谺して山ほととぎすほしいまゝ (久女ブログ)

近代女性俳句の草分け的存在である杉田久女について

俳人杉田久女(考) ~終章~ (90)

2017年03月30日 | 俳人杉田久女(考)

英彦山高住神社(豊前坊)の参道脇にある杉田久女の句碑をはじめて見て以来、40年以上の年月が過ぎました。句碑に出会って数年後に、久女が、当時私が住んでいた北九州市の旧制小倉中学(現小倉高校)の美術教師の妻であったことを知り、以来彼女を身近に感じ、新聞、雑誌などで彼女の記事が出ると切り抜いたり、久女関係の本を読んだりしてきました。

同世代の方々の書かれたブログを読むのが好きな私は、読ませていただいているうちに、自分も好きな旅行やそれまでに調べていた杉田久女についてのブログを、書いてみたいと思う様になりました。

が、旅行ブログは旅行に行きさえすれば書けましたが、久女についてはそんなに簡単にはいきませんでした。

久女という俳人の人生を辿るなどということが、筆力、考察力が無い私に果たして出来るのか。又久女について書くとなれば、彼女の師、高浜虚子との確執にふれない訳にはいかず、それは高浜虚子批判になるのはわかっていましたので、そこに踏み込むにはためらいがありました。その様なわけで、ブログを始めて数年経つのに久女についてのブログは書き出せないままでした。

ですが私自身もだいぶ歳をとり、これまでに久女について私が感じたことを、素直な気持ちで自分なりにまとめてみたい、という思いが再び強く
湧いて来て、無謀にも俳人杉田久女(考)を書き始めることにしました。

始めると色々な意味で後悔することしきりでしたが、曲がりなりにもよく最後まで辿り着けたなぁというのが正直な気持ちです。

続けられたのは久女の俳句がますます好きになり、また他の俳人達の俳句作品を鑑賞するのが楽しくなって来たからかもしれません。これは久女が私にくれた贈り物だという思いがします。

本当に拙い道端の小石の様なブログ、「谺して山ほととぎすほしいまゝ(久女ブログ)」
ですが、天上の杉田久女の御霊に、謹んでこれを捧げさせて頂きたいと思います。

(平成28年12月20日 記)                   
                                                          
                                                                             
     

             【完】


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俳人杉田久女(考) ~私の久女像~ (89)

2017年03月29日 | 俳人杉田久女(考)

ブログのカテゴリーに俳人杉田久女(考)を加え、杉田久女について書き出して約1年半になりますが、書くことによりそれまで自分の中にあった久女像が、より鮮明になってきた気がします。

結果的にみると、久女は高浜虚子により育てられ、しかし身内偏重の虚子により『ホトトギス』から追放されてしまいました。久女の追放が俳句の理念上からそうなったのであれば、私が何も言うことはありません。が、これまで見てきたようにそうではありませんでした。俳句理念上からの追放ではないところに久女の悲劇がある様に思います。
                     


のんきなお嬢さん育ちだった久女(当時は久)が、芸術家の妻にという願いで、美術学校出身の青年の元に嫁ぎます。しかしいつの間にか夫は絵筆を取らず田舎の美術教師におさまっていき、手の届くところにあるとみえた将来への夢や希望はうたかたの様に消えてしまいました。

そのようなことから夫婦の間には絶えず隙間風が吹いていましたが、教師の妻として二人の娘の母として生き、満たされぬ思いを抱きながらも俳句によって生き直そうとしました。高浜虚子に師事し『ホトトギス』に投句することにより、久女は次第に俳壇で認められる存在になっていきました。

その後、俳人杉田久女として彼女の人生が完結していれば、それは一つの答えを得た生涯ということが出来、夫との間には齟齬をきたしたとしても、救われる思いがします。

しかし久女の場合、俳人としての生命も『ホトトギス』除名で無残にも断たれ、次第に精彩を失い10年後に誰にも看取られることなく亡くなりました。しかもそこは鉄格子のある病室でした。

久女がほどほどで妥協し心を切り替えることが出来る人であれば、晩年の不幸は避けられたかもしれません。しかし彼女は俳句に全人生をかけ又俳句に執念を燃やす人だったが故にそれが出来ませんでした。自身の才能、才華ゆえに俳句に執念を燃やし破綻したと言えるかもしれません。

『ホトトギス』に復帰困難と感じた時、それまでに誘われていた水原秋櫻子主宰の『馬酔木』に移るとか、また非常に困難な道ですが一派を立てるとかを何故しなかったのか。そうすれば違った展望が開けてきたのではと思わずにはいられませんが、しかしあまりにも虚子に連なる俳句の世界にとらわれ過ぎていたため、それが出来なかったのでしょう。

一方で、師というものは、弟子の死後までも、これ程のことをするものだろうか、という思いが私から消えません。久女没後、高浜虚子は回想文「墓に詣り度いと思ってをる」、創作「国子の手紙」、『杉田久女句集』序文などで遺族の心を逆撫でするような文章を発表し続けていました。

そしてそれらの文章を盾にした、様々な久女批判の文章も多く見られました。虚栄心が強い女、人一倍功名心が強かった、才能ある仲間を嫉妬すること甚だしかった、これらは現在でも久女を紹介する文章に時々見られる表現です。この表現は元を正せば、高浜虚子が書いたこれらの文章にかえって来ます。久女伝説などと言われるものも、おそらくこの辺りから生まれたものでしょう。

