例えば『伝統回帰』の中味によるし、『改革』の中身による。全ての伝統回帰に宗教的な理と聖性を見出せるわけではない。
インペリアリズムを目的とした政教一致はどのような神学をしても正当化できない。
そして全ての改革派が神に心を向けさせる訳ではない。
司祭の独身主義は原始キリスト教には存在しなかっただろうが、この宗教がヘブライ文化から独立して徐々に発見した『より相応しい事』の一つだ。後戻りするべきではない。ローマン•カトリックは異邦人の魂を導くためのもの。
そもそも宗教は「みんなのものでは決してない」。既に信じる事をやめた人達に口出しさせてはならない (新教は既に同じように信じる事を辞めている)。宗教はどの宗教であっても信じている人達のものだ。「本当に信じている人達が、どうしたいのか決めて良い」。
キリスト教は『神の義』を説く宗教であってそれは、
伝統主義者にも改革派にも向けられている。
神の義とは「主の祈り」によって願うもの。
社会正義も主の祈りというクライマックスに導かれている。
全ての事が主の祈りの果実でありますように。
主の祈りって文字通り体中があちこち
痛くなるお祈りだと思います。
2025年5月7日 (水) 23:34
(以下後記 2025/05/12 月曜日)
今日は朝から頭の中で王権神授説を標榜する方達の反駁に合っている様な「妄想」に苦しんでしまって、あー、うるさかったぁ、いえ、さすがにそっと言ってくるだけで、礼儀正しいなぁ、なんて、わたしなんぞに、ぶつぶつ、「わたしなんかに」そんなの関係ないでしょう!
本当に嫌々ながらこの付け足しを書きます。王権神授説というのは、まぁ、もう一度wikiとかできちんと、しかも日本語で読んでおくのは良い事だと思いますが、その程度の理解で、また反駁に反駁するというのもあまりにも幼稚でもう反駁される方達が気の毒やなぁと心底思っちょります。いえ、本当にそう思っています。
王権がそんなに神授なら、飢えた人達にパンを分け与えていたでしょうに。(もうわたしはそこだけで)。
なんと申し上げましょうか。王権神授説で喋ってもらった王様達あまりにもエッチチ、ちょっとではなかった訳ですし。世襲制で王権を頂いた人達の御生活を色々思い出してみると、人々をパンに(たかだかパンになんて気の毒過ぎ、しかも40日もの四旬節を要求されてた)新約聖書のどこを読んでも「それでいい」という考えには至らない。そして殺し合うために召集した。まぁそれは宗教では喋れない、という事でいいのではないかと思います。先の大戦におけるレジスタンス活動の様なものでは決してなかった訳です。
王様が自分はぷよぷよに太って人々は餓死していく人多数では、どう考えてもその王権はディバイン(divine)なのかーい、という事になる。権威は神から来るとは言うものの、権威を与えられている人が勝手にそれを色々誤用悪用するのは今の日本にもたくさんそれこそたっくさんあります〜。この国、認知症大国でしょ。フランスの旅行者が日本食がおいしいと言って、喜んで食べているのを見るとすごく心が痛みます。まぁいきなり認知症になるわけではありませんけれど。食品添加物を許し過ぎなんですよこの国。リーキーガットが直接の原因である事が「多い」とはいえ。日本のパンは自分で作ったもの以外は信用できないというのが私の結論です。フランスパンぐらいは自分で作れますけれど、なんでパンを作るのにそんなにいろいろ添加物を入れなきゃいけないのか全く謎です。「悪趣味なパン」だと辛辣な批評を言わせてください。
日本の厚労省あたりの官吏の権威の神授説はもはや異端でしょうね、あり得ない。まぁなんでも出来ちゃうのは本当ですけど。何でも出来ちゃうから、それは神様から来ているとかは、さすがに言いたくないです。今風の日本語で言うと「それはちょっと違う」という事になると思います。
聖書には権威は神から来ると聖パウロは言っており引っぱたかれるのを善しとしましたが一方でキリストご自身は権威に逆らって神殿で大暴れ。今の時代だったらそれは逮捕です、はい間違いございません、逮捕。でもイエズス様は私たちの信仰の純粋さが守られるために、そのような事までしてくださったのです。
これは近世の何かに通じないでしょうか。どうでしょうか。
聖パウロだって引っ叩かれるのを善しとしながらもその後、見事に反論してますよね、「盲従していない」。どうでしょうか。
権威は神授されるもの、しかし、権威を与えられている人にはよくよく気をつけなければならない。「彼ら悪用誤用します、、かなりの確率で、、」。
神様から権威を授けて頂いた人達がきちんとそこに引き下がって「目に見えざる神」に頭を下げていない様なら、人々、には「人々の責任」がありその責任においてすべき事、、もあるやもしれませんよ?どうでしょうか。「神の権威の回復のために」ぜひ働いてください。是非とも。どうぞ宜しくお願い申し上げます。「人々だって神の権威の回復のために働く事ができる」なんてわたしならもう涙が止まりません。
さて我ら異邦人の母を務めてくださっているマリア様が(ちょっと考古学的に言ってみた) 、お若い頃聖霊に満たされて歌ったマグニフィカトには何てあるかしら。
わたしが何故考古学にこだわるかと言うと結局今どき白人になってしまったユダヤ系にヨーロッパの人達と同じ自我をぶつける事は政治的にも宗教的にも不可能であるしそもそもそれが理不尽だったからだ。1歩〜3歩引き下がって接する事しか出来ない。((( わたしはまたユダヤ系に対して日本人の心の全てを自慢に思う事に疑問を感じた )))。やはり彼らは磨かれている。叶わない、と思うことがよくあった。わしらは決して保存がうまく行った円やかな古いワインの様ではない。
