皆さん、地震の被害はどうですか?
勝手に読者の方は、関東近辺に在住と考えています。
えるは、学校の近くに住んでいるのですが、
ここら辺は、震度6弱でした。
えるは、昔、震度5弱を経験しています。
このときは、大きい地震だな。。とは思ったけれど、
生命の危険を感じはしませんでした。
ところが、今回の地震では、生まれてはじめて
生命の危機を感じました。
長く長く続くとても大きな地震。
アパートが倒れたら死んでしまうかも。。
外に出る(といっても階段まで遠いので、ドアを
開けただけですが)と、建物というたてものが、
不気味な音を立てて揺れています。
えるは、心配性ですが、とっさに実家が阪神淡路
地震の映像のように倒れたのではないかと恐怖に
なかばパニックに陥りました。
実家は、古いです。
本当にもうダメだと思って、電話をかけ続けながら
涙がでてきました。
それと共に、弟が仙台にいたので、東北地震と
知ってから、なんてことだと思いました。
ひとつ前の記事で、弟を見下してやる、とつらつらと
書きましたが、沸いてくる感情は、「死なないで」
ただただそれだけでした。
号泣でした。
母、父、叔母と連絡がつき、残るは弟だけです。
あの惨状です。その日は連絡がつきませんでした。
人目もはばからず、ずっと泣いていました。
両親たちにまだ孝行もしていない、弟と喧嘩別れしたまま。
全てが後悔しそうで、涙が不安が止まりませんでした。
次の日、弟から連絡があったそうです。
無事です。。と。
ただ、その時は、東北があんなにも酷い惨状だとは
思わなかったので、簡単な連絡のみでした。
その次の日から、弟と連絡がとれなくなりました。
母が大変心配をしていました。
弟のことです。ちょっとぶっきらぼうで、こっちが
聞きたいことも大して具体的に述べるわけでもなく。
きっと、無事だと伝えて満足しているかもしれない。
けれど、この大地震だ。何があってもおかしくない。
その後、被災したかもしれない。
母が特に心配しているので、連絡をして欲しいこと、
喧嘩していることと、
姉として心配していることは別であること、を
メールしました。
「姉を失った日」などと言っておきながら、自分で驚き
ました。
えるは、結構頑固で、決定的な決断を出した時は、絶対
に曲げないし、揺らぎが無い。
だから、ブログに書いたし、それくらいの覚悟がなければ
あんな記事書かない。
けれど、溢れていく涙を見て、あ~家族なんだ。。。
と再認識した。。
あ!けれど、喧嘩は別。
あー言ったことについては、きちんと誤るまでそれは
許さない。
けれど、家族として心配するのは当然。
弟からは、ずっと時間がたってから、母に電話が。
私には、大丈夫ですよ~、慣れてますから~と
いつもの弟らしからぬメール。
ちょっとは、やっぱり姉に心配されて嬉しかったんだろう
な、、。
私も、まだまだ甘い。
一体何を経験して生きてきたんだろう。
人生学びだなぁ。。。
計画停電のおかげで、懐中電灯かいそびれたえるは、
恐怖の日々を送ってます。
暗くなってからの停電はものすごく怖いよ。。。
今、違うアパートに引越ししている最中なんだけど、
ものすごく大変。。
部屋はぐちゃぐちゃ。
レンタカー借りれないし。
どうやってベッドとか家具運ぶんだろう?
この間は、近いから、台車借りてきたよ。
でも、あまり重いものは運べないな。。。
地震で被災した方々、本当に寒いし食べ物がない所
で頑張っていることと思います。
えるが、出来ることは、無駄に車に乗らないなど被災
した人々の邪魔にならないことくらいです。
弁護士ってこんな時、なんて無力だな。。と思って、
ちょっとやる気がそがれました。。
けれど、誰かが自分の事を一生懸命することが、
被災した人々のためになる、と言っていました。
どうなんだろう。
きっと、人にはそれぞれ役割があって、それを果たす
事が、結果として被災者のためになるという意味だろう。
分かっているけど、あの被災状況を見て、ここで
所有権とか権利を主張することが何の意味があるのだ
ろうかと思う。
欲しいのは、暖・食・居ではないのだろうか。
医者はあんなにも役立っているのに、私たちには何が
一体できるのだろうか?
