『杉田久女ノート』の著者、増田連氏は高浜虚子の『渡仏日記』、日原方舟が俳誌『無花果』4月号に載せた「舟・人・梅」という文章、矢上蛍雪の書いた「門司の虚子先生」、久女の弟子で、久女が指導していた俳句サークル小倉白菊会々員の縫野いく代さんを直接取材した話から、箱根丸見送り時の久女の行動を追っておられます。
<増田連著『杉田久女ノート』>
それによると、久女は2月21日に美しい花籠を持参して、門司港に入港した箱根丸を訪れました。虚子を訪ねて次々に人々が詰めかけていて、久女は虚子に挨拶した後、持参した花籠を手渡しました。その花籠には
「 虚子楽し 花の巴里へ 膝栗毛 久女 」
という短冊が添えられていました。 人々からの餞別の花の鉢は船内いたるところに置かれていたらしく、久女が持参した花籠と短冊は機関長室に置かれていたと矢上蛍雪が書いているそうです。
翌22日に久女は、10人程の自分が俳句指導をしている白菊会の会員を連れて、鯛や赤飯などを持参し(この日は虚子の誕生日だった)、ランチに乗って箱根丸を訪れました。
久女にすれば自分が指導している白菊会の会員達を、一目でも虚子に引き合わせたいと思ったのでしょう。久女と白菊会々員達は広い甲板の一隅に集まり虚子が出てくるのを待ちました。
がしかし、待っても虚子は現れませんでした。久女達は虚子は船内で来客中とばかり思っていましたが、実はこの時、彼は門司の風師山にドライブし、景観を楽しんでいたのです。
虚子が船にいないという事を久女達に教える人は誰もいなかったようです。久女の弟子の縫野いく代さんの記憶によれば、白菊会の面々は虚子が船にいると思い込んでいたとのことです。
そのうち退船時間が来てしまい、久女達は芳名簿にサインだけして退船し、門司港岸壁まで戻り、岸壁の上に立って箱根丸が出港するのを見送ったそうです。「岸壁と箱根丸の距離はかなりあり、岸壁側から船上の人の姿は見分けられませんでした」というのは縫野いく代さんの証言です。
虚子の『渡仏日記』によれば、久女の退船と入れ違いに帰船し、<11時半船に帰る、... 12時出港>となっているそうです。完全なすれ違いだったんですね。
これが久女達の箱根丸見送りの真相でした。極々普通の見送り風景ですね。実際はこの様であった箱根丸見送り時の久女の行動を、彼女の死後、高浜虚子は「墓に詣りたいと思ってをる」という一文で、まったく別の行動をしたかの如く描き出しています。つまり嘘を書いています。そのことについては後でふれましょう。
4か月後の6月11日に箱根丸は門司港には寄らず直接神戸港に入り、15日に横浜港に着岸、虚子は無事故国の土を踏みました。この時の虚子の句です。
「 夏潮を 蹴って戻りて 陸に立つ 」
渡欧と同じく虚子の帰国も新聞で報道され、「あちらで作った俳句」として
「 フランスの 女美し 木の芽また 」
「 ベルギーは 山なき国や チューリップ 」
などが紹介されました。久女はそれを読みつつ、虚子がヨーロッパで得た句が『ホトトギス』や『玉藻』で発表されるのを待ち遠しく思ったことでしょう。
久女は数か月後に『ホトトギス』除名という運命が待っていることなど予知出来るはずもありませんでした。
(この久女ブログは「日々の暮らしに輝きを! http://blog.goo.ne.jp/lilas526」の中のカテゴリー、俳人杉田久女(考)を独立させたものです。久女ブログの目次は左サイドバーの最新記事の最後にある 〉〉もっと見るをクリックすると出てきます。)
最新の画像[もっと見る]