Time Out

英国はヴィクトリア朝をメインに創作関係や自サイト、雑記などを写真やイラストと共にお送りしていくのらりくらりなブログ。

ヴィクトリア時代の使用人 vol.9 雇用と賃金:頭を悩ます賃金

2007-03-29 07:10:04 | 使用人関係

契約を結んだ使用人が次に考えるのは、お給金のことだと思います。今回はこのお金についてがテーマです。このお金なんですが結構ばらつきがあるようでなかなか基本給というものがなかったようです。そこで登場するのがヴィクトリア時代の有名な本の登場です。ではそれも一緒に見てみましょう。どうぞ~。



◆頭を悩ます賃金

保障の問題の次に実質的な問題が雇用者と使用人の間にありました。労働に関しての契約はある程度法案などで規定されていたものの彼らが頭を悩ませたのは賃金についてでした。給料はもちろん上から下まで幅も広く、また職種と性別、さらに特別手当の有無によっても金額は複雑に変わり、各家庭の規模によっても払う金額が全く違うために参考資料もないまま、最終的には各家庭の裁量で決めていました。もちろんお隣の家庭に「お宅の女中にいくらのお手当てを出しているのかしら」と聞いて参考にする場合もあったでしょう。しかしプライベートなこと、特に金銭的な内容を口にするのもはしたないことと考えていた人々もおおかたいたのであまり期待はできませんでした。指標のないまま過ごしていた19
世紀にビートン夫人は自身の夫が発行していた『英国女性の家庭雑誌』のなかで使用人に対する年間の雇用賃金の推奨額を発表されました。その一部が以下です。

以上が推奨額ですがあくまでこの金額はビートン夫人の示した1つの参考例であってこれが使用人を雇うための具体的な金額提示ではありませんでした。またビートン夫人はロンドンの生活を基準として数字をはじき出したと考えられるため、ロンドン郊外を離れた村や町の場合の指標としては差が出てくるとも考えられます。さらにロンドンの中でもウエストエンドとイーストエンドでも賃金の格差があり、家女中に関していえばウエストエンドでは平均年収が£17に対してイーストエンドでは年£13だったというような調査結果(Trevor May The Victorian Domestic Servant p. 9.)があります。しかしながら少なくともロンドン近郊では彼女の著書は一般家庭に普及していたので、この金額を基に多くの家庭が雇用賃金を決めていたのは確かでしょう。上記の表を見るとわかるように、男女の上級職(基本的に執事、家政婦の職)と男女の料理人は雇用賃金が高く、また全体を見た場合は女性使用人の賃金は男性使用人のそれに比べると低いです。
このような指標が示されたのですが全ての家庭がこの良心的な金額を指標にして賃金を渡してはいませんでした。「救貧院出身の女中のなかにはこの種の雑役使用人として、週
1シリング、すなわち年2ポンド10シリングの給料」(パメラ・ホーン著 / 子安雅博訳『ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界―』 p. 207.)という金額で雇われていた使用人も少なからず存在したのです。


ヴィクトリア時代の使用人 vol.8 雇用と賃金:契約と保障

2007-03-28 04:34:55 | 使用人関係
はいのはいのは~い。使用人関連の続きです。面接を終えた後に今度は使用人が結ぶ契約についてを見てみたいと思います。けっこうキツイ契約をすることが読んでみると分かります。エマを見ていると結構ケリー先生って自由な感覚を持っていたようで使用人としては幸せな主人ではなかったでしょうかね?反対に子爵家の使用人やアンダー・ザ・ローズの使用人たちはこのキツイ契約のもとの労働ではなかったかと思います。
ではそのキツイ契約とはどのようなものだったのでしょうか?



