祖国での活動の大部分は移動に費やされていた。
北京にも宿舎を置いているというのに、そこに留まった記憶があまりにも少ない。
ガラス越しに雨を感じながら、遠くに滲んで見える夜の灯りをぼんやりと眺めた。
-ハンギョン…行くのか?
大きく見開かれた二つの瞳はかすんで悲しげに感じられる。
ヒチョルのそんな顔を見たくなくて、起こさないようそっと身支度を整えた俺だったのに、数千キロ離れた街に来ても、あの時何も言えずにただヒチョルの目を見つめ返すことしかできなかった自分に腹立たしさを感ずにはいられない。
ゴホッ ゴホッ
シウォンの辛く咳き込む音に慌ててカーテンを閉めた。
「シウォン、飲み物欲しくないか?」
熱のせいでじっとりと浮かんだ汗をおしぼりで拭いてやると、
「兄さん…うつるから…俺に寄っちゃダメだ…」
そう言い放つ。
体が弱ると必然的に誰かに頼りたくなるというのに、こういうところがシウォンをどこまでも紳士的だと感じさせるのだろう。
さっきマネージャーの兄さんに電話で薬を頼んだのにまだ来ないでいる。
きっと他の要件を抱えてあちこち動いているのだろう。
薬くらいならホテルに常備しているはず、そう考えた俺がフロントへの電話を掛けようと受話器を手にした時来訪者を告げる呼び鈴の音が部屋に鳴り響いた。
急いでドアまで走り寄りドア穴を覗くと、いびつに歪んだ廊下にまだ部屋着に着替えないままのドンヘが立っていた。
一瞬躊躇したがそのままドアを開けないというわけにもいかず扉を手前にゆっくりと引き入れると、シウォン薬持って来たよ、言いながらドンヘは俺の傍をすり抜けシウォンの寝ているベッドへと向かった。
「この薬飲んだら良くなるはず。きついかもしれないけど、ちょっと体起こしてこれ飲みなよ」
かいがいしく世話をするドンヘとそのひとこと一言に相槌を打つシウォン。
自分だけがその空間で取り残されている、そんな気持ちが息を詰まらせた。
TVを点けるわけにもいかず、かといってベッドに寝転ぶのもおかしなことで、手持無沙汰な俺はシャワーを浴びることにした。
-こんな体にしたのは兄さんじゃないか。
ドンヘのその一言に身動きのとれなくなった俺は、ただ彼の欲望に従うしかなかった。
ヒチョルの軽快な声が聞こえるその場所でドンヘを抱いた。
目は瞼を閉じることで見える物を遮断するが、耳には瞼がない。
いつもならどんな些細な言葉でもヒチョルの音を聴き逃したくはないのに、あの時は両方の手で耳をあてがい全ての音を消してしまいたかった。
なぜ俺がこんな目に…
運命を恨み、そしてドンヘを恨んだ。
俺は発散することの出来ない怒りと悲しみをドンヘの体にぶつけた。
欲望ではなく復讐のために抱いたのだ、そう自分に言い聞かせた。
あの夜幸いにもヒチョルと俺は別々に宿舎に戻り、午前3時を回ってから帰宅したヒチョルは俺の部屋を訪れることはなかった。
感のいいヒチョルは俺のちょっとした変化に気づき、それを見透かされることを恐れていた。
あの時の不安をかき消すようにシャワーのコックを捻った。
顔に向かって真っ直ぐに伸びてくるこの水と共にドンヘとの交接を洗い流せるとしたら…
-なぁ、ハンギョン。俺がMのメンバーだったらどうだったんだろ…
ヒチョルの声が力なく俺の部屋に響いた。
中国に旅立つ前の日は必ずヒチョルは俺の部屋を訪れて、こういったある種現実としては成立しない希望を口にした。
-俺いなくて寂しい?
