自分自身が子どもを持つまで、正直「子どもとどうやって関わるか」真剣に考えた事はありませんでした。
もちろん自分自身も子ども時代があったわけで、全くの無関心ではなかったですけれど、
どこか他人事だったと思います。
日本のテレビ番組で、栗原類さんという若い素敵なモデルさんが、子供の頃アメリカでADD(注意欠陥障害)と診断されたと
発言して、大きな話題を呼んでいるのですね。
私が子どもの頃の「特別学級」は、身体障害や知的障害のある子がそこで過ごしていて、
週何時間かは普通学級で他の生徒と一緒に授業を受けていたように思います。
栗原さんのADDは「発達障害」の一つです。「発達障害」の判断基準には大きな幅が有り、かつ一見わかりにくく、
また「障害の認定に親が同意、協力するかどうか」が上の2つと大きく異なることだと思います。
「発達障害」が取り上げられる事が多くなったのはここ10年ぐらいで、こちらへの対応は
私が子どもの頃は学校ではほとんどなく、父母の接し方が問題とか、ある種の「母原病」とか言われていました。
(と過去形にしましたが、未だに自閉症とは環境要因で後天的になるものと誤解している人がいて、
東日本大震災の記事で「震災後、子どもが自閉症になった」と年配のかたが語っていたのが
そのまま新聞に出ていたのには首を傾げました。記事にした記者も裏取りしていないんですね。)
保護者が個人的に色々探して、学外でカウンセリングなどに通っていた子は何人かいました。
振り返ると、普通学級にずっと在籍しているのに教室を突然飛び出したりする子がいた記憶があります。
今も子ども一人一人が置かれている環境で、大きな違いが出てくる事柄だと思います。
アメリカでは発達障害の研究とその対応が進んでいます。
子ども1人ひとりの特性に応じて、サポートのレベル、学業のレベル、アプローチの仕方も色々あり、
ほとんど普通学級で過ごす子もいれば、特別支援校で手厚いセラピーとサポートを受ける子まで、
「その子どもが一番落ち着いて学べ、伸びると思われる環境」が選べることが多いようです。
栗原さんも、アメリカでは過ごし易かったのではないでしょうか。
いわゆる「早期介入」という形で小さい頃から対応を始めれば、結果的に健常で個性の範囲内とわかったり、
あるいは障害があってもそのことによって生じる問題は軽減され、子ども本人にも周りにもメリットがあります。
ただ残念ながら、日本でもそういうことがあるみたいですが、保護者の中には
子どもの発達障害を認められない、認めたくない、障害には関わりたくない人というのがいます。
特に小さい頃は「聞き分けがない」「友達とうまくいかない」「苦手なことがある」等々はどんな子にもありがちです。
学校の勉強がソツなく出来れば、ソーシャルスキルの問題点は「個性だから」と見過ごされがちになってしまうのですね。。。
子ども時代の優秀な成績も大切かもしれませんが、大人になってみて、ソーシャルスキルが身に付いていれば、
「子ども時代」よりずっと長い「大人時代」に乗り越えられることがたくさんあるなあ、と実感として思います。
子どもの「困り感」に小さい頃から本人や周りの大人が率直に向きあっていないと、
大人になってからの長い長い時間、さらに大変な思い、より大きな問題を抱えながら過ごすことになってしまいます。
でもこの「うちの子に障害があるはずがない、レッテルを貼るな!」という気持ちもわかるんですよね。
世の中、大人になってもいろ~んなかたがいます。障害を認めるにはまだまだ勇気が要るでしょう。
と、つらつら書いてみて、これは「いじめ」にも共通点があるかも知れないな、と思ったり…。
日本で最近、10代の子どもが関係する何とも言えない事件が報道されることが多く、
また、その子ども達は事件を起こす前に様々な兆候があったという記事を読むと、考えてしまいます。
「周りの人と良い関係が結べて、自分で自分のご飯を食べていける人になってくれればそれでいい」
とシンプルに願うことすら難しいのでしょうか。。。
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