契約と保障

使用人として雇用契約を結んだら自動的に終身雇用とはいきませんでした。1563年の「職人法」で雇用期間の契約についての規定がされたからでした。基本的には1年間毎の雇用契約となっていましたが、17世紀に入ると月、または半年毎の契約が主流となりました。またこの法案には使用人の活動について書かれており、主人への服従が規定に含まれ、合法である限りは主人の命令には背くことは決して許されないという厳格なものでした。契約違反を犯した場合は、使用人側に非がある場合は服役、罰金、懲罰、科料などの厳しい処分が課せられていましたが、雇用者に関しては罰金のみという軽いものが規定されていただけでした。不平等さを含んだこの法律でありましたが、これを始まりとして、主人と使用人の関係が「身分に基づく制度からほぼ完全に契約に基づく制度」(パメラ・ホーン著 / 子安雅博訳『ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界―』 p. 180.)へと歩みはじめることになりました。しかしこのように制度が移り変わりはじめても、実際は主人と使用人の関係は発展途上であったために主従関係は支配者と従属者のままでした。そのため使用人に対する保障も残念ながら整備が行き届かずに不幸な事件を多数起こしていました。
1849年に6歳の少女が雑役女中として弁護士夫妻雇われていました。その年のクリスマスに食事を支給されないなどの虐待が始まり、少女自身の排泄物を食べるよう主人から強要され、暴行を加えられるといった惨劇がありました。しかし運良く近所の住民の通報があり少女は一命を取り留めました。これに対してこの夫妻は暴行の罪で懲役2年の刑を受けることになりますが、この刑の軽さは世間で酷評を受けることになります。このような非道な虐待事件は同じ年にもう一件、同様のケースであり、その時も懲役2年の軽刑でした。このような事件もあり政府は早急に対応することにしました。1851年に「1851年の徒弟と使用人に関する法律」を成立させ、18歳に満たない者に対しては衣食住を必ず提供し、これを怠った場合は禁固刑3年に処することを明記しました。また16歳に満たない者がいる場合は政府の監査を最低2
年受けるように義務づけました。しかしこの義務も厳守されずうやむやなままにされました。この保障がされたことは使用人にとって喜ばしいことではありましたが、この法律ができてからも雇用側が遵守することがなく残念ながら同様の事件は跡を絶つことがありませんでした


ヴィクトリア時代の使用人 vol.7 雇用と賃金:職に就く

2007-03-27 06:09:55 | 使用人関係
このところコラムしか記事がないのですが、ネタとしてはやっぱりコラムしか出てこないのが悲しいところです。ブログの改造をして英国色にしてみたのですがくどい?どうですかね?サイトはどうなったのか、更新はしないのかといわれたりもするのですが、ただいまペン入れ中です。ごめんなさい、更新遅くって……。
さ~て今回のコラムさんは??
雇用と賃金パート2です。やっと使用人になるところまで話がきます。といってもまだ採用されるかな~?という時点までの話が主ですが。で、ちなみにこの雇用と賃金シリーズまだあと4回くらいは続きます。あは。
ではでは、どぞ~。



職に就く

前回で記したように職に就くには3通りのやり方がありました。家族や知人で家事奉公に出ている人間がいればそれを頼って使用人になるというもの、新聞広告に載せられている求人広告から探すこと、そして自分の地域の教会から口利きで奉公先を探してもらうか、就職斡旋所に頼ることが有効な手段とされていました。19世紀末では主に新聞広告と就職斡旋所の手を借りて雇用主は使用人を探したり、また就職希望者は使用人の職に就くケースが特に多かったようです。
産業革命以降の19世紀では、使用人は溢れるようにおり、また必要とする人も大勢いました。大勢の使用人希望者と大勢の雇用希望者が存在するなかで、使用人の需要と供給のバランスは気持ちとは裏腹に段々と崩れていきました。詳しくは後で出てきますが、広告に関していえば徐々に募集条件が厳しくなっていき、場合によっては国籍や宗教、服装にまで規制がかかるようになります。次に就職斡旋所も様々で、登録料を払わせておいて一切斡旋しない詐欺行為の横行も目立つようになります。しかしこれらの問題を含みながらも多くの人々は一番利用しやすいそれらを使って就職の手がかりを探しました。
多くの人はこれらの方法でなんとか就職応募先は見つかるものの、今度はなかなか職に就くまでにいたらないことが続くことがありました。それの大きな理由は「面接」でした。
就職先での面接は必ず使用人候補たちの頭を悩ませ、また使用人を雇う側も頭を悩ませることになりました。面接される側を気遣い優しく接する雇う側がいる一方で、面接される側が強気に出て、逆に雇う側が面接される側に回ることもありました。面接を行う場合、大きな屋敷では主人たちは家令や、家政婦、執事にそれぞれ男性、女性の使用人の雇用と解雇を一任し、直接関わりのある使用人に関しては、主人、女主人が面接を行い雇用と解雇を行っていたのである程度気楽にいたのですが、多くの中流家庭では主人、女主人が直接面接を行っていたので頭を抱えるようになるのでした。

