.あまりにも疲れ果て,あまりにも意気消沈していたので,あたりの人々の群れを押しのける気力もなく,押しつぶされそうになりながら,手すりの傍に立っていた.その時突然,事態全体を忘れてしまうほどの思いが襲ってきた.少女が船上にいると想像することに何の合理的な理由もなかった.根拠のない推測だけでこれ以上探し続けることは,無意味で,狂気に近いように思われた.特に,私の彼女への態度は漠然としすぎていた.私にとって彼女が必要不可欠であるという感情は,私自身の失われた部分に対する感情と同じ種類のものだった.その感情は愛というよりは,何か説明し難い異常な感情,それにしたがって生きるのではなく,むしろ根絶すべき性格上の欠陥のなにかであった.

 その時,背中の黒い大きなかもめが,羽の端っこがほとんど私の頬をなぜんばかりに,横切っていった.私はつられて,カメもの飛んで行った方向にある船のデッキの方を見上げた.突然,彼女がそこにいるのが見えた.ここからはかなりはなれていたけれど.つい先ほどまではそこには誰もいなかった.興奮の波が打ち寄せ,今の思いが吹っ飛び,彼女への渇望が戻ってきた.顔は見えなかったが,私はその姿が彼女だと確信した.そのような眩い髪を持っている少女は世界中で彼女だけだった.あまりにもほっそりしていることが,厚地の灰色のコートの上からでも分かった.私は彼女のところへ行かなければならなかった.それ以外のことを考えることはできなかった.かもめの飛翔が妬ましかった.彼女から私を隔てている群集を押しのけながら突き進んだ.しかし,まもなく船は出航するはずだった.訪問者は既にデッキを立ち去りつつあった.私はその人の流れを横切らねばならなかった.私の考えは,なんとか間に合うように船のデッキに辿り着くことだけだった.不安に駆られながら,群集を押しのけて突き進んだ.群集は敵意を示し,こぶしを振り上げる人がいた.私は緊急事態であることを邪魔になっている人々に弁明したが,彼らは聞こうとしなかった.3人の頑強そうな若者が手を取り合って輪を作り,私が進もうとするのを妨げようとした.彼らは私を威嚇した.私は怒らせるつもりはなかったが,どうしてよいか分からなかった.私はただ彼女のことで頭が一杯だった.突然,スピーカーからアナウンスが流れ出した.
 「訪問者は岸へ降りてください.通路は2分以内に閉鎖されます」
汽笛が耳をつんざくようなひと吹きの音を立てた.群集は一斉に岸へと向かった.通路へ殺到して出て来る人々の群れに逆らうことは不可能だった.私は殺到する群れの中に閉じ込められ,引っ張られ,船の外へ,埠頭へと放り出された.

 水際に立つと,私は頭上はるかに彼女がいるのが見えた.船はすでに岸から離れ始め,刻々とスピードを増していた.もはや飛び越えることが不可能なほど岸からはなれた.やけくそになって,彼女に気づかせようと思って,私は,叫び声を上げ,手を振った.しかし,それは無駄だった.私の周りの何千という手が波のように揺れており,数え切れない感情豊かな声が叫ばれていた.彼女が連れに話しかけようとして向きを変えるのが見えた.同時に,彼女はフードを頭の上まで引っ張り上げ,彼女の髪は隠れた.私は疑念に襲われ,垣間見た光景によって増幅された.結局,彼女は私に相応しい少女ではない.彼女はあまりにも利己的のような気がした.しかし,そのことには確信がなかった.

 港から出て行こうと,船は今向きを変え始めていた.港を背にして波のない海に進行の跡を,刈られた草の跡のように残しながら進んでいた.私はその跡を眼で追って立ち続けていた.寒さのため,乗客はデッキから立ち去りつつあり,彼女の姿を見る望みはほとんどなくなっていた.私は,彼女の姿を捉える直前まで思っていたことを,夢の中の出来事であったかのように,ぼんやりと思い出していた.もう一度,彼女を探さねばという強迫的な思いが襲ってきた.私は結局,強迫観念的な渇望に捉えられているのだった.それは私自身の失われた本質であった.他の全てのことは,私にはもはやどうでもよかった.

 私の回りにいた人々は,氷に足跡を残しながら,今では歩き去っていった.私は群集が立ち去るのに気をとめなかった.私にとって,水際を去るなどということは考えられないことだった.船の消えゆく姿を見続けていた.私は全くの痴呆状態であった.私は少女を確認することもできずに船を行かせてしまったために,自分自身に腹を立てていた.今では,船上の女性が本当に彼女かどうか,分からなくなっていた.もし彼女だったとしたなら,この先,私はどのようにして彼女を見つけられることができるのだろうか? 悲しみに沈んだ調べを汽笛が海を渡って運んできた.船は港の保護区域の外に出つつあった.船首は大海のほうを向いていた.既に沖合いの高波にぶつかり,船は水平線からやってくる大波の中に姿を隠そうとしていた.馬鹿馬鹿しいほど小さくなり.おもちゃの船のようになった.そして見失った.私は再びそれを見つけることはできないだろう.それは回復不能な喪失だった.

 もはやあたりに誰もいなくなっていた.私一人だけがそこにいた.そのとき,二人の警官が並んでやって来て,標識を指差した.「海岸立ち入り厳禁:陸軍」と書かれていた.
 「どうしてここにいるんだ? 字が読めないのか?」
私が見ていなかったと言っても,彼らは信じなかった.彼らは恐ろしく背が高く,ヘルメットをかぶっていて,私の両脇に立った.あまりに近かったので,銃のケースが腰に当ったほどだった.身分証明書を見せるように要求された.私の身分証明書は正規のものだった.私には何の問題もなかった.それにもかかわらず,私の行動に不信をもたれた.名前と住所を書くように要求された.私は馬鹿なことをして注意を私自身に引きつけてしまったのだった.私の名前は記録に残るだろう.私はどこへ行っても警察官に知られることになるのだった.私の移動は観察の下に置かれ,彼女を探すのに大変不利になるだろう.

 私は2人の警官によってゲートを押し出された.気配を感じて見上げると,背中の黒いかもめが列を成して壁に止まっていた.風が吹いてくる方向に顔を向け,海の方を見ていた.なにかのメッセージを伝えるために,剥製にされて,そこに止められているかのようだった.ビザが切れないうちに.直ぐにでも,この国を立ち去ろうと思った.捜査は,どこで始めても同じことだと思った.懐疑がかけられているところで,捜査を始めても失敗を招くだけに違いなかった.