しかし近年、増田連氏、坂本宮尾氏など多くの人々の実証的研究が進み、誤りが正され、久女の実人生とフィクションが区別される様になったのは、私にとって嬉しいことです。

特に田辺聖子氏の評伝『花衣ぬぐやまつわる...』の力は大きく、そこでは従来の自己顕示的イメージから女性表現者の苦悩を真摯に生きる久女像への転換がなされています。

大正から昭和初期にかけて女流俳人の先駆けとなった杉田久女。時は流れ時代は変わっても、力強くまた優雅な久女の俳句は私達の心に訴えかけてきます。それは深い教養に裏打ちされた言語感覚、生まれながらの色彩感覚と合わせて、その句に人生の真実、ものごとの真実が詠み込まれているからだと思います。

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俳人杉田久女(考) ~私の好きな久女十五句~ (88)

2017年03月28日 | 俳人杉田久女(考)

杉田久女が生涯に残した俳句の数はそんなに多くはありません。『杉田久女句集』を紐解くと、久女といえども平凡なただごとの句も沢山ある様に思います。

しかし彼女が生み出した代表作、名吟と言われている句は、高い完成度を示し私達の胸に迫って来ます。それは執念ともいえる俳句に対する久女
の感情が、その俳句に託されているからでしょう。

「私の好きな〇〇十句」の様な表現を時々目にしますが、私の好きな久女の句はとても十句では納まりきれません。ここでは少し欲張って十五句挙げてみようと思います。

       「 花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ 」

       「 紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな 」

       「 朝顔や 濁り初めたる 市の空 」

       「 谺して 山ほととぎす ほしいまゝ 」

       「 愛蔵す 東籬の詩あり 菊枕 」

       「 風に落つ 楊貴妃桜 房のまゝ 」

       「 灌沐の 浄法身を 拝しける 」

       「 うらゝかや 斎祀れる 瓊の帯 」 

       「 荒れ初めし 社前の灘や 星祀る 」

       「 鶴舞ふや 日は金色の 雲を得て 」


上の10句に下の5句を加えて「私の好きな久女十五句」としたいと思います。

       「 葉鶏頭の いただき躍る 驟雨かな 」

             
「 戯曲よむ 冬夜の食器 浸けしまま 」

       「 秋来ぬと サファイア色の 小鯵買う 」

       「 張りとほす 女の意地や 藍ゆかた 」

       「 甦る 春の地霊や 蕗の薹 」

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俳人杉田久女(考) ~カルテ事件~ (87)

2017年03月27日 | 俳人杉田久女(考)

杉田久女のことを調べていると、理解に苦しむ不可解な出来事に時々ぶつかるのですが、このカルテ事件もその一つです。

この事は彼女の没後に起こったことで、昭和20年10月末に県立筑紫保養院に入院した久女でしたが、その入院中の久女のカルテが、没後遺族ではない誰かによって持ち出され、さらにそれがひそかに特定の人々の手から手に渡った形跡があることです。

(62)(63)の記事に書いた増田連著『杉田久女ノート』の「その後と死」という項目の最後辺りに、〈虚子の「俳諧日記」(昭和27年8月号『玉藻』)には五月十二日 小田小石、杉田久女の病床日記を携え来るとの記載がある〉とあります。
<増田連著『杉田久女ノート』>

病床日記というと、入院中に久女がつけていた日記という意味にもとれますが、彼女が日記を書ける状態ではなかったことは誰にでもわかることです。

久女のカルテは正式には「福岡県立筑紫保養院 病牀日誌」というそうなので、虚子が『玉藻』に書いている「病床日記」と名称が非常によく似ています。

なので小田小石という人物が虚子のところに持参したのは、久女のカルテではと思われます。高浜虚子はどんな必要があって、久女のカルテを見なければならなかったのでしょうか。またどんな経緯で、遺族ではない人の手で病院から持ち出されたのでしょうか。非常に不思議に思います。

田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』によると、北九州市在住の医師、俳人の横山白虹氏が書いた「一本の鞭」という文章があり、それには彼が昭和29年5月に橋本多佳子と共に筑紫保養院に行き、<院長は九大の後輩だったので、久女さんのカルテの写しを所望した>との記述があり、<終戦直後のことで病床日誌というほどのものはなく、体温表に時々症状が記載されてある程度のものだった。暫くして送られてきたものは、写しではなく本物ではないかという気がし始めた。手擦れの具合、紙の古さ、綴穴の具合などが新しいもののように思えなかったのである。『菊枕』に出て来る独語独笑というのは、その体温表の所々に記載されてあった。(中略)私の所に送られて来たものは平畑静塔、橋本多佳子と転送されているうちに、私の所には戻って来なかった>と書かれているそうです。

上の文章を読んだ時、私は非常に驚きました。この文章を書いた横山白虹という人物が、学校の先輩後輩の間柄を使って、自分が久女のカルテを持ち出したと言っているも同然だからです。

横山白虹という人物は久女の遺族ではない第三者ですが、どんな理由があってカルテを持ちだしたのでしょうか。又医師は何故第三者にカルテを渡したのでしょうか。しかも次々に転送されているうちに自分の所にはもどってこなかったとは、なんと無責任な話でしょう。

上の文章の中にある『菊枕』は松本清張が杉田久女をモデルに書いた小説(この小説の記事を(43)で書いています)で、彼はこの小説を書くにあたり横山白虹や橋本多佳子に取材したと彼自身で書いています。その取材の折にカルテの話が出るか、又はカルテその物を見るかしてカルテに書いてあった独語独笑という言葉を小説に使ったものだと思われます。


カルテ事件を見てきて思うのは、患者の病状に対し守秘義務のある医師が、患者のカルテを遺族ではない第三者に渡したこと、また渡すことを要求した第三者がいたという事実の不可解さです。この様なことから、久女をとりまく一部の人々は、彼女の死を好奇で加虐性を帯びた目で見ていたと感じます。

