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とりあえず本の紹介

私が読んだ本で興味のあるものを紹介する.

アンナ・カヴァン『氷』改訳16

2006-11-16 10:52:24 | Weblog
                         第10章
  
 それはどこかの国のどこかの町だった.私は何一つ見分けることができなかった.雪が一面を被い尽くしており,どこもかしこもただ真っ白なだけだった.建物は名のないただの絶壁に変わっていた.

 混乱した騒動や叫び声や木々が折れたりガラスの割れる音が,通りの一方から聞こえてきた.そこでは略奪が行われていたのだった.群集が店の中になだれ込んでいた.リーダーもいなくて,確たる目的もなかった.彼らはまさしく暴徒と化し,興奮と獲物を求めて集まり,恐怖に襲われ,腹をすかし,ヒステリックで,暴力的になっていた.彼らは仲間同士で争い,武器になるようなものを拾い上げ,互いに戦利品を取りあった.手当たり次第なんでも,役に立ちそうでないものでさえも,略奪した.そして,いらなければ,捨てて,他の略奪物を求めて,走り去った.彼らは,持ち去ることが出来ないものは破壊した.彼らは意味もなく破壊する破壊することに楽しみを覚える変質者になっていて,切れ切れに引き裂き,粉々につぶし,押しでつぶしたりしていた.

 上級将校が通りに現れて,警笛を鳴らして警察を呼んだ.略奪者の方に近づいていって,大声を出し,厳しい軍隊口調で,命令し,警笛を強く繰り返し鳴らした.上質のオーバーコートのアストラカン織りの襟で囲まれた彼の顔は,怒りで陰鬱な表情をしていた.彼を見るや,多くの群衆は逃げ出した.しかし,他の群集よりずうずうしい輩はなおも残骸を漁り続けていた.怒りを顕にして,彼は大またで彼らに近づいて,鞭で脅し,退散するように言い,睨みつけた.最初,彼らは無視していたが,やがて輪を作り,数グループが同時に,あちこちから彼の方へ近寄ってきた.彼は連発銃を引き抜いて,彼らの頭上を目指して撃った.間違いだった.彼は暴徒を狙って撃つべきだった.彼らは彼を取り囲んで群がり,武器を奪い取ろうとした.警官はまだ来ていなかった.取っ組み合いが始まり,そのうちに,偶然か故意かは分からないが,銃が排水溝の中に落ちてしまった.所有者は50代後半の,長身の,精力旺盛な男だった.しかし,彼は息を切らしていた.暴徒は若くてタフで,邪悪な表情をしていた.彼らは巧妙に攻撃した.手には,金属製の棒やガラスの破片や,壊れた家具など,手に入るものは何でも持っていた.彼はそれらを鞭で振り払いながら,壁を背にして防戦した.彼らは大勢で執拗に攻撃をしかけていたので,彼は次第に疲れ果てていき,動作は緩慢になった.石が一つ投げられと,石が雨のように投げられた.それらの一つが彼の帽子を吹っ飛ばした.彼の禿げ上がった頭を見て,暴徒は下品な罵り声を上げた.一瞬,彼の顔に不安げな表情が浮かんだ.彼らは立場が優位になったのを見てとり,さらに近づき,狼の群れのように,彼の上にのしかかった.彼の顔からは血が滴り落ち,壁についた.彼はまだどうにかこうにか彼らを追い払おうとしていた.そのとき,光るものが見えた.ナイフだった.服が裂け,さらにナイフが突き立てられた.彼は胸を押さえて,前の方によろめいて,ふらふらとに歩いた.背後の壁がなくなったので,暴徒はあらゆる方面から彼に襲いかかった.暴徒は彼を打ち倒し,彼の上で飛び跳ね,コートを引き裂き,頭を凍りついた地面に打ちつけ,体を踏みつけ,体を蹴り,鎖で顔を殴った.とうとう,彼は雪の中で動かなくなった.彼にはもはや絶対的に望みがなくなった.殺人が行われたのだった.

 それは私には無関係だったが,そう思うことはできなかったし,何かしないではいられなかった.彼らは社会の底に沈殿したおりだった.彼らは平常の時なら,将校に触れることはおろか,近寄ることすら出来なかっただろう.小男があざけりの声をあげて,男のオーバーコートを着て,ダンスを踊り,引きずっているコートの縁を踏んでよろめいた.私は嫌悪感に一杯になり,憤怒がこみ上げてきた.抑え切れない怒りで,彼に突進し,コートを剥ぎ取り,彼の腕を捻り上げ,一撃を食わし,殴り,歩道に投げ飛ばした.顔が壁にぶつかり,悲鳴を聞くのと同時に,頭の砕ける音がして,私は満足感を覚えた.振り向くと,男が体を捻って私の脚を払おうとしているのが見えた.鋭い痛みが脚に走り,よろめいた.私は直ぐに体勢を立て直すと,彼が弧を描いて私へ向けて腕を降りぬくのが見えた.私は訓練通りに,反応した.仰向けに倒れて,片足で彼の足首をロックすると,ナイフが落ちるのが見え,動けない膝の皿をもう一方の足で,砕けるまで蹴りつけた.そのとき,一団が私の上に群がろうとしていた.ナイフを持った集団に襲われては,将校が助からなかった以上に,助かるチャンスはなかった.しかし,私はやられる前に,相手にダメージを与えようと思っていた.突然,拳銃が鳴り,叫び声が上がり,走ってくる足音が聞こえた.警官がやっと到着したのだった.私は警察が略奪者を,他の通りに通じるコーナーへ追いつめるのを見た.それから,地面に倒れている男を引きずっていった.

 彼は仰向けになっていた.いたるところに傷があり,血が流れていた.彼はまだ,人生の最盛期をそれほど多く過ぎたわけではなかった.印象的な顔をしており,背が高く,活力があり,堂々たる風情の男で,魅力のある身体をしていた.しかし,もはや,鼻はぺちゃんこになり,口の端は切れており,目玉は眼窩から半ばとび出していて,顔全体と頭は血で黒ずみ,汚かった.原型は失われ,歪んでいた.血跡がいたるところについていた.右手はほとんど千切れていた.彼は動かなかった.息をしているようには見えなかった.私は跪き,上着を開いて,シャツを引き上げ,胸に手を置いた.動悸を感じることは出来なかった.手は血でねばねばした.ハンカチで拭い,コートを探しに行って,それを彼の上にひろげて,彼を被い,傷だらけで醜くなっている体を隠した.彼から威厳が失われるのを欲しなかった.私は彼と面識はなかった.しかし,彼は私と同類の人間だった.私たちはあのような暴徒の輩ではなかった.彼らが彼を殺したのは,暴行だった.彼らは,彼の意志の強さと力に敬意を表して,彼の前に跪くべきだった.もはや若くもなく,不利な立場にいるにも拘らず一人で戦っている彼を捕らえたとき,彼らはそうするべきだったのだ.彼らにもっと罰を加えなかったことを後悔した.

 私は拳銃を思い出し,排水溝の上に屈みこんだ.指を入れるだけの隙間があったので,私はそれを引っ張り上げ,ポケットに閉まって,その場を去った.私は足を引きずっていて,足は痛かった.突然誰かが大声を上げた.銃声が聞こえ,銃弾が通過していった.私は止まって,警官が追いつくのを待った.

 「お前は誰だ?ここで何をしている?なぜ体に触ったのだ?それは禁じられている」
 私が答える前に,きしる音がして,一階の窓が無理やり開けられた.積もった雪を振り払いながら,私の傍で婦人が頭を突き出した.
 「この男は勇敢な人よ.彼は表彰するに値するわ.私はここで起こったことを見ていたの.彼は暴徒の中に突っ込んでいって,一人で取っ組みあいしたの.暴徒はナイフを持っていたけど,彼は素手だったのよ.私は窓からすべてを見ていたんだから」
 警官は彼女の名前と住所をノートに記した.

 彼らの態度は親しげになった.しかし,彼らは私を警察署に連れて行き,記録を取らなければならないと主張した.彼らの一人が私の腕を捕らえた.
 「そこは次の通りにあります.一言助言してくだされば,済むと思います」
 私は行かなければならなかった.不運だった.私は私自身のことや私の行動や動機について説明したくなかった.その上,拳銃を持っているのを,気づかれたら,具合の悪いことなりかねなかった.彼らは拳銃の形に気づくに違いなかった.私はコートを脱ぐ時,膨らみが現れないように注意した.彼らは応急手当をしてくれて,脚に絆創膏を貼ってくれた.手を洗い,ラム酒の入った濃いコーヒーを飲んだ.主任が一人で私を尋問した.彼が私のパスポートを一瞥したが,何か別のことに心を奪われている様子だった.前進してくる氷について彼が何か情報を持ってるかどうか尋ねたかったが,出来なかった.私たちは煙草を交換して,食べ物について話し合った.配給品が不足していて,個人の地域への貢献度に従って,物資は配給されるとのことだった.
 「働かざるもの,食うべからずですよ」
 話している間,彼の顔には緊張が現れていた.危機は想像以上に緊迫しているに違いなかった.質問の内容に気をつけながら,避難者について尋ねた.氷の地域からの脱走者が飢えた略奪者になっているのが,破壊されていない全ての国々の共通の問題だった.
 「彼らに働く気があるなら,われわれは彼らの滞在を認めるのだが.われわれは人手不足で,働く人を必要としている」
 私は言った.
 「彼らは自分で障害を作り出しているのではないですか.あなた達はどのようにして彼らを住まわせるのですか」
 「男性のためにはキャンプを設営します.女性には簡易宿泊所を提供します」
 私はこの点まで話を進めると,専門家が関心を抱いている振りをして,尋ねた.
 「それらの地域の一つを調査したいのだけれど,許可されると思いますか」
 「どうして許可されないんですか」
 彼は微笑んだが,その笑顔は疲れていた.彼が問題意識をもっているためのそう言ったのか,ただ無関心なためにそう言ったのか,分からなかった.別れる前に,彼は住所を教えてくれた.事態は想像以上に良い方に向かっていた.欲しい情報を手に入れたし,連発式銃も手に入れた.

 私は彼女を探すために歩いた.雪はまた降り始めていて,風は以前より冷たく強くなっていた.通りは荒れ果てていて,人影はなかった.私は一軒の家を見つけたが,人の住んでいる気配はなかった.多分遅すぎたのだった.なぜか分からないが,衝動が働かなくて,私はあまりのも長く待ちすぎたのだった.家の前を通り過ぎるとき時,通りに面したドアを開けてみたが,全てに鍵かけられていた.

 ある家のドアが開いた.躊躇せずに中に入った.中には何もなく,傷んでいた.施設のような感じだった.部屋は寒かった.彼女は灰色のコートを着て座っており,脚はカーテンのようなもので包まれていた.私を見るや否や,それを脚から払いのけ,立ち上がった.
 「あなたね! 彼があなたをよこしたのでしょう? メッセージを読まなかったの?」
 「誰も私をよこしたりなんかしない.どんなメッセージです?」
 「私を探さないで,というメッセージよ」
 私はそれを受け取らなかったと言った.しかし,受け取っていたとしても,同じだっただろう.彼女の大きな不信の眼が私を凝視した.憤怒していたが,恐がってもいた.
 「私は,あなた達のどちらとも一緒に行きたくなんかない」
 私はそれを無視した.
 「ここに一人で留まることはできない」
 「なぜいけないの?私はうまくやっていける」
 私は彼女が何をしているのかと尋ねた.
 「仕事よ」
 「彼らはあなたにいくら払ってくれます?」
 「食べものをくれるわ」
 「お金じゃなくて?」
 「特に厳しい仕事の場合には,時々お金もくれるわ」
 身構えながら,さらに続けた.
 「厳しい仕事をするには,やせすぎているの.スタミナがない,と彼らは言うの」
 わたしは彼女を観察していた.彼女は半ば飢えていた.しばらくの間,彼女は満足に食べていないようだった.彼女のほっそりした腕はいつも私を魅惑した.私は眼をそこから逸らすことはできなかった.それはかさばった袖口から棒のように伸びていた.彼女が従事している仕事の内容を聞く代わりに,これからどうするつもりなのかと尋ねた.彼女は怒って言った.
 「なぜそれをあなたに言わなければならないの」
 彼女に計画はないのは分かっていた.私は,私を友達として見て欲しいと切に願っている,と言った.
 「なぜ? どうしてなの? 私は友達なんか欲しくない.私は一人でやっていけるわ」
 私は彼女に,彼女をもっと生活しやすく,もっと気候の良いところに,連れ出すために,やって来たのだ,と言った.彼女が気弱になり始めているのを感じた.私は窓を被っている分厚い霜を手で拭った.雪はまだ全体の半ばの高さまでしか積もってはいなかった.
 「あなたは寒くありませんか?」
 彼女はもはや不安を隠さなかった.彼女は両手を捻り合わせた.私は付け加えた.
 「その上,ここは危険です」
 彼女の顔は苦しみの表情に変わった.彼女は次第に自制心を失っていった.
 「どんな危険?」
 彼女の瞳は大きく見開かれた.
 「氷が...」
 私はそれ以上言わなかったが,それで十分だった.彼女の身体全体が恐怖を表現していた.震え始めた.

 彼女にさらに近づいて,彼女の手を取った.彼女は手を引っ込めた.
 「そんなことしないで」
 私は彼女のコートの折り目を持っていた.裏切られた子供のような,怒ってはいるが怖がってもいる彼女の表情を見つめた.長い間泣きじゃくり続けた子供のように,眼の辺りがかすかにあざになっていた.
 「一人にしておいて」
 彼女は私の手から重たいものを引き離そうと努力しているかのような動作をした.
 「向うへ行って!」
 私は動かなかった.
 「それじゃあ,私が行くわ!」
 彼女は私から自分自身を引き離して,ドアの方へ走って行き,全体重をかけてドアに体をぶつけた.ドアは勢いよく開き,彼女はバランスを失い,倒れた.輝く髪が床に広がった.どんよりして汚い,死んだような床の上で,水銀のようにきらめき,生きているかのように輝いて,髪は広がっていた.私は彼女を助け起こした.彼女はもがき,喘いだ.
 「私を行かせて! あなたを憎むわ.憎むわ!」
 彼女には全く力がなかった.もがいている子猫を掴んでいるかのようだった.私はドアを閉めて,鍵をかけた.
(第10章続く)

アンナ・カヴァン『氷』改訳15

2006-11-15 14:37:05 | Weblog
                             第9章(承前)


 次の数日の間,彼女を彼のもとから連れ出し,どこか中立国に連れていくことを考えていた.理論的には,それは全く可能だった.船がまだ時折この地方の港に寄港していた.ただ急がねばならなかったし,秘密裏にタイミングよく事を運ぶ必要があった.成功するためには,総督に追いつかれる前に,海に出ていなければならなかった.私は用心深くあちこちに当たってみた.色々な返事が返ってきた.問題は誰の言葉を信用してよいのか分からないことだった.情報を得るために私がお金を払っている人は,総督に雇われている誰かに,私を密告することも出来ただろう.そうなるとは計画全体が窮地に陥ってしまう.私は神経質になり,そのような危険を冒す勇気がなく,行動ができなくなった.それにも関わらず,危険はさし迫ってきた.

 秘密の声がささやいた.名前,住所,行き先,出発地,「...へ行きなさい....に頼みなさい.いつでも行けるように準備しておいてください.記録,証明書.十分な資金...」さらに計画を進めるためには,彼女に打ち明けなければならなかった.私は彼女の部屋へ行った.銃声が聞こえたが,注意を払わなかった.銃声は通りでは頻繁に起こっていた.男が現れて,背後でドアを閉めた.私は彼女に会いに来たのだと言った.
 「それは出来ない」
 と彼は言って,ドアに鍵をかけ,それをポケットにしまい,テーブルの上にピストルを置いた.
 「彼女は死んだ」
 ナイフが私の体を貫いた.世界で起こる他の全ての死は,私にはどうでもよかった.ただこの死だけが私の心身に衝撃を与えた.私自身が銃剣で突き刺されたかのようだった.
 「誰が彼女を殺したのか」
 彼女を殺すことができるのは,私以外に考えられなかった.
 「私がやった」
 という彼の声を聞いたとき,私の手は動き,銃に触れた.銃身は熱かった.私はそれを掴み,彼を撃とうと思えば,撃つことができた.簡単だった.彼は身を守ろうとして動く気配はなかった.じっと立ったままで,私を見つめていた.私は彼を見返した.彼の傲慢な顔立ちをした顔を見た.私たちの目は会った.

