年譜によると『俳句研究』の昭和14(1939)年7月号に、久女は「プラタナスと苺」として42句をのせています。これらの句はその前月に上阪して宝塚に住む実母を訪ね、1ヶ月程滞在した時に得た句です。下の句はその42句の中にあるものです。
「 つゆの葉を かきわけかきわけ 苺摘み 」
「 朝日濃し 苺は籠に つみみてる 」
この42句が久女が発表した最後の句である、としている研究書が多い様ですが、この年(昭和14年)の8月から9月にかけて、久女は集中的に過去の句稿を整理しています。句を清書しながら、思い浮かんだ事も一緒に書き込んだようです。
同人除名から約3年経ったこの時期に、なぜ句稿の整理をしたかということですが、師の虚子に何度序文懇願をしても序文が貰えないことや、また上京しても虚子に会うことも叶わなかったことから、この頃までに久女は同人復帰の可能性も、虚子の序文も絶望的であると、 ハッキリ悟ったと考えられます。
研究書によると、整理した句稿の所々に清書した日付けが記されていて、それによると昭和14年8月28日、29日、30日、9月5日、11日、16日、17日とあるそうで、昭和14(1939)年の8月から9月にかけて集中的に清書を進めていたことがわかります。
整理された句稿は116枚あり、巻紙を約30㎝から50㎝位に切って右肩をコヨリで綴じてあり、久女独特の達筆で雄渾な文字の句が並んでいるのだそうです。下は私の手元にある『杉田久女遺墨』の中にある整理された句稿の写真を写しました。
<整理された句稿>
句を清書しながら、思い浮かんだことも書き込んだようですが、病気が治り健康を与えられ、子供が立派に成長したことを神に感謝し、天から授かった作品をまとめておくために、百十六枚の句稿を清書したことが記されていて、句集出版のことには全く触れず、悲運を恨む言葉は一つもなく感謝と久女の満ち足りた思いがつづられているのだそうです。
私は平成23年に北九州市で催された「花衣 俳人杉田久女」展でこの句稿の一部を見ましたが、虚子のいう様に決して<乱雑に書き散らされたもの>ではないのは明らかでした。ガラスケース越しでしたので内容を細かに読むことは出来ませんでしたが...。
全句を清書する作業を終えた日に、最後の書き込みとして<之全く神の御護りと感謝してここに百十六枚の俳句を全部清書し、つつしみて父母の大恩に。まづはここ迄われ自らをすてえざりし二女の為に心から喜びきよらかなゆたかな平和な心でこの稿を終る>とあるそうです。
この116枚の句稿は、久女の長女石昌子さんがずっと大切に手元で保管されていましたが、現在は北九州市小倉北区にある久女ゆかりの圓通寺に寄贈されています。
句集としての体裁を整えられなかったけれど、自らの俳句をまとめ記録を残しておくという決意表明は、自身の作品の永遠の価値を確信するとともに、久女の俳人としての遺言状ともいえるものだと思います。
そしてこの句稿を清書し終えた時に、気持の上で久女は『ホトトギス』と俳句から訣別したのではないでしょうか。この時久女49歳でした。
次第に戦争が激しさを増していきますが、この時期の久女の唯一の楽しみは、整理をした句稿の原稿をひもとくことだったように思われます。
戦争が苛烈になり空襲に度々見舞われるような時期になった時でも、久女はこの自身の句稿を大切に抱えて防空壕に避難したと言われています。
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