田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』によれば、戦後の一時期、病院の綴じ込みから外され無くなっていると言われていた久女のカルテは、昭和56年秋に田辺さんが
筑紫保養院(現在の太宰府病院)を訪れた時、副院長先生から「途中行方不明になっていつの間にか戻って来たのかどうかは調べようがないが、今はある」と言われたそうです。カルテは戻るべきところに戻ったということでしょうね。


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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子の汚点~ (86)

2017年03月26日 | 俳人杉田久女(考)

高浜虚子は昭和29年に俳句界唯一の文化勲章を受章し、一国の名士にまで登りつめた人ですが、前回(85)の記事で書いた様に、この人の俳人としての人生には幾つかの汚点がある様に思います。

汚点の一つは、昭和11年に虚子自らが行った、杉田久女の『ホトトギス』からの除名処分を正当化するためであると思われますが、彼女の死後「墓に詣り度いと思ってをる」や久女の遺句集『杉田久女句集』序文で、死者に鞭打つ様に事実ではないことを書いたことです。

もう一つの汚点は、久女の死から2年8ヶ月後に、昭和9年に久女から来たとされる私信を「国子の手紙」というひどい形で公表したことです。

久女が書いた手紙は、虚子宛に出した完全な私信です。私信を、日本中の人が読むことが出来る『文体』という雑誌に、創作「国子の手紙」という形で公表するなど、常識では考えられないことです。

この手紙の公表については、虚子は久女の長女昌子さんに公表の承諾を得ているようですが、考えてみれば昌子さんは、久女の手紙の内容について承諾する時点では分らなかった訳ですし、当時昌子さんは、久女の遺句集に虚子の序文がほしくて懸命になっていたことを考えると、手紙公表の承諾をするについて、彼女の気持ちの苦しさが伝わってくるような思いがします。

高浜虚子は久女に関する3つの文章、回想文「墓に詣り度いと思ってをる」、創作「国子の手紙」、『杉田久女句集』序文を書くことにより、久女が除名前に既に狂っていたとの風説を流し、久女を『ホトトギス』から除名した自分の処置を正当化したかったようです。

が、時が経つにつれて、これらの文章が虚構文であるという資料や証言が出て来るにつれて、逆に高浜虚子側の問題点が浮き彫りになってきました。

今日、風説の流布はれっきとした犯罪なのです。私は杉田久女の生涯を辿っていくうちに、高浜虚子がこれらの虚構文を書いたこと、また久女からの私信を自分の創作という形で発表したという二つの事実を知り、あの高浜虚子がまさかこんなことをするなんてと、驚きを禁じえませんでした。

彼の俳人としての号である、虚子の「虚」、私には「虚構の人」の「虚」の様な感じさえします。

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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子再考~(85)

2017年03月25日 | 俳人杉田久女(考)

(58)の記事で杉田久女の師、高浜虚子について書きましたが、もう一度ここで高浜虚子について考えてみます。
<高浜虚子1874-1959>

『ホトトギス』の弟子達からみた高浜虚子は、柔和な表情で物事に動ぜず宣伝がましい態度がない人、語る言葉は淡々と平明、それでいて冒し難い威厳を備え周りを魅了する人であったなどと描写されています。

久女の師でもあった高浜虚子の中には、他の弟子たちの言う温顔、包容力、達観といったものは、事実
ある程度はあったのでしょう。がしかし、これまで杉田久女の生涯を辿ってきて私が感じることは、それとは全く別の、ある種の恐ろしさ、非情さ、打算、計算高さをも合わせ持つ人であった様に思います。

田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...(下)』の中にある記述ですが、〈昭和13年『ホトトギス』4月号は400号記念号であった。290ページの大部なものである。たくさんの人が執筆しているが、「高浜さんと私」という安倍能成の一文がある。その中に「世間ではよく高浜さんの利口と打算とをいう」とある。これは「そういう方面もあるかもしれないが私にはそういう方の接触はない」とつづくのである〉と書かれています。

私はその安倍能成の一文を読んではいませんが、その頃世間では高浜虚子は打算的であると実際に囁かれていたのでしょう。

死者に鞭打つように、「墓に詣り度いと思ってをる」や『杉田久女句集』序文で、事実とは違うこと、嘘を書いてまで、弟子久女が除名前に既に狂っていたという風説を世間に流そうとしたのも、虚子自らが行った久女除名処分を正当化しようとの打算、計算が働いての事だった様に思われます。

高浜虚子はこれらの虚構文を書くことにより、弟子久女が狂っていたので昭和11年に『ホトトギス』同人を除名したと言いたいようですが、これはおかしな論理だと思います。

仮に彼女がそのような状態であれば、それは病気であり一ページに大きく掲げて除名処分するなど常識では考えられません。虚子が除名処分などしなくても、自然と俳句界から消えていくはずです。

では何故、一ページに大きく掲げて同人除名したのでしょうか。それは周りに明らかに出来ないだけで、そうするだけの明確な理由が虚子の胸にあったからと思われます。

これまでにも書いていますがその理由とは、自分が勧めて俳誌『玉藻』を主宰させた愛娘の星野立子が、実力ある俳人久女の影に隠れてしまうのを恐れた為だと考えられます。

虚子の胸の内だけにある、この久女除名の本当の理由を、彼は公言できないのは当然でしょう。ですから同人除名処置を、久女の異常性格、狂気にからめて正当化する意図があったのだと思います。

また、久女の死後、虚構文を書いてまで事実を歪めようとしたのも、嘘を書いて白を黒と言いくるめることが平気で出来る人だったからでしょう。

そして、そのような事をしても、恬としてひるまない、この様な所にも弟子たちに普段見せているのとは全く別の、高浜虚子のある種の恐ろしさ、
非情さが見え隠れする様に思います。

