谺して山ほととぎすほしいまゝ (久女ブログ)

近代女性俳句の草分け的存在である杉田久女について

俳人杉田久女(考) ~第三回関西俳句大会出席~ (33)

2017年01月31日 | 俳人杉田久女(考)

俳誌『ホトトギス』が昭和4(1929)年の12月号で400号となる記念として、11月半ばに東京では祝賀会が開かれ、講演会や句会、記念晩餐会など様々な行事が催されました。

そして11月23日に『ホトトギス』400号記念の祝賀の意をこめた、第3回関西俳句大会が大阪中央公会堂で催され、久女は小倉から駆け付けました。

久女はこの大会に、小倉から転居して大阪手塚山に住んでいた橋本多佳子を誘うとともに、その時、彼女を多くの俳人に紹介しています。〈久女伝説〉として、久女は才能ある他者を妬んだなどと言われているようですが、このことから見ても、才能ある人への妬みや排斥の狭い気持ちは持ち合わせていない女性の様に思われるのですが...。

多佳子が生涯の師となった山口誓子に会ったのはこの時が初めてでした。昭和4、5頃の多佳子は、下の様なホトトギス調の写生句が時々雑詠欄にとられているのだそうです。

       「裏門の 石段しづむ 秋の潮」

久女が俳誌『天の川』に載せた「大会印象記」によれば、講演は高浜虚子の「句作40年」の他、高弟達の講演もあり、夜の祝宴では弟子たちの余興も賑やかに行われ大変な盛り上がりだったようです。そして最後に虚子先生の万歳三唱をして、宴はお開きになったと結んでいます。

その夜はかっての句妹、中村汀女の家に泊めてもらった様で、この時、汀女は30歳。二人の子の母親でした。この頃、汀女の夫が大阪税関に転任していたので汀女は大阪住まいだったようです。

この会に大阪在住の橋本多佳子を誘っていること、この時、汀女宅に泊めてもらっていること、又、後に久女が俳誌『花衣』を創刊した時に、多佳子や汀女に声をかけ投句を促していることからみても、彼女らと折々音信を交わし交流が絶えていなかったのでしょう。

〈久女伝説〉では狷介で独占欲強く、友人を持てなかった様にいわれていますが、久女の生き方を丹念にたどると、友人との心の交流を大切にし、途絶えがちな付き合いの糸を丁寧に結んでいるように思われます。

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俳人杉田久女(考) ~女流俳句の研究~ (32)

2017年01月30日 | 俳人杉田久女(考)

久女は作句欲が湧きだすと、同時に文章も猛然と書きたくなって来るようで、昭和2年頃から多くの文章を『天の川』や『ホトトギス』に寄稿しています。

昭和2(1927)年の久女年譜を見ると、教会より遠ざかって俳句にもどり、第二の出発として古典、現代女流俳句の研究を始めるとなっていて、この頃から一般的な文章の他に、下の様にかなりの数の女流俳句についての俳論、エッセーを書いています。

女流俳句の研究は、
俳句と家庭生活の相克を誰よりも深刻に生きた久女にとって、必然のテーマだったに違いありません。

     
   昭和2年 「大正時代の女流俳句に就いて」 (ホトトギス7月号)
   昭和2年 「婦人俳句についてのいろいろ」 (天の川 9月号)
   
   昭和3年 「大正女流俳句の近代的特色」 (ホトトギス2月号)
   昭和3年 「近代女流の俳句」  (サンデー毎日)
   
   昭和4年 「婦人俳句に就いて」 (天の川6月号)
   昭和4年 「婦人俳句所感」 (天の川11月号)

昭和7年になると、後に述べる様に、久女は「花衣」という主宰俳誌を創刊するのですが、その中でも女性俳句に就いての俳論を展開しています。

   昭和7年 「女流俳句を吟味す」 (花衣創刊号)
   昭和7年 「五月の花ー古今の女流俳句対比」 (花衣3号)
   昭和7年 「女流俳句と時代相」 (花衣4号)

   昭和8年 「女流俳句の辿るべき道は那辺に?」 (かりたご9月号)