ヒチョルの気持ちは痛いほど十分にわかっているが、悲しい気持ちのまま離れたくなくてついおどけてしまう。
-わかったよ。チュウしてやる。
俺の戯言に応えるように、ヒチョルは優しいキスを頬に落してくれた。
-そんなんじゃ足りない。
満たされない未来の日々への反動が、二人を熱く高まらせた。
俺は何もしないままシャワーの水を浴び続けていた。
顔や首筋に伝う水がヒチョルの絡みつく指を思い起こさせ、ゆっくりと息を湿った胸の中から吐き出した。
その時、後ろでシャワールームの扉が開く音がして思わず振り向くと、ドンヘが生まれたままの姿でゆっくりと俺の方に歩いてくる。
あまりにも堂々と入り込んできたドンヘに、この狭い空間に長いこといた俺をいっそう委縮させた。
「兄さん、抱いて」
そう言って俺の方に右手を伸ばした。
冷静さを装っているようだが、その指先が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
「さあ」
放射線状に伸びる水に体を半分浸して、ドンヘは低い声で誘った。
この手を取ってはいけないと頭の中で何度も反芻した。
それなのに俺は…
シャワーを止めることも無くそこでドンヘと抱き合った。
焦りと悲しみをいっしょくたに混ぜ合わせて一つになった。
自分たちがタブーの扉を開けて、反対側の世界へ出てしまっていることに気づいてはいる。
だが、一度点いた欲望を簡単に流すことはできなかった。
果てる瞬間、俺はヒチョルの名前を叫んでしまった。
ドンヘは俺からすぐに離れ、シャワールームを後にした。
この不自然なセックスがいっそうの悲しみを誘わないわけがない。
これで終わりにしよう、そう俺は決めて扉を開けた。
暗闇の中目を凝らして室内灯のスイッチを探していると、注意深く一歩一歩踏み出していた足に何かがぶつかった。
足を抱えたままそこにうずくまっていたドンヘだった。
抱きかかえるようにしてソファーの上に座らせると、俯いたままのドンヘを下から覗きこんだ。
「…俺…今日…」
顔を上げたドンヘの頬を一筋の涙がすすっとまるで流れ星のように流れて消えていった。
なんてことを。
俺は悲しみに満ちたその頬を親指でそっと撫でると、顔を寄せて口づけた。
自分がこの世に生をなした祝いの日に、抱かれた腕の中で他人の名を呼ばれるほど屈辱なことはないだろう。
俺はドンヘにした愚かさに嫌気がさした。
カーテンの隙間から覗く暗闇を背に、二人は深く口づけした。
それは今までの汚れたキスではなく、血の通った温かい接吻であった。
「許してほしい…」
俺はドンヘを強く抱きしめ、ドンヘもまた強く抱きしめ返した。
それがどれほど長い出来事だったのか分からない。
「兄さん、俺の名前を呼んで。そして誰かの代わりに俺を抱くのじゃなく、今夜だけは俺を好きだから抱いてほしい」
迷わずその唇に自分の唇を重ねた。
「ドンヘ、好きだよ」
口から言葉が勝手に零れ出た。
「俺も…大好き」
ソファーが軋み、ドンヘの吐息が零れた。
今までの苦しいセックスではなく、内側から満たされてゆく優しい交わりだった。
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北京にも宿舎を置いているというのに、そこに留まった記憶があまりにも少ない。
ガラス越しに雨を感じながら、遠くに滲んで見える夜の灯りをぼんやりと眺めた。
-ハンギョン…行くのか?
大きく見開かれた二つの瞳はかすんで悲しげに感じられる。
ヒチョルのそんな顔を見たくなくて、起こさないようそっと身支度を整えた俺だったのに、数千キロ離れた街に来ても、あの時何も言えずにただヒチョルの目を見つめ返すことしかできなかった自分に腹立たしさを感ずにはいられない。
ゴホッ ゴホッ
シウォンの辛く咳き込む音に慌ててカーテンを閉めた。
「シウォン、飲み物欲しくないか?」
熱のせいでじっとりと浮かんだ汗をおしぼりで拭いてやると、
「兄さん…うつるから…俺に寄っちゃダメだ…」
そう言い放つ。
体が弱ると必然的に誰かに頼りたくなるというのに、こういうところがシウォンをどこまでも紳士的だと感じさせるのだろう。
さっきマネージャーの兄さんに電話で薬を頼んだのにまだ来ないでいる。
きっと他の要件を抱えてあちこち動いているのだろう。
薬くらいならホテルに常備しているはず、そう考えた俺がフロントへの電話を掛けようと受話器を手にした時来訪者を告げる呼び鈴の音が部屋に鳴り響いた。
急いでドアまで走り寄りドア穴を覗くと、いびつに歪んだ廊下にまだ部屋着に着替えないままのドンヘが立っていた。
一瞬躊躇したがそのままドアを開けないというわけにもいかず扉を手前にゆっくりと引き入れると、シウォン薬持って来たよ、言いながらドンヘは俺の傍をすり抜けシウォンの寝ているベッドへと向かった。
「この薬飲んだら良くなるはず。きついかもしれないけど、ちょっと体起こしてこれ飲みなよ」