 警察の記録が広報される前に,私は直ちに立ち去らなければならなかった.通常の方法では不可能だった.ある方法によって,私はなんとか,数人の乗客しか乗せない北へ向かう貨物船に何とか乗せてもらうことができた.船の後部の部屋を申し込んだ.しばらく考え込んだ後で,パーサーが自分の部屋を譲ろうといってくれた.翌日,旅行の最初の港で,到着の風景を見るために,デッキに行った.下のデッキには多くの人がかたまって,下船を待っていたので,私は,過剰定員について聞かされていたのを思い出した.12人が乗客の正規の定員だった.どうしてこんなにたくさんの人が乗船していたのか不思議だった.

 極端に寒かった.大量の氷の破片が緑の海に漂っていた.あらゆるものに霧がかかり,曖昧模糊としていた.桟橋は完全に閉鎖されていた.防波堤の端に立っている建物は形がぼんやりとして現実のものとは思えなかった.フードつきの濃い灰色のコートを着た少女が乗客から少しはなれたところに,手すりにもたれかかって立っていた.時々風でコートが裏返り,キルティングされたチェックの綿の裏地が見えた.それは私が探している女性が着ていたのと同じコートだった.だが,それは,女性の間では,寒くなり始めた頃には,ほとんどだれもが着るコートで,どこでも見られたものだった.

 霧は晴れかかっていた.太陽はまもなく輝き始めるだろう.凹凸の多い海岸線が現れ,多くの入り江と尖った形をした岩が見え始めた.背後の山は雪に覆われていた.多くの小さな島があった.島のように見えたものの幾つかは,浮かんでおり,雲だった.雲や霧が形をなして降りてきて海の上を漂っていた.一面,雪で白い景色が下のほうに広がり,霧がかった白い光が空を被っていた.東洋の神秘の世界のようだった.形の定かなものはなにもなかった.すべてが流動していた.跡形もないほど崩れた町が現れた.満ち潮で崩された砂の城の町だった.大きな町の防壁がいたるところで壊され,いくつもの小さな壁が並んでいるようになっていて,両端は海に沈んでいた.その場所はかつては重要な働きをしていたのだった.その要塞は何世紀もの間破壊されたままだった.しかしそれは,現在でも歴史的興味を引きつけていた.

 突然当りは沈黙した.エンジンがストップしていた.船はまだ慣性で前進していた.舷側で波を切る音がかすかに聞こえた.水鳥のもの悲しげな鳴き声が,北の方で聞こえた.その他は沈黙していた.行き交う車の音も,人声やベルの音も,陸からはやって来なかった.破滅した町は,雲が垂れ込める山のふもとで,全く沈黙したままだった.私は細長い古代の舟を思った.羽のついたヘルメットや酒を入れる角や金や銀でできた重量のある装飾品や化石化した人骨などと一緒に古墳の中に保存されていた戦利品のひとつとしての船だった.そこは既に過去の町だった.死の町だった.

 橋の上から叫び声が上がった.埠頭の上で,むっつりした顔をした一群の人々が地面から立ち上がった.彼らは制服を着て武装していた.黒いひざ当てをして,腰にはきつくベルトを締めて,長いブーツをはいて,毛皮の帽子をかぶっていた.ベルトにさしたナイフが彼らが動くたびに光っていた.彼らは異国風の様子をしており,周りを威嚇しているようにに見えた.彼らは総督の部下たちだ,と誰かが叫ぶ声を聞いた.しかしそれは何を意味しているの分からなかった.総督については何も聞いたことがなかった.私的に武装することは禁じられていたので,彼らの出現に驚かせた.ロープが投げられ,彼らはそれらをつかみしっかりと固定した.通路で何かが落ちたような大きな音がした.下船する人たちは,持ち物を手に持ち,パスポートや身分証明書を取り出して,足を引きずるようにしてゆっくりと設置されている改札の方へと進んでいたが,彼らの中に動揺が広がった.

 灰色のコートを着た少女だけが上陸するのに無関心だった.彼女はその場所を動かなかった.他の人々が前の方へ移動するにつれて,彼女は一人とり残された.私は興味が湧いてきた.私の視線は彼女に釘づけになった.彼女が全く動かなかったことが,最も印象的だった.若い女性が,そのような受身的な態度をとるのは,抵抗したり,拒否するということが日常的に不慣れであるためのように思われたが,それは若い女性に似つかわしくなかった.彼女は手すりに縛られているかのように動かなかった.かさばったコートは容易に拘束具を隠すことができるだろうと思った.

 輝くブロンドの,ほとんど白に近い髪の毛のたばがフードから出ていて,風に吹かれていた.突然,私の胸は高まった.しかし,北国の人々の多くはブロンドの髪なのを思い出した.それにもかかわらず,私の関心は切迫し,彼女の顔を見ることを切望した.私の願いがかなえられるためには,彼女が私の方を向いてくれなければならなかった.

 乗客は前進するのを遮られた.制服を着た人々が乗船してきて,有無を言わせぬ口調で,総督の前を開けるようにと命令しながら,彼らの前にいる乗客を一掃した.背の高い男のために空間が空けられた.その男は,黄色い髪の毛をして,整った顔立ちをしていて,がっしりした体格で,タカのように鋭い北方特有の風情をしており,近くの人々から頭ひとつ突き出ていた.他人の感情を無視した彼の傲慢な態度に,私は不愉快になった.彼はそれに気づいたかのように,一瞬私を一瞥した.彼の瞳は,明るい青色をした氷の一片のように光を放っていた.彼は灰色のコートを着た少女の方へ向かって進んだ.彼女は彼を見ていなかった.他の誰もが彼を見つめていた.彼は声をかけた.
 「ここで何をしている? 眠っているのか?」
 彼女は恐怖にびくついて,体が揺れた.
 「急いで!車が待っている」
 彼は彼女に近づいて,体に触れた.彼は微笑んでいたが,声や態度には脅迫的な様子がかすかに見てとれた.彼女は振り向き,いやいや彼に従ったように思われた.彼はまったく親しげな様子をして彼女と腕を組んでいたが,しかし実際には彼女の意志に反して彼女を強制的に,見守る乗客の中を通って,連れ去った.彼女はうつむいたままだったので彼女の表情が見えなかったが,彼の鉄のような手が彼女のほっそりした手首をしっかりと摑んでいるのが想像できた.彼らは他の人に先立って船を降りて行き,真っ直ぐに進み,大きな黒い車に乗りこんで,去って行った.

 私は石と化したかのように,そこに立ち続けていた.突然,決心した.チャンスを利用する価値があると思った.彼女の顔を見てはいなかったけれども,とにかく,私は他に利用すべき何の手がかりも持っていなかった.

 私はキャビンへ降りて行って.パーサーを呼んでもらって,私は計画を変更したことを彼に話した.
 「私はここで降りようと思う」
 彼は私の気がふれたのではないかと私を見つめた.
 「どうぞご自由に」
 彼は肩をすくめて関心なさそうに言った.軽蔑したようなニヤニヤ笑いをしていた.彼は既にほとんどのお金を受け取っていた.今,彼は,これからの航海に対して二番目のお客を募ることが出来るだろう.