これらの俳論、エッセーの多くは『久女文集』に収められているので、今日、
私達も読むことが出来ます。

上の評論で、昭和3年に書いた「大正女流俳句の近代的特色」では、大正時代に活躍した女性俳人の句を、何を詠んだか句かによって分類しています。その中に久女自身の句も多く引用していますが、他の作者の句と自身の句をまったく同列に並べて、あたかも他人の句の様に論じているところはおもしろいと思います。

これらの俳論の評価については、私にはよく分かりませんが、久女関係の研究書によると、久女は多くのすぐれた句を残しているが、句を作るだけではなく俳句研究にも力を入れ、古句を通して学問的に俳句を追及したのは他の女流俳人にはない姿勢で、広い知識と的確な批評力を兼ね備えた人であった様に思える、としているものが多い様です。

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俳人杉田久女(考) ~夕顔の句~(31)

2017年01月30日 | 俳人杉田久女(考)

久女の母、赤堀さよは池坊龍生派関西家元代理として88才までハサミを握っていた人だそうで、久女も池坊龍生派中伝免許を持っていたようです。

夫、宇内の勤務する学校の卒業式の演壇生花などは、
毎年久女が出向いて活けていたと、久女の長女昌子さんは著書に書いておられます。

お花が好きな久女は庭に花を植えて楽み、又、花の絵を描いたり、俳句にもよく花を詠んでいます。

平成23年に北九州市立文学館で開かれた「花衣 杉田久女」展で久女が筆写した『源氏物語』が展示されていました。それは『源氏物語』の本文の筆写だけではなく、上部に頭注を付けて見やすいように工夫がなされたものでした。

花が好き、『源氏物語』が好きな久女は、夕顔の句を数多く詠んでいます。昭和初め頃の幾つかを見てみましょう。

       「夕顔や ひらきかゝりて 襞深く」


この句は、ホトトギス流の写生俳句の典型と言われていますが、夏の夕暮れから咲き出す白い夕顔の花の襞は、開きかかった時が一番陰影が深いんですね~。


       「夕顔を 蛾のとびめぐる 薄暮かな」


上の夕顔の句の虚子評は、「本当に地味な写生本位に立っておる。何ということなしに夏の暑いもの憂い盛んな情景が描かれている」としています。とびめぐるという表現に蛾の羽音が聞こえてくるような気がします。


       
「夕顔に 水仕もすみて たゝずめり」  

この句からは久女の日常が彷彿としてきます。水仕とは台所仕事のこと。炊事を終えてほっとしながら、薄暗くなった庭に咲きだした夕顔を眺めているのでしょう。

『源氏物語』が好きな久女にとって、夕顔は愛着のある花だったのでしょう。下の句はあまり知られていないようですが、上の3句とは雰囲気が違いロマンティックな句ですね。久女の夕顔の句の中では私はこの句が一番好きです。

        「逍遥や 垣夕顔の 咲く頃に」

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俳人杉田久女(考) ~秀句が次々に~ (30)

2017年01月29日 | 俳人杉田久女(考)

前回の(29)で述べた様に、杉田久女は俳句の世界に戻ってきました。大正期の久女俳句を第1期とすれば、昭和に入ってからの俳句は第2期ということが出来ると思います。久女の中で何かが吹っ切れたのでしょう、次々に秀句が生まれました。その幾つかを見てみましょう。
  
広く人々に知られている
 
     「朝顔や 濁り初(そ)めたる 市の空」

久女にこの句を得しめたのは、昭和初期の工都小倉の栄光であるとの解釈を読んだことがありますが、同感です。夏の早朝の瑞々しい朝顔と、小倉の工場群が稼働しだし、どんよりと濁りはじめたずっと向うの空とを対比させて、当時の工都小倉の夏の朝の一瞬を鮮やかに切り取った名吟だと思います。

     
「露草や 飯吹く(いいふく)までの 門歩き」
        
俳句と家庭との相克に誰より苦しんだ久女ですが、この句からは久女の楽し気な様子が伝わって来ていい句ですね。彼女はこの句が好きだったらしく、家庭婦人と俳句という様なテーマのエッセーや講演で、この句をよく例として使ったようです。 