使用人の雇用に関してビートン夫人[Isabella Beeton (183665)]は『家政書』の女主人の項目に次のように書いています。「使用人との契約は厳格に頭を働かさなければならない女主人の決断の1つ」(Isabella Beeton Mrs Beeton’s Book of Household Management pp. 1314)であると記しています。そして効率よく使用人を探すならばやはり面接をすることを挙げていました。そして面接するにあたっては使用人の誠実さと道徳面を問い、無用なトラブルを避けるためにも詳細な質問をするようアドバイスをしていました。そこで雇用者側はこれらの点を踏まえながら面接を行いました。「前の職場はどのような家庭だったのか、そこで働いたのはどのくらいか、そこでは何をしていたのか、なぜそこを辞めたのか……」というように使用人に細部に渡って質問をする雇用者に対して、では逆に使用人側はどのような対策をしていたのでしょうか。初めての職探しとした場合は、訓練校を出たか、出自がどのようなところなのか、などが重要になります。また、すでに働き転職として仕事を探している場合は、どれだけ良い人物証明書をもらえているかが重要になってきます。しかし雇用者側の要求などをうまく切り抜け見事採用とされても、使用人の苦難は途絶えることはありませんでした。また同じように雇用者も必ずしも面接で見込んだ使用人に対して安心してもいられませんでした。


ヴィクトリア時代の使用人 vol.6 雇用と賃金:使用人になる方法と準備

2007-03-26 14:33:54 | 使用人関係
エマ8巻の特装版を実は日曜日に手に入れてました~♪土曜日の時点で入荷の電話があったんですがちょっと時間が遅くて日曜日に購入。で、です、番外編の内容はとっても素敵な内容でした。ケリー先生の結婚生活とクリスタルパレス!水晶噴水のシーンはケリーと同じように目を見開くような美しさ!エレノアの療養についてはもう少し続いてほしいかもしれないです。ウィリアムを振り回し、ウィリアムに振り回されたエレノアのことを掘り下げてほしいな~。新聞記事については過去のキャラクターが登場して以降どうなったのかがわかる内容でした。深い内容でなくヴィクトリア時代の風景を思いっきり描きたかったのかと思える内容でした。そしてターシャについて。えらい家族の多さ。そして個性的な家族。あのドジっプリは母親譲りでしたか、そうですか。DVDはアニメのエマのプロモーションという感じでした。今までの総集編という感じで第二幕の映像はこれといって特筆するところはないかな~。
んで今回は本に付いていた広告ですよ!vol.1でも紹介した「MANOR HOUSE 英國発 貴族とメイドの90日」の広告が入っていました~!!!サイトでは見れない写真も入っていてちょっと嬉しい。そして森薫さんのコメント!コメントに載っていた本持ってます。メイド漫画も描いています。DVDも買います。そういえばエマのあとがきにこのDVDの書籍もあるとか。それは日本語化されますよね~???それはともかくDVDがとにかく楽しみです♪エマ8巻を買って広告を見た方は一度DVDサイトを見てください!絶対興味持ちます!
で、今回の記事の本題です。ちょっとエマとDVD広告ではっちゃけちゃいました。使用人になるにはということで、今回からは雇用と賃金についてをまとめます。これもまた複数回に分けての投稿です。んで、今回は使用人になるまでを見てみたいと思います。今回から画像も入っちゃいます。見難かったらごめんなさい。
それではどうぞ♪



