拙作集

自作の物語をアップしました。つたない話ですが、よろしくお付き合い下さい。ご感想などいただければ幸いです。

もう妖精は要らない(3)

2010年02月21日 23時11分24秒 | Weblog
3 我が身を削る仕事

「寺沢さんの血圧は安定していますが、急変に注意して下さい。山口さんから痛みの訴えがあった場合はドクターに相談して。よろしいですか?では、これで朝の引継ぎミーティングを終了します。各自、確認事項に漏れがないように。以上です」
 ワンオクターブ高くなった師長の声が響いた。薄いブルーの白衣とナースシューズ、首に回した聴診器。いつもの姿だが、これを身に付けるといやでも緊張感が高まった。

「相本さん、ちょっと来てくれる。話しておきたいことがあるから」
一人呼び止められて、早紀は師長の後に続き、狭いカンファレンスルームに入っていった。振り返った師長の顔には、いつにも増して苦渋の色が浮かんでいた。
「本当はね、こんなことは言いたくないんだけど…」
 普段、歯切れのよい話し方をする彼女にしては、珍しく踏ん切りの悪い切り出しだった。
「あのね、先週亡くなった近藤さんのことなの。ちょっと気になったことがあってね」
 やはりあれかと、早紀には思い当たるフシがあった。
「もうお別れって時に、あなた、シフト越えしてるのに、ずっとついて背中をさすったり、手を握ったりしてたでしょ?」
 早紀は無言でうなずいた。
「近藤さんは、ご家族がね、遠方ですぐ来れなかったし。きっとご本人はありがたかったと思う。でもね…。複数の看護師から、どうかと思うって言われたの。『患者さんみんなに、あんなことはできません』って」

 口答えするつもりはなかった。実際、毎日が戦場のようなこの職場で、都度そんな対応をしようと思えば、まず最初に自分が潰れてしまうだろう。
「私は職場を管理する立場だし、みんなの健康には責任がある。ただでさえ大変なんだから、余計な負荷は避けないと、ナース自身が身も心も害してしまうわ。それにね、見ていた他の患者さんにしたら、『きっと自分にも』って期待すると思うの。よくわかっているように、ここは病院としても特殊だから」
 これ以上、師長に語らせることが忍びなくて、早紀は口を開いた。
「出過ぎたことだったのは、よくわかっていました。どうしても近藤さんを一人にしておけなくて、自分の気持ちに流されました。師長にもご迷惑をおかけして、申し訳ありません。これからは、こういうことがないように気を付けます」

 師長はふっと息をつくと、早紀から視線を外して言った。
「おかしいわね。本当なら、『もっと患者さんのことを思ってあげて』と言うのが、私の役目のはずなのに。医療従事者の自己犠牲を前提として患者さんに接するのは、もう限界ってことなのよね。こうしてあなたを責めている私の方が、よっぽど大切なものを履き違えている気がするわ」

 師長の気持ちが痛いほどわかって、早紀は黙って頭を下げた。短い沈黙の後、師長は違う話を始めた。
「相本さん、あなたはここへ来て何年になるかしら?」
「もうすぐ二年になります」
「あなたはとても腕のいいナースだと思うし、あなたがいてくれたことで、どれだけドクターや私たち、それに患者さんも助かったかわからない。癌研の付属病院と言えば、名門には違いないけど、その中でも、過酷な勤務で有名なこの病棟を選ぶなんて、きっと何かの覚悟があったのよね?私はね、あなたを見てると心配になるの。進んで、自分を削りながら仕事をしているように思えてならないのよ」

 お察しの通りです、と早紀は心の中で答えた。あのことの後、自分の存在価値は、限界に近い現場にしかないと心に決めていた。

(もしかしたら、私は過去を忘れるためだけに、この状況に身を置くことを選んだのかもしれない)

ただ、今となっては、本当にそうだったかどうかもよくわからない。難しい顔になった早紀に、師長は穏やかに声をかけた。
「人は皆、何かしら厄介なことを抱えているわ。あなたの生き方にまで踏み込もうとは思わないけど、ただ、これだけは約束してほしいの。『どんな時でも、まず自分を大切にします』って」

師長は強い思いを込めた目で、早紀を振り返った。早紀は熱いものが込み上げてくるのを、なんとか押し留めると、後ろにまとめて縛った髪が大きく揺れるほど、深々と頭を下げた。


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