昭和2年に俳誌「天の川」に「瓢作り」というエッセーを載せていますが、下はその時の句でしょう。繭瓢とは子供が作った繭形の小ぶりの瓢箪をいうそうです。

     「露けさや うぶ毛生えたる 繭瓢」

昭和3(1928)年10月、虚子は九州旅行の折、小倉にも寄りました。虚子を迎えての句会は小倉の名刹、広寿山福聚禅寺で行われました。この時まだ小倉在住だった橋本多佳子も出席の予定でしたが、子供の急病で出席出来ませんでした。下の句はそのことを詠んだ句だろうと思います。なので欠けし君とは橋本多佳子のことですね。

     「花石蕗(つわ)の 今日の句会に 欠けし君」

下の句の合屋校長は夫、宇内の同僚で、後に県立みやこ高等女学校の校長を務め、久女一家とは家族ぐるみで親しかったようです。久女が没した時に宇内と共に病院で通夜をしたのは、この合屋校長でした。
     「童顔の 合屋校長 紀元節」

初めて下の句を見た時、なんて素敵な句かと思いました。何とも表現しがたい鯵の背の色をサファイヤ色と一言で表すなんてスゴイと。そしてお洒落で軽快なリズム感があり、久女の才気を感じる句です。

     「秋来ぬと サファイヤ色の 小鯵買ふ」

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俳人杉田久女(考) ~俳句に本格復帰~ (29)

2017年01月29日 | 俳人杉田久女(考)

昭和元(1926)年秋の福岡市箱崎での転地療養中に、久女は今後は俳句に専心しようと決めました。それは精神的な支えであり信仰の道標であった人々が、その少し前に彼女の周りから去ったのと関係があるのかもしれませんが、ひとたび俳句の世界を知ってしまっていた久女にとって、必然の成り行きだった様にも思えます。

どうにか病が癒えて昭和2年2月中旬に小倉に戻ってから、本格的な作句活動を再開し、教会活動では満たされなかった表現への欲求が再び動き出しました。昭和2(1927)年のこの時、彼女は37歳になっていました。


      「われにつきゐし サタン離れぬ 曼珠沙華」

上の句は大正14年作ですが、表現したいという思いが微かにでも心中に再び湧き始めたのは、この頃だったのでしょうか。

サタンという言葉は、彼女が聖書を勉強したことでここに留まったのでしょう。そういう意味でキリスト教に触れたことが、久女俳句の幅の広がりに幾らかでも影響を与えていると感じます。
サタンと曼珠沙華っていい取り合わせですね。

俳句への意欲を取り戻した久女は、『ホトトギス』や『天の川』へ積極的に投句を始め、後に代表作と言われる素晴しい句を次々に発表しました。

『天の川』とは福岡の吉岡禅寺洞率いる『ホトトギス』系の俳誌で、ここへの投句が多くなり、昭和4(1929)年4月からは、『天の川』の婦人俳句欄選者となり、又、翌年からは当時の朝鮮で発行されていた俳誌『かりたご』の婦人雑詠選者を務めています。

久女関係の研究書によると、それらの俳誌での久女の選句の様子からは、同朋を丁寧に導き、ともに成長しようとする姿が見て取れると解説しているものが多いようです。

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俳人杉田久女(考) ~俳句に戻る決心~ (28)

2017年01月28日 | 俳人杉田久女(考)

大正15年(昭和元年)の春以来少し体調を崩していた久女は、7月に姉、村越静子を亡くしました。そのために上京したりし、なお一層症状が悪化したのかもしれません。静子は久女と三才違いで享年三十八才でした。この時、下のような悼句を作っています。

      「霧しめり 重たき蚊帳を たゝみけり」

      「夏帯や はるばる葬に 間に合はず」

この時の久女の病気は入院治療する程ではなかったようで、秋に福岡市箱崎の民家の2階に間借りして一人で静養したようです。一人になった時、彼女は心の安らぎを感じたかもしれませんね。

      「病間や 破船に凭れ(もたれ) 日向ぼこ」

しかし、気になるのは家に残してきた女学生と小学生の二人の娘達のことでした。

      「炭つぐや 頬笑まれよむ 子の手紙」

一人で箱崎での病気療養中にじっくりこれからのことを考えたのでしょう、俳句へ戻る決心をしたようです。教会活動では満たされなかった表現することへの思いが、再び湧いて来たのかもしれません。