 私は急いでそこらに散らかっている持ち物をスーツケースに詰め込んだ.
(第2章終り)

アンナ・カヴァン『氷』改訳3

2006-10-21 14:28:44 | Weblog

                             第2章

 少女が突然家を出たという噂を聞いた.誰も彼女の所在を知らなかった.夫は,彼女は外国に行ったに違いないと思っていた.しかし,それは推測に過ぎなかった.彼もまた彼女についての情報を持ってはいなかった.私は興奮して数知れない質問を彼に浴びせた.しかし,具体的なことは何も分からずじまいだった.
 「私はあなた以上に情報を持っているわけではない.彼女は消えてしまった.彼女は好きなところへ行く権利を持っている.彼女は自由な21歳の白人だから」彼はおどけた調子で言った.
 彼が真実を言っているのかどうか,私には分からなかった.警察は犯罪の疑いを持っていなかった.彼女が事件に巻き込まれたり,誘拐されたと考える理由はなかった.彼女は自分の行為を自分で決まられる年頃に達していた.毎年数百人の人が家出していた.そして,決して戻ってこなかった.彼らの多くは女性であって,不幸な結婚をしていた.だから,彼女が,今では従来よりも幸福に過ごしているのは,ほとんど確かだった.トラブルを起こさないで家を出たかったのだ.これ以上捜査をすると,彼女に迷惑がかかるだろうし,かえって,彼女にトラブルが生じるだろう.これが警察の見解だった.

 これは安易な見方だった.ただ,そう考えることによって,捜査をこれ以上しなくてすむ弁解にはなった.しかし,私は納得していなかった.彼女は幼少の時から従順であるように教育されていた.組織的な抑圧によって,彼女の独立心は破壊されていたのだ.彼女が,自分の意志で決定的な一歩を踏み出すことができるとは,私には信じられなかった.私は,なにかの圧力が彼女にかかったのではないかと疑った.彼女をよく知っている誰かと話をしたかったが,彼女には親しい友達がいなかった.

 夫は,不可解な仕事のために,町へやって来たとき,私は馴染みのクラブへ昼食に誘った.私たちは2時間ほど話し合ったが,何の手がかりも得られなかった.彼は事件全体を軽く見ていた.彼女がいなくなってほっとしている,とまで言った.
 「彼女の神経質な振舞いのせいで,私は気が狂いそうになるほどだった.私はいろいろやってみた.精神科医に見てもらうことを勧めたけれど,彼女は行かなった.結局,一言もなしに,私のところから立ち去った.理由も言わずに,警告もなしに」
 彼は彼自身が被害者側であるかのような話し方をした.
 「彼女は私を見捨てて,自分の道を行ったのさ.だから,私は心配なんかしていないよ.彼女は戻ってこない.それだけは確かさ」
 彼が家を不在にしている間に,私は彼の家に車で行き,彼女の部屋の持ち物を調べる機会があった.しかし,手がかりになるようなものは何も見つからなかった.取るに足りない小物ばかりだった.陶器性の鳥,模造真珠の壊れたネックレス,古いチョコレートボックスに入ったスナップ写真などといったものだった.それらの中の一枚に,湖に彼女の顔と輝くような髪が映っている写真があった.私はそれを私の財布にしまった.

 とにかく,私は彼女を見つけねばならなかった.事実だけがが残されていた.私が海外から戻ってきた直後に,私は衝動に駆られて,彼女のいる田舎へと私を真っ直ぐに行ったが,同じような脅迫的な衝動が,またやってきた.合理的な理由は存在しなかったし,私にはその理由を説明することはできなかった.しかし,それは満たされなければならぬ一種の渇望だった.

 私は関わっていた仕事をすべて放棄した.それ以後,私の仕事は彼女を探すことだけだった.他には何もなかった.利用できる情報源はまだあった.ヘアドレッサーや運送記録をつけている事務員など,彼女に接触していた人が何人かはいた.私は人々がよく集まる場所へ行って,スロットマシンをしながら,彼らと話をする機会を待った.お金が役に立つ.直感的にそう思った.手がかりは少しはあった.迫り来る災厄のために,彼女を見つけることは緊急事態であった.彼女のことが頭を離れなかった.しかし,彼女を連想させるようなどんなものも,見出すことはできなかった.最初の訪問の時,私たちは居間でインドリについて話し合った.インドリは私の大好きな動物だった.男は私の話に聞き入っていた.彼女は花を生けるために,行ったり来たりしていた.衝動的に,私は彼らはキツネザルに似ていると言った.木々の中で幸福に暮らしている親しげで魅力のあるキツネザルに.彼は笑った.彼女は恐がって,フランス窓から走り去った.銀色の髪をなびかせて.裸の脚は青白く光っていた.人里はなれた日陰の多い庭,そこは人々から隔離され静寂の中にあり,夏の暑さから逃れて心地よい涼しさがあった.突然,それは非現実的な恐ろしいほどの寒さに変わった.辺りの密集した群葉が刑務所の壁となり,通り抜け不能の丸い緑色の氷の壁となった.それが彼女に向かって押し寄せてきた.彼女が閉じ込められる寸前,私は恐怖で輝いている彼女の目を捕らえた.

 ある冬の日に,彼女はスタジオにいた.彼のために,彼女はヌードになり,ポーズをとっていた.彼女の腕は優雅に持ち上げられていた.長い間そのポーズを続けるために,彼女は緊張を強いられていた.彼女がどうして動かずにいられのか不思議だった.彼女は紐で腰と足首を縛られていたのだった.部屋は寒かった.窓枠には霜が厚く積もっていた.外では雪が降り続け,積もっている雪が徐々に高くなっていった.彼は長いユニフォームコートを着ていた.彼女は震えていた.
 「休ませてください」彼女の声は哀れっぽく震えていた.
 彼はしかめ面をして,時計を見た.パレットを置いて,言った.
 「オーケイ.少し休もう.ドレスを来ていいよ」
 彼は彼女を縛っている紐をほどいた.紐は白い肌に赤く痛々しい輪の跡を深くつけていた.寒さのため,彼女の動作は緩慢でぎこちなかった.彼女は震える手でボタンをはめ,サスペンダーをつけた.これらの動作が彼をイライラさせたようだった.彼は素早い動作で彼女に背を向けた.彼の顔はいらついていた.彼女は神経質そうに彼を見続けていた.彼女の口は頼りなげに開いていた.彼女の手の震えは止まらなかった.