◆使用人になる方法と準備

使用人になるためには基本的には家族、知人を頼るか、求人広告を見て応募するか、教会や就職斡旋所に登録して紹介してもらうという形をとります。例えば新聞に記事を出すとしたらこうです。

「若い英国人求む。フランス人のようにフランス語が扱え、子守、侍女、家庭教師としても通じればなお良い。旅行、カントリーハウスへの同行は支障のないこと」(図1)

これは1853年のタイムズに寄せられていた求人広告欄の1つです。使用人になりたい人々はこのような記事から自分に合った就職先を見つけるのでした。しかしながら上記の記事を見てもわかるように、手に何かしらの技術を持ち得ていない場合は非常に就職に困難をきたしていたのはいうまでもありません。フランス語ができるかどうか、フランス料理、英国料理ができるかどうか、容姿、などの要求は高かったようです。では使用人になるために人々はどのような活動を行っていたのかをまずは見ていくことにしましょう。
女性が公に働くということに厳しい時代、働くといえば使用人としての道以外にない女性が英国では大半を占めていました。将来、家を出て働くしか選択肢のない女性は少女時代から家事奉公に向けての訓練をしていました。主に母親の家事の手伝いから、日雇いなどのアルバイトなど、何かしらの仕事をして、将来家事奉公に出た時に必要になる制服の購入費を貯めつつ、まだ見ぬ奉公先への準備をしていました。しかし準備期間もさほど長くは無かったようで、家事奉公に出た少女たちはほとんどが15歳前後で、1870年代では10歳に届かない少女たち700人以上が存在していました。これは少女に関しての年齢ですが、ほぼ全般的に男性、女性に関わらず奉公に出される年齢は低年齢でした。幼いうちに見習い、下働きとして働き仕事を覚えることが多かったのです。
しかしこれらの事情も1870年に初等教育法が成立したことで変化をはじめ、1880年での義務教育の導入で状況を一変しました。いままでは家事手伝いやアルバイトで就職準備ができましたが、学校に出なければならなくなった子どもたちは就職に向けての教育を受ける機会を失うことになりました。学校に出たところで将来就職もできずにあぶれるような子どもたちが出るだろうことに世間は危惧し、学校教育での家事奉公教育の必要性が高らかに叫ばれました。人々はこどもたちに針仕事、暖炉の掃除、炊事洗濯、などの家事仕事の仕方を習わせるように学校に要求するも、ほとんどの学校はその声を無視し針仕事のみを導入した教育を押し進めました。これでは困ったことになると考えた人々は公教育への要求をあきらめ、家事使用人の専門学校を作ることにしました。19世紀末には家事使用人訓練学校 Domestic Servant Training School20個ほどができました。しかしながら全てが善良な施設であったわけではなかったようで、入学にも性別制限、性格制限がある時もあり、また家事奉公の訓練ではなく犯罪の手引きをする施設もありました。


ヴィクトリア時代の使用人 vol.5 使用人の成り立ち:普及する使用人と男性使用人の減少

2007-03-24 18:02:00 | 使用人関係

たまにシムピープルをします。パソコン版です。しかも初代です。けど初代が素敵なんです。自分の中では。なぜかといえば!ヴィクトリア朝をまんま再現できるんです!!!!家から人から!!!!たまに現代的な車が来ますが。けれどもそれを差し置いてもパソコン内にプチヴィクトリア朝が現れるのですよ、紳士!!!!メイドや執事も雇えるんですよ!!!!ただメイドは一人しか雇えませんが。さらに派遣メイドなので住み込みでは働いてくれません。執事も当然派遣なので帰りません。まさに派遣の品格顔負けです。ただし、仕事が残っていようと容赦なく帰ります。
それはともかく使用人の成り立ちパート3です。これでこの話はやっとお終いです。やっとです。今回は使用人が段々と一般化していき、それに対して法整備がされたり、今までいたお客様扱いの男性使用人たちが減少していく様子を見ていきたいと思います。
では、どうぞ~♪