夫、宇内との齟齬、作句と家庭のバランスに苦しみ、教会に通い生きる道を模索した久女でしたが、答えを得られないまま、俳句の世界に戻って来ました。

久女は大正14(1925)年半ばに進境著しい橋本多佳子の指導を、俳誌「天の川」を創刊した吉岡禅寺洞に託しています。「有閑夫人のお相手はしていられない」などと言いながらも、久女は多佳子の成長が楽しみだったでしょう。

この後、昭和4(1929)年に多佳子は、夫の父の死により一家をあげて大阪市に移り住むことになります。その時のことでしょう、久女にこんな句があります。

橋本多佳子氏と別離として

      「忘れめや 実葛の丘の 榻(しじ)二つ」

榻(しじ)とは腰かけのことをいうそうです。

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俳人杉田久女(考) ~虚子先生と芍薬~ (27)

2017年01月27日 | 俳人杉田久女(考)

久女を教会に導いた小林牧師は大正14(1925)年に教会の人事異動で釜山へ、同じく教会に導いてくれた医師であり俳友の太田柳琴も学位取得の為、この年に福岡へ転居したようです。この二人は久女の精神的な支えであり、このことで彼女はキリスト教への道標を失ったのではと思われます。又信仰の友、川合小春も福岡へ引っ越しました。

夫との齟齬、俳句と家庭の狭間で苦しみ、宗教で救われたいと教会に通っていた久女でしたが、結局答えを出せないまま教会から足が遠のいたようです。


教会から足が遠のくに従って、少しづつ俳句へ意欲が戻って来ました。大正14年5月には虚子を迎えての松山俳句大会に出席しました。

     「上陸や わが夏足袋の うすよごれ」

     「夏羽織 とり出すうれし 旅鞄」

この会の様子を久女は次の年に「虚子先生と芍薬」という小文に綴っていますが、この小文で久女という女性が何となく判るような気がします。

それによると、句会後に料亭で虚子歓迎会が開かれ、小倉から参加した久女は紅一点として虚子の隣の席を与えられた様です。

     「
芍薬や 師に近く坐し 夜の宴」

先年大病をしてお酒をやめている虚子は、サイダーを持って来させ、「久女さんもこの方がいいでしょう」と久女にも注ぎます。久女は尊敬する師の横で緊張して、どうしていいか判らず、師の後ろの床の間の芍薬に目をやったりするばかりで、間がもてません。

そこに芸妓の米千代がやって来て座が急に賑やかになりますが、久女は虚子と米千代のやり取りをただ横から聞いているだけでした。米千代が虚子に、ぶしつけに揮毫を頼むと、虚子も興に乗って句を書き付けます。久女は羨ましくてしようがないけれど、「私にもお願いします」とはどうしても言いだせませんでした。

世慣れない久女像が垣間見えて興味深いですね。折角虚子の隣に座ったのですから、俳句のことで聞きたいことも沢山あったでしょうし、虚子の短冊もどんなにか欲しかったでしょう。でもそうは出来ませんでした。

虚子から見ると、久女のこの堅苦しさでは、芸妓に与えた様な気楽さで揮毫する気にはならなかったのかも...。
 
<久女伝説>など俗説では奔放な女性と見られている久女ですが、ここでは社交下手で女学生のような生真面目な女性です。
この時こんな句も作っています。       

      「卓上の百合 あまり香つよし つかれ居る」
      
尊敬する師の横での久女の緊張が伝わって来ますね。

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俳人杉田久女(考) ~苦悩の日々~ (26)

2017年01月26日 | 俳人杉田久女(考)

大正10年(1921)から大正14、5年にかけての久女は、自らの境遇の中でもがき苦しみ、ひたすら生きる道を手探りで探し続けた日々であった様です。

生き直したいと教会に通い、又、所属教会の設立資金調達のバザー出品のため刺繍、手芸品などを作ったりと、以前の俳句漬けの日々とは違った日常だったようで、久女年譜の中にも〈教会と家庭に明け暮れしていた。俳句も趣味程度〉との記述があります。