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俳人杉田久女(考) ~『杉田久女句集』序文の問題点~ (84)

2017年03月24日 | 俳人杉田久女(考)

前回の(83)で書いた様に、『杉田久女句集』に添えられた高浜虚子の序文を読むと、この文章は不自然で、序文にそぐわないものに思えて仕方ありません。久女生前に序文懇願を無視したのと同じ気持ちが、まだ虚子の中にある様に感じます。

虚子は久女を「女流俳人として輝かしい存在」「群を抜いていた」と書いていて、彼女の才能を認め、その俳句作品に清艶香華という言葉を贈っています。久女俳句を見抜いた虚子ならではの言葉だとは思います。

がしかし、「久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり」や「精神分裂の度を早めた」などとも書いていて、弟子の遺句集を世に送り出すはなむけの序文であるとはとても思えません。

虚子は久女の代表句として十句あげていますが、人にはそれぞれ好みがあるといえばそれまでですが、もっとピッタリくるものが何句でもある様な気がするのです。

例えば、楊貴妃桜の句が三句あげられていますが、久女の句を出来るだけ多く紹介するという立場で考えると、十句のうち三句までが楊貴妃桜の句というのは首をかしげたくなります。

同じ場所で詠まれた、この楊貴妃桜の三句をどうしてもあげたいならば、三句をまとめて配列してこそ、作品効果が出るのだと思います。句の順序も1番目が〈風におつ 楊貴妃桜 房のまま〉、2番目が〈むれ落ちて 楊貴妃桜 房のまま>、3番目が〈むれ落ちて楊貴妃桜 尚あせず〉に当然すべきで、なぜ、この三句の間に別の句をはさむという、こんな配列になっているのか、理解に苦しみます。

それに、2番目にあげている句の〈灌浴〉は、正確には〈灌沐〉です(これは誤植かもしれませんが)。

さらにこの序文の重大な問題点は、高浜虚子はここでもまた事実と違うこと、嘘を書いていることです。

久女の句稿の原本について、虚子は「全く句集の体を為さない、ただ乱暴に書き散らしたものであった」と序文で書いています。しかし、久女の長女昌子さんは、これは事実と違っていると述べています。

昌子さんは著書『杉田久女』に、<私は母の句稿の原本がもし紛失することでもあったらという不安と、又、その原本が墨書であり、句を巻紙に抽出したものであった、ということから、母の亡くなった直後に、原稿用紙に清記しておいたものであった。したがって虚子先生は母の句稿に目を触れられてはいないのだった。>と書いておられます。
<石昌子著『杉田久女』>

昌子さんは虚子に見せたのは久女の句稿の原本そのものではない、昌子さんが原稿用紙に清記したものと断言されています。当時は今日の様に簡単にコピーが出来る時代ではないので、万一久女の句稿の原本が紛失したら取り返しがつきません。なので貴重な原本そのものを、虚子に郵送したりしないのは当然でしょう。

なお、この句稿の原本は(71)の記事の写真にあるとおりで、ずっと久女の長女石昌子さんが大切に手元で保管されていましたが、現在は久女ゆかりの小倉北区の圓通寺に寄贈されています。写真を見てもわかる通り、虚子の言うように<全く句集の体を為さない、ただ乱暴に書き散らしたもの>ではないのは明らかです。

高浜虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」という一文と同じように、この序文の中でも久女の狂気を強調したいために、この様な嘘を書いたのだと思われます。

しかし、久女の長女昌子さんは<事実と違うといっても、お願いして書いて頂いた序文を事実通り書き直して欲しいと、私には言えなかった>とその著書の中で書いておられます。それはそうでしょうね。

ですから、昭和27年10月出版の『杉田久女句集』には高浜虚子が書いた序文がそのまま載せてありますが、昭和44年7月に同じ角川書店より出版された増補版の『杉田久女句集』にはこの虚子の序文と悼句は、省かれています。この序文は久女に対する偏見を助長すると、昌子さんは考えたのだと思います。

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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子が書いた『杉田久女句集』序文~ (83)

2017年03月22日 | 俳人杉田久女(考)

久女の長女昌子さんは、生前の母から託された句集出版を何としても果たしたく、苦労の末かろうじて、高浜虚子から序文を貰い、昭和27年10月、角川書店からの『杉田久女句集』出版にこぎつけました。

虚子が書いたその序文を『杉田久女句集』から、全文
引用してみます。

 「 序 」
杉田久女さんは大正昭和にかけて女流俳人として輝かしい存在であった。ホトトギス雑詠の投句家のうちでも群を抜いていた。生前一時その句集を刊行したいと言って私に序文を書けという要請があった。喜んでその需めに応ずべきであったが、その時分の久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり、私はたやすくそれには応じなかった。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めたかと思われる節も無いではなかったが、併しながら、私はその需めに応ずることをしなかった。

久女さんの没後、その長女の石昌子さんから、母の遺稿を出版したいのだが、一応目を通して呉れないか、という依頼を受けた。私は喜んでお引き受けするという返事を出した。送って来たその遺稿というものを見ると、全く句集の体を為さない、ただ乱暴に書き散らしたものであった。それを整正し且つ清書する事を昌子さんに話した。昌子さんは丹念にそれを清書して再びその草稿を送って来た。私は句になっていると思われるものに〇を付して、それを返した。その面白いと思われる句は、曾てホトトギスの雑詠欄その他で一通り私の目に触れたものである様に思えた。他に遺珠と思われるものはそう沢山は無かった。試しにその句、数句を挙げてみようならば、