◆普及する使用人と男性使用人の減少

この中世時代は、しかしながらヴィクトリア時代と違い上流と呼ばれる王族・貴族階級やその下の紳士階級を除いては、使用人を必要とする生活を送ってはいませんでした。田園地帯にある村などで使用人を必要とする場所は聖職者のもとぐらいでした。また都市部を見たとしても大きな商人家庭でさえも使用人を雇うことはなく、妻かその娘が家事をしていました。
けれどもこの状況は16世紀までに徐々に変化していき、中流階級の生活の向上に伴って使用人がそこに広まっていくことになります。そして一家に使用人を雇うことが当たり前となり、20世紀まで使用人の普及は止まることはありませんでした。
一般市民にまで使用人の普及が広まりはじめると、使用人と雇用者の立場の明確化を図る法令がチューダー朝で確立し始めました。1563年に「職人法 Statute of Artificers」(1563年の英国の労働立法。正式には『職人、日雇い、農事奉公人および徒弟に対する諸命令に関する法律』パメラ・ホーン著 / 子安雅博訳『ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界―』 p. 9)が公布され、雇用期間、罰則などの契約に関する規定が明確化されました。しかしその内容は使用人に対して不利なものが多く、罰を犯した使用人に対しての体罰は17世紀まで慣例として認められていました。
さて、中世の使用人はほぼ男性で組織されていました。17世紀の英国では大所領地の屋敷では厨房の中には男性しかおらず、常駐していた女性使用人も10名もいません。当時の使用人社会の中でも男性優位であったのが見てとれます。
しかしこの男性優位の使用人世界も18世紀に入ると一気に逆転することになります。「教育における使用人」たちは16世紀を境に消え、また17世紀にかけては、上流階級でもまだ下位であった紳士階級・ジェントリたちの地位の向上により、その階級に属していた男性使用人は、自分の立場に不満を持つようになり、徐々に数を減少させていきました。また産業の発展に伴い、男性自身の思想に「自立」と「プライド」が芽生え始め、主人にとって快くない男性使用人の存在が目立ち始めました。そして男性使用人離れを決定的にしたのは税金制度の導入でした。
人々が男性使用人の存在価値に疑問を持ち始めた18世紀に、男性使用人の多さに目を付けた当時の英国首相たちは戦争費を捻出するために1777年に使用人税を導入することにしました。さらに1785年に男性使用人の人数により税金が増えるスライド制を導入しました。男性使用人に課せられる税金の高さはさらに上がり、遂にほとんどの家庭からは高騰する雇用賃金の男性使用人を次々に手放すようになりました。19世紀になると、よほどの裕福な家庭でない限り男性使用人を雇うことは不可能でした。これらの要因が重なり、男性使用人の数は減少したのでした。そしてその代わりに雇用賃金の少ない女性使用人が各家庭に目立ち始めることになります。しかしながら上級女性使用人を雇うより下級男性使用人を雇うほうが家柄がよいという考えは相変わらず残ったままでした。


ヴィクトリア時代の使用人 vol.4 使用人の成り立ち:奴隷としての使用人

2007-03-23 21:19:59 | 使用人関係
今月頭にエマ8巻特装版を本屋さんで予約をしていたのですが、既にその時点で入荷未定で他の系列店から在庫をまわしてもらうので発売日から2、3日遅れるかも、と以前店頭で話をいただいたのですが、電話をもらいそれが無理そうだから出版社に予約をかけるので4、5日遅れの入荷になるらしかった。んが、しかし今日またまた電話があり出版社での初回予約が一旦終わっていたのか、手続きか何かで4月頭入荷になったそうです。エマが読めるのは来月ですか……。出先で見つけたら先に購入しちゃうのがよさそうな気がしてきました。このままやっぱり入荷無理でした~、なんてなったら目も当てられないので。