そんな中でも『ホトトギス』への投句を完全にやめてしまったわけではなかったようですが、作句は低調で低迷時代は数年続きました。

久女年譜によると大正12(1923)年から数年間、久女は私立勝山女学校(現三萩野女子高等学校)で図画と国語を教えていました。更にその翌年には、県立京都高等女学校で卒業生と父兄を対象にフランス刺繍の講師として教えています。

この事から、お茶の水高女で学んだ知識、技術は人に教えることが出来る域に達していたんだな~と感じます。お茶の水高女で培ったことが、久女俳句の芸術性を支えている要素の一部と言えるかもしれません。

下はこの頃の句でしょうか

       「 押し習ふ 卒業式の 太鼓判 」


平成23年秋に北九州市立文学館で催された「花衣 俳人杉田久女」展で、久女が制作した帯が出展されているのを見ました。少し黄ばんでいましたが、白羽二重に彼女が鳳凰に牡丹を配した図案を描き、刺繍をしたもので、見事な出来栄えの帯でした。

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俳人杉田久女(考) ~橋本多佳子~ (25)

2017年01月26日 | 俳人杉田久女(考)

橋本多佳子は昭和12年の夫、橋本豊次郎の死後、久女から手ほどきを受けた俳句に精進し、昭和を代表する女流俳人として大成した人で、4T(中村汀女、星野立子、三橋鷹女、橋本多佳子)の一人と呼ばれています。
<橋本多佳子>

昭和21(1946)年の久女の死から、それ程経ってない昭和23年から24年にかけて、彼女は自身のエッセー集『菅原抄』に、<久女は異性問題にも随分奔放で、故人となった零余子、柳琴、縷々など困らされた人々である。恋愛して非常に苦しんでいる時でも句作は衰えず、返って油がのり、『ホトトギス』へ月三句、四句と発表されていた>などと実名を挙げて綴っています。

久女関連の研究書によると、この文章は誤りが多く、例えば零余子(長谷川零余子)に多佳子は会っていないはずで、彼自身からきいた話ではない単なる街のうわさを、この様な文章で表現したことで、誤った久女像が一人歩きし、後にそれは松本清張氏や吉屋信子氏によってますます増幅されることになり、<久女伝説>のもとになった、としているものが多いようです。

また田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』の中でも、橋本多佳子のこれらの文章が<久女伝説>の震源地になったとの記述がみられます。多佳子のこの種の文章には、当時の小倉という閉鎖的な一地方都市の様子がよく出ていると感じます。そして自分に俳句を手ほどきしてくれた久女のことを、この様な文章に書くとは、この人はどんな人だったのかなとの気持ちにならざるをえません。


橋本多佳子も晩年になると、いろいろ経験を積んだのでしょう、久女に敬慕の念を捧げる文章を書いていますが、この頃のこの一文やそれに類した文章は、彼女自身のためにも非常に残念な気がします。

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俳人杉田久女(考) ~久女と多佳子~ (24)

2017年01月25日 | 俳人杉田久女(考)

最初は俳句の先生として多佳子に接していた久女でしたが、だんだん慣れ親しむようになると、久女の生来の率直さから「ダイヤを捨て馬車を捨てて芸術家の夫に嫁したが、一枚の絵も描かず田舎教師に堕ちて了った」と自身の身の上話までするような間柄になったようです。

この辺りのことを後に多佳子は<久女は初めは私の先生として、終わり頃は身に渦巻く熱情を私達夫婦にぶつけるように、訴えるように通って来られるようになった>と書いています。

久女は後に櫓山荘を詠んだこんな句もつくっています。

      「水汲み女に 門坂急な 避暑館」

久女は多佳子と俳句の話に熱中し、弁当持参で夕食の時間になっても腰を上げないので、多佳子の夫、豊次郎が家庭を顧みないと久女を非難して櫓山荘への出入りを禁じたとの風聞が<久女伝説>として残っているのだそうです。

この話は面白い話で、俳句のことになると俳句しか考えられなくなる久女の面目躍如で、久女像をうまく捉えた話だとは思いますが、実際はどうだったのか、何か他のことが絡んでいる、としている研究書も多々あるようです。