    「 無憂華の 樹かげはいづこ 仏生会 」

    「 灌浴の 浄法身を 拝しける 」

    「 花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ 」

    「 むれ落ちて 楊貴妃桜 尚あせず 」 

    「 咲き移る 外山の花を めで住めリ 」

    「 桜咲く 宇佐の呉橋 うちわたり 」

    「 風に落つ 楊貴妃桜 房のまま 」

    「 むれ落ちて 楊貴妃桜 房のまま 」

    「 菊干すや 東籬の菊も つみそえて 」

    「 摘み競ひ 企救の嫁菜は 籠にみてり 」

これらの句は清艶香華であって、久女独特のものである。尚この種の句は他に多い。生前の序文を書けといふその委嘱に応ずる事が出来なかった私は、昌子さんの求める儘に丹念にその句を克験してこれを返した。

   昭和二十六年八月十六日             
                                                                      鎌倉草庵  高浜虚子


以上が高浜虚子が遺句集『杉田久女句集』に書いた序文ですが、これを読むと、どこか不自然で弟子久女の遺句集出版を祝い、多くの人々からこの句集が受け入れられることを願って書いたとは思えない文章だと感じます。

それともう一つ、これは北九州市立文学館の学芸員の方から直接聞いた話ですが、高浜虚子は、
(80
)の記事にある自身が書いた創作「国子の手紙」を、『杉田久女句集』巻末に採録しようとしていたのだそうです。

「国子の手紙」は虚子が久女の狂気を世間に知らしめるために書いたものだといわれていますが、その創作を『杉田久女句集』巻末に載せるという行為には、死者に鞭打つことが出来る執拗さや、
人間として師としての思いやり慈しみに欠ける、彼の非情な人格がかいま見える様に思います。

しかし、結果的に虚子の創作「国子の手紙」は、中央公論社の方に載ることになった為、『杉田久女句集』に載せることはなかった、との学芸員の方のお話しでした。

次の記事でこの序文について、私が感じることを書いてみようと思います。


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俳人杉田久女(考) ~『杉田久女句集』出版までのいきさつ~ (82)

2017年03月20日 | 俳人杉田久女(考)

前回(81)記事では、『杉田久女句集』出版までのいきさつについて、詳しく触れていませんので、この遺句集は比較的スムーズに出版された様に感じられるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。

久女の生前はいくら懇願されても久女の句集に序文を与えなかった高浜虚子でしたが、彼女の死後もそんなにすんなりとは運びませんでした。

今まで述べた様に、高浜虚子は久女の死後、『ホトトギス』やその他の雑誌に、死者に鞭打つ様な、久女叩きとも受け取れる文章を次々に発表していました。

それらの文章には、虚子が久女を同人除名した処置を正当化しようとする意図があったと思われますが、その内容は「常軌を逸していた」、あるいは「狂人」という点のみを強調し、久女が除名前から狂っていたという風説を流すものでした。

久女の長女昌子さんにとって、この様な時期の虚子に、母の遺句集に序文を書いてほしいとお願いするのは、相当大変だったと思います。

昌子さんの書かれた文章によると、出版社を決めようとすると「久女さんのものを出版すると、虚子先生からの出版物がいただけなくなる。久女さんのものは虚子先生から差し止めがあって...」という理由で断られたこともあったようです。つまり虚子は、久女が彼の序文なしでの句集を出版出来ない様に、妨害工作までしていたのですね。これには驚くとともに、虚子ともあろう人が
何もそこまでしなくてもと思わずにはいられません。

色々思案した末、昌子さんのご主人、石一郎氏の師である川端康成(『伊豆の踊子』『雪国』の作者)を煩わせ、川端康成と石一郎氏が、句稿を持参して、鎌倉の虚子宅へお願いに行ったようです。

その様ないきさつがあり、久女の長女昌子さんは、苦労の末やっとの思いで、かろうじて高浜虚子から序文を貰い、昭和27年10月、角川書店からの『杉田久女句集』出版にこぎつけたのでした。

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俳人杉田久女(考) ~悲願の『杉田久女句集』出版~ (81)

2017年03月18日 | 俳人杉田久女(考)

久女の死後、昭和27(1952)年に角川書店から高浜虚子の序文とともに『杉田久女句集』が出版されました。この句集こそ、久女生前の悲願が結実したものでした。
<『杉田久女句集』>

文庫本サイズの小さな句集で、収録句は1401句、最後に長女石昌子さんの「母久女の思い出」と年譜が載せられています。全部で175ページ、1ページに10句掲載され、装幀は池上浩山人でした(上の写真は久女展の図録を写しました)。


私はこの句集をH.23年の「花衣 俳人杉田久女」展で見ました。ネット古書店でみるとこの本は値段が高く、又、手に入れにくいらしく、私が現在持っているのは、北九州市立文学館が発行している下の『杉田久女句集』です。内容は上の角川書店発行のものと同じで
す。


虚子は序文とともに、悼久女と前書きがある下の悼句を寄せています。

       「 思い出し 悼む心や 露滋し      虚子 」


最初のページに、上の虚子の自筆悼句が印刷されています。
<最初のページに載っている虚子の悼句>

そして目次があり、その次のページに久女が熱望してやまなかった虚子の序文が載っています。しかし今日、この序文も何かと問題の多い文章だと久女研究者達に言われているようです。この序文については後の記事でふれましょう。


久女の長女石昌子さんは、久女の没後すぐに母から託された句集出版を決心しました。

昌子さんは、久女の師高浜虚子に母の死を知らせる手紙を書き、小倉からの荷物の中にあった墨書の遺句稿を原稿用紙に清書することから始めました。墨書のままでは印刷に廻しにくいのと句稿の散逸を恐れてのことだと思います。句稿は巻紙に美しい筆跡で墨書してありました((71)の記事の写真)。その後、
虚子から返事が来て7か月後に悼句をおくられました。