 名状し難い方法で,私たちは縺れあった.私は自分自身を見ているような気がした.突然,極度の混乱に陥って,私たちのどちらがどちらか分からなくなった.私たちは,不可思議な形で共生している,一つの存在の半身ずつであるかのようだった.私は自分を保とうと努力した.しかし,全ての努力もむなしく,彼から私を引き離すことは出来なかった.私はもはや私自身を見つけられず,ただ彼だけしか見いだせなかった.その瞬間,実際に私は彼の衣服を着ているような気がした.私は何がなんだか分からなくなり,部屋を飛び出した.後になっても,何が起こったのかわからなかった.あるいは何かが起こったとしても,分からなかっただろう.

 別のケースでは,彼はドアのところで私に会い,直ちに言った.
 「あなたは遅すぎる.鳥は飛び去った」
 彼はニヤニヤ笑い,彼の表情は悪意を露骨に表していた.
 「彼女は去った.逃亡して,消えてしまった」
 私はこぶしを握りしめた.
 「私を彼女に会わせないように,逃がしたのだな.お前は故意に私たちを引き離したのだな」
 怒りに任せて,私は彼に向かって突進した.それから,再び私たちは縺れ,混乱がやって来た.さらに大きな混乱が広がり,自分が分からなくなっただけでなく,どこにいるかも今がいつなのかも分からなくなった.黄金のブルーの眼が閃き,絞殺死体のような曲がった冷たい指にはめられた指輪からブルーの閃きが放射した.彼は熊と戦い,素手で絞め殺した.私は戦わなかった.私がそこを去ったとき,嘲り笑う彼の声が聞こえた.
 「なんと賢明なこと」

 私は誰もいない部屋へ入って行った.心を落ち着けるのに時間が必要だった.私はあまりにも混乱していた.私は少女を切望していて,彼女を失うことは耐えられなかった.私は彼女と一緒に旅にでるプランを想像した.しかし,もはやそれは決して起こらないだろう.顔は雨に濡れ,滴が口に入ってきて,しょっぱかった.ハンカチで眼を拭った.非常な努力をして,心を平静に保った.

 また,彼女を求めて,いたるところを探し回らなければならなかった.呪いにかかったように同じことの繰り返しだった.私は,戦争から遠くはなれた,穏やかな青い海や静かな島を想像した.幸福な生きものであり,人生における平和のシンボルであるインドリを想像した.私はここを去って,そこへ行くことも出来た.いいや,それは不可能だった.私は彼女に縛られていた.氷が,死の影を投げかけながら,地球を横断してやってくることを思った.氷の絶壁が夢の中に現れ,言い尽くせぬような轟音を立てて砕け散った.氷山が瓦解し,氷の巨岩が,ロケットのように,空中に飛び出した.眩い氷が,星のように光線を放射し,地上を照らし出し,大地にぶつかって炸裂し,大地を貫き,地球の核を死のような冷却で冷やし,前進してくる氷を一層冷たくした.そして,地表を,破壊することの不可能な氷の巨大な塊が前進し続け,誰にも押しとどめることの出来ない力で,全ての生命を破壊していった.私は,その執拗な圧力の恐怖に捉えられた.無駄に過ごす時間がなかった.もう十分に時間を浪費していた.私と氷の競争だった.彼女の色素を欠いた白い髪が私の夢の中で輝き,月光よりも明るく夢の中を照らしだした.月光が氷山の上でダンスを踊っていた.それは世界の終末を示しているかのようだった.そこで彼女は,彼女の輝く髪の天幕の中から外を眺めていた.

 私は眠っている時も目覚めているときも,彼女を夢見ていた.私は彼女の叫びを聞いた.
 「いつの日か,私は行く...あなたはもう二度と私を見ることはない...」
 彼女はもうすでに私から去っていた.彼女は逃走していた.彼女は未知の町の通りを急いだ.彼女はいつもとは異なって見えた.いつもほど不安げではなく,いつもよりも自信に満ちていた.彼女は自分がどこへ行こうとしているのか正確に知っていた.彼女は一度たりとも躊躇しなかった.巨大な役所の建物の中を,彼女は真っ直ぐに,人々で込み合っている部屋に向かってまっすぐに進んでいいたが,彼女はドアを開ける力がなかった.ただ,彼女の極端にまでほっそりした体のために,多くの長身のむっつりした人々の姿の間をすり抜けていった.彼らは不自然なほど沈黙しており,想像できないほど背が高かった.彼らは彼女から視線を逸らしていた.彼らが彼女の上に塔のように聳えたち,暗い木々のように彼女を取り囲んだ時,彼女に不安が戻ってきた.彼女は自分が本当に小さく,彼らの間で迷い子になったかのように感じ,恐怖に襲われた.彼女の確信は消失した.それは決して現実ではなかった.今や,彼女はただその場所から逃げ出したかった.彼女の視線はあちこちに移した.ドアはなく,逃げ出す道はなかった.彼女は罠に捕らえられた.無表情な黒い木々の姿が彼女を取巻き接近してきた.腕が枝となって広がり,彼女を捕らえようとした.彼女は下を向き,閉じ込められた.ズボンをはいた脚が木々の幹となり,彼女の周りに根を張った.床は,木の幹と根っこで満たされた地面に変わった.顔を上げて,窓をみると,網状になった白い雪が見えるだけだった.そこから世界は閉め出されていた.彼女の知っている世界はそこからは排除され,現実は消去されていた.雪の中で成長したもみの木のように高い,木々の形をした幽霊の悪夢に脅かされて,彼女は一人だった.

 全体的な状態は一層悪化していた.破壊が止まる兆しはなかった.容赦なく破壊が進行したために,モラルが全体的に低下していた.実際に何が起こっているのかが分からなくなっていたし,何を信じて良いのかも分からなくなっていた.情報は信頼できなかった.破壊についての情報は海外からはほとんどもたらされなかった.かつて支配的であった地域が今では例外なく没落していた.色々な原因から,無気力に沈黙した地域が広がり,公共的な士気の基盤が崩壊していった.

 ある国々では,市民が不穏な動きを見せたために,軍隊が地域を制圧するということが起こった.ここ数ヶ月で,世界的な規模で,軍国主義的な風潮が広まっていき,身勝手で残酷な出来事が起こった.市民と軍隊との間でしばしば衝突が起こった.警察と軍隊によって,報復的な処刑が行われることが日常茶飯事になった.
 真実を知らせるニュースが存在しないために,非現実的な流言が人々の間をかけ巡っていた.遠くの国で,伝染病が広範囲に流行しているとか,ひどい飢饉が生じているとかいう噂が広まっていた.常識では考えられない出来事があちこちで起こっていた.熱核爆弾の倉庫が破壊されたというニュースが,ある種の権威筋から定期的に流された.生命のない物体を破壊しないで,生命のあるものは,すべて破壊するような自動装置のコバルト爆弾のスイッチが,既に入って,どこかに置かれているという噂も流された.スパイや二重スパイがあらゆるところを徘徊していた.あらゆる国で物資不足がますますひどくなっていた.実際それが理由で暴動が起こっていた.法律を無視した輩が徘徊し,まともな人たちは襲われた.略奪に対して死刑が科せられたが,抑止にはほとんど効果がなかった.

 私は少女についてのニュースを間接的に聞いた.それによると,彼女は他の国のある町で生きているとのことだった.その場所は,非常に危険な地域であることはほとんど確かだった.進行して来る氷の話をすることは禁じられていたので,そのことを調べることは不可能だった.しかし,しつこく探し求め,また広範囲に賄賂をばら撒いたおかげで,私は何とかそちらの方に向かう船に乗船することが出来た.船長は手っ取り早くお金を手に入れたがっていて,大金を積んだので,私の欲する港に寄港することに同意した.

 私たちはある早朝にその港に到着した.信じられないくらい寒く,明かりをつけても信じられないくらい暗かった.空も,雲も見えず,降り続く雪によって隠されていた.それはいつも見る朝とはまるで違っていた.それはすべてを凍らせ,昼間を闇に変え,春を北極の冬に変えた.気が変わって,下船するのを止めるのかと聞いた船長に,さようならを言った.
 「さっさと行け.われわれをこんなところに釘づけにするな.」
 彼は怒って言った.われわれはそれ以上何も言わないで分かれた.

 私は一級航海士と共にデッキに出た.空気は硫酸のような臭いがして,鼻を刺した.北極の氷原で呼吸しているかのように,ほとんど呼吸をすることが出来なかった.肌は傷つき,肺は焼けるようだった.しかし体は間もなく慣れてきた.大量の雪のために,上空は霧が被っているように奇妙に輝いていた.闇で覆われた空から絶え間なく降り続ける雪片のために,すべたものの輪郭はぼやけていた.避けようとしたが避けられなくて,凍りついている船の構造の一部に手が触れてしまったとき,あまりの冷たさに凍傷ができた.辺りは静かだったが,船底ら伝わってくるリズミカルな振動を感じて,同伴者に話しかけた.
 「エンジンは止まっていないのですか」
 ある理由から,それは驚くべきことのように思われた.
 「そう思いますか.船長は一刻も早く船の向きを変えたいのです.彼はここ数日間,あなたが船をここに寄港させたと言って,罵っていました」
 彼もまた船長と同じように私に敵意を示した.そればかりでなく,私が下船することに理解できないでいたが,好奇心を示していた.
 「一体全体,悪魔はどんな理由であなたをこんなところへ来させたのだ?」
 「これが私の仕事だから」
 よそよそしく黙りこくったまま,私たちは欄干のところへやって来た.欄干は分厚い氷で覆われており,縄梯子がそこからモーターの音のする下の方へと垂れ下がっていた.私がまだ下を見る間もなく,彼は欄干をまたいだ.
 「港は凍っている.あなたを岸まで届けなければならない」
 彼は素早く,造作もなく,縄梯子を降りていった.私は,両手で縄梯子を掴んで,雪のために辺りが見えないなかを,慎重に彼の後に続いた.誰かが私を引っ張って揺れる小船に乗せてくれ,私を押すようにして席に座らせてくれた.そして直ちに小船は動き出した.後ろ足で立ちあがった馬のように,船首を起こしながら,フルスピードで岸に向かって突っ込んでいった.小さな客室の屋根一面に水しぶきがあがった.あまりにも騒音がうるさくて,話し声は聞こえなかったが,船上の人々の殺意を含んだ敵意を感じた.安全な航海中に,彼らをこのような危険な目にあわせたので,彼らは私を憎んでいたのだった.彼らにとって,私の行動は邪悪で全く無意味な行動として映っていた.体がしびれるほどのひどい寒さの中で,コートに身を包みこんで座っていると,私がやっていることに意味があるのかどうか,私自身分からなくなってきた.

 大きな声が突然して,それが長く引きのばされて聞こえてきたので,私は驚いた.それは犬の遠吠えよりも不気味だった.一等航海士は飛び上がり,メガホンで後ろの方に叫んで,座った.
 「片側通行」
 私が理解していないのをみると,彼はつけ加えた.
 「別の航路にいる多くの船がいる」
 そして前方を指差した.

 そこでは船が姿を現らわしていて,不明瞭で混乱した騒動が起こっていた.船は静止していたが,周りを小さなボートが密集してとり囲んでいた.彼らは,狂ったように競って,乗船するための位置取りを争っていた.新たな船が入り込む余地はなかった.見物者が船の欄干に群がって,競技を見物するかのように,ボートが衝突し,転覆するのを見ていた.ボートに乗っている人たちは,苦労した経験がないらしく,危険に慣れていない人たちだった.というのも,彼らは命を危険に犯すには,やり方が下手だった.彼らは,さかさまになって海に落ちたり,無意味にぶつかり合ったり,押し合ったりしていた.あるボートでは,海からはい上がろうとして,狂ったようにボートにしがみつこうとするので,ボートがひっくり返った.また別のボートでは,人々が押し合い圧し合い,殴ったり,蹴ったり,ボートにしがみつく手を踏みつけて,溺れさしたりしていた.どんなに泳ぎの得意な屈強な者でも,凍てつく海の中では長くは生きて入られなかった.あまりにも多くの人たちが一箇所に集まり,しかも舵取りの下手なため,ボートがいくつか,転覆し,沈んでいった.また,衝突したために沈んだボートもいくつかあった.浮かんでいる残りのボートの上の人たちは,ぶつかって,倒れた人たちを踏みつけたりして,過剰にパニックになり,オールにしがみついている者を追い払ったりしていた.死にかけている人たちでも,殴られたり打たれたりした.降り続ける雪に隠れて見えなくなってもなお,くぐもった怒りの叫び声やどたんばたんという重い音や水の飛び散る音がしばらくの間聞こえていた.私は,人々が必死で,災厄に襲われている国から安全地域へと逃げようとしているとことを告げる落ち着いた声が空中をやってくるのを思い出していた.

 凍てつく港は一面白っぽい灰色をしていて,その中を黒々としたものが点々としていた.それはうち捨てられた残骸が氷の中で凍りついていたのだった.凍りついた岸は,どす黒い淀んだ流れをした小さな川に接していた.氷柱が歯のように見え,あたかもニヤニヤ笑っているかのようだった.私は岸に跳び移るとき,雪が扇がたに飛び散った.小船は視界から消えていた.さようならすら言わなかった.
(第9章終り)


アンナ・カヴァン『氷』改訳14

2006-11-14 12:37:08 | Weblog
                           第9章

 私は,総督のところに連れて行ってくれるように頼んだ.彼は最近になって本部を他の町に移していた.装甲車で私をそこへ連れて行ってくれた.2人の軍人がマシンガンを持って,「私を守るために」と称して,同乗していた.雨はまだ降り続いていた.私たちは土砂降りの中を車を走らせた.重く垂れ込めた雲のため,既に日暮れのようになっていた.私たちが町へ入ったときには,夜の帳が降りていた.ヘッドライトが見慣れた光景を照らし出した.大破壊,瓦礫,崩壊,空き地,すべてが雨に濡れできらめいていた.通りは,軍隊であふれていた.破壊の少ない建物は兵舎として利用されていた.

 軍隊が厳しく守っている場所に連れて行かれ,小さな部屋に取り残された.そこでは2人の人が待っていた.われわれ3人以外に誰もいなかった.彼らは私を見たが,何も言わなかった.私たちは黙って待っていた.外で雨が打つちつける音以外は静寂だった.彼らは1つのベンチに座っていた.私はもう一つのベンチに,コートで身を包んで座った.部屋にはそれ以外の家具はなかったし,部屋は汚かった.すべてのものに,埃が厚く被っていた.

 しばらくすると,彼らはひそひそ声で話しはじめた.私は,彼らが空いたポストのためにやってきたのだと推測した.私は立ち上がって,体を前後に揺らした.私は落ち着かなかったが,長い間待たねばならないのは分かっていた.私は彼らが喋っていることを聞いてはいなかったが,ひとりの人の声が大きくなったので,いやでも聞くことになった.彼が仕事を得ようとしているのは確かだった.彼は自慢した.
 「私は手で人を殺すことを習った.私はどんな強い人でも,3本の指で殺せるよ.私は,簡単に人を殺せる急所を知っている.手の甲で木を折ることだって出来る」
 彼の言葉を聞いて,私はがっかりした.彼は,まさに今必要とされている男だった.二人の男は会見のために呼び出された.私は一人残された.私は長い間待たねばならないだろうと覚悟を決めていた.

 ほどなくすると,守衛がやって来て,私を将校の集まっている部屋へ連れて行った.総督が背の高いテーブルの上座に座っていた.他に長いテーブルがあって,そこには,将校たちが肘を接して座っていた.私は総督と同じテーブルに座らされたが,彼の近くではなく,はるか遠くの端であった.私たちは普通に話すには遠すぎた.私は席に着く前に,彼のところへ行って挨拶した.彼は驚いた様子をしたが,挨拶を返さなかった.彼らは首を寄せ合うようにして座り,小さな声で話し始め,こっそりと私を盗み見ていた.私は気持ちのいいものではなかったが,彼が私が誰なのかを思い出そうと思っても,分からないのだと思った.彼に私との関係を思い出させることは,もっと悪いことになるかもしれないと考えて,何も言わずに,私は与えられた席に着席した.

 彼が近くの将校たちに愛想良く話しかけているのを聞くことが出来た.会話の内容は捕虜と逃亡の話だった.彼が自分自身の戦争の話しになるまでは興味がなかった.大きな車のことや雪嵐や前門が破壊されたことや砲弾や少女のことが話題にされた.彼は私の方を見ようとしなかったし,気にしてもいなかった.