多佳子の夫、橋本豊次郎が櫓山荘への出入りを禁じたというこの話は、私からみてもどこか変ですね。久女は俳句の先生として櫓山荘に来ているわけで、その久女のことを家庭を顧みないと非難するなんて、それはよその家庭の事に首を突っ込むことで、この夫はものが判らない非常識な人に思えますが。

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俳人杉田久女(考) ~橋本多佳子に俳句の手ほどき~ (23)

2017年01月25日 | 俳人杉田久女(考)

大正10(1921)年に病がどうにか癒えて小倉に戻って来てから大正14、15年頃までの久女は、『ホトトギス』に投句し雑詠欄に時々載ったりはしているものの、夫との齟齬、俳句と家庭の相克に苦しんでいた彼女にとって長い低迷時代でした。

大正11(1923)年の櫓山荘句会の後、橋本多佳子に俳句の手ほどきをしていましたが、教会にも通い俳句漬けのそれまでと較べると、俳句にさく時間はそれほど多くはなかったようです。

久女から俳句の手ほどきを受けるようになったこの頃の事を、後に多佳子は「久女のこと」という文章で次の様に振り返っています。<山荘でぽつんと友もなく暮らしていた私は、久女を得て賑やかになり、週に2、3度も通って来られる久女に句を作らされ、画を描かされた>と。

久女にとっても筋の良い多佳子に俳句の指導をするのは、楽しみだったに違いありません。多佳子は手応えのある女性で俳句に関してもしっかり受け止め、天与の才能の片りんをこの時すでに示したようです。

久女にはそれが分かり、多佳子の俳句の進歩を楽しみにしていました。この頃の多佳子の作として
       
       「すいすいと 小魚のかげや 冷やし瓜」

       「ぬぎすてし 衣にとび来し 青蛾かな」 

などがあります。しかしこの頃の多佳子にとって、俳句は幾つかのおけいこごとの一つでしかなかったので、久女の意気込みに辟易したようで久女の熱意はあまり理解されなかった様に思えます。

がしかし、久女が作句を励ました二人の女性、橋本多佳子と前述の中村汀女は、後に昭和俳檀を代表する俳人に成長するのです。

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俳人杉田久女(考) ~櫓山荘句会での橋本多佳子~ (22)

2017年01月24日 | 俳人杉田久女(考)

虚子は九州西部を多くの聴衆を前に講演をしながら旅した強行軍とはちがって、櫓山荘句会では気心の知れた弟子たちと橋本夫妻のもてなしに、すっかり寛いだことでしょう。句会のお題は「汐干狩り」、兼題は「落椿」でした。

この句会での久女の句は

        「汐干人を 松に佇み 見下ろせり」

虚子の句は

        「汐干潟 人現れて 佇めリ」

        「谷水を さそひ下るや 落椿」

などでした。

句会中に暖炉の上に活けてあった椿の花がポトリと落ちたので、橋本夫人はそれを何気なく暖炉の火に投げ入れました。それを見ていた虚子はすかさず

        「落椿 投げて暖炉の 火の上に」

と詠み、まだ俳句を始めていなかった橋本夫人(後の多佳子)はこの句に強い感銘を受けました。これが縁で久女は、多佳子の夫橋本豊次郎に依頼され、多佳子に俳句の手ほどきをするようになったと、後に橋本多佳子は書いています。この時久女31歳、多佳子24歳でした。

        「きさらぎや 通いなれたる 小松道」

上の久女の句は、多佳子へ俳句の手ほどきをするために櫓山荘に通った頃のことを詠んだものです。何となく久女の心はずみが感じられる句ですね。

後に、橋本多佳子は4T(中村汀女、星野立子、三橋鷹女、橋本多佳子)の一人と言われるようになり、昭和俳壇を代表する女流俳人として大成した人ですが、彼女の書いたものによると、最初に俳句の手ほどきをしてくれた杉田久女に対して、若い頃はあまり恩義を感じている様には思えないのは残念なことです。

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俳人杉田久女(考) ~櫓山荘句会~ (21)