で、今回は使用人の成り立ちのパート2です。前回は優遇される使用人についてでしたが今回は反対に虐げられた使用人について取りあげます。
それではどうぞ♪



◆奴隷としての使用人

16世紀にかけて優遇される存在の使用人の反面にはやはり虐げられる存在の使用人がいたことは確かでした。特に食事や待遇面で虐待を受けていた使用人たちは大勢いたようです。英国の家事使用人の研究者であったパメラ・ホーンの調べでは、この虐げられた存在について、バルトロマエウス・アングリクス[Bartholomaeus Anglicus (1230?~1250) イングランドの宣教師でありパリ大学神学教授] の著作『万物特性論』De Proprietatibus rerumから例を出した。「それによると、「女性使用人は女主人の家庭内での方針を理解しなければならず、苦役や労役や汚い仕事をさせられた」のである」(パメラ・ホーン著 / 子安雅博訳『ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界―』 p. 6)とし、その女性使用人は食事も貧相で、鞭打たれることもあり、「奴隷という頚木に繋がれながら卑しい扱い」(パメラ・ホーン著 / 子安雅博訳『ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界―』 p. 7)を受けていたと語っています。

しかしこのような冷遇があったなかでさえも、中世英国内での使用人の数は多く、大領主の持つ使用人は100人であったこともあります。では、なぜ厳しい状況を送るかもしれないなかでも底辺の人々は使用人としての職をその当時求めていたのかを考えてみます。
大きな要因としては現状の生活水準よりもはるかに高い生活を送れることが挙げられます。つまり使用人という職の人気の
1つには福利厚生がある程度保障されていたこと、すなわち最低限の「衣食住」は提供され、給料も雀の涙ほどだとしてもいただくことができ、自分の仕事の評価が高さらに運が良ければチップを弾んでもらえる可能性もあるからです。しかしこの考えは使用人の最盛期であったヴィクトリア時代でも根底にあったと考えられます。


ヴィクトリア時代の使用人 vol.3 使用人の成り立ち:お客様としての使用人

2007-03-22 23:37:33 | 使用人関係
頻繁な記事投下です。その頻繁さをサイトの更新に向けられれば……。それはともかく今回はやっと使用人について触れることができます。使用人の存在が出現した頃の話がメインです。
で、今回の話は何回かに分けての記事投下になります。というのも一回の記事に10000字の制限があるので、キリのいいところで投下しちゃいます。今後もこんな感じで複数回に渡ると思いますが、飽きないで下さるとありがたいです。
では、どうぞ~。



◆お客様としての使用人

階級社会の統一がない長い時代の英国では、現在で使われている家事奉公としての「使用人」という存在は生まれてはおらず、主人に仕えるものはほぼ「奴隷」として扱われていました。そのため、彼らの売買が横行し、奴隷を酷使して殺してしまったとしても主人に対しての罪は軽いものでした。

「使用人」としての存在が成立したのは、ノルマン朝(10661154)となった英国からでした。しかし、当時の使用人の存在は現在の使用人というものから想像する概念とは少し異なったものでした。中世の英国では、「使用人」という言葉の意味が幅広く、現在認識される家事奉公のように「主人に召し仕える者」から「英才教育と古くからの慣習を学ぶために一時的に貴族に召し仕える貴族・紳士の若者」まであったため、「使用人」の言葉の意味には階級差別はありませんでした。ではその特別な存在であった使用人たちは一体どのような待遇だったのでしょうか。
主に特別な使用人は男性で、彼らは奉公先では「招かれたお客様」として接せられました。もちろん使用人という言葉から想像される、食器を洗うことや床を磨くことなどの雑務は近隣の農家から来た使用人が行っていたので、「英才教育と古くからの慣習を学ぶ」ことが目的の彼らは小姓や従者として主人に仕え、そこから礼儀作法、狩猟、武芸などを学んでいました。
ほとんどの「教育としての使用人」は数年を王族・貴族の屋敷や城で過ごし、その後に政界か宮廷生活に進んでいくのが通例でした。中にはそのまま奉公先に残り家令、または会計監査官となったケースも若干ながらあったようです。
17世紀になり、ピューリタン革命(164249)の混乱と闘争を境に「教育を目的にした、貴族が貴族に仕える」習慣も消滅してしまいました。しかし「お客様としての」女性の場合は、男性使用人の意識の変化による減少の補充的役割となり18世紀までその習慣は残ることになります。