 時々,外を軍隊が行進して通りすぎる音が聞こえた.突然,爆発が起こった.天井の一部が落下し,明かりが消えた.台風用のランプが持ってこられて,テーブルの上に置かれた.ランプが,皿の中には壁土が散らかっているのを照らし出した.食べものは,ぐちゃぐちゃになり,埃や残骸に覆われて,食べられなくなっていた.それらは取り払われた.長く退屈な時が続いて,それからゆで卵の入った容器が持ってこられて,私たちの前に置かれた.断続的に爆発が起こり,建物を揺るがし,埃が空中に舞い上がり,あらゆるものを汚く汚した.

 驚いたことに,総督は私を知らない振りをしていたのだった.食事の終り頃に,私を手招いた.
 「あなたの放送を楽しみにしていました.あなたは一種の贈り物を与えてくれたのです」
 驚いたことに,彼は私が何をしていたのか,知っていたのだった.彼は他の人たちに接するのと同じように,親しげに私に話しかけて,私たちはしばらくの間話しを交わした.私は漠然とした感情ではあるが,彼に親密な感情を抱き,仲間のように感じた.彼は,私が到着したのは,良い時期だと言った.
 「我々の通信機は間もなく稼動します.そうすると,あなたの放送は聞こえなくなる」
私は当局に対して,もっと強力な設備が必要であることを話していた.現存の設備による放送がより強力な設備によって放送妨害されるのは時間の問題だった.彼は,私が間もなく戦争が起こるだろうことを知っており,そうなったら,私は相手側につくだろうと,思っていた.彼は,私に彼のための宣伝放送をしてもらいたがった.彼が私のために何かしてくれたら,私は同意するつもりだった.
 「まだ同じ事をしているのですか?」
 「そうです」
 彼は私を興味をもって眺めたが,眼には疑惑の表情が一瞬現れた.しかし,彼はさりげなく言った.
 「彼女の部屋は上の階にあります.彼女のところに訊ねて行きましょう」
 彼は先頭に立って出て行った.
 「個人的なメッセージを手渡さなければなりません.私は一人で彼女に会えますか?」
 と聞いたが,彼は答えなかった.

 私たちは通路を下っていき,階段を上がり,別の通路に出て歩いて行った.明るい松明の光が,あたりにごみが散らばっているのを照らし出していた.床はほこりに覆われていて足跡がついていた.私はそこに少女のと思われる小さな足跡を見つけた.彼はドアを開き,ぼんやりと照らし出された部屋の中を覗きこんだ.彼女は跳び上がった.跳び上がった時の白い顔,輝く髪に包まれて私を見つめた大きな眼が,そこにはあった.
 「またあなたなの」
 彼女は固くなり,自分を守ろうとするかのように,前にある椅子の背に手を置いた.手はねじれて,指の関節のところが白くなっていた.
 「あなたは何が望みなの?」
 「ただあなたと話したいだけです」
 私たち二人を交互に見て,彼女は非難する口調で言った.
 「あなた達は同じ仲間ね」
 私は否定した.しかし,奇妙なことに,彼女の言葉には真実が含まれているように思われた.
 「もちろん,あなたは...彼はあなたを他のどこかへ連れて行こうとはしないでしょう」

 総督は微笑を浮かべながら,彼女に近づいた.そのときの彼のやさしげな表情を、私は今まで見たことがなかった.
 「いらっしゃい.そんな態度は,旧知の友達に挨拶するのに相応しくない.もっと親しく話ができませんか.あなた達はどのようにして知り合いになったのかを,私に話してくれませんか」
 彼が,私たちを二人だけにするつもりがないのははっきりしていた.私は黙って彼女を見つめた.彼の前では彼女に話しかけることは出来なかった.彼の支配力はあまりにも大きすぎて,彼の影響はあまりにも強すぎた.彼の前では,彼女は怯えて,自分の意志とは反対の振舞をするだろう.障壁が張られた.私は混乱した.彼が微笑んでいるのも当然だった.私は彼女を見つけなかったほうが良かったのだ.遠くで爆発音が起こり,壁を揺るがした.天井から降ってくる白っぽい埃を彼女は眺めていた.とにかく何かを言うために,爆弾が恐くないかと尋ねた.彼女は無表情で,ただ髪だけが輝いていた.彼女は黙って,あらぬ方へ視線を動かした.なにも見てはいず,何も意味してはいなかった.

 総督は言った.
 「彼女をもっと安全な場所に行くように説得しました.しかし,彼女は行こうとしない」
 彼は得意げに微笑んで,私に,彼女に対する支配力を見せつけた.容認し難かった.私は辺りを見回した.椅子と小さな鏡とベッドとテーブルがあり,テーブルの上にはペーパーバックの本がおかれていた.他には何もなかった.そして,それらすべては埃にまみれていた.床の上には,壁土が厚く積もっていた.彼女の厚手のコートは留め金につるされていた.くしと銀紙に包まれた長方形をした食べさしのチョコレート以外には,人の気配を感じさせるものはなにもなかった.私は男から彼女へと向きを変え,彼がいないかのように,真っ直ぐに彼女を見て,話した.
 「ここは,居場所のいいところではない.なぜ,戦闘からもっと離れたホテルに移らないんですか.」
 彼女は答えずに,肩を少しばかりすくめただけだった.沈黙が続いた.

 軍隊が窓の下を通過して行った.彼は部屋を横切って窓のところへ行き,よろい戸を音を立てて開け,下を見下ろした.私はその隙に急いでささやいた.
 「私はただあなたを助けたいだけなんです」
 私は手を彼女の方に差し出した.彼女はその手を振り払って言った.
 「あなたは信頼できない.あなたの言うことを信じません」
 彼女の眼は大きく見開き,反抗的に私を見つめた.彼が部屋にいる間は,決して説得に成功しないだろうことが分かった.これ以上いても,得られるものはなにもなかった.私はそこを去った.

 ドアの外に出ると,彼の笑い声や床を踏みつける足音や彼の話し声が聞こえてきた.
 「あの人に何をそんなに怒っているの」
 彼女の声は変わり,涙声になり,ピッチの高い,ヒステリックな調子で言った.
 「彼はうそつきよ.彼があなたと一緒になって何をしようとしているのかは分かっている.あなた達は同じよ.利己的で,嘘つきで,残酷で.あなた達のどちらにも会いたくない.二人とも憎むわ.きっといつか,ここから出て行くわ.そしてあなたは二度と私に会うことはない...決して!」
 私は通路を下って行った.瓦礫に躓き,それらを蹴散らしながら歩いた.私は松明を持っていないことを気にしなかった.
(第9章続く)

アンナ・カヴァン『氷』改訳13

2006-11-09 12:05:30 | Weblog
                          第8章

 私は同乗しているに人たちと友達になろうとした.若い人たちは技術の専門学校を出たばかりだった.彼らは私と話そうとはしなかった.私が外国人だという理由で,彼らは私を信用してなかった.私が尋ねても,彼らは私を疑わしげに眺め,何とか理由をつけて秘密にしようとした.彼らには秘密にするほどの情報を何も持っていたいことが,私には分かっていた.彼らは疑い深い性格だった.私は自分が彼らとは別世界の人間であるかのように思えたので,黙ることにした.しかし,徐々に,彼らは私を気にしなくなりだして,仲間内で話しはじめた.彼らは仕事について話していた.通信機を組み立てることが難しいということなどを話していた.物資が不足しており,技術者が不足しており,資金も不足しているということだった.技術力がなくて,信じられないエラーが発生するということだった.妨害行動という言葉が時々話されるのを聞いた.スケジュールは大幅に遅れているとのことだった.通信機は月末には完成するはずだった.ところが,今では,いつ完成するのか誰にも分からないほどだった.疲れてきたので,聞くのをやめて,眼を閉じた.

 時々,奇妙な言葉が聞こえてきた.彼らは,私を話題にしていたのだった.彼らは私が眠っていると思っていたのだった.
 「彼は我々のところへスパイとして送りこまれたのだ」
 彼らの一人が言った.
 「われわれが信用できるかどうか,確かめるために.彼に何も知られてはいけない.彼の質問に答えるな」
 声は低くになり,ほとんどささやき声になった.
 「僕は教授が言っているのを聞いた...彼らは説明しない....他の人々がいるというのに,なぜわれわれを危険地帯へ送り込んだと思う...」
 彼らは不満を抱いており,いらだっていて,私に情報を提供しようとはしなかった.彼らの間で時間を浪費するのは無駄だった.

 夜遅くに,私たちは小さな町に泊まった.私は店主をたたき起こして,石鹸やらカミソリやら下着の着替えやら必需品を少しばかり手に入れた.そこには,ガソリンスタンドが1つしかなかった.朝,出発する前に,運転手はガソリンを店にある分全部買いたいと言った.店主は腹を立てて,駄目だといった.供給は限られていて,店主はこれ以上入手することは出来ないのだった.わが男はそれを無視して,貯蔵タンクを空にするように言うと,店主は怒りを増して言った.
 「黙れ.さっさと行きやがれ! これは命令だ」
 彼のそばに立っていたので,ここでガソリンを補充するために男がやってきたら,困ることになるだろう,とやんわりと注意した.彼は私に軽蔑的な視線を送って,言った.
 「やつは,どこかにもっと隠している.彼らはいつもそうなんだ」
 荷物の背後に,ガソリンの缶が詰め込まれ,私たち4人が座る場所がなくなりかねないほどだった.私は後輪の基軸の上の最も乗り心地の悪い場所に移った.

 荷物を入れるためのフラップが巻き上げられのを,私たちは見届けた.遠くの森へ向かって車は走っていった.その背後には山々が連なっていた.町から数マイルいくと,砂利の敷かれた道は終わっていた.今や,車輪の通るところに二本の細い線のように舗装されているだけの道に変わっていた.車体の幅が広かったので車輪はそこを走ることが出来なかった.内陸の気候のせいで,前進するに従って,寒くなってきた.森は端の方は見えていたが,それが徐々に近づいてきて,耕作地は少なくなっていき,人々や村もまた少なくなっていった.私は,ガソリンを購入した意味が分かり始めた.道路は,確実に悪っていき,わだちや穴ぼこだらけになってきた.これ以上進むのは難しくなり,速度は落ち,運転手は罵り始めた.線状に舗装されたところでさえ,無くなっていた.私は前かがみになり,彼の肩をたたいて,運転を交代しようかと申し出た.驚いたことに,彼は肯いた.

 私は彼のとなりの座り心地のいい席に座ったが,トラックが重くて運転するのに苦労した.今までこんなに重いトラックを運転したことはなかったので,慣れるまで,運転に集中しなければならなかった.道を邪魔している小岩や木の幹を道路から取り除くために,定期的に運転を中止しなければならなかった.それが最初に起こったとき,背後の荷台から人々が飛び降りて,障害物を取り除こうとしてたので,私も手伝うために降りようとした.すると,運転手が私の肩を軽く叩いたので,振り返ると,運転手は降りなくてもよいというふうに頭を振った.運転できるということは,そのような雑事をすることよりはるかに価値があることだった.

 私は彼に煙草を提供した.彼は受け取った.私は道路の状態について意見を述べた.通信機は貴重品であって,しょっちゅう運搬するのであるから,なぜ道路を舗装しないのか,理解できなかった.彼は言った.
 「われわれはその余裕がない.通信機を提供している連合国に頼んだのだが,断られた」しかめ面をして,私が同情の表情をしているかどうかを確かめるために,横目で見た.私は無表情な調子で,それはフェアではないと言った.
 「我々の国は小さくて,貧しいので,いつでも軽くあしらわられる」
 彼は怒りを抑えられなかった.
 「われわれが提供しなかったら,通信機機はこの国では決して組立てられないのに.われわれが全部やっているんだということを,やつらは思い出すべきなんだ. そのために,われわれの領土の一部を犠牲にしているのに,見返りは何もない.われわれが侵略されても,軍隊を送ってもくれなかいだろう.やつらの非協力的な態度にはむかつくよ」
 彼は苦々しく話した.彼は,大国に恨みを抱いているのだった.
 「お前を外国人だから.こんなことを言うべきじゃなかった」
 彼は心配して私を見た.私は情報提供者ではないといって,彼を安心させた.

 彼は話しをしたがったので,私は彼自身のことを話してくれるようにと頼んだ.その方が,私が関心を持つ話を聞き出しやすいと思ったからだった.この仕事が始まった頃は,運転手はもっぱら作業員を運んでいたということだった.彼らは途中でよく歌を歌ったものだった.
 「あなたは覚えているか,言い古された諺を――『善意の人は団結して世界を回復し,破壊する力に立ち向かう』.彼らは言葉を歌の一部のように変えて,男も女も皆一緒になって歌っていた.それを聞くと,勇気づけられた.あの頃は,建設に夢中になっていた.しかし,今ではなにもかもが全く違っている」
私は何が起こったのか尋ねた.
 「あまりのも多くの妨害や遅延や失望が起こった.物資が不足していなかったら,とっくの昔に,仕事は終わっていただろう.しかし,物資はすべて外国から輸入しなければならなかった.それも,測定単位の異なる国々からだった.そのため,しばしば,部品のサイズが合わないということが起こった.部品が丸々返品されるという事態も起こった.これが,若い人々が熱中している仕事に,水を指すことになったのは,分かるだろう」
 異なった考え方の間で,接触しないで事をなそうとしたときに起こる,ありがちな間違いと混乱だった.事実を率直に話してくれたことにたいして,私は彼に感謝の意を示した.会話は弾んで,旧い諺の話に戻った.「接触することが,人々がよりよく理解するための第一歩」

 私は彼の信頼を勝ち取ったと思った.彼は,私を友達のように,女友達について話した.彼女が犬と一緒に写っている写真を見せてくれた.お金を持っているのを知られるのはよくないと思い,話題を道路に関することに変えながら,素早く写真を財布から取り出した.それは,少女が湖のほとりに立っている写真だったが,まだ持っていた.その写真を彼に示して,彼女が行方不明になり,私は探しているのだと話した.特別な感慨もなく,彼は言った.
 「きれいな髪.君は幸運だ」
 私は,女友達が地球上から消えてしまっても,幸運と思うか,と訊ねた.彼は少し困惑した表情を示した.私は写真を脇へ置いて,このような髪をした少女を見たことがないかどうか,訊ねた.
 「いいや.見たことはない」
 彼は力を込めて首を振った.
 「ここのほとんどの女性は黒い髪をしている」
 彼女について彼に尋ねたのは無駄だった.

 私たちは交代した.運転に疲れて,私は眼を閉じた.再び眼を開けると,彼は銃を膝の上に置いていた.何を撃つつもりなのかと訊ねた.
 「国境の近くに来ている.ここは危険地帯だ.いたるところ敵だらけ」
 「しかし,この国は中立なのでは?」
 「中立ってなんだ.それは言葉だけだ」
 彼はミステリアスに付け加えた.
 「その上,敵にも様々な種類の敵がいる」
 「どんな」
 「破壊工作員,スパイ,強盗.混乱に乗じて私服を肥やすあらゆる種類の悪者がいる」
 トラックは攻撃されると思うかと,尋ねた.
 「以前に攻撃されたことがあった.運んでいる物資を彼らは必要とする場合がある.その場合に,彼らがわれわれが通る事を聞いていたならば,彼らは.われわれのトラックを止めようとするかも知れない」

 私はオートマティックを取り出すと,彼はそれを興味深げにチラリと見たが,明らかに,彼は外国人の武器に強く印象づけられたようだった.車は森の中へと入って行った.彼は神経質になっていた.
 「さあ,危険な地域にやってきたぞ」
 高い木の枝からコケが長い灰色の髯のように垂れ下がっていて,それが光を遮断するスクリーンの役割をしていた.身を隠すのに丁度良い場所だった.光が入ってこなくなり始め,道路だけが照らされていた.隠れている眼が私たちを観察していると想像することは容易だった.銃を持った敵がいるかと探した.しかし,考えていることは別のことだった.

 私は総督について,運転手に尋ねた.彼は新聞で読む程度の知識しか持っていなかった.通信機の置かれている場所から本部までの距離は20マイルだった.
 「そこへ行けるだろうか?」
 「そこへ行く?」
 彼は私を無表情に見つめた.
 「もちろん,行けない.そこは敵の国だから.彼らは道路を破壊し,通路を遮断している.とにかく人の住んでいる処は多くはない.夜には銃の撃ち合う音が聞こえるだろう」
 彼は明るいうちに目標地に到着したがった.
 「暗くなる前に,森を出なければ.何とかいけるだろう」
 彼は猛烈に運転した.トラックは石ころを踏みつけてバウンドし,スリップした.