誰か知っていたら教えて下さい。
今日も生きていて感謝しています。
森える
した
メールしました。
勝手に読者の方は、関東近辺に在住と考えています。
えるは、学校の近くに住んでいるのですが、
ここら辺は、震度6弱でした。
えるは、昔、震度5弱を経験しています。
このときは、大きい地震だな。。とは思ったけれど、
生命の危険を感じはしませんでした。
ところが、今回の地震では、生まれてはじめて
生命の危機を感じました。
長く長く続くとても大きな地震。
アパートが倒れたら死んでしまうかも。。
外に出る(といっても階段まで遠いので、ドアを
開けただけですが)と、建物というたてものが、
不気味な音を立てて揺れています。
えるは、心配性ですが、とっさに実家が阪神淡路
地震の映像のように倒れたのではないかと恐怖に
なかばパニックに陥りました。
実家は、古いです。
本当にもうダメだと思って、電話をかけ続けながら
涙がでてきました。
それと共に、弟が仙台にいたので、東北地震と
知ってから、なんてことだと思いました。
ひとつ前の記事で、弟を見下してやる、とつらつらと
書きましたが、沸いてくる感情は、「死なないで」
ただただそれだけでした。
号泣でした。
母、父、叔母と連絡がつき、残るは弟だけです。
あの惨状です。その日は連絡がつきませんでした。
人目もはばからず、ずっと泣いていました。
両親たちにまだ孝行もしていない、弟と喧嘩別れしたまま。
全てが後悔しそうで、涙が不安が止まりませんでした。
次の日、弟から連絡があったそうです。
無事です。。と。
ただ、その時は、東北があんなにも酷い惨状だとは
思わなかったので、簡単な連絡のみでした。
その次の日から、弟と連絡がとれなくなりました。
母が大変心配をしていました。
弟のことです。ちょっとぶっきらぼうで、こっちが
聞きたいことも大して具体的に述べるわけでもなく。
きっと、無事だと伝えて満足しているかもしれない。
けれど、この大地震だ。何があってもおかしくない。
その後、被災したかもしれない。
母が特に心配しているので、連絡をして欲しいこと、
喧嘩していることと、
姉として心配していることは別であること、を
メールしました。
「姉を失った日」などと言っておきながら、自分で驚き
ました。
えるは、結構頑固で、決定的な決断を出した時は、絶対
に曲げないし、揺らぎが無い。
だから、ブログに書いたし、それくらいの覚悟がなければ
あんな記事書かない。
けれど、溢れていく涙を見て、あ~家族なんだ。。。
と再認識した。。
あ!けれど、喧嘩は別。
あー言ったことについては、きちんと誤るまでそれは
許さない。
けれど、家族として心配するのは当然。
弟からは、ずっと時間がたってから、母に電話が。
私には、大丈夫ですよ~、慣れてますから~と
いつもの弟らしからぬメール。
ちょっとは、やっぱり姉に心配されて嬉しかったんだろう
な、、。
私も、まだまだ甘い。
一体何を経験して生きてきたんだろう。
人生学びだなぁ。。。
計画停電のおかげで、懐中電灯かいそびれたえるは、
恐怖の日々を送ってます。
暗くなってからの停電はものすごく怖いよ。。。
今、違うアパートに引越ししている最中なんだけど、
ものすごく大変。。
部屋はぐちゃぐちゃ。
レンタカー借りれないし。
どうやってベッドとか家具運ぶんだろう?
この間は、近いから、台車借りてきたよ。
でも、あまり重いものは運べないな。。。
地震で被災した方々、本当に寒いし食べ物がない所
で頑張っていることと思います。
えるが、出来ることは、無駄に車に乗らないなど被災
した人々の邪魔にならないことくらいです。
弁護士ってこんな時、なんて無力だな。。と思って、
ちょっとやる気がそがれました。。
けれど、誰かが自分の事を一生懸命することが、
被災した人々のためになる、と言っていました。
どうなんだろう。
きっと、人にはそれぞれ役割があって、それを果たす
事が、結果として被災者のためになるという意味だろう。
分かっているけど、あの被災状況を見て、ここで
所有権とか権利を主張することが何の意味があるのだ
ろうかと思う。
欲しいのは、暖・食・居ではないのだろうか。
医者はあんなにも役立っているのに、私たちには何が
一体できるのだろうか?
誰か知っていたら教えて下さい。
今日も生きていて感謝しています。
森える
した
メールしました。