 また,ある時,二人は寒い部屋にいた.いつものように,彼はロングコートを着ていた.夜だった.凍てつく寒さだった.彼は手に本を持って,読んでおり,彼女は何もしていなかった.彼女は,裏地が赤と緑のチェック柄の灰色をした厚手の防水用コートをかぶって,寒くて惨めに見えた.部屋は静寂で緊張感が漲っていた.彼らはどちらからも長い間,話しかけなかった.窓の外では,雪の重さでパキンという音をひびかせて枝が2つに折れた.彼は本を置いて,レコードをかけるために立ち上がった.すると,彼女は抗議し始めた.
 「オー,それは駄目.その恐ろしい歌はやめてください.後生ですから!」
 彼は彼女を無視して,レコードをかける準備をした.ターンテーブルは回転し始めた.それは私が彼らにプレゼントしたレコードだった.それはキツネザルの歌を録音したレコードだった.私にとって,この驚くべきジャングルの音楽は,愛らしくて,神秘的で,魔術的だった.しかし,彼女にとって,それを聴くことは,一種の拷問であるかのようだった.彼女は手で耳を被った.彼女は,その高音に体をびくつかせ,徐々に取り乱し始めた.レコードが終わると,彼は間をおかずに再びレコードをかけ始めた.彼が打ったかのように,彼女は叫び声を上げた.
 「いや! これ以上は聞きたくない!」
 プレーヤーに向かって身を投げ出してので,歌は急に止った.そのため,異様なすすり泣きのような声となって,それは終わった.彼は怒って彼女を睨みつけた.
 「ちくしょう! 何するんだ.気でも狂ったか」
 「私がその恐ろしいレコードに耐えられないのを,あなたは知っているじゃない」
 彼女はほとんどわれを忘れてわめいた.
 「私がそれを嫌っているのを知っていてかけている.わざと」
涙が彼女の眼からほとばしり,彼女は無造作に両手で頬をぬぐった.

 彼は彼女を睨みつけて言った.
 「どうして何時間も黙って座っていなくちゃならないんだ.お前はちっとも喋らない」彼の怒った声は,敵意に満ちていた.
 「私がなにか悪いことをしたか? ここ数日の間,なぜ,お前は普通に振舞うことができないんだ?」
 彼女は答えずに,自分の両手に中に顔を埋めた.涙は両手の間からこぼれ落ちた.彼は彼女を嫌悪の表情で睨みつけた.
 「私はお前と一緒にいて孤独にさせられるよりは,本当に一人きりでいるほうがましだ.もうこんな生活に我慢できない.もう十分だ.お前は病気だ.お前のやり方に疲れた.自分を治せ.さもなければ.・・・」
 あたりを睨みつけながら,彼は出て行った.彼はドアをバンと音を立てて,背後で閉めた.沈黙が続いた.彼女は子供のように黙って立ち続けた.涙で頬がぬれるのを拭おうともしなかった.しばらくして,彼女は意味もなく部屋の中を言ったり来たりした.そのうち,窓の傍で立ち止まって,カーテンを引っ張って開いた.そして,驚きの悲鳴をあげた.

 暗闇がいつのまにか,空一面の火事に変わっていた.信じがたい氷河時代の夢のシーンだった.虹が火色をして,冷たく煌き,頭上で脈打っていた.いたるところに山のように硬い氷が聳え立ち,反射する白熱光の放射によって空は輝いていた.家の周りの木々は氷に包まれて,しずくが滴り落ち,神秘的なプリズム形をした宝石のように輝きが乱反射していた.氷山の上の方では,流れ落ちる花火の滝のように,光が映っていた.見慣れた夜の空に代わって,北極のオーロラが燃え上がり,強く色を放つ頂上は凍りつき,振動していた.その下では,大地はそこにいる全ての生きものと共に,輝く氷の絶壁によって閉じ込められていた.世界は逃走不可能な北極の刑務所と化していた.全ての生きものは,まばゆく光る氷の甲冑の内部で,死に絶えている木々と同じように完全に閉じ込められ,動けなくなっていた.

 絶望的に彼女は当りを見わたした.彼女はすさまじく巨大な氷の壁によって完全に取り囲まれていた.まばゆい光の放射のために,氷は溶けて流れ出ていた.そのため,聳え立つ氷は,液体のように絶えず流動し,移動していた.土砂降りの雨のように氷片が降りしきり,雪崩が大波のように起こり,凶運に見舞われた世界のいたるところで氷の洪水があふれかえっていた.彼女はどこを見ても,恐ろしい包囲しか見えなかった.空では氷が舞い上がり,ぶつかり合い,冷たいがしかし赤く輝く巨大な波の輪がほとんど彼女を押しつぶさんばかりだった.氷から流れ出る死ぬほどの冷気によって凍え,水晶のような氷に反射された光によって眼が眩み,彼女は自分が北極の光景の一部と化したかのように感じた.彼女の身体は氷と一体化した.彼女は輝き光る死の氷の世界を運命として受入れた. 彼女は氷河の勝利に屈服し,世界の死に身を任せたのだった.

 私は,どうしても彼女をすぐに見つけなばらなかった.状況は警告的であり,緊迫していた.災厄は今にも起こりそうであった.外国が密かに侵略を行っているとの噂が広まっていた.しかし,誰も真偽のほどは分からなかった.政府もまた真実を報道しなかった.私は,放射能の汚染が急激に高まっているということを個人的に聞いた.核爆弾がどこかで爆発したらしかった.それは未知のタイプのものであり,被害がどの程度に及ぶのかは予測できないということだった.磁極が変化する可能性すらあるとのことだった.太陽熱の収束によって気候が変化する可能性もあった.南極の氷が溶け出し,南太平洋や大西洋に流れ出すと,広大な氷の地帯が出現し,太陽光線を反射し,大気中に放射され,地球全体の温暖化が起こる可能性があった.町では,すべてが混乱しており,矛盾に満ちた情報が溢れていた.海外からのニュースが傍受され,旅行は制限されることなく放置されていた.規制が行われたが,それらは互いに矛盾しており,かえって混乱は増幅された.規制は行き当たりばったりに,実施されたり,解除されたりした.事態を解明する一つの方法は,世界で起こった出来事を一覧表にすることだった.しかし,外国からのニュースの傍受が政府によって禁止されたために,これは不可能になった.政府は冷静さを失っているように思えた.政府は近づく危険に対して,どう対処してよいかわからないみたいだった,事態の本質がどこにあるのかを考えようともせず,ただ治安を保とうとしているだけだった.

 疑いもなく,人々の不安は増大していった.他国で何が起こっているかを知ろうと努力するようになった.しかし,燃料不足や停電や輸送の渋滞や商品の闇市への流入の拡大といったことは,まだ起こっていなかった.

 異常な冷寒が止む兆しはなかった.私の部屋はかなり暖かかったが,ホテルの暖房は最低限まで低くされた.公共のサービスが気まぐれに制限されたために,私の調査は順調に進まなくなった.河川は何週間も凍りついたままだった.波止場はほとんど麻痺し,深刻な問題が生じてきた.日常品の供給が不足していた.しかし,少なくとも,燃料と食物の配給がまだそれほど遅れてはいなかった.電力の供給は不評だったけれども.