ヴィクトリア時代の使用人 vol.2 英国での階級社会の誕生

2007-03-21 21:53:44 | 使用人関係
前回は使用人の存在のおおまかな話だったのですが、今回は使用人の話に移る前に、英国独特の階級意識についてを投下したいと思います。歴史の授業のような内容ですが、元が論文ですので……。とにかくそれは置いといて、今回の記事をどうぞ~♪



◆英国での階級社会の誕生

1.階級意識の目覚め

英国の歴史を遡っていけば、紀元前25万年前には人間が住んでいたといわれています。その時点では小さなコミュニティによる上下関係は動物の本能的なものであったと思われます。しかし、時代が進むに連れてコミュニティの拡大は進みました。紀元前2400年頃からストーンヘンジが建造されました。その原材料の石材は遠隔地から運ばれたものとされています。そこからストーンヘンジの建造時にはすでに1つのコミュニティが広範囲での支配を行っていたものと推測できます。ということはその時点でもすでに主従関係は存在していたと推測できますが、それは本能的な力での上下関係としての主従関係であり、富を得ているか否かの社会的「階級」意識から生まれたものではないと考えられます。しかし、後にローマの支配下になる頃には、階級という概念ではなく「身分」というものが定着し、社会に浸透しました。基本的には部族の首長、貴族、平民、そして奴隷です。では、英国での「階級社会」という存在が生まれたのはいつ頃なのでしょうか。
英国はケルト民族の渡来からはじまり、ローマ人の支配、ゲルマン人の渡来、デーン人の侵攻等様々な人種の争いで成長していきました。しかし、それらの時点では統一された階級制度はまだ確立されておらず、最終的に統一された階級制度の元になるものができたのは、1066年のノルマン征服以降のことになります。

2.封建制度の導入

ノルマン人であったノルマンディ公のギョームが前イングランド王の義弟だったハロルドの即位に対して不服を申し立てて王位継承争いを起こしたことがノルマン征服の始まりです。結果はギョームがヘイスティングズの戦いでハロルドを破り、ウィリアムⅠ世としてイングランドの王となり決着します。ウィリアムはフランス人だったため、アングロ・サクソン人の有力貴族からその所領を奪い、自分と同じフランス系の聖職者や騎士達に分け与えました。土地を与えられた彼らはその代償として王が要請する場合はいかなる時でも兵力を集めて参加するという誓いを立てることになります。つまり「主君である王の保護と土地の給与にたいして家臣である騎士たちの臣従と奉仕の関係」(青山吉信『イギリス史1』 p. 208)の成立が封建制度の始まりになります。それによって、王と貴族、貴族とジェントリ、そしてその下の農民の階層が成り立ちました。この封建制度でもたらされた階級制度は形を変えながらも存続を続けることになります。
16世紀、ウィリアム・ハリソンはイギリスに住んでいる人間を4つの種類に分類し、以下のように国民を分けました。

①ジェントルマン
1.貴族(爵位を所持) 2.騎士(knight) 3.郷士(esquire) 4.ただの紳士(simple gentleman)
定義:家系と血筋があるか、日ごろの行いが良く、高貴で名声がある
②市民(citizens and burgesses) 定義:職業と市民権の有無
③農村のヨーマン → 土地自由保有農民 借地農民
定義:自分のもの、または借りたもの、どちらかであっても土地を所有している
④労働者 → 日雇い人、職人、使用人、農夫など
定義:支配される立場であって、支配することがない立場の人々

以上の種類が、階級の定着の土台となり、また基本的な分け方の目安とされました。4つの種類がありますが、当時の認識では、大きく分ければ上流階級かそれ以下であるかの2つの階級認識だったと考えられます。

