菊枕を作り師の虚子に贈ることで、久女の代表作ともいわれる菊枕の4句が誕生したのですが、また菊枕という言葉は久女に痛恨のイメージを被せることにもなりました。
久女の死後、松本清張氏が芥川賞受賞後に書いた小説「菊枕」は、昭和28年発表で杉田久女をモデルにしたものであることはよく知られています。この小説は現在新潮文庫『或る「小倉日記」伝』傑作短編集(一)に収められていて、23ページ足らずの短編です。「菊枕」という小説のタイトルも、久女の菊枕の4句から採ったと思われます。
<『或る「小倉日記」伝』傑作短編集(一)>
この作品を書くにあたって清張氏は、北九州市在住の医師俳人の横山白虹や橋本多佳子などから話を聞いたと自身で書いていますし、又虚子の一文「墓に詣り度いと思ってをる」も参考にしたらしく、例によって例のごとくの〈久女伝説〉から一歩も出ていない、いびつな久女像が描き出されています。
その為、この小説は遺族から久女の生涯をゆがめて書いたとして、作者の清張氏は名誉棄損で告訴されたようです。この短編小説の中の久女と思われる女性は、ホントに嫌な女で、これなら遺族に告訴されても仕方ないなぁと思われる女性として描かれています。
しかし、よく考えるとこれは清張氏ではなく、清張氏にこんな話しかできなかった語り手にその責任があるように思えます。別の語り手であれば、また違った「菊枕」になっていたはずでしょう。
後で触れることになると思いますが、久女の師、高浜虚子が昭和21年の久女の死から10ヶ月後に不思議な一文「墓に詣り度いと思ってをる」を『ホトトギス』に書き、昭和28年には松本清張氏の「菊枕」が、昭和39年には(36)で述べた様に吉屋信子氏の『底の抜けた柄杓(杉田久女)』が出版され、これらから孫引きされたと思われる様々なゆがめられた久女に関する文章が発表され、それが〈久女伝説〉を助長したとも言われているようです。
私は平成5(2003)年5月に、福岡メルパルクホールで「山ほととぎす ほしいまま」という芝居を観ましたが、あさ女=久女を高橋惠子、幸太郎=宇内を大和田伸也、岳堂=虚子を江守徹さんが演じておられました。
この芝居は松本清張氏の小説「菊枕」を脚色したようで、虚子を尋ねた久女が虚子の膝にしなだれかかる場面があったり、最後は夫、宇内が久女を座敷牢に閉じ込める場面で幕となりました。
この芝居には学校単位で高校生も観に来ていて、文章に書いたものとはまた違い、目の前で演じられる芝居の影響力は圧倒的です。この芝居なども歪曲された久女像を助長するのに一役かっていると思われ、いまだにこの様な芝居が演じ続けられていることは問題だと思います。
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