 私は憂鬱になり,もはや話し続けることはできなかった.状況は絶望的だった. 私には少女が必要だった.彼女なしでは生きていけなかった.しかし,私は決して彼女を見つけることは出来ないだろう.町への通路は存在しない.私は決してそこへ行くことが出来ない.そこへ行くことは不可能だった.とにかく,そこは四六時中砲撃が行われて,破壊され続けているに違いなかった.そこへ行く意味がなくなった.彼女がそこをすでに去っていたかもしれないし,ずいぶん前に殺されていたかもしれなかった.私は絶望した.すべてなすことが虚しく感じられた.

 通信機の置かれている場所は,注意深く選ばれていた.山を背にして,森に囲まれていた.地上からの攻撃に対して防衛しやすくなっていた.建物の周りは,整地されていたが,木々に囲まれていた.私たちはプレハブ式の建物に住んでいたが,雨がまともに当り,触れるものすべてが湿気を含んでいた.床はコンクリートだったが,いつも泥で汚れていた.私たちが行くところ,どこも沼地になっていた.人びとは皆,意心地の悪さと食べ物のまずいことに,不平を言っていた.

 天候が悪くなっていった.いつもなら,暑くて,乾燥していて,日照りが強いはずだった.しかし,始終雨が降り,じめじめして冷えていた.厚い霧が,森の木々の頂上に白っぽくかかっていた.空は雲という大なべから昇っている蒸気で満ちているかのようだった.森の生きものは,正気を失っていって,常軌を逸した行動をとっていた.野生の大や猫が人間を恐れなくなり,建物の近くまでやって来て,通信機の周りをうろついていた.奇妙な格好をした鳥が頭上を飛びまわっていた.われわれが解き放った未知の災厄を察知して,鳥や獣たちが,保護を求めて人間のところにやってきたのではないかという気がした.

 暇つぶしに,また,何かをやりたかったので,私は通信機の仕事に参加しようと思った.それは完成からは程遠く,従業者たちはやる気をなくしており,無関心になっていた.私は彼らを集め,将来について話をした.好戦的な人々は,私のはななしが部分的に真実を伝えていたので,感銘を受けたようだった.議論が進むにつれて,人々は信念を回復し出した.平和は回復されなければならない.世界が衝突する危機は避けなければならない.これが彼らの仕事の最終目標であるはずだった.一方で,私は彼らをチームに分けて,競わせた.最もよく働いた人には報奨金をだした.まもなく,放送開始のための準備が整った.私は両チームの出来事を平等に正確に記録した.世界平和のためのするプログラムを提案し,休戦を主張した.大使は私に手紙をよこして,私の仕事に対して,感謝の意を表した,

 国境を越えていくべきか,それともここに留まるべきか,決心がつかなかった.少女が破壊された町で生きていられるとは思えなかった.彼女がそこで殺されていたのなら,そこへ行くことに意味はなかった.どこか別のどこかで生きているとしても,いずれにしろ,そこへ行くことに意味はなかった.そこへ行くことにはかなりの危険が考えられた.たとえ,交戦がなかったとしても,スパイの嫌疑で撃たれる可能性があった.あるいは,無期限に刑務所に入れられるかもしれなかった.

 しかし,すべてが順調に進んでいたので,ここで仕事をするのに飽きてきた.降り続ける雨の中で,物を乾かし続けるのに飽きてきた.氷に襲われるのをただ待っているのが嫌になった.日に日に,氷は,山や海をものともせずに,地球の表面を被い続けていた.被い尽くす速度は速まったり遅れたりすることなく,同じペースで確実に,近づいてきていた.町にやってくると,町は氷に押しつぶされ,平らになった.沸騰する溶岩が流れ出ているクレーターでさえも氷で埋められた.巨大な氷の連隊が進行して来るのを押しとどめる術はなかった.それは着実に,世界を横断し,前進を阻むあるあらゆるものを押しつぶし,被い尽くし,破壊し尽くした.

 私は,それにもかかわらず,総督のいるはずの処へ行こうと思った.誰にも告げずに,土砂降りの中を,いたるところに障害物のある道を車を走らせた.そこからは行くべき道が,山のふもとの木々の向うまで続いているの分かった.私が頼ることが出来るのは,携帯用の磁石だけだった.山を登り,雨に濡れた植物のところを通過して,国境の駅に到着するのには,数時間かかるはずだった.そこで,警備員によって引き止められるだろう.
(第8章 終り)

アンナ・カヴァン『氷』改訳12

2006-11-08 14:27:42 | Weblog
                        第7章(承前)


 私は髯をそり,顔を洗い,鏡に映る自分の姿を注意深く眺めた.清潔なシャツが必要だったが,店はまだ開いていなかった.後ほど,買い物をして,小銭を作ろうと思った.枯れたカーネーションを取り除くと,わたしの外観はまあまあ見られるようになった.理髪店を出るとき,カーネーションを溝に投げ入れようとしたら,外から少年が寄って来て,靴を磨かせてくれるようにと言った.彼に靴を磨かせているとき,どこかに良いカフェがないか訊ねた.彼は同じ通りの先の方を指差した.私は歩き続けると,それらしきものに出会った.太陽が照りつけている屋外のテーブルに座った.その時間には,人はほとんどいなかった.当番の給仕は一人だけで,コーヒーとロールパンをお盆に載せて運んできて,テーブルに置くと,奥の暗い部屋の中へと引っ込んだ.私は一人取り残された.コーヒーを飲み,次になすべきことを考えながら,道行く人々を眺めていた.早朝のため,通行人はまだ多くはなかった.

 少女が花の入ったバスケットを持って私の前を通った.私はカーネーションを捨てそこなったことを思い出し,それをボタン穴から引き離そうとしたが,茎がピンでしっかりと止められていた.襟の折り返しを裏返して,覗き込んで,ピンがどこにあるかと探した,
 「私にやらせてください」という声がした.
 見上げると,花売りの少女が微笑んで立っていた.彼女の顔に見覚えがあるような気がした.彼女を既に知っていて,好意を抱いているような気がした.カーネーションをきれいに取り除いて,バスケットから全く同じカーネーションを取り出してつけてくれる準備をしていた.その必要はない,と言おうと思ったが,急に気が変わって,黙った.彼女は新しいカーネーションをボタン穴にしっかりと取りつけてくれ,私の傍に立っていた.支払を待っているかのようだった.わたしの判断は正しかったようだったが,間違ってはいけないと思い,何も言わなかった.
 「何か他に手伝うことがありますか?」と彼女が尋ねた.
 わたしは正しかったのだということが分かった.辺りを見回した.他のテーブルに人はいなかった.歩道の人々には,ここからの声は届かなかった.彼女はバスケットを椅子の上に置いていた.一枝ずつ取り出しながら,私は花を調べるふりをした.私を見ている人々は,たとえ,双眼鏡で見ていたとしても,ごく普通のことをしているよう見えたであろう.私は言った.
 「確かに」
 私は彼女がどの程度知っているのか分からなかったが,直ぐにでも,ここで何が起こっているのかを知らなければならなかった.
 「私は乗船していて,この地域のことをよく知らない.いろいろ教えて欲しい」

 最近の出来事についての無知を悟られないように注意しながら,私は尋ねた.祖国の状況ははっきり分からないが,危険な状態にあるのように思われた.正確な情報は伝わってこなかったし,災厄の全体の様子はまだ知られていなかった.北国の総督は奥地へ逃走して敵対意識のないいろんな将軍と連合を結んでいた.

 私はいろんな質問を彼女にした.彼女はいつも丁寧に親しげに答えて,私を助けようとしてくれた.しかし,彼女の返答はあいまいになり,言質を与えるのを恐がっているようになった.一人,二人とカフェに人がやって来て,私たちの近くに座ったとき,彼女はささやいた.
 「あなたはこれらの問題についてもっと知識を持った人と話をした方が良いでしょう.私が紹介しましょうか?」
 私は無視した.彼女がそれをできるとは思えなかった.彼女は私に待つように言って,バスケットを持って通りへ走り去った.多分もう彼女に会うことはないだろうと思ったが,もう一杯コーヒーを注文して,彼女を待った.するべきことは何もなかった.総督の逃亡について彼女が教えてくれたことに,私をある点まで,ほっとした.確かではないけれども,彼は少女を連れていったように思われた.しばらく立つと,多くの人々がやって来た.情報提供者が戻ってくるのを待ちながら,通りを眺めていた.彼女はもう戻ってこないだろうと諦めかけた時,通行人の間を私に向かって急いでくる彼女を見つけた.彼女は私のテーブルにつくと,叫んだ.
 「あなたが必要とするスミレの花がありました.私はそれを探して市場のあちこちに行かなければなりませんでした.ただ,それがかなり高くつくのが心配ですが」
 彼女は息を弾ませていたが,声ははっきりとして,周りの人々を楽しませるような陽気な響きをしていた.これ以上,彼女をここにとどめるのはよくないと思ったので,訊ねた.
 「いくら?」
 彼女は額を言ったので,私はお金を手渡した.彼女は魅力的に微笑んでお礼を言い,走り去り,視界から消え去った.

 スミレの茎は紙で包まれ,それにメッセージが添えられていた.そこには,私を助けてくれるかもしれない人の名前が書かれていた.メッセージを直ぐに破り捨てた.私は手提げが皮製の布服をさげ,他の必要品を手に持ち,ホテルへ行き,宿泊を予約した.私は風呂に入り,服装を整え,紙に記されていた男のオフィスへと向かうと,彼は直ちに私を見つけた.彼もまた赤いカーネーションを身につけていた.私は用心深くしなければならなかった.

 私は真っ直ぐに要点に入った.ごまかす必要はなかった.総督が命令を出している町の名前を言って,私は,そこへ行くことができるかどうか尋ねた.
 「無理です.戦争がその地域で起こっています.町では夜襲があります.外国人が入ることは認められていません」
 「例外はないのですか」
 彼は首を振った.
 「とにかく,役人以外にはそこへ行くことは不可能です」.
 返事が全て否定的だったので,私は次のように言うことができただけだった.
 「それでは,あなたはわたしに諦めろと?」
 「公式的には,イエスです」
 彼は私をいたずらっぽく見つめた.
 「しかし,必ずしも」
 彼は勇気づけるように言った.
 「私があなたを助けることができるチャンスがひとつだけあります.とにかく,成り行きを見ましょう.しかし,当てにしないでください.私が報告を受け取るまでに,多分,2,3日すれば分かるでしょう」
 私は彼にお礼の言葉を言った.私たちは立ち上がり,握手した.彼は情報が入り次第直ちに私に知らせると約束してくれた.

 私は退屈していたが,落ち着かなかった.何もすることがなかった.表面的には,町の生活に変わるところはなかった.水面下では,次第に行き詰ってきていた.北からのニュースは乏しく,混乱しており,恐ろしいものだった.破滅は大規模になるに違いないと思った.ほとんど生き残る者はいないだろう.地方の放送局は,陽気に振舞い,から元気を出していた.それは政府の方針であり,人々を安心させる必要があった.実際,国民は,自国が破滅から逃れられるだろうと信じていた.私はどの国も安全でないのを知っていた.たとえ,当面の破滅から遠い国にいても,破滅は広がり続け,ついには地球全体を覆ってしまうはずだった.一方では,全体的な不安は不可避であった.小規模であったかもしれないが,既に戦争が始まっているという最悪の徴候があった.より責任のある政府は全力をあげて交戦国を静め,状況の爆発を抑えて,現在の大惨事が増大して全面戦争にいたるのを抑えようとしていた.少しばかり安心していた少女に対する心配が蘇ってきた.彼女が破滅した国から逃れても,全面戦争を行っている別の国に行ったのなら,何にもならなかった.総督が彼女を安全な場所に送り届けるだろうことを信じたかった.しかし,彼をあまりにもよく知っていたので,それを信じることはできなかった.私が彼を知っているということが決定的であった.そうでなければ,彼女に何が起こったのか分からなかっただろう.噂話を聞くために,夜はバーを梯子して過ごした.国民に対する裏切り者として彼の名前がしばしば,話題に上っていた.それ以上にしばしば,力のある,戦争に対して影響力を持つ,新興の未知の重要人物として,話題に上がった.

 朝一番に,私の部屋の電話が鳴った.誰かが私に会いたがっているということだった.役所からのメッセージを期待して,その人に来てもらうようにと言った.
 「今日は」
 花売りの少女が笑みを浮かべて,気取らない態度で入ってきた.私が驚いたのを見て,彼女は言った.
 「もう,私を忘れたの?」
 私は彼女がここに来るとは思っても見なかったのだと,言った.その時,彼女は驚いた様子を示した.
 「あなたに花を毎日持ってくるのが,私の仕事の一つだということを,あなたはご存知のはずなのに」
 彼女がカーネーションの花を取り替える間,私はじっとしていた.彼女が属している組織について,何も知らないことが,ことを進め易くしていた.私はそれに好奇心をそそられたが,わたしの正体がばれてしまうのを恐れた.彼女と一緒にもっと時間を費やせば,質問することもなく,もっと情報を得られるのではないかという考えが頭に浮かんだ.その上,彼女は若くて魅力的だった.私は彼女の自然で,実際的な行動が好きだった.また,そうすることで,退屈から救われると思われた.

 私は彼女を夕食に招待した.彼女は愛嬌のある気取らない,魅力的な態度で振舞った.その後,私たちは2軒のナイトクラブへ行って,踊った.彼女は楽しいパートナーで,レラックスしていて,自由に話しているように思われた.しかし,既に私が知っていること以外には何も話さなかった.私は彼女をホテルへ連れて戻ると,ポーターは,私たちが一緒に入ってくるのを変な目で眺めた.私はかなり酔っていた.彼女のスカートが床の上に落ちて,輝く輪を作っていた.朝早く,私がまだ眠り込んでいる間に,彼女は花の市場に行き,新鮮なカーネーションを持って,朝食時に戻って来た.彼女は,眼は輝いていて,楽しそうで,生命に満ちていて,夜の時よりも一掃魅力的だった.私は彼女と一緒にいたいと願った.彼女の存在を通して,私自身を現在に結び付けていたかった.しかし,彼女は言った.
「いけません.私は行かねばなりません.私にはしなければならない仕事があります」それから,親しみげに微笑み,夜に一緒にダンスを踊ることを約束してくれた.しかし,私は二度と彼女を見ることはなかった.

 私が新聞を呼んでいるとき,役人が私を迎えに来た.私は急いで彼のオフィスに駆けつけた.彼は神秘的でいわくありげな態度で,私を迎えた.
 「あなたのために準備を調えました.少しばかり急いでください」彼はにやっと笑い,楽しそうに,どのようにして出来事を作り出したのかを説明した.私は驚き,興奮した.彼は続けた.
 「新しい通信機に置き換えるために,トラックが,今日,われわれに側の国境へ向かって出発します.そこはあなたが行きたい町の近くです.私はあなたを外国人のコンサルタントして連れて行きます.あなたは行く途中で勉強しなければなりません.その資料ここにあります」
 彼は私に紙の挟まれた厚いフォルダーを手渡した.一番上に,旅行許可証があった.一時間以内に本局の郵便局のところに来るようにと言った.

 私は丁寧に礼を言った.彼は私の腕を叩いて言った.
 「どういたして.お役に立てて嬉しいです」
 手を引っ込めて,ボタン穴の花に触ったので,驚いた.彼は何か気づいていたのか? 彼の組織について私は何も知らないとしても,少なくとも,彼の組織は非常な力を持っていることは分かった.彼が微笑して
 「急いで戻って,荷物をまとめてください.どんな理由でも遅れてはいけません」
 と言ったので,私はほっとした.運転手は時間厳守で出発するはずだった.彼は誰も待とうとしないはずだった.

 部屋は暗くなった.嵐が突然やって来たのだった.彼は手を明かりに伸ばしたとき,青白い稲妻とガラガラと言うつぶれるような音が一緒にやって来て,雨が激しく窓を打ちつけた.制服の長いコートを着た男が入ってきて,彼に明かりを触らないようにと言った.彼は大きな太った体型をした男だった.彼のがっしりした体型はどこか見覚えがあった.部屋の片隅で,彼は低い声で喋った.何を言っているのか聞こえなかったが,議論は白熱しており,私が話題になっているのが分かった.と言うのは,彼らは私の方をちらちらと見ていたから.私は非難されているのが分かった.新しく入ってきた男の顔は見えなかったが,雷鳴のなっていないときに,何を言っているのか分からなくても,彼の声が罵っているのが分かった.相手はすでに私を信用しないように説得されていた.彼は明かりの近くに立ち,落ち着きのない,疑っている様子を示していた.