ヴィクトリア時代の使用人 vol.1 はじめに

2007-03-21 01:37:39 | 使用人関係
DVDで「MANOR HOUSE 英國発 貴族とメイドの90日」という英国で放送されたテレビ企画番組が日本に登場します!一般応募で選ばれた人たちがそれぞれ、エドワード王朝のカントリーハウスに住む住人に扮し期間限定でその当時の生活(ロールプレイ)しちゃうというとても素敵な企画!ドラマではないのでその当時のルールを厳格に忠実に再現しちゃうので、妥協なんてありません。もとは普通の一般人が、階上の住人と階下の住人に分かれちゃったら、さぁ大変。主人と使用人の生活は正反対。というリアリティ番組なんです!!!
それにしてもここ最近、英国使用人が注目されてるのかそれ関係のものが増えてきている気がします。メイド喫茶のブームや漫画のエマが賞をとったなどが大きいのでしょうが、自分としては英国使用人ブーム?!が徐々に来ているのかとうきうきしています。DVDも発売されるのだからねぇ~♪そんななかこのDVDの情報を見て、当時の使用人について興味を持った人も出てくるのではないかと思います。前知識としてそれ関連の本を探してみたりとか、インターネットで検索とかする人も多いかと思います。
それに便乗しちゃいます♪
ヴィクトリア時代の使用人について書いてたものがあるのですが、特にサイトに掲載も無くそのまんま放置ももったいないのでブログの記事としてチョコチョコ変更しつつ投下したいと思います。ちなみにDVDの再現されているのはエドワード王朝というヴィクトリア女王の次の時代に当たるので内容は少し前の話になりますが、基本的に共通する無いようですので気にしな~い♪では、DVDをさらに楽しく見れる???かもしれない情報を更新予定です。
では、まずは前フリをどうぞです!!



◆はじめに

かつて「陽の沈まない国」と呼ばれた英国。その歴史の中でも、ヴィクトリア時代が最も英国が栄えた時代です。年を頂点とした産業革命によって貴族階級(称号持ちの金持ち:公爵や男爵など)に対してもともとは中流以下の階級の住民が新興勢力として商業からの成り上がりとなり、上流階級へと進出していきました。しかしその栄華の光が増せば増すほど、それに伴う影はますます色濃くなっていきます。
産業が栄えたなかでさえ、ロンドンにはスラムが広がり、物乞いや孤児などの日々の生活に苦労する人々の存在は段々と表面化していくことになります。使用人の存在は、このヴィクトリア時代で中流階級の社会立場が一気に向上することから大きく変わります。
産業革命で中流家庭の経済の余裕にもつながり、使用人を所有する幅が広くなり、そのためこの時代での使用人の数は英国で一番多くなります。そして今までの「貴族たちの生活の使用人」の存在は、新興勢力となった商業をなりわいとする中流階級へも広がり、この時代での「生活の必需品として使用人」として絶対に欠けてはならないステータスシンボルとしての存在することになります。つまり貴族だけが雇えるものではなくなったのでした。


ヴィクトリアーンなポートレイトといまどきメイド

2007-03-11 11:08:53 | 創作関係
ちょっと落書き程度に描いていた絵が自分としては気に入ったのでレトロ調に着色してみました。

ところで、たまに聞かれるのですが「メイドならなんでも好きですか?」の質問。
「ヴィクトリア朝や生粋の英国使用人が好き」というのが答えです。
なので、メイド喫茶には目もくれません。ロリロリやミニスカのなんちゃってメイドさんも興味がありません。どうもロリロリやいまどき萌え系は「性的対象」としての描かれ方がしていてどうも好きになれません。やたら胸を強調した服とか、あんたワカメちゃん状態になりそうだよ、なスカート丈。本格的英国メイド喫茶もあるとは思いますが、結局のところメイド喫茶であるんですよ・・・・。

そういうメイドの良さはきっと分かる人にはわかるんでしょうが、自分にはまったく持って理解ができないところです。多分、自分が好きなのはアイドルとしてのメイドではないってことなんでしょうかね???