久女存命中は幾度懇願しても句集出版を許さなかった高浜虚子でしたが、受け取った句稿に目を通し、選句をして序文を与えました。

この様に久女の死後、彼女の長女昌子さんの懇請と尽力が実り、また関わりのある多くの人々の力添えで、
ようやく句集出版の運びとなりました。久女の死後六年余のことでした。


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俳人杉田久女(考) ~創作「国子の手紙」~ (80)

2017年03月16日 | 俳人杉田久女(考)

高浜虚子の書いた創作「国子の手紙」は、<こゝに国子という女があった。その女は沢山の手紙を残して死んだ。 (中略)国子はその頃の女子としては、教育を受けていた方であって、よこす手紙などは、所謂水茎の跡が麗しくて達筆であった。それに女流俳人のうちで優れた作家であるばかりでなく、男女を通じても立派な作家の一人であった。が、不幸にして遂にここに掲げる手紙の様な精神状態になって、その手紙も後には全く意味をなさない文字が乱雑に書き散らしてあるようになった>という書き出しで始まります。
<高浜虚子著「国子の手紙」>

この様に最初から<不幸にして遂にこゝに掲げる手紙の様な精神状態になって」や「全く意味をなさない文字が乱雑に書き散らしてあるようになった>などと、読者に先入観を与える書き方をしています。そして手紙の数の多さを繰り返し強調しています。

続けて、<俳句50年の生活の中で、狂人と思われる手紙を受け取ったことは他にもあるが、しかし国子の如く二百三十通に達したというのは珍しい>と書き、はなから国子を狂人だとしています。

この小説の中で、国子とは久女のことです。

次に、長女の昌子さんが
虚子に母、久女の死を伝える手紙と、彼女が久女の手紙の公開を承諾し、末尾に遠慮がちに母の句集出版の願いを申し出ている2通の手紙が続き、その後に久女から昭和9年に来たという19通の手紙が載せられ、それの幾つかに虚子が短い解説をはさむという構成になっています。

虚子は、反復しているところや奔放、放埓なと思われる点は省き、文章も晦渋と思われる部分は平明に書き改めたと書いています。久女の原文が現在ないので、虚子の加筆、修正について今日確認することは不可能です。
<高浜虚子 1874-1959>

虚子のいう久女の15通目の手紙では、<先生のお子様に対する御慈愛深い御文章に接すると、あの冷たい先生にも、かかる暖かい一面がおありかとしみじみ感じます。老獪と評される先生にこの暖かい血がおあり遊ばすことを誠に嬉しく存じ上げました。  (中略)先生ご自由にお突き落とし下さいまし。先生は老獪な王様ではありましょうが、芸術の神ではありませぬ。私は久遠の芸術の神へ額づきます。  (中略)ただせめて句集一巻だけを得たいと存じます。どんなに一心に句を励んでも、一生俳人として存在するさへ許されぬ私です。 句集出版のことはもう後へ引くことは出来ません。先生のご序文を頂戴いたしたく存じます>などと彼女は書いています。

<先生は老獪な王様ではありましょうが、芸術の神ではありませぬ>の様な師への言い方は、狂気とみられても仕方ないかもしれませんが、この時の久女のおかれた状態が、ある程度判っている私から見ると、彼女のぎりぎりの叫びかもしれないと思ったりもします。

今日、久女のこの手紙を読むと、序文を貰いたいばかりの必死さというか、追い詰められたところから来る身もだえする様な久女の絶望感が伝わって来て、彼女の哀れさに胸がつまります。

そして
敬語は完ぺきに使いこなされ、虚子が世間に知らしめようとした久女の「狂気」はそれほど強く伝わって来ません。それは「狂気」とは別のものの様な気がします。

これまでに(60)(61)の記事に書いた様に、「国子の手紙」にある久女の手紙が書かれたとされる昭和9(1934)年に、彼女は「鶴料理る」というエッセーを『かりたご』に載せ、また山口県八代(やしろ)村に行き美しい鶴の句61句を詠んでいます。そのどちらにも乱れはまったくありません。

又、久女は「国子の手紙」の中にある手紙を出したとされている、昭和9年に『ホトトギス』同人になっていますが、「国子の手紙」と同じ内容の手紙を虚子が実際に受け取っていたならば、なぜこの時期に虚子は彼女を『ホトトギス』同人にしたのか、素朴な疑問が湧いてきます。

また、久女は同人に推挙された、お礼の手紙を虚子に出しているはずですが、「国子の手紙」には載っていません。その様な普通の文面の手紙を、虚子は故意に省いたと考えられます。

高浜虚子の創作「国子の手紙」の中の19通の久女の手紙を貫くものは、句集を出版させてほしい、序文を書いてほしいという一念です。虚子がその気持ちを冷ややかに眺め、過激になってゆく手紙を机の中にとりのけておきながら、久女の序文懇願を黙殺し続けたことを、私は非常に不自然に感じます。

「国子の手紙」は虚子の創作であると主張しても、久女の長女昌子さんに久女の手紙公表の許可を得ている以上、国子が久女であることは否定のしようがありません。

ですから、師である高浜虚子が弟子久女の死後に彼女からの私信を、創作「国子の手紙」のようなひどい形で発表したという事実は残るのです。

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俳人杉田久女(考) ~「国子の手紙」について~ (79)

2017年03月15日 | 俳人杉田久女(考)

久女の師、高浜虚子は久女の死から2年8ヶ月後に『文体』という雑誌に、久女が昭和9年に虚子に出したとする手紙のうち19通を選んで、創作「国子の手紙」を発表しています。この作品は現在、『高浜虚子全集第7巻小説3』に納められているので、誰でも読むことが出来ます。


