2 口の悪い妖精
風呂からあがり、濡れた髪をタオルでくるんだ。無性に今日の出来事を誰かに聞いてもらいたかった。今夜は恐らく、「彼女」はあそこにいるだろう。早紀は洋ダンスの上からジュエリーボックスを取ると、ガラステーブルの空いたスペースに置いた。
軽く深呼吸してから上蓋を開けると、案の定、彼女はそこにいた。仕切り板に腰掛けて下を向き、足先をいじっている。どうやらその小さな足指にペディキュアを施しているらしい。開かれた蓋と覗き込む早紀に気付くと、ゆっくりと顔を上げた。青緑色のアイシャドー、吊り上がったアイライン。今日は一層メイクが濃かった。
「久しぶりね。まあ、その顔じゃ、たいした用事があったわけでもなさそうだけど」
親指姫という童話を思い起こさせる大きさ。宝石箱を開け、彼女を初めて見た時は、早紀も腰が抜けるほど驚いたし、いまだにその存在は信じ難い。
ジュエリーボックスの蓋を開けるたび、そこにいるわけではない。しかし、彼女は気まぐれに姿を現しては、早紀に毒のある会話を仕掛けてきた。そして、宝石箱のオルゴールが回り切ると、いつも霞みのように消えてしまうのだった。
初めて彼女を見たのは、二年ほど前、仕事に復帰してしばらくした頃だった。あの時、早紀は今よりずっと疲れていた。もっとも、抜けるあてのないトンネルを彷徨っているという意味では、今でもさほど変わってはいない。
早紀は最初、自分が精神に異常をきたしてしまったのではないかと疑った。でも、現実は変わらずにリアルで過酷であったし、嵐が吹き荒れるような毎日の中で、誰一人、早紀の様子や言動がおかしいと指摘する者はいなかった。とても他人に打ち明ける気にはなれず、早紀は彼女を勝手にフレミーと名付け、自分にしか見えない妖精なんだと自らに言い聞かせることで、心の平衡を保っていた。
(私のような仕事をしている人間が、自分の部屋では妖精と会話しているなんて…)
それは、滑稽でもあり、同時に深い谷底を覗くような恐怖を伴うことでもあった。
「相変わらず辛気臭い顔してるわね。それじゃ、せっかく男が近づいてきてもすぐに逃げるわよ」
フレミーは、早紀と目を合わせずに毒づいた。早紀も黙って聞いてはいない。
「余計なお世話よ。あなたに言われる筋合いじゃない」
「まあ、当ってることは否定できないものね。それで、何?『今日はいいことがあったのよ』なんて話を聞いてもらいたいわけ?」
「別に…、どうでもいいけど」
「小さな天使のパパさんはいい男だった?こっちがどう思おうと、向こうは子守りの代役が見つかってラッキーだったくらいにしか、思っちゃいないわよ」
悔しいが、その言い分が正しい気がした。返す言葉がなくて黙っていると、フレミーは畳み掛けるように言葉を続けた。
「人はね、誰でも自分が一番かわいいの。好きになったところで、所詮は他人よ。例の件で、あなたもよくよくわかったはずじゃなかったの?」
「あの話はもうやめて」
「おやおや、今日は情緒不安定なのかしら。まあ、力んだところで何かが変わるわけでもないけどね」
オルゴールの音が、徐々にゆっくりになっていた。
「じゃあ、せいぜい楽しかった今日の思い出に浸ることね」
フレミーの言葉が終わる前に、いたたまれず早紀は宝石箱の蓋を閉めた。オルゴールの音が消えた部屋を、再び重い静けさが覆い尽くした。
風呂からあがり、濡れた髪をタオルでくるんだ。無性に今日の出来事を誰かに聞いてもらいたかった。今夜は恐らく、「彼女」はあそこにいるだろう。早紀は洋ダンスの上からジュエリーボックスを取ると、ガラステーブルの空いたスペースに置いた。
軽く深呼吸してから上蓋を開けると、案の定、彼女はそこにいた。仕切り板に腰掛けて下を向き、足先をいじっている。どうやらその小さな足指にペディキュアを施しているらしい。開かれた蓋と覗き込む早紀に気付くと、ゆっくりと顔を上げた。青緑色のアイシャドー、吊り上がったアイライン。今日は一層メイクが濃かった。
「久しぶりね。まあ、その顔じゃ、たいした用事があったわけでもなさそうだけど」
親指姫という童話を思い起こさせる大きさ。宝石箱を開け、彼女を初めて見た時は、早紀も腰が抜けるほど驚いたし、いまだにその存在は信じ難い。
ジュエリーボックスの蓋を開けるたび、そこにいるわけではない。しかし、彼女は気まぐれに姿を現しては、早紀に毒のある会話を仕掛けてきた。そして、宝石箱のオルゴールが回り切ると、いつも霞みのように消えてしまうのだった。
初めて彼女を見たのは、二年ほど前、仕事に復帰してしばらくした頃だった。あの時、早紀は今よりずっと疲れていた。もっとも、抜けるあてのないトンネルを彷徨っているという意味では、今でもさほど変わってはいない。
早紀は最初、自分が精神に異常をきたしてしまったのではないかと疑った。でも、現実は変わらずにリアルで過酷であったし、嵐が吹き荒れるような毎日の中で、誰一人、早紀の様子や言動がおかしいと指摘する者はいなかった。とても他人に打ち明ける気にはなれず、早紀は彼女を勝手にフレミーと名付け、自分にしか見えない妖精なんだと自らに言い聞かせることで、心の平衡を保っていた。
(私のような仕事をしている人間が、自分の部屋では妖精と会話しているなんて…)
それは、滑稽でもあり、同時に深い谷底を覗くような恐怖を伴うことでもあった。
「相変わらず辛気臭い顔してるわね。それじゃ、せっかく男が近づいてきてもすぐに逃げるわよ」
フレミーは、早紀と目を合わせずに毒づいた。早紀も黙って聞いてはいない。
「余計なお世話よ。あなたに言われる筋合いじゃない」
「まあ、当ってることは否定できないものね。それで、何?『今日はいいことがあったのよ』なんて話を聞いてもらいたいわけ?」
「別に…、どうでもいいけど」
「小さな天使のパパさんはいい男だった?こっちがどう思おうと、向こうは子守りの代役が見つかってラッキーだったくらいにしか、思っちゃいないわよ」
悔しいが、その言い分が正しい気がした。返す言葉がなくて黙っていると、フレミーは畳み掛けるように言葉を続けた。
「人はね、誰でも自分が一番かわいいの。好きになったところで、所詮は他人よ。例の件で、あなたもよくよくわかったはずじゃなかったの?」
「あの話はもうやめて」
「おやおや、今日は情緒不安定なのかしら。まあ、力んだところで何かが変わるわけでもないけどね」
オルゴールの音が、徐々にゆっくりになっていた。
「じゃあ、せいぜい楽しかった今日の思い出に浸ることね」
フレミーの言葉が終わる前に、いたたまれず早紀は宝石箱の蓋を閉めた。オルゴールの音が消えた部屋を、再び重い静けさが覆い尽くした。
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