 ここから出て行ける人は皆,ここより良い環境を求めて去っていった.今や交通は利用不可能になった.海や空でさえも.船や飛行機を待っている人のリストは長くなっていた.少女が既に外国に脱出しているという証拠はなかった.むしろ,彼女がどうにかしてこの国を脱出できたということはありそうになかった.漠然としたさまざまな思いが頭の中をかけめぐるうちに,彼女はある船に乗り込んでいるという予感がした.


アンナ・カヴァン『氷』改訳2

2006-10-20 13:13:49 | Weblog

                   第1章(承前)

 その朝は,訪問中で一番暑かった.雷が空中で光った.食事中でも,耐え難いほどの暑さだった.驚いたことに,彼らは外出することを提案した.私はその地方の美しい場所を見ずに立ち去るつもりはなかった.素晴らしい景色が見える丘があるということだった.私はそれを聞いたことがあった.私が出発の話をすると,ちょっとしたドライブで行けるということだった.そこへ行っても,私が荷物をまとめる時間を十分見込んで戻って来られるということだった.彼らが準備をしていたので,私は同意した.

 はるか昔に侵入者の恐怖から逃れるために建てられた,すでに廃墟と化している古い要塞の近くで,私たちは昼食をとった.道は森の奥深くへと続いていた.私たちは車から降りて,歩いて行った.確実に増してくる暑さのために,私はゆっくりと進んだので,彼らからはるか彼方に遅れた.私は木の茂みが続いている最後のところへ来たので,木陰で休んだ.彼は戻ってきて,私を引っ張り起こして,言った.
 「一緒に行こう.一見に値するよ」
 彼が熱心に勧めるので,日差しの強い険しい坂を登って行った.すると,すばらしい視界が開けた.だが,彼はまだ満足しないで,廃墟の塔の頂上から眺める素晴らしい景色を見なければならないと主張した.彼は興奮し,ほとんど熱に浮かされているかのようだった.塔の内部の暗闇の中を彼の後に続いて登っていった.彼の体が光を遮り,私は何も見えず,足を踏み外して首の骨を折るのではないかと思うほどだった.頂上には手すりがなかった.私は山積みになった煉瓦の上に立った.私と下の地面との間に遮るものは何もなかった.彼は,見晴らしの良い展望のあちこちを指差しながら言った.
 「この塔は何世紀も目印になっていたんですよ.ここからは,丘全体を見ることができる.向こうに海が見える.あれが大聖堂の頂上.向こうの青い線が入り江」

 私は細かいところに興味を持った.積み重なっている石や巻かれている針金や煉瓦のブロックなど,来るべき戦いに備えて作られたものに興味を持った.来るべき危機がどのような性質のものかを知るための手がかりのなるものがないかと探した.私は,遮るものの何もない足元を見下ろした.

 「注意して!」 彼は笑いながら警告した.
 「ここは滑りやすく,バランスを崩しやすいから.殺人にはもってこいの場所さ」
 彼は奇妙な音を響かせて笑ったので,私は振り向いた.彼は私に近づいてきて言った.
 「私があなたをちょっと押すと,このようにね」
私は押される前に,後戻りしたが,私は足場を失い,よろめき,足元の石や煉瓦が崩れ落ちた.彼の笑い顔が覆いかぶさってきたので,ぎらぎらした空の視界の中で,眼の前だけが暗かった.
 「ここから落ちたら,事故と見なされる.そうでしょう? 目撃者はいないから.私のことばだけが頼りになる.足元がいかに不安定か見て,目眩をしないように」
 私たちが降り始めた時,私は汗をかいており,衣類は埃で覆われていた.

 少女は,胡桃の木の木陰の草の上に食べ物を並べていた. 彼女はいつものようにほとんど話さなかった.私は訪問が終わろうとしているけれど,悲しくはなかった.あまりにも緊張が大きすぎたのだった.彼女がそばにいると私は落ち着きを失った.食事をしている間中,私は彼女を見続けていた.銀色に輝く髪,青白い,ほとんど透き通たような肌,尖った壊れそうな腰骨.彼女の夫は最初の活発さを失って,何かむっつりとしていた.彼はスケッチブックをもって,あたりをぶらついていた.わたしは彼の気持ちを理解しかねた.どんよりした雲が遠くに現れた.私は空中に湿気を感じた.まもなく嵐がやってくるだろうと思った.私のジャケットは傍に広げておいてあった.私はそれをたたんでクッションの中に押し込んだ.そして,それを木の幹に立てかけ,その上に頭を乗せた.彼女は草の生い茂った盛り上がったところに身体を伸ばしていた.それはちょうど私の目の前だった.額の上に手を置き,私の視線を避けていた.彼女は全く静かだった.全く話さず,少しざらざらした感じの陰になった脇の下が見えた.そこには,汗の粒が霜のように光っていた.薄いドレスの上から,子供のような体の線が見えた.彼女はドレスの下に何もつけていなかった.

 彼女は少しばかり坂になったところの下の私の前で,からだを曲げた.彼女の体はほとんど雪のように白かった.氷の絶壁がいたるところに接近していた.蛍光性の光が輝いていた.冷たく一様な氷の光のために影がなかった.太陽もなく,影もなく,生命もなく,死の冷たさだけがあった.われわれは前進してくる輪の中心にいた.私は彼女を救わねばならなかった.私は叫んだ.
 「ここに来て.早く!」
 彼女は振り向いたが動かなかった.彼女の髪は一様な光の中で光沢のない銀色に輝いていた.私は降りて行って言った.
 「怖がらないで.きっと助けるから.塔の頂上に逃げなければ」
 彼女は理解していないようだった.近づいてくる氷の転がる音のために,多分聞こえてはいなかったのだ.私は彼女を摑み,坂を引っ張りあげた.簡単だった.彼女の重さをほとんど感じなかった.破滅から逃れて,私はしっかりと彼女を抱きしめて,辺りを見回した.これ以上高くへ行っても無駄だと分かった.塔は崩れ落ちる寸前だった.それは何百万トンの氷の下ですぐに崩壊し,粉砕されるだろう.冷気が肺に入り込んできた.氷はすぐそこまで来ていた.彼女は激しく震え,肩はすでに氷で覆われ始めた.私は彼女を身近に引き寄せ,両腕でしっかりと彼女を抱きしめた.