 私は不安になってきた.彼が私に敵対するようになったら,私の立場は不利になるからだった.私は総督に会う望みがなくなるばかりでなく,偽者として赤いカーネーションを悪用したことが分かってしまうだろう.私は再逮捕され刑務所に再び入れられるという重大な危険性があった.

 私は時計を見た.30分の内の数分が過ぎていた.早く部屋を出なければと思った.こっそりとドアの方へ移動して,手を背後に回してドアを開けた.

 恐ろしい稲妻が空気中を閃き,一瞬明るく突風を照らした.オーバーコートが翻り,銃を持っているのが見えた.私が手を上げた時,半ば振り向きながら,雷がとどろいている中を,話し相手に,雷の音を上回る声で叫んだ.
 「なんだって?」
 瞬間,彼の注意がそれたので,私は彼の足めがけて飛び掛り,学校で学んでいた方法でタックルした.撃たれた弾は頭上に外れた.私は彼を倒すことはできなかったが,彼は,長いコートに足をとられてバランスを失った.彼が再び狙いをつける前に,連発ピストルを彼の手から叩き落し,部屋の外へと蹴り出した.彼は真っ直ぐに私に向かってきて,敵意むき出しで,私に全体重をかけてぶつかってきた.彼は私よりもはるかに重かったので,私は倒れかかったが,ドアにぶつかり,助けられた.私は通路をやって来る人の足音を聞いた.役人に銃をとってくるように言いながら,相手は再び私に襲いかかってきた.彼が銃を持ったら,私はおしまいだった.やけくそになって,彼をドアに押しつけ,全体重をかけて彼に殴りかかったら,幸運にも彼はうずくまった.私は向きを変えると,2人の男が立ちはだかっていた.彼らを見ることなく,一人に体当たりし,さらにもう一人に体当たりした.一人は叫び声をあげて倒れた.ドアにぶつかる音が聞こえた.もはや誰も私を止めようとはしなかった.振り向かずに,私は階段を駆け下りて,建物の外に出た.雷に感謝した.銃声はもはや建物からは聞こえてこなかった.

 嵐は私の味方をしていた.外では,誰も私に注意を払わなかった.誰もが激しい雨から避難しなしていた.通りは冠水していて,私は直ぐにずぶぬれになった.浅瀬の小川を走るかのように,水しぶきをあげながら,できる限り早く走った.幸いにも,郵便本局は真っ直ぐ言ったところにあるのが分かっていた.部屋をそのままにして置くようにと,ホテルに電話した.とにかく,私はそこに行く時間がなかった.旅行のための資料を振って合図したながら,私が辿り着いた時には,出発する時間だったので,トラックの運転手はエンジンをかけ始めていた.彼は私を罵り,後ろに乗るようにと親指で指差した.私は最後の力を振り絞って,トラックの上によじ登った.硬い床に座った.雨や日光をさえぎるためのものがあった.トラックは急に傾き,私は投げ出された.息が切れ,打ち傷だらけで,ずぶぬれだったが,私は勝利感を味わった.

 トラックの中は私を含めて4人だった.そこは暗くて騒々しくて心地よくなかった.座るために厚板が引かれた一種のテントのようなものだった.天井は低くて,頭をまっすぐにして座ることはできなかった.各々の厚板に2人ずつ座った.狭い暗闇の中に,形や大きさが様々なケースが,荷造りされて積み重ねられていた.その間で,われわれは顔をつき合わせて座っていた.トラックはがたがた揺れれて体が痛かったが,気にしなかった.トラックの中にいて,現実に目的地を目指しているとうことだけで救われた気持ちになった.狭くて居心地が悪くて揺れていたけれども,そこでは誰にも見られる心配はなかった.嵐は次第に静まっていったが,雨は相変わらず土砂降りで,布壁を通して洩れてきた.しかし,私の気持ちは晴れ晴れとしていた.もう十分に濡れていたので,これ以上濡れることはなかった.
(第7章終り)

アンナ・カヴァン『氷』改訳11

2006-11-02 13:04:03 | Weblog
                          第7章

 港は遠かったけれど,飛行機で行ったので,船が出港する前に港に着くことができた.私は熱に苦しめられ,震えが止まらず,頭痛がし,無気力になっていた.車の後部席に座って,波止場に急いだ.頭がぼうっとしていたので,外の景色を見ることなく乗船した.波止場に辿り着いた時には,船はすでに動き始めていた.私は真っ直ぐにキャビンへと進んだ.そこで見た光景は,私にはショックだった.私は足を止めて,眺めた.港が陽に照らされて,私の前を横切っていった.忙しそうな町だった.街路は広く,人々は立派な服を着ており,近代的なビルが立ち並び,車が走り,青い海にはヨットが浮かんでいた.雪も,破滅も,護衛のための軍隊も,なかった.奇跡だった.夢を見ている気がした.夢に見た何かが現実になったような気がした.これが現実であって,その他のことは夢だったということが分かったときの激しい目覚めの感覚もまたショックだった.突然,最近まで過ごしていた生活は現実ではないかのような気がしてきた.それは,もはや信じられなかった.救われたような気がした.長くて暗く冷たいトンネルから太陽の輝くところへと急に抜け出たような感じだった.起こったことを忘れたかった.少女のことも,私が従事していた無意味な,欲求不満の追跡も忘れたかった.ただ未来のみを見つめていたかった.

 しばらくして熱が去っても,私の感情は変わらなかった.過去から逃げ出すことができたことをありがたいと思いながら,インドリを探しに行こうと思った.熱帯地方の島は私の故郷だった.キツネザルは私のライフワークだった.私は残りの生活をキツネザルの調査に捧げようと思った.それらの歴史を記し,それらの奇妙な歌を録音しようと思った.私の知る限り,誰もそれに成功していなかった.それは,私には充実感のある仕事であり,やりがいのある仕事であるように思われた.

 船上の店で,大きなノートブックとボールペンの束を購入した.私はすでに仕事のプランを持っていた.しかし,それに集中することはできなかった.結局,私は過去から逃げ出してはいなかった.私の思いは,過去の少女へと彷徨って行った.彼女を忘れようと願ったとは信じられなかった.忘れようと思ったことは,途方もなくあり得ないことだった.同時に,私はインドリを見つけにも行きたかったので,対立する思いが,心の中で葛藤していた.彼女の姿が,私がインドリに行くのを妨害して,私を抱きしめて放さなかった.

 私は彼女のことを考えるのをやめて,無垢で穏和な奇妙な歌を歌う生きものについて考えようと努力した.しかし,彼女への思いが私の心を離れなかった.彼女の顔がしばしば頭に浮かんだ.彼女の長いまつげの瞬き,おずおずとした魅惑的な微笑み,表情の変化,傷ついた表情,恐怖と涙へと変わる急激な変化,これらは,私が想像上で産み出したものだった.強い誘惑が私に警告していた.執行人の振り下ろされた黒い腕.彼女の手首をつかんでいる私の手.私は夢が現実になることを恐れた.生贄と恐怖を必要としているところに何かがあった.彼女は私の夢を堕落させ,行きたいとは思っても見なかった暗い場所に私を連れて行った.私たちのどちらが犠牲者なのか,もはや私には分からなかった.多分,私たちはどちらも互いに犠牲者なのだった.

 私は,以前の状態に戻ってしまったことを思うと,絶望的になった.私はデッキの上をうろついて,起こったことを考えた.総督は無事に逃亡したのだろうか.彼女は彼と一緒にいるのだろうか.船の上ではニュースは聞けなかった.私は待つしかなかった.不安と苛立ちの中で.下船して情報を得ることのできる港に着くまで,待つしかなかった.とうとうその日がやって来た.乗務員が私のスーツをプレスしてくれ,赤いカーネーションの飾り花をつけて持ってきてくれた.花の濃い色が薄い灰色の服の素材によく似合っていた.

 丁度,キャビンを出ようとしていたとき,ドアを激しくノックする音が聞こえた.地味な服装をした警官が,私の返事を待つことなく入ってきた.彼は帽子も脱がずに,上着を開き,警察バッジを見せた.脇の下にはピストルを携帯していた.私はパスポートを手渡した.彼は軽蔑した表情で,パスポートをぱらぱらとめくり,尊大な態度で私を上から下まで見渡し,赤いカーネーションを非難の眼差しで見つめた.彼は来る前から私に悪い印象を持っていて,私の外観すべてがそれを確証させたらしかった.何のために尋問しているのか,聞いたがが,彼は答えずに,軽蔑的した態度で沈黙していた.私は二度と聞こうとしなかった.彼は手錠を持ち出して,私の前でぶらぶらさせた.私は何も言わなかった.彼は手錠を弄ぶのに飽きると,それを脇の置いたので,わたしの国への配慮から,それは用いられないだろうことが分かった.私は彼と一緒に下船することを許された.私は彼に逆らわないほうが良かった.

 太陽が輝き,誰もが下船していた.群衆の中で,警察官が私にぴったりくっついていた.私は気にしなかった.なにかが起こったのだ.私を取り調べることが必要なのだと思った.どのような質問が訊ねられるのかは分からなかった.また,彼らがどのようにして私の名前を調べたのかも分からなかった.制服を身につけた警官が,埠頭から離れた道の片側でわれわれを待っていた.彼らは私に,窓が黒ガラスの武装した車に乗るように命令した.少し行くと,四角い広場の大きな地方自治体の建物の前で止まった.鳥が鳴いていた.会場の生活の後だったので,鳥の鳴き声が新鮮だった.

 通行人が少しいたが,私たちを気にとめなかった.ただ,2,3ヤードはなれた片隅に立っていた少女が,少しばかり興味を持って,私の方をちらちらと見ていた.彼女は春の花を売っていたのだった.キズイセン,小さなアイリス,野生のチューリップなどを売っていたが,その中に混じって,私のつけているのと同じようなカーネーションの束があった.警官の一人が腕で私を抱えるようにして,建物の中へと連れて行き,私たちは長い階段を下りていった.
 「前進しろ」
 私の肘を強く掴んでいた手が私を押して進ませた.
 両開きのドアが開き,ホールの中へと入って行くと,劇場でのように人々は列をなして座っていた.裁判官が彼らに向かって席についた.
 「中に入れ」
 多くの人々の手が,私を引っ張り,押して,席に着かせた.
 「止まって」
 彼らは手早く右に左に足踏みした.私は辺りを見回した.周りの状況から自分だけ取り残されているように感じた.天井は高く,窓は閉じられ,陽光は入らず,鳥の鳴き声も聞こえなかった.私の両側に立っている人は銃を持っていて,どこでも主役を演じる顔をしていた.人々はささやき,つばを呑み込んだ.陪審員は疲れているように,あるいはうんざりしているように見えた.誰かが私の名前と住所を読み上げたが,全て正しかった.私はそれらを認め,宣誓した.

 事件は少女の失踪だった.誘拐か殺人の可能性があるとのことだった.少女を知っている人が疑われ,尋問された.少女を知っていて,ここにいない人は訴えられた.少女の名前が告げられ,少女を知っているかどうか訊ねられた.彼女を数年前から知っていたと答えた.
 「あなたは彼女と親しかったですか?」
 「私たちは古くからの友達でした」
 笑い声が起こり,誰かが尋ねた.
 「彼女とあなたの関係はどんなでしたか」
 「古くからの友達だと言ったでしょう」
 さらに笑い声が起こり,係りの人が静かにするよう注意した.
 「あなたがしていたことを何もかも中断して,外国までも彼女を追いかけていったのに,急にその計画をあなたは変更したという.われわれが信じるとでも思っているのですか?」
 彼らは私について何でも知っているようであった.私は言った.
 「でも,本当なんです」

 私は,ベッドに座って煙草を吸いながら,髪を櫛ですいている彼女の顔を,鏡の中に見ていた.青白く輝く髪が,肩の上に垂れ下がっていた.彼女は前かがみになり,自分の姿を見ていた.鏡にはふくらみ始めたばかりの小さな胸が映っていた.彼女が呼吸するたびにふくらみは動いた.立って行って,彼女の背後に回り,腕を彼女の前に回し,胸を手で被った.彼女は私から身を引き離そうとした.彼女の怯えた表情を見たくなかったので,彼女の顔に煙草の煙を吹きつけた.彼女は抵抗し続け,私は陽のついた煙草であることをしたいという衝動に駆られたが,煙草を床に捨て,脚で踏み消した.それから彼女を私の方に引き寄せた.彼女はもがいて,叫んだ.
 「触らないで.私を放っておいて.あなたなんか嫌い.残酷で不誠実な人.人々を裏切り,約束を破り...」
 私は我慢ならなかった.彼女を放し,ドアに鍵をかけようと,そちらに行った.私がドアに辿り着く前に,何かの音がしたので振り返った.彼女はオーデコロンの瓶を頭上に持ち上げて,私に殴りかかろうとしていた.私は瓶を下に置くように言った.彼女は聞き入れなかったので,私は戻って,彼女の手から瓶を取り上げた.彼女は抵抗するには力がなすぎた.彼女は子供よりも力がなかった.

 彼女が衣服を着ている間,私はベッドに座っていた.互いに口をきかなかった.彼女はコートを着て,外出の用意ができた.突然,ドアが開いた.いらだっていて,私はドアに鍵をかけるのを忘れたのだった.男が入ってきた.私は彼を放り出そうとして,飛び掛った.しかし,私がいいないか,見えないかのように,彼は私を無視して,通り過ぎた.

 その男は,長身の,スポーツマンのような,傲慢な態度をした,自信満々の態度をしていた.彼の瞳は,ブルーで,異常に明るく輝いていたが,そこには危険な徴候が見られた.彼は私を見ていなかった.少女は,彼をみると茫然自失して、何もすることが出来なかった.私もまた何も出来ずに,ただ眺めているだけだった.それは全く私らしくなかった.彼は連発銃を携えて,ある目的を持って,入ってきたのだった.そして,誰も彼の行為を止めることはできなかった.彼は私たちを撃つつもりなのか訝った.もしそうならば,どちらを先に撃つのだろうか.あるいは,どちらか一人だけを撃つのだろうか.そういった思いが私の頭をよぎった.

 彼は彼女を自分の所有物と考えているのは確かだった.私は彼女は私に属していると考えていた.われわれ二人の間では,彼女は独立した存在でもなかった.彼女の唯一の意味は,我々のどちらに属しているかということだった.彼の顔つきは,いつも私を受け付けない極端にまで傲慢な表情を表していた.突然,私は彼に一種の血を分けたような名状しがたい親しみを感じた. 私は混乱して,われわれは二人なのかどうかさえ,分からなくなるほどだった.

 私は尋問された.
 「あなたがあなたの友達に会ったとき,何が起こったのですか」
 「私は会わなかったのです」
 そのときまで押さえつけていた感情が爆発した.役人が静粛を求めた.発声法を学んだ俳優のような声で言った.
 「証人は精神異常者だということを言いたい.だから,彼の言うことは信用できない」
 誰かが遮った.
 「精神科医に診断してもらおう」
 芝居がかった声が続けた.
 「私は繰り返して言う.次のことを強調しておきたい.この男は精神異常者として知られている.だから,信用できない.われわれは,無垢で純粋な若い少女に対する残虐な犯罪を捜査している.私はあなた達に彼の不自然な無関心さ,無表情に注意するようお願いする.この場でボタン穴に花を飾っているとは,何たる皮肉か! 神聖な家族生活や品のいい感情に対して,彼はなんと傲慢で軽蔑的な喋り方をしていることか! 彼の態度は異常なだけではなくて,我々が神聖とみなすすべてのものに対する堕落した恥ずべき冒涜なのだ...」

 部屋の上の方のどこかで,私は見ることはできなかったが,ベルが鳴った.傲慢で冷静な声が叫んだ.
 「精神異常者の証言は信用できない」
 私は連行され,17時間独房に入れられた.朝早くに,私は釈放された.釈明はなかった.その間に,船は,私の荷物を乗せたまま出港してしまっていた.私は着の身着のままで立ち往生した.幸運にも,パスポートも財布も取り上げられなかった.財布には十分なお金が入っていた.
(第7章続き)

アンナ・カヴァン『氷』改訳10

2006-11-01 12:53:50 | Weblog
                        第6章(承前)

 男は乱暴に彼女を掴んだ.
 「ドアの外にあるものを早く着なさい.直ちにここを出よう」
 彼の声は低かったが命令的だった.
 「出る?」彼女は彼を見つめた.
 彼が暗闇の中でさらに暗い影のように見えた.彼女の冷たい唇はつぶやいていた.
 「なぜ?」
 「黙って.言う通りにしなさい」
 従順に彼女は立ち上がった.ドアからの隙間風のために彼女は震えていた.
 「暗闇の中でどうして見つけたらいいの? 明かりはないの?」
 「いいや,見つけられる」
 彼は直ぐに松明に火をつけた.
 彼女はくしを取り上げ,髪をとかし始めた.彼はくしをひったくり,言った.
 「それはいい.コートを着て.急いで!」
 彼が我慢のならない苛立ちを撒き散らしたので,彼女の動作は余計に緩慢に,臆病になった.暗闇の中を探して,彼女はコートを見つけたが,そこへどうして行ったらよいかわからなかった.とりにくい場所においてあった.彼は怒ってそれを引っ掴み,彼女の腕を袖に通させた.
 「来なさい! 音を立てないで.誰もわれわれが去るのを知らない」
 「どこへ行くの?こんな夜になぜ出発しなければならないの?」
 彼女は答えを期待していなかった.彼がささやいたことを正確に聞き取ったかどうかさえ確信がなかった.
 「この機会しかない」
 氷が近づいていることについて,彼はさらに何かを言った.
 彼は彼女の腕を掴み,踊り場を横切って階段のところへ行った.松明の光が断続的に暗い坂を照らし,彼の陰鬱で抑圧された表情が浮かび上がった.彼女は夢遊病者のように後に従った.彼らはいろんな道を通って,雪で覆われた厳寒の夜の中へと出て行った.