虚子は創作と言っていますが、
久女と彼女の長女昌子さんからの手紙に、虚子が短い解説を幾つか付けたもので構成された小説で、とても創作とは言えない不思議な奇妙な作品です。虚子は創作ということにして、周到にあらかじめ逃げ道を作っておいたと言えなくもないでしょう。
<高浜虚子 1874-1959>

虚子が久女からの手紙が不愉快だったとしても、死者に鞭打つ様なこんな大げさな形式をとって、私信を発表する必要が、何故あったのでしょうか。

彼はこの「国子の手紙」の中で、一言も同人除名の理由には触れず、ただ「常軌を逸していた」「狂人」という点のみを強調し、久女が狂っていたという風説を流すのだけが目的であった様に思えます。


普通に読むと、この久女の手紙は尋常な人が書いたものとは思えません。少なくともその頃の俳壇事情について、また当時の杉田久女の置かれた位置や心境について、ある程度知っていなければこの手紙の意味するものは解らないと思います。

久女がこれらの手紙を虚子に出したとされる昭和9年は、久女の才能が全開したといわれている時期ですが、昭和8年、昭和9年と二度の上京をして師の虚子に序文を懇願しても、虚子は序文を与えず、出版広告まで出た句集出版を久女の意志で中止したとされている年です。

久女にすれば、いくら考えてみても敬慕する師、虚子から序文を貰えない理由が判りませんでした
。それで妥協の出来ない一途な性格の久女は、「国子の手紙」にみられるような尋常ではない身もだえする様な凄まじい手紙を、虚子あてに書く様になったのだと思います。

この様な手紙を受け取った虚子は、久女がこんな手紙を書くようになった理由は判っていたはずですが、それでも序文を与えることは決してしませんでした。そればかりか、彼女から来たこれらの手紙を<これはおかしい、尋常ではない>とし、散逸させずにとりのけていた様です。

久女の本音が臆面もなく出ている、泣訴、哀願、強訴
のこれらの手紙を<これはおかしい、尋常ではない>として、とりのけておくという虚子の心の動きを、私は非常に興味深く思います。なぜ弟子の久女がこの様な手紙を書くようになったのかと考える心というか、そういうものは、虚子の中には全くなかったようです。

田辺聖子さんはその著書『花衣ぬぐやまつわる...』のなかで、<虚子のある種の「おそろしさ」を、久女は知らずに虚子に憧れ、虚子の愛顧するものを羨んだのである。私は久女の世間知らずというか、ある種の無智を、哀れまずにはいられない>と書いておられます。私も同感です。

次回は創作「国子の手紙」の内容について少し触れてみようと思います


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俳人杉田久女(考) ~本当の久女の箱根丸見送り風景~ (78)

2017年03月14日 | 俳人杉田久女(考)

久女の箱根丸見送り風景については、北九州市在住の増田連さんが、著書「杉田久女ノート」の中で詳しく検証されています。この本は杉田久女研究書として、久女の長女、石昌子さんの書かれたものとともによくまとまった労作で、足を使って調査研究した本であるとの評価を今日受けています。
<増田連著『杉田久女ノート』>

著者の増田氏は虚子の『渡仏日記』、日原方舟が俳誌『無花果』4月号に載せた「舟・人・梅」という文章、矢上蛍雪の書いた「門司の虚子先生」、久女の弟子で、久女が指導していた俳句サークル小倉白菊会々員の縫野いく代さんを直接取材した話から、この時の久女の行動を追っておられます。


綿密に調べた結果、箱根丸見送り時の久女の行動は(63)の記事にある通りでした(私は(63)の記事を『杉田久女ノート』を参考に書いています)。

◎ 久女一行が小舟で出帆を見送ったという事実はない。出航時間が来たので皆で岸壁から見送ったと、この時一緒だった久女の弟子の縫野いく代さんがそれを証明している。

◎ 帰路は虚子の『渡仏日記』から、門司に寄港していないことを突き止めた。虚子の文章は全くの虚構である。

◎ 虚子が「一字も読めなかった」という色紙については、矢上蛍雪が「虚子たのし 花の巴里へ 膝栗毛」という短冊(虚子は色紙と言っているが)の存在を彼自身の文章の中で認めている。何故虚子だけが一字も読めなかったのか。

と結論付けておられます。この様に虚子が「墓に詣りたいと思ってをる」で述べている内容は、
事実と大きく違っています。なのでこの一文の箱根丸見送り事件に関する部分は、今日、高浜虚子の虚構文であると指摘されています。

私は久女が異常な行動をしたかの如く読者に印象付けるために、虚子は嘘を書いてまで、こんな文章を発表したのだと思います。

その目的は(76)の記事でも書いた様に、虚子自身が勧めて俳誌『玉藻』を主宰させた
愛娘の星野立子が、実力ある俳人杉田久女の影に隠れてしまうのを恐れた為に除名したという、虚子の胸の内だけにある久女除名の本当の理由を、彼は公言できないのは当然でしょう。ですから同人除名処置を、久女の異常性格、狂気にからめて正当化しようとする意図があったのではないでしようか。

この「墓に詣り度いと思ってをる」という文章は、発表された当時は虚子のねらい通り、久女の側に一方的に非があるように思われていましたが、時が経つに従って、それが事実ではないことを示す証言や資料が現れると、逆に高浜虚子側の問題点を浮き彫りにするようになりました。

高浜虚子が久女を同人から除名した理由を最後まで明らかにしていない為、増田連さんの『杉田久女ノート』が出版されるまでは、箱根丸見送り時の久女の行動が、虚子の癇に障り、同人除名という処置になったのだろう、という推測がなされていました。