かいがいしく世話をするドンヘとそのひとこと一言に相槌を打つシウォン。
自分だけがその空間で取り残されている、そんな気持ちが息を詰まらせた。
TVを点けるわけにもいかず、かといってベッドに寝転ぶのもおかしなことで、手持無沙汰な俺はシャワーを浴びることにした。
-こんな体にしたのは兄さんじゃないか。
ドンヘのその一言に身動きのとれなくなった俺は、ただ彼の欲望に従うしかなかった。
ヒチョルの軽快な声が聞こえるその場所でドンヘを抱いた。
目は瞼を閉じることで見える物を遮断するが、耳には瞼がない。
いつもならどんな些細な言葉でもヒチョルの音を聴き逃したくはないのに、あの時は両方の手で耳をあてがい全ての音を消してしまいたかった。
なぜ俺がこんな目に…
運命を恨み、そしてドンヘを恨んだ。
俺は発散することの出来ない怒りと悲しみをドンヘの体にぶつけた。
欲望ではなく復讐のために抱いたのだ、そう自分に言い聞かせた。
あの夜幸いにもヒチョルと俺は別々に宿舎に戻り、午前3時を回ってから帰宅したヒチョルは俺の部屋を訪れることはなかった。
感のいいヒチョルは俺のちょっとした変化に気づき、それを見透かされることを恐れていた。
あの時の不安をかき消すようにシャワーのコックを捻った。
顔に向かって真っ直ぐに伸びてくるこの水と共にドンヘとの交接を洗い流せるとしたら…
-なぁ、ハンギョン。俺がMのメンバーだったらどうだったんだろ…
ヒチョルの声が力なく俺の部屋に響いた。
中国に旅立つ前の日は必ずヒチョルは俺の部屋を訪れて、こういったある種現実としては成立しない希望を口にした。
-俺いなくて寂しい?
ヒチョルの気持ちは痛いほど十分にわかっているが、悲しい気持ちのまま離れたくなくてついおどけてしまう。
-わかったよ。チュウしてやる。
俺の戯言に応えるように、ヒチョルは優しいキスを頬に落してくれた。
-そんなんじゃ足りない。
満たされない未来の日々への反動が、二人を熱く高まらせた。
俺は何もしないままシャワーの水を浴び続けていた。
顔や首筋に伝う水がヒチョルの絡みつく指を思い起こさせ、ゆっくりと息を湿った胸の中から吐き出した。
その時、後ろでシャワールームの扉が開く音がして思わず振り向くと、ドンヘが生まれたままの姿でゆっくりと俺の方に歩いてくる。
あまりにも堂々と入り込んできたドンヘに、この狭い空間に長いこといた俺をいっそう委縮させた。
「兄さん、抱いて」
そう言って俺の方に右手を伸ばした。
冷静さを装っているようだが、その指先が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。
「さあ」
放射線状に伸びる水に体を半分浸して、ドンヘは低い声で誘った。
この手を取ってはいけないと頭の中で何度も反芻した。
それなのに俺は…
シャワーを止めることも無くそこでドンヘと抱き合った。
焦りと悲しみをいっしょくたに混ぜ合わせて一つになった。
自分たちがタブーの扉を開けて、反対側の世界へ出てしまっていることに気づいてはいる。
だが、一度点いた欲望を簡単に流すことはできなかった。
果てる瞬間、俺はヒチョルの名前を叫んでしまった。
ドンヘは俺からすぐに離れ、シャワールームを後にした。
この不自然なセックスがいっそうの悲しみを誘わないわけがない。
これで終わりにしよう、そう俺は決めて扉を開けた。
暗闇の中目を凝らして室内灯のスイッチを探していると、注意深く一歩一歩踏み出していた足に何かがぶつかった。
足を抱えたままそこにうずくまっていたドンヘだった。
抱きかかえるようにしてソファーの上に座らせると、俯いたままのドンヘを下から覗きこんだ。
「…俺…今日…」
顔を上げたドンヘの頬を一筋の涙がすすっとまるで流れ星のように流れて消えていった。
なんてことを。
俺は悲しみに満ちたその頬を親指でそっと撫でると、顔を寄せて口づけた。
自分がこの世に生をなした祝いの日に、抱かれた腕の中で他人の名を呼ばれるほど屈辱なことはないだろう。
俺はドンヘにした愚かさに嫌気がさした。
カーテンの隙間から覗く暗闇を背に、二人は深く口づけした。
それは今までの汚れたキスではなく、血の通った温かい接吻であった。
「許してほしい…」
俺はドンヘを強く抱きしめ、ドンヘもまた強く抱きしめ返した。
それがどれほど長い出来事だったのか分からない。
「兄さん、俺の名前を呼んで。そして誰かの代わりに俺を抱くのじゃなく、今夜だけは俺を好きだから抱いてほしい」
迷わずその唇に自分の唇を重ねた。
「ドンヘ、好きだよ」
口から言葉が勝手に零れ出た。
「俺も…大好き」
ソファーが軋み、ドンヘの吐息が零れた。
今までの苦しいセックスではなく、内側から満たされてゆく優しい交わりだった。
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