 ほとんど時間は残されていなかった.しかし,少なくとも,私たちは共通の目的を分かち合っていた.氷はもう既に森を飲み込んでいた.最後に残っている木々の並びが倒れていった.彼女の銀色の髪が私の口に触れた.彼女は私にもたれかかってきた.と思うと,彼女の姿はかき消えた.私の手はもはや彼女に触れることはなく,空をさまよった.氷の衝撃で数百フィート上空に折れた木の幹が舞い上がっていた.光が一瞬閃いた.すべてが揺れていた.私のスーツケースは,ベッドの上に 半ば荷物が詰められた状態で放置されていた.窓が大きく開いており,カーテンは風のために部屋の中へと大きく揺れていた. 外では梢は風の音を立てていた.空は暗くなっていた.雨は降っていなかったが,雷が光り,音がした.私は再び,光が閃くのを見た.気温は今朝以来数度下がっていた.私は急いでジャケットを着て,窓を閉めた.

 結局,私は右側の道を進んで行った.頭上まで伸び放題の生垣のためにトンネルのようになっているところを過ぎると,今度は,暗いブナの木の森が,曲がりくねって続いていた.その先に目指す家があった.光は見えなかった.その場所は,私が通過してきたところと同じように,見捨てられ,誰も住んでいないかのようだった.私は数度角笛がなるのを聞いた.そして待った.もう遅かった.彼らは寝ているに違いなかった.しかし,彼女がここにいるのなら,私は会わねばならなかった.それがすべてだった.少しばかり待っていると,男がやって来て,私を屋内に入れてくれた.彼は私を歓迎しているようには思えなかった.彼はドレスガウンを着ていた.

 家には電気が来ていなかった.彼はたいまつに火をつけた.居間の火が暖かくなり始めていたけれども,私はコートを着たままだった.驚いたたことに,ランプの明かりで見ると,私が海外に行っている間に,彼がすっかり変わってしまったのがわかった.彼は以前より,重々しく,気難しく,タフになっていた.以前の温厚な表情は消えていた.彼が着ていたのはドレスガウンではなくて,ある種のユニフォームで,たけの長いオーバーコートだった.そのために,私は彼に親しみを感じなかった.以前に抱いたことのある疑惑が戻ってきた.ここには,災厄がやってくる前でさえも,それを利用して大儲けした人がいたということだった.彼は親しげな表情を見せなかった.私は,道に迷って遅くなったことを謝罪した.彼は酒を飲んでいる最中だった.ボトルとグラスが小さなテーブルの上に置かれていた.
 「ようやくやって来た」
 彼はそう言ったが,その態度にも声にも親しさは感じられなかった.冷笑的でさえあった.
 彼をそのように感じるのは初めてだった.彼は私に酒を注いでくれて,座った.長いオーバーコートが膝から垂れ下がっていた.コートの下にポケットやふくらみのような物を探したが,そういったものはなかった.私たちは一緒に酒を酌み交わした.私は,少女が出てくるのを期待しながら,旅行の様子を話した.少女が出てくる様子はなかった.それどころか,私たちが立てる音以外は,部屋の中で音が一切しなかった.彼は彼女について何も言わなかった.彼の意地悪く楽しんでいるような表情から,彼は,彼女のことを話すのを慎重に避けているのだと分かった.私が記憶にある部屋は魅力のあるものだったが,今では,掃除も十分になされず汚くなっていた.漆喰が天井から落ちていた.壁には深いひびが入っていた.私は我慢ができなくなり,彼女はどうしているかと訊ねた.
 「彼女は死にかけている」
 私の絶叫に,彼は意地悪く笑いながら言った.
 「ここは私たちだけさ」
 それは,私を困らせようとした,冗談だった.
 彼は,私たちが会うのを,妨げようとしているのだと思った.

 私は彼女に会う必要があった.それは決定的なことだった.
 「今は,お暇しましょう.あなたは休んでください.だけど,その前に,何か食べ物をいただけませんか.昼から何も食べていないものですから」
彼は部屋を出て行き,乱暴で横柄な調子で,彼女に食べ物を持ってくるように叫んだ.外で起こっている破滅が,すべてのものに伝染し,影響を与えているかのようだった.彼らの関係や部屋の様子すべてに破滅の陰が落ちていた.彼女はパンとバターと一皿のハムをトレイに乗せて,運んできた.私は彼女の外観もまた変わったのかどうか知りたくて,じっと見つめた.彼女はただ以前よりほっそりして,以前にもまして肌が透き通るようになっていた.彼女は黙っていた.彼女に最初会ったときのように,怯えていて,人を避けているように思われた.私は尋ねたかったし,二人きりで話をしたかった.しかし,チャンスはなかった.男は飲み続けながら,私たち二人を始終観察していた.酔いのために,かれは怒りっぽくなっていた.私が飲むのを断った時,かれは怒った.私に喧嘩を売ろうと決心したようだった.私は,立ち去るべきであるのは分かっていた.しかし,私はひどく頭痛がして,動くのが億劫になっていた.私は眼や額の上を手で押した.少女はそれに気づき,部屋を出て行き,数分間すると,彼女の手のひらに何かを持って戻ってきて,ささやいた.
 「アスピリンです」
 ごろつきのように,彼は叫んだ.
 「おまえは,何をひそひそ話しているんだ」
 彼女が心配してくれたのを知って,私は感謝以上の気持ちを表したいと思った. しかし,彼の悪意あるしかめっ面を見て,私は立ち去らねばならなかった.

 彼は見送らなかった.私は壁や家具のために暗闇になっている通路を,手探りで進んだ.外に通じるドアを開けると,薄明かりの雪景色が眼に入って来た.外は寒かったので,私は車の中へ飛び込み,ヒーターをつけた.ダッシュボードから見上げると,彼女が何かを言うやさしい声が聞こえた.彼女は,「約束」とか「忘れないで」などと言っているのが聞こえた.ヘッドライトをつけると,彼女が戸口のところでほっそりした腕を胸のところで組んで立っているのが見えた. 彼女は犠牲者の表情をしていた.それはもちろん心理的なものであって,子供時代に受けたいじめの結果なのだが.眼や口元あたりの極端に繊細な白い肌の上に,かすかに傷がついているのが見えた.ある意味で,それは私を狂おしいほど引きつけた.車が動き始める直前に,辛うじてその光景を捉えることができたのだった.私は機械的にアクセルを踏んだが,凍っていて,動くとは期待していなかった.そのとき不意に,幻覚を見た.家の暗い内部から黒い腕が伸びてきて,彼女を襲い,乱暴に摑んだ.恐怖で歪んだ彼女の白い顔は,粉々に砕け飛んで,彼女は暗闇の中で震えていた.

 私は彼らとの関係の悪化を克服することはできなかった.彼女が幸福であったときには,私は彼女から離れていて,彼女と無縁だった.そして今,彼女の状況が悪くなった時,私は再び彼女との関係に巻き込まれるようになったのだった.
(第1章終り)


アンナ・かヴァン『氷』改訳1

2006-10-19 11:08:49 | Weblog
 5月から8月末にかけて,Ann Kavan,ICEの試訳を行ったが,ようやく時間が取れたので,改訳を行うことにした.少しは正確に,また読みやすくなったと思うので,出来れば読んで欲しい.改訳を行っていてわかったのだが,私もこれで少しは理解が深まったような気がするので,ICEについて感想がかけそうな気がする.まずは,改訳を掲載しよう.