がしかし、『杉田久女ノート』にあるように、事実が大きく歪められているため、この箱根丸見送りにおける久女の行動が同人除名の真の理由ではないことは明らかです。

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俳人杉田久女(考) ~高浜虚子が書く久女の箱根丸見送り風景~ (77)

2017年03月13日 | 俳人杉田久女(考)

前回(76)の記事で書いた様に、久女の師、高浜虚子は彼女の死後10か月後に自身が主宰する俳誌『ホトトギス』に「墓に詣り度いと思ってをる」という不思議な一文を載せました。
<高浜虚子 1874-1959>

この文中で虚子は、久女の
「常軌を逸して手がつけられない振る舞い」や「狂気説」を人々に印象付け、どこが「常軌を逸して手がつけられない」かを、虚子らしい執拗さで描き出しています。

(63)で書いた様に、久女は昭和11年2月にヨーロッパに渡航する虚子を日本での最後の寄港地、門司港で見送りました。虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」の文中で、この時の久女のことに触れています。

それは<最後に久女さんに会った時のことを思い出してみよう>で始まり、<
出航時間が来て、虚子の乗った船が門司港を出港する時、「虚子渡仏云々」と書いた旗を立てた一艘の小舟が近づいて来た>と続きます。<その小舟には女性達が満載され、その先頭に立つ久女は、女達とともに千切れるほどに自分に向かって白いハンカチを振った。女性達は久女の弟子達であった>

甲板にいる虚子に船客の視線が向けられるなかで、その小舟は汽船に遅れないでいつまでも付いて来た。<私は初めの間は手をあげて答礼していたが、その気違いじみている行動にいささか興がさめて来たのでそのまま船室に引っ込んだ>と書いています。

これが高浜虚子が書く、久女の箱根丸見送り風景です。

帰国の際も門司港に寄港したが、人々に迎えられて自分が上陸した後に、久女は何度も訪ねて来て、機関長に面会を求め、「何故に私に逢わしてくれぬのか」と泣き叫んで手の付けられぬ様子であったという。その時久女が書いた色紙を機関長が自分にみせた。<乱暴な字が書きなぐってあって一字も読めなかった>と記しています。

久女の箱根丸見送り風景については、北九州市在住の増田連さんが、著書「杉田久女ノート」の中で詳しく検証されています。次の記事でこの本について見てみましょう


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俳人杉田久女(考) ~「墓に詣りたいと思ってをる」について~ (76)

2017年03月12日 | 俳人杉田久女(考)

昭和21年1月の久女の死から10ヶ月程しか経ってない昭和21年11月に、久女の師、高浜虚子は自身の主催する俳誌『ホトトギス』に、不思議な一文「墓に詣り度いと思ってをる」という文章を載せています。

この文章は二つの部分から成っていて、前半は久女、後半は尾形余十という俳人の死を悼む形になっています。二人を並べていますが、虚子のねらいは久女にあるのは明らかです。
<高浜虚子 1874-1959>

久女の長女昌子さんには、母、久女から託された、句集を出版するという大きな仕事がありました。母の師、高浜虚子へ母の死を知らせると、折り返し悔やみの手紙が届き、そこには「悼句でも出来たら差し出したいと思っている」との言葉がありました。 その言葉は昌子さんを力づけ、「もしかすると悼句で句集を飾って頂けるかもしれない」という希望が湧き、恭順な手紙を虚子に出させることになったようです。

その昌子さんからの手紙を、虚子は「墓に詣り度いと思ってをる」の冒頭で、<ここに一つの手紙がある。それは杉田久女さんの娘さんからの手紙である>という書き出しで紹介しています。

長くなるのでその手紙は書き写しませんが、昌子さんはその手紙の中で虚子に心を許し、「母は病気でありました」、そして「我儘で手が付けられない」と見ていましたなどと、母の師、高浜虚子を信じればこその打ち明け話を書いています。

もし母が虚子の不快をかったことなどあれば、病気の為と許してほしいとの気持ちを込めてこう書いたのでしょう。

が、高浜虚子はその昌子さんの言葉に言いかぶせたと思われる、次の様な妙なことを書きました。<この手紙にあるように、或る年以来の久女さんの態度には誠に手が付けられぬものがあった。久女さんの俳句は天才的であって、或時代のホトトギスの雑詠欄では特別に光り輝いていた。其れがついには常軌を逸するようになり、いわゆる手がつけられぬ人になってきた>と。

田辺聖子さんは著書「花衣ぬぐやまつわる...」の中で、高浜虚子がこう書いたことで、常軌を逸した久女のイメージが固定化し、久女伝説のあらゆる現象はここに胚胎していると思っていると書いておられます。私も全く同感です。

娘の昌子さんが母を「我儘で手が付けられない」というのと、虚子が「常軌を逸して手がつけられない」というのとでは、まったく意味が違うと思います。

娘が母をかばって身内的謙遜をするのと、高浜虚子が断定するのとでは質がまったく違います。私はそのことを虚子は判っていて、言いかぶせたのだと思います。

上にある様に、この短い文章の中で虚子は、「手がつけられない」という言葉を2回使っています。「常軌を逸して手がつけられない振る舞い」、「狂気説」を人々に印象付け、同人除名の理由を明かさぬまま、人々に久女が狂っていたとの風説が浸透するのをねらった様に感じます。

「墓に詣り度いと思ってをる」は前半には上の様なことが書いてあり、その後に虚子らしい執拗さで、最後に久女に会った箱根丸での見送り風景を書いています。この部分は今日、高浜虚子の明らかな虚構文であると指摘されています。

次は虚構文であると指摘されている、箱根丸見送り風景を書いた部分を見ていきましょう。


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