 雪は激しく降っていた.黒い車の中には誰もいなかった.それは全くの空っぽだった.誰もここを通らなかったし,人の姿は見えなかった.彼女は震えながら車に乗り込み,黙って座った.その間に,彼は素早くタイヤの鎖を調べた.窓の前方の真っ白い雪の中に長方形をした黄色い染みがついていた.ライトの光が通り過ぎるたびに大気中の雪が黄金のシャワーに変わった.居間のホールから混乱した声や食器の触れあう音がしていて,車が出発するときの音が掻き消された.彼女は尋ねた.
 「あなたを待っている人たちはどうするの?あなたはあの人たちに会わないつもりなの?」

 すでに,苛立ちの頂点に達していたので,彼はその質問に怒りを爆発させて,ハンドルから手を上げて,彼女を打つようなしぐさをした.
 「喋るなと言ったのが分からないのか!」彼の威嚇するような声で言った.
 彼の眼は車の暗闇の中で光った.彼女は打たれるのを避けようとして素早く体を動かしたが,彼の手の届かないところまで動くことが出来なかったので,うずくまり,手を上げて身を守った.しかし,彼の一撃は音もなく彼女の肩を捉え,彼女をドアに押付けた.彼女は黙って縮こまっていた.しばらくすると,彼の怒りは静まっていった.

 外では雪がすべての音を消していた.車の中も静寂だった.彼はライトもつけずに運転し,眼は猫の目のように,暗闇の雪の中を見通していた.眼に見えない,沈黙した,幽霊のような車が,破滅した町から脱出したのだった.雪に覆われた古代の要塞が通り過ぎ,雪の中に消えていった.壊れた壁も背後に消えていった.前方の森が暗い壁のようにぼんやりと現れた.幽霊のように白い雪山の山頂は,砕ける波の頂上から吹き出る霧のようなもので覆われていた.彼女は黒いもみの木が倒れるのを期待したが,それは起こらなかった.外では,雪と森の静寂が広がっているばかりだった.車の中では,彼は沈黙しており,彼女は不安に怯えていた.彼は決して話しかけようとはせずに,彼女の方を見もしなかった.強力な車を,彼は,でこぼこの多い凍りついた道を乱暴に運転した.彼の意志の力でそうするかのように,全ての障害物の間を猛烈なスピードで突き進んでいった.車は激しく揺れ,彼女は投げ出された.彼女は席についているのは軽すぎたのだった.彼のところへ投げ出され,彼のコートを掴まなければならなかった.コートが燃えてでもいるかのようにビクッとして離した.彼は無視した.彼女は忘れられ,見捨てられたかのように感じていた.

 この異常な突進するような運転を彼女は理解できなかった.森は永遠に続くかと思われた.沈黙もまた続いた.雪は止んでいたが,寒さは相変わらずだったが,黒い木々から滴り落ちる氷が地面で凍りついたかのように,寒さは増してさえいた.何時間も車は走り続けた後で,やっと日の光が木々の枝の間からかすかに洩れてきた.その間,陰鬱なもみの木が密集している以外何もなかった.それらは枯れていたが,生きている木々は互いに絡まっていて,鳥が枝に捕らえられたようにして死んでいた.彼女は身震いした.彼女は死んでいる鳥を犠牲者としての自分自身の姿であるかのように感じた.黒い枝の網に捕らえられたのは彼女だった.木の枝が軍隊のようにあらゆる方角から彼女を取り囲み,彼女の方へ近づいてきた.雪が再び窓の前を通り過ぎるようになり,白旗が振られているかのようだった.彼女はずいぶん昔に降伏した一人だった.彼女は自分に起こったことを何も理解できなかった.車は空中に跳ね上がり,彼女は投げ出され,負傷している方の肩をドアにぶつけた.反対側の手で支えようとしたが無理だった.

 男は日中ずうっと猛々しく車を運転し続けた.彼女にとって,薄明かりの中でのそれは恐怖以外の何者でもなかった.静寂と寒さと雪があるばかりだった.それに彼女の隣には横柄な男がいた.彼の眼は,ヘルメスのように魅力的ではあるが,氷のように冷たく威嚇的だった.彼女は彼を憎悪しようとしたが,それは簡単だった.木々が少しずつまばらになっていったので,やがて,空が現れ,日没寸前の薄日が見えた.突然,2つの丸太小屋が見え,その間の門があり,道を遮っていた.門が開けられなければ,彼らは通り過ぎることが出来なかった.紋は有刺鉄線と金属板で補強されていた.車はとてつもない勢いで門を引きちぎらんばかりにぶつかっていって,狂ったような金属性の音を立てた.窓ガラスが壊れ,彼女に降りかかってきた.彼女はとっさに首をすくめた.と同時に,先のとがった銀色をした長い棒が頭上を掠めた.車は激しく揺れ,転覆した.しかし,技術によってか,力によってか,まったくの意志の力によってかわからないが,奇跡的に,ドライバーは車を元に戻し,何事もなかったように,運転し続けた.

 叫び声が彼らの背後で聞こえた.2,3発の銃のはじけるような音がしたが,当たらなかったし,届きもしなかった.彼女は振り返ると制服を着た人たちが追いかけてきていた.そのうち,追いかけてこなくなった.道路は国境の付近に来ると良くなってきたので,車はさらにスピードがでて,走りやすくなった.彼女は座っている場所をずらして,壊れた窓から流れ込んでくる霧状の雪を避け,膝の上のガラスの破片を払った.手首からは血が流れていて,両手もまた切れていて,血が出ていた.他人の手を見ているかのように,驚いて見つめていた.

 私は階段を下りて行き,通路を進んでいった.正門が見えると,陰に隠れて,守衛している人を観察した.パーティーはさらに盛り上がっていて,居間のホールでは,酒を飲み,歌を歌っていた.寒い通路のところで,誰かが外に出てきて守衛と大声で話をしていた.男たちは頭を寄せ合って話をしていたと思うと,持ち場を離れて,私のそばを通過し,他の人々のところへ行った.誰も見ていなかったので,私は,本来なら守衛がいるはずの門から外へ出た.

 雪は激しく降っていた.私は最も近くの瓦礫でさえ識別できなかった.それは,降り続く雪の彼方に見える静止した白い影にすぎなかった.窓からの光の周りで,雪片がハチの群れのように黄色に変わった.私の前には一面雪景色だった.総督の黒い車の跡が黒い穴を開いているかのように見えた.いろんなところが白くこんもりとしていたが,それは家来の車だということが分かった.それらは雪に深く埋もれていた.最初に見つけた車のドアを開いてみたら,鍵がかかっていなかった.車は屋根まで雪に覆われていて,車輪やフロントガラスに雪が積もっていた.ドアを開けたとき,雪が私に降りかかってきて,私の袖は,窓ガラスを拭いたかのように,雪で一杯になった.スターターはうまく働かないだろうと思ったが,とにかく,車はゆっくりとではあるが前進し始めた.車輪を制御するのに十分なだけエンジンは回復した.ほとんど見えなくなった総督の車の跡を追った.しかし,その跡は新しい雪によってすぐに消され,壁の外では,跡は消えていた.私は森の入口のところで彼らを見失った.私はやみくもに木々の中を,木の皮をこすり落としながら,車を駆った. しばらくすると,車は止まり,動かなくなった.車輪がスピンして,雪を虚しく蹴散らしていた.外に出ると,枝の上の雪の塊が落ちてきて,衣服は雪に覆われて固まってしまった.私はモミの木の枝を折って,車輪の下に入れて,車に戻り,再スタートさせた.しかし,無駄だった.タイヤは空転し,タイヤはスピンし,シューという音を立てた.私は片側によって,ブレーキを引いて,雪の吹溜りの中へと真っ直ぐにジャンプした.私は雪の中に肩の下まで埋まった.私が動くたびに雪は崩れてきて,首のところからシャツの中へと入ってきて,臍の辺りまで入ってきた.雪から脱出しようともがいたが,体力を消耗するばかりだった.出来るだけ体力を消耗しないようにしながら,さらに多くの枝を取ってきて,それらを車の下に敷いた.うまく行かないだろうし,諦めなければならないのは,分かっていた.天候が全く悪かった.どうにかこうにかして,私は何とか車を動かし,街へ戻った.この悪天候ではそれが唯一可能なことだった.

 壁の処へ戻ってきた時,車はまたスリップし始め,コントロールを失った.突然,前の車輪がクレータの端に崩れ落ちるのが見えた.次の瞬間,私はクレータの上にいた.眼の前に穴が見えた.足でブレーキをかけた.車は右回りにスピンし,完全な円を描いていた.私は外へジャンプすると,車はゆっくりと,雪の下へと消えていった.

 私は凍え,疲労困憊し,震えが止まらず,ほとんど歩くことさえできなかった.しかし幸運にも,私の宿泊先はさほど遠くはなかった.滑りながら,よろけながら,何とか宿泊先に辿り着いた.凍った雪を払いもせず,歯をがちがち鳴らしながら,ストーブの前にうずくまった.震えがあまりにも激しく,コートを脱ぐことさえができなかったので,無理やり引き剥がして下へ置いた.同様に,凍りついた衣服を,非常な努力の後に,なんとか全部脱ぎ,ガウンに身を包んだ.それから,私は海外からの電報が来ていたので,封を破って開けた.

 情報提供者は,2,3日以内に危機がやってくると報告していた.空と海の交通機関は運行を止めていた.しかし,午前中に私をヘリコプターで連れ出してくれる手筈になっていた.理由がよく分からない電報を手にして,私はベッドに入って,毛布に包まって震えていた.総督は朝早くにニュースを受け取っていたに違いなかった.彼は自分自身だけを救い,部下たちを運命に委ねたのだった.もちろん,そのような行為は非難されるべきであり,醜い行為であった.しかし,私は彼を非難しなかった.私が彼の立場にいたとしても,彼とは異なった行為をとるだろうとは思えなかった.彼は,たとえ残ったとしても,国のために何もできなかったであろう.彼が危機的状況を国民に明らかにしても,パニックが起こるだけだったろう.道は渋滞し,誰も逃げられなくなっただろう.いずれにしろ,私の経験から判断すると,彼が国境に到着する可能性は非常に少なかった.
(第6章終り)


アンナ・カヴァン『氷』改訳9

2006-10-31 15:14:30 | Weblog
                       第6章

 家の持主は,私が部屋の前を通り過ぎる音を聞いて,ドアを開けて,私を見てしかめ面をした.私は彼女に気づかないふりをして,玄関へ急いだ.玄関のドアは開かなかった.何か障害物にぶつかっているらしかった.力を込めて押すと,雪の塊が飛び散って開いた.凍えるような風が吹いてきて,背後で何かがガラガラという音を立てた.
 「気をつけて!」怒りの声が聞こえてきたが,私は無視した.

 外では,降り続ける雪の多さに辟易した.旧い町は,白い幽霊のような姿に変っていた.か弱い光が当りを照らし出していた.破滅した町の姿が厚い雪に覆われ,崩壊した建物の輪郭がぼやかされていた.何もかもの輪郭が覆われ,ぼんやりとしていた.大雪の影響のため,正確な位置が分からなくなっていた.私が抱いている旧い町の印象はそこにはなく,情景はナイロンに覆われたように半透明で,その背後には何もないかのようだった.最初は,少量の雪が空中に舞っている程度だったが,しばらくすると,吹雪が吹き始めた.雪はほとんど地面と並行に降っていた.凍えるような向かい風が吹き始めたので,頭を低くして歩いた.乾いて凍りついた雪が足元で渦巻いていた.にわかに雪が激しく降り始め,大量の雪が大気中を舞い始めた.私はどこにいるのか分からなかくなった.時々当りを見回したが,馴染みのあるところにいるようでいて,全体の光景が歪んで見えた.それは現実のものとは思えなかった.私は混乱した.外部世界が現実に見えないのは,私自身の心の状態が歪んでいるからに違いなかった.

 努力して考えようとした.少女が危険な状態にいること,またそのことを知らせなければならいことを思い出した.カフェを探すことを諦めて,真っ直ぐに総督のところへ行こうと決心した.要塞のように大きな建物が町の上方に姿を現していた.

 町の中心の広場を除いて,日の暮れた街には人通りがなかったにもかかわらず,多くの人々が険しい丘を登って行くのを見て,驚いた.ハイハウスでディナー・パーティーか祝賀会が催されるというのを聞いたことがあるのを思い出した.それが丁度今夜のはずだった.人々の集団に続きながら,もう数歩で入り口というところまで来ると,砲列と思しきものがあったので嬉しかった.それらがいなければ,ここが私が来るべきところかどうか確信がもてなかっただろう.というのも,雪が当りの風景を全く変えてしまっていたから.両側に1つずつの2つの雪に覆われた小山があって,それが砲列だった.その他にも雪に覆われた小山があったが,それらが何かは分からなかった.剣のように鋭く先の尖ったツララの束が大きな正門の上にあるカンテラから垂れ下がっていて,薄暗いところで,猛々しく閃いていた.私の前を歩く人々は入場が認められたので,私は前進し,彼らと一緒に中に入っていった.私は一人だったけれども,守衛達は私を中に入れてくれそうだった.これが簡単に中に入る方法だった.

 誰も私にほとんど注意していなかった.私は入場の許可が与えられる必要があったが,誰もが私を無視した.見知った顔の人が近づいてきて通り過ぎて行ったが,私に一瞥もくれなかった.うす暗い広場はすでに群集で一杯だった.私が一緒にやってきた人々が最後の集団だった.これは祝賀会だったけれども,奇妙なほど静かだった.全ての顔がいつものように陰鬱だった.笑い声はもちろん,話し声すらほとんど聞こえなかった.おしゃべりがあったとしても,あまりに低すぎて,話の内容は聞き取れなかった.

 回りを気にするのをやめて,少女に近づく方法を考えた.以前に,総督は私を部屋の入口まで連れて行ってくれたが,案内人なしでは,その道を見つけることができなかった.誰かが助けてくれなければ,私はそこへ辿り着くことが出来なかった.しかし,誰に助けを求めれば良いのか分からなかったので,部屋から部屋へと歩き回った.すると,巨大な丸天井の部屋に出た.そこには架台式テーブルが設けてあって,その上には水入れとワインとお酒のボトルが,肉とパンの乗った大皿の間に等間隔で置かれていた.人に見つからないように,隅の暗がりに立って,召使が食事を乗せた皿を持ってきて,テーブルの上に配置するのを観察した.ほとんど熱病に罹ったように,少女のことを心配しているにもかかわらず,彼女を見つけようとしないで,何もしないでそこに立ち続けていた.考えが支離滅裂になっていた.

 数百のたいまつが燃え上がり,巨大な部屋を照らし出していた.勝利を祝うための宴会が準備されていた.私は,捕虜達を見るために,召使達に伴われて真っ先に移動した.それは指揮官の伝統的な特権だった.女性たちは柵の後ろに集められていた.彼らはすでにわれわれからできる限り遠くに集められていたが,われわれがやってくるのを見ると,さらに後退し,壁にぶつかった.彼らは私に対して攻撃してこなかった.私は彼らに語りかけなかった.苦しみのために,彼らは皆同じ表情をしていた.広場のほかの所では,大きな音が起こっていたが,ここは静寂だった.嘆願する声も罵りの声も悲嘆の叫びもなかった.捕虜たちは唯黙って見つめていた.揺らめく赤い松明の火が,裸の手足や胸を照らしていた.