                               氷
                                  アンナ・カヴァン

                   第1章

 私は道に迷った.既に日は暮れていた.私はもうすでに何時間も車を走らせており,ガソリンはほとんど切れかかっていた.暗くわびしい丘の上で立ち往生するのかと思うと,ぞっとした.だから,標識を見つけたときは心底ほっとして,ガソリンスタンドまで降って行った.店員に話しかけようとして,窓を開けると,ひんやりとした空気を首筋に感じた.彼はタンクにガソリンを満タンにたしながら,天気について話してくれた.
 「この月にこんなに寒いのは初めてだ.川が凍ってしまうよ」
私は,軍隊に入ったり,僻地を探検したりして,ほとんどの生活を海外で過ごしてきた.そして,熱帯地方から戻ってきたばかりで,凍りつくということがどんなことか実感できなかったけれども,彼の口調の陰気な調子に衝撃を受けた.運転のことを気にしながら,これから行こうとしている村への道を訊ねた.
 「こんな暗闇では道を見つけられない.道に迷うのが関の山ですよ.凍りついている時の山道は危険です」
 こんな時に運転するなんて,と軽蔑の表情で彼は言った.
支払を済ますと,氷に気をつけて,と彼が叫ぶのを無視して,私は車を走らせた.

 今ではもうすっかり暗くなっていた.私はすぐに絶望的になった.彼の忠告を聞き入れるべきだったと悔やんだけれども,同時に,彼と話をしなければよかったとも思った.というのは,理由はよく分からないが,彼の表情が私を不安にしたからだった.それは私のこれからの旅行全体の悪い徴候のように思われた.私は旅行に出たことを後悔し始めていた.

 旅行全体が疑わしくなってきた.私は前日に国に到着したばかりなので,田舎の友達に会いに行くより,町をぶらつく方がよかったのではないかと思っていた.私は少女に会いたいという強迫観念を持っていたが,なぜそうなのか,自分でも理解できなかった.彼女と離れているときはいつも,彼女のことを思っていた.しかし,私は彼女に会うために戻ってきたわけではなかった.わたしはこの地域で今にも起ころうとしていると噂されているミステリアスな出来事を調べに戻ってきたのだった.しかし,私はこの地に戻って来るや否や,彼女のことが頭を離れなくなった.私は彼女の思いに囚われ,今すぐにでも彼女に会わなければならぬ,と思い始めていた.他のことは何も手につかなかった.もちろん,それが全く不条理なことなのは分かっていた.それが現在の不安の原因だった.別に悪いことが私の身に起こりそうだというのではなかった.しかし,車を走らせていくに従って,不安はだんだんと増してきた.

 私にとって,現実とは,いつも訳の分からぬ何かだった.時々そのことが私を悩ませた.例えば,私は今,以前に彼女と彼女の家を訪問した時のこと思い出している.彼女たちの家の周りの,平和に満ちた見晴らしの良い田園風景が生き生きと思い出だされた.しかし,鞍馬を走らせている間,誰一人ととして出会わなかったし,村はありそうになかったし,どこにも電灯の光が見られなかったので,思い出は急速に色あせていき,現実感覚を失っていき,最後には不確かで曖昧模糊としたもになってしまった.空は暗かった.そして,荒れ放題の生垣が空を背景にして聳え,空をいっそう暗くしていた.ヘッドライトが時々道路わきの建物を照らし出したが,そこは,人が住んでいるにしてはあまりにも暗すぎて,廃墟のようになっていた.私が不在にしていた間に,その区画全体が朽ち果ててしまったかのようだった.

 この荒廃の中で彼女を見つけることができるだろうか不安になってきた.ここでは秩序のある生活が営まれているとは思えなかった.災厄が村を破壊し,農地を荒廃させたかのようだった.私が見る限り,復旧作業している跡は見られなかった.人は誰も見えないし,動物すら一匹も見当たらなかった.道もでこぼこで舗装が必要だった.排水路も,放置された生垣の下で,材木に覆われていた.地域全体が見捨てられ,荒れ果てていた.

 小石ぐらいの大きさのあられがほんのわずかであるが降ってきて,窓ガラスをたたいたのには驚いた.私はようやく,北国の冬のただ中にいるのに気づいた.あられはまもなく雪に変わり,視界は狭くなり,運転がさらに困難になってきた.大気は非常に寒く,この寒さのために不安な気持ちになったのだろうかと思った.ガソリンスタンドの店員が,この時期こんなに寒いのは初めてだと言っていたのを思い出した.私は氷や雪に覆われる冬の季節はまだ先のことだと思っていた.突然,私の不安は激しくなり,もと来た道を引き返し,街へ戻りたいという衝動に駆られた.しかし,道路はあまりに狭くて,果てしなく曲がりくねった道をアップダウンしながら,物音ひとつしない暗闇の中を突き進むしかなかった.道路はさらに悪くなり,険しくなり,いたるところで滑りやすくなっていた.氷でスリップするのを避けるために目を凝らして運転していると,今までに経験したことのない寒さのため頭痛がひどくなってきた.車はスリップし,コントロールを失いかけた.ヘッドライトが時々道端の廃墟と化した建物を一瞬照らし出し,私はギョッとした.よく見ようとする間もなく,車は闇の中に姿を隠した.

 生垣に積もった雪がこの世のものと思えないほどの白く美しかった.山道を通過しながら,あたりに注意を配っていた.一瞬,ライトがサーチライトのように少女の裸の姿を照らし出した,子供のようにほっそりしていて,死んだような雪の白さを背景にして,象牙のような白い姿が浮かび上がった.彼女の髪はガラスの繊維のように輝いていた.彼女は私の方を見ていなかった.彼女は動きもせず,壁の上を見つめていた.その壁は,ガラスのように光を反射させた,硬く凍った氷の輪をなして,彼女の方へゆっくりと迫ってきていた.彼女はちょうどその真ん中にいた.まばゆい光が彼女のはるか頭上の氷の壁から光った.足元では,もうすでに氷の縁が彼女に届いていた.彼女の足と足首を氷はしっかりと被った.氷は彼女の体を登っていき,膝や腿を被い始めた.彼女は口を大きく開いた.白い顔にぽっかりと黒い穴が開いた.彼女はかすかな苦悶の悲鳴をあげた.私は彼女に哀れみを感じなかった.それとは逆に,彼女の苦悶の表情を見て,言い難い喜びを覚えた.私は自分の冷酷さを認めたくなかったが,しかし,それが事実だった.私に情状酌量の余地はなかったかもしれないが,それにはいろんな要因が絡んでいたのだった.

