1個目の願いは『願わくは御名が尊まれんことを』だ。御名が尊まれますように、とか。これはきっと第一の掟のこと。
「主の御名が、何よりも、尊とまれますように」
何よりも、何よりも、何よりも、何よりも、
何事よりも、
何よりも、
どんな事よりも、
あなたの御名が、尊とまれますように。
真っ先に、尊まれますように。
どうしていいか分からなくなってしまった時、さぁ考古学的に我らが『義の教師』にして救い主はどの様に教えておられるか考えた。考えたのか祈ったのかよく分からないけど。義の教師というのはイエズス様の御先祖様の事なんでしょうけど彼もまたそれなのだと思います。
やはりその答えは「主の祈り」。そして心して何度も再読した。(もちろん新約聖書の主の教え一つ一つがその全て)。
主の祈りってエクソシズムですよね?
ある方の救霊を願って、その方は今どきの偶像崇拝に深く陥っておられてどうにもならなくなって気の毒なくらい自暴自棄になっておられました。わたしが出来る事は全く何もありませんでした。特別の召し出しを受けた人達(宗教者達)の働きを邪魔しないためにロザリオを祈る事しか出来ませんでした。
主の祈りを殊更丁寧にお祈りするためにコンビニで印刷したA4の紙に ①から順番に主の祈りを⑦まで番号を付けて分類し、意味をよく考えて毎回祈る様にしているのですが、今回この事があって祈るようになってから殊更に意味が鮮明に分かるようになりました。そして主の祈りに畏れを感じるようになりました。怠け者で棒読み大好きのわたしが何故こんな事を始めたかというとイグナチオ教会の神父様(誰であれ)に告解に行ったら主の祈りをペナンスとして丁寧に唱える様に言われたから。こりゃ丁寧に唱えにゃいかんと思ったわけです。
①は、主の御名が尊まれますように。
偶像崇拝から抜け出すためにはもう本当にこのお祈りしかありませんでした。自分で唱えられれば一番いいのですが。
『教会の権威』を持っておられる方達に助けてもらわないと絶対に無理でした。
これだけは他の信者の皆様によくよく申し上げて説明をしておかなければならないと思っています。
若い時は『主の御名が尊まれんことを』を信じる人達一人一人が特別に信じて無我の境地で行う事や犠牲を払う事なのかと思っていましたが、心の中での小さな信心の事だけでは無さそうです。もっともっと色んな教えがこの①にはあるのだと思います。
例えばアルコール依存の(アルコールだけでなく)問題を不幸にも抱えている方にも必要な教えが①の祈りにはあると思います。
そして②へと続くのだと思います。
毎度イエズス様の空間の移動には驚かされます。闇を切り裂き「光あれ」と①をそして充分に祈るとその時にはもうイエズス様の御心は②を祈っておられ御国に行かれています。御国はイエズス様の御受難よって「来る」のです。そして天に昇られて③は天で行われているみ旨をこの地でも行われるように祈る事を教えておられます。イエズス様が御受難ののち贈ってくださった聖霊を受けた人達だけが御旨が天においてどの様に行われているのか見た人達でその方達が見た通り地でも行う事を祈るように教えて下さっています。凄いですよね、ここ、本当に凄い。聖霊の働きを考えると気が遠のいてしまいそうです。④はあたかも正平協(尊敬)の様ですが、つい先程は天におられて御旨が地でも行われるように祈る事を教えておられたのに、今はもう真っ平な地の表にイエズス様はいらして下さっていて、ここでわたし達は平伏し日用の糧を祈る事を教えて下さっているのですよね、こんなありがたい事は他にはありません、嬉しくて嬉しくてついついずっと平伏し続けてしまいます。ここでは『僕の事覚えてくれている?』ってひそっとイエズス様が言ってないかしら。イエズス様は教えを聞きに来た人達のためにパンと魚の奇跡を行われました。わたし達もクリ仲間が必要な事に欠ける事がない様に気を配りしなくっちゃ。⑤は更に地の奥底にイエズス様は降りて来てくださって互いに憐れむように教えておられていると思います。わたしが誰かさんを憐れんだようにわたしを憐れんでください、ってまず最初に祈ってみたらちょっと意味がわかって、でも個人的な事ではなく、みんなが、教会のみんなが、誰かさんを礼儀正しい心で気の毒に思ったように、1対10とか、1対100とか、1対数百万とか、、それなら誰かさんにとってそれはかなりマシな事だと思うので私はつい熱心に「わたし、ではなく、わたし達が、わたし達が、わたし達が、、」と力説して祈っています。それで慌てて「私もそのように自分の罪を御父とみんなから赦して頂けますように」。。。
言い訳を聞くのは個人的には大好きだけど、イエズス様は素直にありのままに罪を認める事を望まれておられるので団子虫のようにクルッと小さくなって祈っています。
ちゃんと塵も被って、、
我らが義の教師、救い主、イエズス•キリスト。
ユダヤ人達が当時どれほど探しても見出す事が出来なかった王であり祭司であり救い主。
本当に困ってしまった人達(わたしもです)への「教え」が ①にはあると思う。
たとえ直ぐにはどうにもならなくても、、個人においては信じるってダイレクションの問題でもあると思うので、これが何よりも大切なのだと思います。
この教えにどのように応えるかは個人の行動力(=信仰?)の問題。そして教会の権威を持っておられる方々に助けを求めましょう。
同じ事を信じているって素晴らしいですよね。
わたしが個人的に痛いと思った(つまり刺さった) 聖書の言葉は『善だと分かっていてそれをやらない事はもはや悪です』、たしかヤコブかどこか。かなり落ち込みました。
たくさんたくさん許していただいて
たくさんたくさん愛するようになりましょ。
ね?
*すみません、ちょっと動揺していて、日本語がところどころ変でごめんなさい。どうぞ温かい心でお許しくださいますようにお願い申し上げます。
イエズス•マリア•ヨゼフ
wed 6th Augast 2025
今日は、8月6日、
6日 聖ユスト殉教者/聖パストル殉教者
4世紀ごろ。キリスト教の迫害が盛んなころ、スペインにおいても総督デシアンが、信仰を棄てなければ、死刑にするとの宣告を出した。まず子どもたちを脅かして信仰を棄てさせることが容易であると考えて、子どもたちを捕えた。その中にユストとパストルという2人の少年がいた。彼らは、むちで打たれるなど残酷な仕打ちを受けたが、互いに励まし合いながら決して信仰を捨てなかったため、アルカラ市で首をはねられた。その後、信者たちが2人の死体を発見して、彼らが殉教した場所へ埋葬したといわれる。2人は、アルカラとマドリッドの守護の聖人とされている。
『聖人カレンダーより』