 松明はロケットの束のように,アーチ型の屋根を支えている柱に固定されていた.若い少女が少し離れたところで柱にもたれて立っていた.輝く髪以外には何も身につけなかった.彼女の白い顔には,死にたいという願望が表れていた.彼女は子供のようにほとんど動かなかったし,私たちの方も見ていなかった.彼女の眼は夢の中を彷徨っているかのようだった.皮を剥かれた魔法の杖のような腕,銀色の流れる髪...雲間から姿を覗かせている新月のようだった.私はここに留まって,彼女を見つめていたいと思った.しかし,彼らは私を前面の舞台へと導いた.

 彼の座っている椅子は華麗な黄金の椅子で,英雄たちとその子孫が活躍している姿と彼らの顔が彫刻されていた.彼の壮麗な外套はクロテンの毛皮で縁取られ,金で刺繍がしてあった.彼は彫刻のようにしっかりと足を組んでいたが,外套は膝まで覆っていた.火花が松明からこぼれ,彼の長く,細い,落ち着きのなく動く,冷たく白い手が火照っていた.彼のブルーの眼から発せられるひらめきは,彼の腕を飾っている巨大なブルーの宝石が発するひらめきと呼応していた.私はこの宝石が何という名前なのか知らなかった.彼の手も彼の眼も今は動かなかった.ブルーのひらめきだけが一定の方向を攻撃するように光り輝いていた.彼は私を他の場所へ行かせなかった.私を彼の脇に立たせたままだった.私は軍隊の勝利を導いたので,私は彼から輝く勲章を贈られたけれども,私はそれを欲しくはなかった.私はすでにも多くの勲章をもらいすぎていた.私は彼に言った,ただ少女を欲しいだけなのだ,と.喘ぎ声が辺りから起こった.彼の周りの人々は私が殴り倒されるのを固唾を呑んで待った.私は無関心だった.私は人生の半ばを生きてきた.欲しいものはほとんど経験してきた.私は戦争が嫌になっていた.戦争と殺戮以外にはなにも好まない,この気難しく,危険な主人に仕えるのが嫌になっていた.彼の戦争の行為には,一種の狂気が伴っていた.征服するだけでは満足しなかった.彼は壊滅し尽くす戦争を欲した.全ての敵は例外なしに虐殺された.誰も生き残る者はいなかった.彼は私を殺したかった.しかし,彼は戦争なしに生きることができなかったにもかかわらず,戦略を立てることができなかったし,町を占領することもできなかった.私がそれをしたのだった.だから,彼は私を殺すことが出来なかった.彼は私の戦術を必要とし,同時に,私が死ぬことを欲した.彼は恐ろしい表情で私を睨み,私を傍に立たせ続けた.しかし,同時に,彼の回りにいる人々を近くへと呼び寄せた.彼の周りに人の輪ができたが,私の立っているところだけ,輪が壊れていた.小男がすべり寄って来て,私の腕の下をくぐりぬけ,今にも噛みつかんばかりの猛々しい犬のように,長鼻の顔を上げて,主人の前で縮こまり,私に向かって,うなり声を上げた.今や輪は閉じられた.しかし,私はまだ,きらめくブルーの指輪を見ることができた.神経質な手振りや,彼の長く細い白い指や,長く鋭い爪を見ることができた.指は,絞め殺された人の指のように,奇妙な形をして内側に曲げられていた.ブルーの石は曲がった指の骨に固定されていた.彼は何か命令を発した.それはあまりにも低い声だったので聞くことはできなかった.最初は,彼は私の戦術能力と勇気を異常なほどほめたたえて,立派な報奨を約束してくれていた.私は名誉ある彼の客人だった.私は彼をよく知っていたので,どのような褒章を私にくれることになっていたのか容易に想像することができた.私はすでにそのための準備をしていた.

 6人の護衛兵が軍人の外套に包まれた彼女を彼のところへ連れてきた.この男達は傷をつけないで,きつく掴む方法を習っていた.私はそれを知らなかったし,それがどのような仕方でなされのか分からなかった.一瞬,彼の動きが止まった.衆目の中で寛大さが示されたのではないか,と思った.その可能性がないわけではなかった.

 その時,私は彼の手が彼女の方へ伸びるのを見た.肉食獣のような曲がった指と宝石の輝く青色が見えた.大きなリングを髪から乱暴に引き剥がした時,彼女は息の詰まったような小さな叫びを上げた.私が彼女の声を聞いたのはそのときが初めてだった.彼女の手首と踝につけられたリングがかすかに音を立てて,彼女は彼の膝の上に激しく倒れた.私は動かなかった.無表情に眺めていた.冷酷な,厳しい,狂気の,殺人者のような男.彼女の若々しく柔らかい体と夢見るような眼...哀れな悲しげな...姿.

 私は,長テーブルの周りで忙しく立ち働いている召使の一人に近づこうとした.私はおずおずした表情をした農家の女の子で,最も若くて,のろくて不器用で,明らかに新人と分かる子を探した.彼女は虐げられて,怯えていた.他の人々が彼女を苛めていて,彼女は打たれ,あざけりを受け,間抜けと怒鳴られていた.彼女は涙を流し,間違いをおかし続け,何度もものを落とすのを,私は見た.彼女は身構えていた.私は彼女が通らなければならない戸口にたって待った,彼女を掴むや,口を手でふさいで,隅の方に引っ張って行った.幸運にも,通りかかる人は誰もいなかった.私は彼女に危害を加える気はないこと,彼女の助けが欲しいことを伝えたが,彼女は恐怖の表情を浮かべて私を見つめているだけだった.彼女の赤い眼は涙であふれ,震えていて,あまりにも愚鈍なため,私の話しを理解しないのではないかと恐れた.直ぐにでも人々が彼女を探しにやってくるので,時間がなかったが,彼女は口をきこうとしなかった.私は彼女にやさしく話しかけ,説得し,彼女の体を揺すった.彼女に札束を見せた.しかし,全く反応はなく,リアクションもなかった.さらにお金を増やして,彼女の顔の前に持っていって,言った.
「このお金で,あなたを苛める人たちから自由になれる.これでしばらくの間,働かなくてもよい」.
結局,彼女は事情を飲み込み,私を部屋に連れて行くことに同意した.

 われわれは出発したが,彼女の足はあまりにも遅く,躊躇していたので,彼女が本当に道を知っているのかどうか疑わしくなった.私はいらだち,彼女を殴りたくなって,自分を抑えるのに苦労した.彼女の足はあまりにも遅すぎた.総督に言いつけるぞ,と脅かした.もうパーティが始まっていたので不可能であっただろうが.夕方のパーティでは,最初の方には総督は出席したことがないということを聞いて,私は安心した.およそ2時間くらい経過して,食事と酒宴が終わった頃やってくるのが普通だった.とうとう,私は最後の急な階段のところへやって来た.彼女は頂上を指差すや,私が準備したお金をしっかり掴んで,やって来た道を駆け足で戻っていった.

 私は階段を登って行って,1つしかない扉を開けた.防音室は暗かったが,踊り場からのかすかな光が背後から部屋を照らしていた.少女がドレスを着てベッドに横たわっているのが見えた.傍らには1冊の本があった.少女は本を読みながら眠りに落ちたのだった.私は,彼女の名前をそっと呼んだ.彼女は,驚いて起き上がり,髪がきらめいた.
「誰?」声には恐怖が感じられた.
私は,背後からの鈍い光が顔に当たるように,体を動かした.彼女は直ちに私に気づいて,言った.
「ここに何しに来たの?」
私は言った.
「ここにいては危険です.あなたを連れ出しにきたのです」
「なぜあなたと一緒に行かなければならないの」
彼女は驚いていた.
「どうでもいいわ――」
そのとき,階段を昇ってくる足音が聞こえた.私は後戻りし,体が凍りつき,息を呑んだ.ドアの外からのかすかな光が消えた.私は暗闇の中で立っていた.彼女が私を追い出さない限り,私は見つかることはなかった.
(第6章続く)

アンナ・カヴァン『氷』改訳8

2006-10-30 12:11:12 | Weblog
                            第5章(承前)

 私は小屋の窓の所へ行って覗き込んだ.中から見られることを気にしなかった.大勢の人々が煙の充満した小さな部屋に集まっていた.彼らの顔は火の光に照らされて輝いていた.さながら,中世の地獄絵のようだった.その異様さに言葉を失った.彼らはぺちゃくちゃ喋っていた.その中に女性が一人いた.異常に長身で,近づき難いような美人だった.ハイハウスで見たことがあった.彼女は父と呼んでいる男性と一緒に座っていた.彼は私からそれほど遠くないとこりにいたので,彼の声が聞こえた.彼はフィヨルドの伝説に関係した話をしているらしかった.毎年冬至になると,水中深くに生息しているドラゴンのために美しい少女を生贄として捧げなければならなかった.他の人々の声は徐々に低くなっていき,彼は儀式について説明し始めた.
 「彼女を岩の上に連れて行くとできるだけ早く彼女の縄をほどかなければならない.彼女は少しばかりもがくに違いない.そうしなければ,ドラゴンは私たちが死んだ少女を生贄に捧げたと思うかもしれない.水面が底の方から泡立ってくると,鱗に覆われた怪獣が大きく渦を巻きながら現れる.そのとき,彼女を投げ入れる.フィヨルド全体の水面が渦巻き,あらゆる方向に血と泡立ちが広がっていく」

 生贄についての議論が活発に続けられた.いろいろな人がかわるがわる発言した.それは,あたかもライバルのチームとのフットボールの試合について話をしているかのように活気に満ちていた.誰かが言った.
 「われわれはそれほど多くの美少女を持っているわけではない.なのになぜ,その中の一人をドラゴンに捧げなければならないのだ.なぜ,われわれと関係のない外国の少女を生贄にしないのだ」
 声の調子で,話し手が,特定の女性を名指しているのが分かった.その名前は全ての人が知っていた.父親は反対意見を述べ始めた.娘に同意を求めたが,娘は黙ったままだった.彼は悪意のある非難を言い始めた.私はそのうちの一部しか聞くことができなかった.
 「ガラスでできているような青白い少女....粉々に砕け....私は粉々にするだろう」.大声で締めくくった.
 「私は彼女を岩の上から自分で投げ落とそう.誰もそれをしないのならば」

 私は嫌な気持ちになってその場を去った.人々は野蛮というよりは残酷だった.私は手と顔の感覚が鈍くなるほど,凍えていた.私はなぜこんなくだらない無駄話を聞くために立ち止まっていたのか,自分でも訳が分からなかった.どこか悪いのではないかと漠然感じた.それが何なのかは分からなかったけれども.しかし,その思いは一瞬心を乱しただけで,直ぐ忘れてしまった.小さな月が,空高くで,冷たいが明るく輝いていて,風景全体を照らし出していた.フィヨルドが見えたが,景色は見えなかった.高く垂直に聳える岩が,水面から真っ直ぐに伸びていて,水泳の高飛び台のような水平な岩を支えていた.岩の間を手が縛られた少女を引っ張りながら,人々が現れた.彼女が私の傍を通り過ぎるとき,彼女の哀れな表情が見えた.彼女は恐ろしさで子供のようにおびえていた.彼女に近づいて,縄を解いてやろうと思い,前に出て行った.誰かが私の方へやって来た.私は彼を突き飛ばし,彼女に近づこうとしたが,彼女は引っ張られて行ってしまった.私は人々の中へと突進し,大声で叫んだ.
 「人殺し」
 私が近づいた時には,彼らはすでに彼女を岩の上に放り投げていた.

 私は,水平な岩の上の彼女に近づいて行った.そこでは私たちだけだった.私の背後でざわめきが聞こえていたので,多くの見物者がいることは分かっていた.しかし,彼らは私たちに関心を示さなかった.震えている姿を見つめた.岩の先端で,膝をつき,うつむくようにして,暗い水面を覗き込んでいた.彼女の髪は月光に照らされてダイヤモンド・ダストのように輝いていた.彼女は私を方を見てはいなかったけれども,私は彼女の顔を見ることができた.その顔はいつもは真っ青だったが,今は,骨の髄まで真っ青だった.彼女は極端にやせ細っていて,両方の手のひらで,彼女を抱きしめることができ,胸を隠せるほどだった.輝く月光のもとで,彼女の肌は白いサテンのように一面白く,陰の部分は全くなかった. 手首につけられた縛られていた跡が昼間では赤かったが,今では黒色に見えた.どのようにしたら彼女の手首を掴み,か弱い骨を折ることができるのかを想像した.

 私は身を乗り出して,彼女の冷たい肌,太もものくぼみに触った.雪が彼女の胸の窪みに降り注いでいた.

 武装した男達が上がってきて,私を後ろに押しのけ,彼女の壊れそうな肩を掴んだ.氷の小片かあるいはダイヤモンドのような大粒の涙が,彼女の眼からこぼれ落ちた.私は動かなかった.涙は現実のものとは思えなかった.彼女自身が現実とは思えなかった.彼女の肌は青白く,ほとんど透明だった.彼女は,私が夢の中で密かに楽しんでいる生贄だった.私の背後の人々は待たされるのに我慢できないという様子で,ぺちゃくちゃ騒いでいた.男達はもはや待たずに,彼女を海へ投げ込んだ.彼女の体は哀れな悲鳴を上げながら落ちて行った.紙袋が破裂するように,夜の闇が破裂した.大きな水しぶきが水面から噴出した.波が岩にぶつかり,飛沫が岩の上まで届いた.私はずぶぬれになり,凍えたが,気にせずに,岩の端から水面を覗き込んだ.鱗に覆われた姿が,静かな水面から,渦を巻いて現れ出た.白い姿が狂ったように一瞬もがいたが,鎧で武装したような硬い顎の中に呑み込まれていった.

 私は急いで自分の小屋に戻った.寒さのために,手足の感覚はなくなり,顔は強張り,頭痛が始まっていた.暖かい部屋の中で少しばかり感覚が元に戻ってくると,今見てきたことを書きとめた.もちろん主要な話題は,インドリであったが,町について興味のあることを書いている振りをしていた.護衛兵が私のノートをあえて読むとは思っていなかったが,私が外出している間に,そうしようと思えば容易にできたはずだった.キツネザルについての記事を,この地方の事件の記事と一緒にして書いていたので,少なくとも何にも好奇心を示す家の持主である女性を欺くことはできた.

 穏和で神秘的な歌を歌う生きものについて書けることに,私は非常な満足感を覚えていた.書き進めるに従って,理解が深まっていった.うっとりするような別世界の声と共に,その陽気で愛情あふれた無邪気な振舞は,私にとって,人間による破壊や暴力や残忍さに満ちている地球において,生命の象徴だった.私はたいして努力もしないで,心に浮かんでくるままに文章を書くことができていたので,楽しかった.私の頭の中で,文章自身が自分の意志で次の文章を作り出していたかのようだった.しかし,今では全く違っていた.私は適切な言葉を見出すことはできなかった.私は明確に表現することはできなかったし,正確に想像することもできなかった.数分後には,私はペンを置いた.そして直ぐに,煙に満ちた部屋に集まっていた人々の姿を想像した.そこで立ち聞きした内容を総督に知らせるべきだと思った.それと同時に,その場面は現実のものと思われなかった.夢を見ていたかのようだった.少女が危険な目にあったのだということを思い出しても,それが実際に起こったことだとは信じられなかった.それでも,私は立ち上がり,電話のところへ行った.電話をすると,一言一句をもらすまいと,女性が立ち聞きするのではないかという根拠のない疑いを抱いたために,結局,私は電話をかけるのをやめて,コーヒーを飲みにカフェに行くことにした.