 私はある時彼女に夢中になっていた.彼女と結婚したいとさえ思っていた.皮肉なことに,私の目的は世の中の冷酷さから彼女を守ることだった.私は彼女のおどおどした態度とすぐにでも壊れそうな姿に同情したのだった.彼女は過度に敏感で,過度に緊張していて,他人を恐れていた.彼女のサディスティックな母親が,彼女をいつもおびえさせていて,彼女の人格はすっかり損なわれてしまっていた.だから,私が最初にしなければならなかったことは,彼女の信頼を勝ち取ることだった.だから私は,彼女に対していつも紳士的に振舞った.私は自分の感情を現すのを控えめにするように気を使っていた.彼女はあまりにもほっそりしていたので,彼女とダンスを踊る時,彼女を強く抱きしめてしまい,彼女を傷つけはしないかと恐れるほどだった.彼女の尖った腰骨はあまりにももろく,私にはなんとも魅力的であった.彼女の髪の毛は銀髪で,真っ白で月光に輝き,さながら月光で輝くベネティアンガラスのように私を魅了した.私は彼女をガラスでできた少女のように扱った.時々彼女は現実の存在ではないような気がした.次第に,彼女は私を恐れなくなってきた.子供のような愛情を私に示しさえした.内気で,いつも一人でいることを好んでいたけれども.彼女は私を信用し始めたのだと思った.私は急がずに待とうと思った.未熟さのために,彼女は,私へ真剣な感情を持ち始めてきたことに気づかなかったけれども,彼女は私をほとんど受け入れようとしているように思われた.しかし,全く突然に,彼女は他の男と結婚してしまい,私を捨てた.しかし,私は彼女の私に対する気持ちは見せ掛けではなくて,本物だったと信じている.

 それはもう昔のことだ.しかし,それ以後,私は不眠症と頭痛に悩まされるようになった.そのために服用する薬の副作用で,おそろしい夢をみることがあった.そこでは,彼女がいつも救いのない犠牲者となって現れるのだ.彼女のもろい身体は破壊され傷つけられていた.これらの夢は睡眠中に限らなかった.嘆かわしいことに,私はそれを楽しむようにさえなったのだった.

 視界はよくなってきた.夜の闇は相変わらずだったが,雪は止んでいた.険しい丘の頂上に要塞の残骸が見えた.そこにはただ塔が残っているだけで,他には何もなかった.建物の中は空っぽで,空虚な窓が,あたかも大きく口を開けて闇をのぞかせているように見えた.その場所は少しばかり見知っているような気がした.歪んだ記憶のために.私はそこへ行ったことはないが,知っているような気がしたのだ.しかし,確信はなかった.夏にここへ来た時には,ここは全く違ったふうであった.

 あの時,私は彼から招待されたのだった.彼が招待したいと申し出た時,私は何か隠された意図があるのではないかと疑った.彼は絵描きだったが,それを遊びや道楽でやっていた.彼は,仕事をしていなくても,いつもお金に不自由しない金持ちの類の一人だった.多分.彼は決まった収入源を別に持っていたのだろう.しかし,彼は他に何かをしているようには見えなかった.彼の温かいもてなしに私は驚いた.私は招待中ずっと身構えていた.

 少女はほとんど口を開かなかった.いつも彼のそばに立って,大きな眼を見開いて,長いまつげの中から私を横目で見ているのだった.彼女の姿をみると,なぜか分からないが,私は動揺した.私は彼ら二人に話しかけるのは困難だった.彼らの家はブナ林の真ん中にあった.家は,多くの木々によって,すぐそばまで囲まれていたので,窓から見ると,密集して揺れている木々の緑の葉の中に.家は包まれているようだった.私には,彼らが,熱帯地方の島の奥深くに住んでいて死滅しかかっている,歌を歌うキツネザルの一種であるインドリのように思えた. ほとんど伝説のような生き物の優しく愛情のこもった仕草や奇妙な歌うような声に,私は強い印象を受けていた.私はそれらについて話し始めていた.その話題に夢中になってわれを忘れて話し続けた.彼は興味を示しているようだった.彼女は黙ったまま,昼食の準備をするために立ち去った.彼女がいなくなると,私たちの会話は急に容易になった.

 そのときは真夏だった.気候は非常に暑く,風にそよぐ木の葉が涼しげで心地よい音を立てていた.男の親密な態度は続いていた.私は彼を見誤っていたと思い始めた.彼に疑惑を持ったことに困惑した.彼は私が来てくれて嬉しいと言い,少女について話した.
 「彼女は非常に内気で神経質なんです.外の世界の誰かに会うのは,彼女にとって良いことですよ.彼女はここではあまりにも孤独だから」
彼は私について何を知っているのだろうかと思った.彼女は私について彼に何を話したのだろうか.警戒していたことがばかばかしくなった.愛想の良い彼の話への,私の応答の中には,まだ警戒心は残っていたけれども.

 私は彼らのところに数日滞在した.彼女は私の邪魔にならないようにしていた.私もまた,彼と一緒にいるとき以外に,彼女を見ることはなかった.非常に暑い気候が続いた.彼女は丈の短い薄い生地の全くシンプルなドレスを着ていた.肩や腕を露出し,ストッキングもはいていなかった.子供用のようなサンダルをはいていた.日の光で彼女の髪はまばゆく輝いていた.彼女のその姿を忘れることはできないだろうと思った.私は彼女の中に変化が現れるのに気づいた.彼女は私を信頼し始めたように思えた.私は彼女が微笑むのを見るようになったし,あるときには庭で彼女が歌っているのを聴いたことがあった.男が彼女の名前を呼んだ時,彼女は走ってきた.彼女が幸福そうに見えたのは,そのときが初めてだった.彼女が私に話しかけるときにはまだ,少しばかり硬い表情をしていた.私の訪問が終わりに近づいたとき,彼は私に彼女と二人きりで話しことがあったかかどうか尋ねた.私はないと言った.
 「立ち去る前に,彼女に一言話をしてくれますか.彼女は過去について悩んでいます.彼女があなたを不幸にしたのではないかと思って」と彼は言った.
そう,彼は知っていたのだ.彼女は彼に私たちの間にあったことすべてを語ったに違いなかった.それは多くはなかったけれども.私は過去に起こったことについて彼と話し合うつもりはなかったので,言葉を濁した.機転を聞かして,彼は話題を変えた.しかし,しばらくすると話題を戻した.
 「彼女の気持ちを楽にしてくださると嬉しいのですが.彼女と二人きりで話をする機会を設けさせてください」
翌日,私は立ち去ることになっていたので,彼がどうするつもりなのか,私には分からなかった.そして,翌日の午後私は立ち去った.