2017年01月23日 | 俳人杉田久女(考)

1年にわたる病気療養をどうにか終えて小倉に帰って来ても状況は何も変わらない中、少しでも気持ちが楽になるように、教会に通ったり熊本に斎藤破魔子(後の中村汀女)を尋ねたりしているうちに、久女を俳句に引きもどすきっかけになった、高浜虚子の小倉来遊がありました。

久女は虚子から九州西部地方旅行の帰途、小倉に寄りたいという手紙をもらい、前述の自分をクリスチャンに導いてくれた医師であり俳友の太田柳琴に相談しました。柳琴はそこの子供達が自分の患者の、小倉中原の見晴のいい場所にある橋本豊次郎邸、櫓山荘を借りて句会を開かせてもらったらどうか、と考えました。

そして、その後の柳琴の尽力で、大正11(1922)年3月25日にそこで、櫓山荘句会が開かれることになりました。

櫓山荘はかって小笠原藩の玄海防衛の為の櫓があった所にあり、彦島やその他の島まで望める眺望が素晴しい凝った造りの建物だったようです。

櫓山荘句会の参加者は太田柳琴、曽田公孫樹、久女、峰青嵐、永見凡城、それに虚子などで、場所を提供した橋本豊次郎とその妻(後の多佳子)は、句会中はそばで眺めているだけでした。

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俳人杉田久女(考) ~久女と白蓮事件~ (20)

2017年01月22日 | 俳人杉田久女(考)

久女の長女昌子さんは著書の中で、前述の(19)で掲載の「冬服や」の句が『ホトトギス』に発表された時、父、宇内は怒り狂ったと書いておられます。

だからでしょうか、これ以後夫を素材にした句は殆ど見られないようです。自分の事を何かにつけて句にされると思うと、宇内は我慢ならなかったのでしょう。

これらの句が発表される4か月程前の大正10(1921)年10月に、久女の住む小倉に近い所で、炭鉱王伊藤伝右衛門に嫁いだ柳原白蓮が7歳年下の一介の書生に奔る、いわゆる「白蓮事件」が起きています。

この事件について久女は何一つ書いたものを残していない様ですが、新聞でセンセーショナルに取り上げられたので、この事件を知っていたと思われます。

夫と、また俳句と家庭の相克に苦しんでいた久女が、この事件にどのような感慨を持ったかを知りたい気がするのは私だけではないでしょう。

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俳人杉田久女(考) ~足袋つぐやの句~ (19)

2017年01月22日 | 俳人杉田久女(考)

大正10(1921)年発表の句は少ないですが、11年からは僅かづつ句数が増えていったようです。大正11(1922)年『ホトトギス』2月号に下の3句を含む5句が載りました。

      「足袋つぐや ノラともならず 教師妻」

      「戯曲よむ 冬夜の食器 浸けしまま」

      「冬服や 辞令を祀る 良教師」


最初の「足袋つぐや…」の句は、腎臓病を発病し実家で約一年入院治療したのを機に離婚話が起きましたが、久女は二人の子供のために夫との離婚を断念しました。この句はその時の悲哀を詠んだもので、
久女の悶々とした思いを表す句として、その後度々引き合いに出される句です。

私はこの句に久女の率直さや無防備さを感じ、何となく彼女を痛ましくさえ思ってしまいます。どうも久女の
必要以上の率直さは、彼女のさがというか宿命の様に思えてなりません。

「戯曲よむ…」の戯曲は、おそらくイプセンの『人形の家』のことでしょう。自我に目覚めそれまでのしがらみを越えて、家と夫を捨てるノラに久女は共感を寄せただろうと思われます。が反面それは同じような問題に苦しんでいる自分を見つめることにもなったでしょう。

そして私も食後の後片付けを放り出して本を読みふけることがあるので、この句を見た時「まぁ、久女も私と同じことしてる!」「私のことを詠んでくれたんだ」と嬉しかったのを告白しなければなりません(^-^)

「冬服や...」の句は、おそらく受けた辞令を、夫宇内は神棚に上げたのでしょう。それを見る久女の目は冷ややかです。”良”の使い方に久女の皮肉が込められている気がします。

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