 私は家を出ると,非現実的な感覚に私は圧倒された.白熱の強い光が,真昼のようにはっきりと全ての光景を照らし出された.眩くて私は何も見ることができないほどだった.しかし,驚いたことに,いつもは眼には見えないような細かなものが見えた.雪はかすかに降り続けていたが,雪片の模様までもがはっきりと見てとれた.それは優美な星のような,花のような,はっきりとした形をしていて,宝石のように輝いていた.私は辺りを見回し,いつも見ている崩壊した建物の姿を探した.しかしそこにはもはやなかった.見慣れた破滅の光景が失せて,今では,全くの別世界になっていた.どこにも破滅した町の痕跡は存在しなかった.建造物は解体され,全く平になっていた.あたかも,巨大な地ならし用のスチームローラーが当たり一面を押しつぶして平にしたかのようだった.ひとつふたつの垂直に立っている残骸が,意図的に残されていた.その残骸があるために,地面が平であることが余計にはっきりと分かるのだった.夢を見ているような気分で,私は歩き続けた.誰にも会わなかった.生者はもちろん,死体にも出会わなかった.大気には甘ったるい,不快なにおいに満ちていて,その臭いが手や衣類にまといついた.なにかガスらしきもの臭いに思われた.火が見られないので不思議だった.燃えているものは何もなく,煙も見られなかった.白いミルクのような液体が瓦礫の間をかすかに流れていて,ここかしこに水溜りのようなものを作っていた.この白い液体の溜まりは,触れるものは全て飲み込みながら,周辺を侵食していくように,広がり続けていた.液体が流れ出てからどのくらいたっているのかわからなかったけれど,透明になっていくのに魅せられて,私はしばらくの間,そこに立ち続けていた.

 私は少女を捜さなければならないのを思い出した.私は,絶望的になりながらも,果てしない瓦礫の間を探し続けた.私ははるか彼方に彼女の姿が見えた気がした.叫び声を上げながら走った.彼女は向きを変え,姿を消した.そして,蜃気楼のように,彼女ははるか彼方に姿を現した.それからまた,彼女は姿を消した.残骸の堆積の上に,少女の腕は突き出ていた.私は手首を掴んでそっと引っ張った.腕は残骸から抜け出て,私の手の中に残った.突然,背後で声がした.人が動く気配を感じた.素早く振り向くと,さえずるような声を出して,生きものがすべるように動くのが見えた.全く奇妙な形をしており,人間のように見えるが,SF小説に出てくるミュータントのような姿をしていた.それらは私を気にかけないで,全く無視していた.私はそれらに近づかないようにして,急いで彼女の後を追った.

 私はあたりに死体が横たわっている場所にやって来た.わたしは立ち止まって,そこに彼女の体がないかどうか調べた.私はすぐ近くにある死体に近づき,注意深く調べた.しかし識別できなかった.骨と骨にくっついている残肉体はリン光を発していた.他の死体を調べることは時間の無駄だったので,私はその場を後にした.
(第5章終り)



アンナ・カヴァン『氷』改訳7

2006-10-29 09:49:56 | Weblog

                            第5章

 窓からは,空虚な風景が広がっていた.動くものは何もなかった.家はなかった.眼に入るのは崩れ落ちた壁の残骸や荒涼として広がる雪原やフィヨルドやもみの木の森や山だけだった.色彩に乏しく,闇から死のような極度な白い雪原へと移り変わる単調な灰色の光景が広がっていた.川は流れていず,死滅しているように静寂だった.いたるところで黒々として木々が並び,辺りを陰鬱にしていた.突然,動きがあった.音もなく灰色の単調な光景の中で,赤と青の服装をした人々が叫び声をあげた.私はオーバーコートを掴み,声の聞こえた方へと走っていき,ドアを目指した.しかし,急に考えが変わり,窓のところへ戻った.窓はしっかりと閉じられていた.私はそれを何とか持ち上げて,外の瓦礫の集積の上へと出た.それから窓を締めた.凍った草の上を滑りながら,私は坂を降りて行った.それが最も早い方法だった.また,私の動きをいつも監視しているらしい主婦の視線を避けたかったからでもあった.フィヨルドにそって巡っている狭い道には誰もいなかった.しかし,私が追っている人はそんなに遠くへ行っていないはずだった.道は森の中へと続いていた.森の中は寒く,暗かった.木々は密集して,頭上では枝が絡み合い,重なっていた.足元の方では根っこがもつれあっていた.20人ほどのの姿を見せない人々が私の傍にいる気配がした.もみの木々の間で灰色のコートを着た人たちが幽霊のように見え隠れした.時々,チェックの模様をしたリネンが一瞬見えた.その人は帽子を被っていなかった.彼女の明るい髪がちらちらと光った.それは森の中では鬼火が点滅しているように見えた,彼女は森から出ようと一生懸命走っていた.森全体が悪意を示しているように思われ,彼女はいらだっていた.密集した木々は彼女から逃げる気力を奪い,周りを暗い壁のように被い,彼女を閉じ込めた.もうずいぶん前に日は沈んでいた.彼女は遠くへ来すぎており,急いで戻らなければならなかったのだった.彼女はフィヨルドを探して当りを見回したが,見えなかった.彼女は方向が分からなくなっていた.突然,恐怖に襲われた.鬱蒼とした森の中の夜に捉えられ,怯えた.この地方は彼女にとって恐怖だった.彼女が親切さというものを経験していたならば,また違った気持ちになっていただろう.彼女は,木々が奸知に長けて彼女を妨害しているような気がした.彼女は自分の生活が,犠牲者として運命づけられていると思っていた.今や,森は敵意をむき出しにして彼女を破滅させようとしているかのようだった.絶望的になりながら,彼女は走ろうとしたが,草に隠れていた木の根っこにつまずき,倒れそうになった.髪が枝に絡みつき,彼女は背後に引っ張られた.髪がほどけると,枝は,反作用で勢いよく彼女にぶつかった.頭から抜けた銀色の髪の毛が針状葉の間できらめいた.それは彼女を追いかけている者の手がかりになるに違いなかった.彼女は何とか森から抜け出すことができ,フィヨルドが見えた.そこでは,禍々しい生き物が水面から立ち上がっていた.原始の,野蛮な,生贄を求めて,飢えた何ものかが立ち上がっていた.

 数秒の間,彼女は立ちすくんた.ぞっとするような沈黙とわびしさに彼女はとり囲まれていた.景色全体が,見たこともない獰猛な容貌を示していた.夜の帳に包まれつつあった.森の木々が,いたるところで野営している軍隊の一団のように見えた.山は壁となり,その上の木々は彼女を狙う銃だった.下の方では,フィヨルドが太陽から盗んできた火を噴出する,想像を絶する冷たい火山のようだった.

 黄昏が深まり,そこには,あらゆる種類の恐怖があった.彼女は恐怖であたりを見ることすらできなかった.水面からぼんやりとした姿が立ち上ってきた.気配を感じさせずに,それは,彼女の方に滑るように近づいてきた.彼女はパニックになって逃げ出したが,それは彼女に追いつき,やわらかく,冷たく湿ったねばねばした,心霊体のような半透明の帯のなかに彼女を包み込んだ.息のつまったような悲鳴をあげて,彼女は逃れようと暴れた.めくら滅法に,半狂乱になって,喘ぎながら走り続けた.彼女は悪夢に閉じ込められ,もはや考えることはできなかった.最後の明かりが消えて,見えない岩につまずき,膝や肘を傷つけた.棘が彼女の腕を引き裂き,顔を引っ掻いた.彼女は飛ぶように走ると,フィヨルドの端の薄い氷が割れて,彼女は凍れる水の中で溺れかけた.呼吸するたびに苦しく,鋭いナイフが胸を刺し続けるようだった.背後から迫ってくる大きな足音が恐ろしくて,彼女は一時も止まろうとも,速度を緩めようともしなかった.心臓が苦悶に脈打っていたが,彼女は気にしないで走り続けた.突然,彼女は雪の吹き溜まりの中で足を滑らせ,顔から深い雪穴に倒れこんだ.雪が口いっぱいに入り込み,疲労困憊して動けなかった.彼女はもう決して起き上がれなかった.もはや走ることは不可能だった.張り詰めた筋肉は引きつり,抵抗し難い運命の磁力にひきつけられ,もがき続けるだけだった.彼女は幼少の最も傷つきやすい時期に,組織的ないじめにあったために,彼女の人格は歪められ,自分は犠牲者の運命にあるものと諦めていた.ものによってか,あるいは人間によってか,または,フィヨルドや,森によって,彼女は破壊される運命にあった.いずれであるにせよ同じことだった.とにかく,彼女は逃れることは不可能だった.回復不能な危害が長い間加えられ続けたので,彼女の運命は避けがたいものになっていた.

 黒々とした岩の塊が前方に現れ,丘や山や明かりのない要塞が,黒いもみの木の茂みの間から,姿を現した.彼女の弱々しい手は震えて,ドアを開けることはできなかったが,運命の力が彼女をドアの中へと引き入れた.

 敵意をむき出しにした,凍えるような寒さの中で,彼女はベッドの上に体を横たえた.壁の向うでは敵が聞き耳を立てているように感じられた.全くの沈黙と孤独の中で,彼女は横になったままで鏡を見ていた.運命に身を任せていた.長く待つ必要はなかった.彼女には分かっていた.この防音装置の部屋で恐るべき何かが起こるであろうことを,彼女は知っていた.誰も彼女を助けに来ることは出来なかったし,また,出来たとしても来る人はいなかった.部屋はいつものように敵意に満ちていた.壁は彼女を守らないし,あたり一面に冷淡な敵意が漂っているのを彼女は感じていた.何もすることはなかった.助けを求める人もいなかった.見捨てられ,助けもなく,彼女はただ結末がやってくるのを待っているだけだった.

 女性がノックもなしに入ってきて,戸口に立った.彼女は,全身黒装束で木が聳えるように背が高くて,容姿端麗で,近づきがたい姿をしていた.彼女の後ろからぼんやりした姿が続き,彼女の背後に影を作っていた.少女は直ちにそれが処刑執行者であることを悟った.彼女はいつも悪意を感じていた.あまりのも無知なために,あるいはあまりにも夢見心地であったがために,それがなぜだか理解できず,原因を推測することもできなかった.今や,冷たく輝く無慈悲な眼が鏡の奥深くに浮かんでおり,犠牲者を射るように見つめていた.彼女の目は大きく見開き,黒い瞳が恐怖に満ち,起ころうとしている悪夢を見ていた.避けられぬ運命として彼女はそれを受け入れた.彼女の精神は幼児へと退行し,耐えざる虐待によって脅かされ続け,従順になった,怯えた子供になった.怯えながら,女性の命令的な口調に従って,彼女は起き上がり,ふらつく足どりで,檀を降りた.彼女の顔は紙のように蒼白だった.腕を掴まれたとき,彼女は叫び声をあげ,自由になろうともがいた.手で口を塞がれ,彼女の頭上には数人の姿が現れた.彼女は両側から手首を掴まれ,荒々しく持ち上げられ,部屋から連れ出され,手を背後で縛られた.

 木の茂る中で,さらに暗くなっていき,私は道に迷ってしまった.ついには,全く道が分からなくなってしまい,別の場所に出てしまった.私はは壁に囲まれていた.そこは誰も足を踏み入れたことのないような,強く印象づけられる場所だった.壁の両端に配置されている歩哨兵の黒い影が見えた.彼ら2人は互いに近づいてきて,私の傍で行き交うだろうと思った.私は黒い木の影の処にじっと立っていたので,見つけられることはなかった.彼らは足音高く歩いていて,硬く凍りついた霜のために,足音はよけいに大きく響いた.彼らは向き合うと,足踏みして,合言葉を交換した.そして再び離れていった.私は歩き続け,足音がほとんど聞こえなくなった.複数の飛行機の中で同時に生活しているかのような奇妙な感じに襲われた.これらの飛行機は重なっているために,私の思いは混乱しているのだった.家ぐらいの大きさの大きな丸い岩が転がっていた.それは切り落とされた巨人の頭のように見えた.それらはずいぶん昔に山から落ちてきたのに違いなかった.突然声が聞こえた.辺りを見回したが誰もいなかった.声は巨石の間から聞こえてきたような気がしたので,そちらの方へ行ってみた.暗闇の中で明かりが黄色い花のように光っていた.私は巨石の間に小屋を見つけた.内部で人々が話しをしていた.

 わめき声や何かがぶつかる音や馬の怯えたようないななきや争っている音などが一緒になって聞こえてきた.槍が空を飛びかっていた.戦闘用の棍棒で殴りあう音がした.金属がぶつかる音がした.奇妙な服装をした男達が連帯を組んで壁の所にやってきて,短剣を口にくわえ,手足を使って壁をよじ登っていた.ゴリラのように俊敏な動作だった,何千人と集まってきていた.しかし,いくら多くても,撃退された.新しい連帯が次々とやってきて波状攻撃をかけていた.とうとう,壁の上の防衛者は絶滅した.2列目の防衛者は退却を余儀なくされた.侵入者の一部は既に門を開き中に侵入していた.残りの侵入者も,潮が引くように,建物の中へと入り込んで行った.建物の中で,人びとは体を盾にしてバリケードを作った.町中が全く混乱していた.狭い通りで,人々は取っ組み合って戦っていた.野生の獣の咆哮のような叫びが壁の間で,無意味に木霊した.よそ者が,男であろうと,女であろうと,子供であろうと,出会ったすべての人々を虐殺し,ワインを喉に注ぎながら,狂ったように町中を駆け巡っていた.ワインが口から流れ落ち,汗と血と交じり合い,彼らは悪魔のように容貌なっていた.雪が少し降り始めた.それがまた彼らを余計に狂暴にするかに見えた.彼らは狂人のように笑い,落ちてくる雪の破片を食べようとしたりした.馬に乗った戦士たちが三角旗や羽をつけた槍を持ってやってきた.槍の頭には,切り落とされた首が突き刺さっていた.それが子供や犬の首こともあった.いたるとことろで大火事が起こっていて,昼のように明るかった.大気は燃焼によって起こる悪臭やこげた木の臭いで満ちていた.すすで大気は真っ黒だった.家からあぶりだされた人々は,敵によって虐殺された.多くの人々が炎の中で死んでいった.

 私は武器を持っていなかった.身を守ることのできるものを探した.死んだ馬がバリケードを作るために,路上に積み重ねられていた.そのうえで人が殺されていた.剣を抜く機会すらなかったようだった.剣は鞘の中に収まっており,鞘には複雑で美しい模様が刻み込まれていた.私は突き出ている柄を力を込めて引っ張ったが,動かなかった.死んだ馬は大急ぎで積み上げられたらしく,剣を引き抜こうとすると,崩れ,死体は,下まで転げ落ちた.私がバリケードを直す間もなく,騎兵隊の一団が騒ぎ立てながら,槍を波のように揺らし,意味もなく大声を上げて,駆け足でやって来た.彼らに気づかれないように,私は地面に身を伏した.しかし最悪の事態を覚悟した.彼らが近づいてきた時,彼らの一人が前方の死体に槍を突き立て,乱暴に取り除いたので,それが私の上に落ちてきた.結果的に,私は身を隠すことになり,助かった.血走った,狂った,獣のような眼で当りを見回しながら,一団は通り過ぎて行った.完全に行き過ぎるまで,私はじっとしていた.

 彼らが去った後,私は死体を押しのけ,立ち上がって少女を捜した.彼女を見つけられるだろうとは期待していなかった.略奪されている町にいる彼女の運命は分かっていた.死者の剣は自由になっていたので,私は簡単に引き抜くことができた.私は今までにそのような武器を使用することは決してなかったし,人を切りつけようと思ったこともなかった.それは重くて腰につるして歩くのが難しかったが,歩くに従って,バランスのとり方が分かり,慣れてきた.戦いの多くは,街の下の方の港から突き出ている要塞の辺りで起こっていた.私は人をみかけると,見つからないように身を隠した.ハイハウスは既にほとんど燃え尽くしていて,骨組みだけが残っていた.煙と炎が空一面に広がっていた.内部はいたるところで白熱していた.私は出来る限り近づこうとしたが,煙と熱によって近づくことはできなかった.中へ入ることは全く不可能だった.とにかく,地獄のように燃えている中では,誰も生き残ることは不可能だった.私の顔は焦げるほど熱く,髪の毛は火花でくすぶった.

 私は偶然にも彼女に出くわした.それほど遠くないところの石の上に,うつ伏せになって横たわっていた.血が少しばかり口から滴っていた.彼女の首は不自然にねじれており,それは生きていればあり得ない曲がりかただった.首は折れていた.彼女は,髪の毛がロープのようなもので結ばれて,引っ張られていた.髪は鈍い銀色に輝いてた.血が背中に流れていて,まだ鮮血だった.それ以外のところでは,既に黒ずんだ血が白い肉体の上で凝固していた.片方の腕には,歯型がはっきりとついていた.前腕は折れていて,骨の一部が引き裂かれた手首の肉の間から突き出ていた.私は何かには騙されたような気がしていた.私だけが優しい気持ちで死体を破壊することができたのだし,私だけが傷つける資格があるはずだった.私は前かがみなり,彼女の冷たくなった肌に触れた.
(第5章続く)