聖金曜日の大斎小斎さえも知らないカトリック信者が増えてしまって、どうしてこのようなことに、全く訳が分かりません。
司牧の反省が行き過ぎたのでしょうけど(両方気の毒)、何もきちんとした精査が変化について2バチ以降何もされていない。
「信じて、、、、受け入れてください」、とだけ言われた様なもの、シスター達でさえ。司牧者達への司牧の問題としてあり得ないやり方をとったわけです。結果、かなり善意を持って自由に理解が進んでしまったよう(両方気の毒だった)。しまいには多分何が何だかわからなくなっちゃったんだろうと思う。
そういう意味で伝統主義の美点に(悪い所ではなく)立ち返ってこの宗教らしい事を主張している方達もいて頼もしい限りです。聖人の教会は大切にされなくていいわけがありません。私などが言うのも奇妙ではありますが、敬意と礼節に関しては、2バチ以前に立ち返るしかないではないでしょうか。
そしてわたし達が最も心も新たに学び直さなければいけない事は「主の祈り」によって神の義を求める事だと信じています。それはガリラヤのマリア様を母として仰がなければ到底不可能なことだと思います。日本への土着化などあり得ない、ナザレのマリア様の汚れなき御心に土着化するだけでいいのだと思います。
公会議以降の意味のある変化についてきちんと説明してあげる人達がいなかったのでは(気の毒)。
あ、わたしなんかに気の毒がられているという事がそもそも気の毒、(うぅごめんなさいごめんなさい、、本当にごめんなさい)。
まぁ王権神授説の事ですが、逆に今どきの先進国に住む私達だから安心して、疑問さえも持たずに信じられると思う人達も多くいるでしょう。
往時の人々に心を痛める事もしないで、、
自分で選んだ飢餓(自己責任の事ではなく宗教上の断食の事) なんてダメですよ。死の恐怖と隣り合わせの搾取される結果としての飢餓の苦しみを想う事が出来ないのならその様な断食は宗教とは何も関係ない。悪用でしょうそんなの。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
押し付けられた困窮の中で搾取され続け、子どもの時の信仰を失っていった無数の人々に、宗教者達の司牧の反省と最上の心の痛みとマグニフィカトをお捧げ致します。
わたしは宗教者ではないので反省してもらう方かも、だといいんですけど。
あれには死んでも戻りたくない、
搾取の結果で腹が減るのは嫌なんで、
お腹が空き過ぎて
考えただけで貪りがおきそうです。
人類全体のトラウマ級の思い出、、
わたし聖人じゃなくて ただの心の壊れている人に過ぎません。「可哀想な大人」vulnerable adult ボナラブル•アダルト に過ぎません。文章を読めばわかるでしょ、所々文章が変なのがわかると思います。壊れている。強いて言うとお恵みによって悔い改めの心を多少は起こさせていただいてるただの罪人に過ぎません。お祈りくださっている方達本当にありがとうございます。
神は虐げられた者の神。
どうぞ心から憐んでお祈りください。
(もう一つ、)
それから誤解がない様に一言書き添えますがわたしは個人的には王室を維持するのは大賛成です。それと当時の王権神授説を発掘するかの様に掘り起こして信者達に信じる様に教えるのとは意味が違う様な?
ヨーロッパでもまだ王室が残っている国があり、とても好いものだと思っています。かのフランスに於いてもお血筋の方達が御名家として残っておられます。我らが天皇はクリスチャンではありませんが好い意味で日本人の心の支えになっている様です。しかしドス黒い過去の事は思い出したくもない事、つい昨日までそれが当たり前だったなんて本当に本当に恐ろしい。
ちなみにわたしがインペリアリズムと呼んだ悪弊は王権神授説の事ではありませんでしたが、言われてみれば、そうだったのかもしれない、とも思いました。
私が考えていた事は自分勝手に「腹の思いを」政教一致として「悪用して」(決して悪用とは疑問すらもなかった事でしょう、信じた、一部の宗教者がボーディング•スクールと称したコンセントレーション•キャンプに子ども達を閉じ込め、口裏を合わせて徐々に間引いて行った(地元の政治家達は認めて謝罪)事やその他色々の事を考えていました。前フランシスコ教皇が政治家として身を粉にして働いてくれたおかげで、少しだけみんな落ち着いた様です、当時のわたし達が愛してやまないラテン語のごミサをバシリと禁止したのも大きな意味があったとわたしにはよく理解できます。キリストという生け贄を捧げるのをやめさせた訳です。どうしてだかお分かりになりますよね?イエズス様が教えておられる通りにしなければならないと思います。
フランスが「国内の行政の為に」進めていた政教一致は「み国」のため、当たり前ですが、悪い事と同じではないのは、わたしにだって理解できます。そんなのわかってるよーんだ。
ロザリオを唱えるときには足元のチリを拾って頭にかけましょう。
特に日本人は、、そうする様に勧めたのがマリア様なら、
そうすべき、なのだと思います。
日本人のみんなに偉そうな事を言うつもりは勿論毛頭ありません。
わたしも秋田巡礼以来その様にしています。ヒョイと。
秋田のマリア様が言っておられる通りにいたしましょう。
逆にもう辞められないくらい素晴らしいから。
本当だから。